夏目藤四郎信栄(のぶひさ)(2)
退出の時、中の口から書院ご門までは、来たときと同様に、小普請同心がつき添った。
門をでると、後ろから、
「長谷川どの」
声の大きさから、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)とわかった。
陽性の性格らしいので、嫌いなタイプではないし、納戸町の叔父・久三郎正脩(まさむろ 63歳 4070石 小普請・8の組支配)の組下にはいったとなれば、無碍(むげ)にもできない。
足をとめて待つ間もなく、すぐにならび、
「いかがでしょう。そのあたりでお茶でも---」
「そういう店がありますか? 拙は、住まいが川向こうなもので、このあたりは、とんと---」
「一橋ご門を出たところに、ちょっとした茶店があります」
夏目信栄は、先で待っている内膳正珍(まさよし 64歳 500石 小姓組)に頭をさげ、
「長谷川さまの組下になりました、夏目藤四郎です。こちらは、本家すじの伯父・次郎左衛門です」
ぬかりなく紹介した。
夏目次郎左衛門信卿(のぶのり 54歳 733石 書院番士)は、
「ときどき、柳営でおみかけはしておりますが---」
如才ないのに、内膳正珍のほうは、
「さようですな」
いたって無愛想である。
平蔵宣以(のぶため 28歳)に、
「一橋門だと、千駄ヶ谷とは反対方向になるので、ここで別れる。夕刻までには、参着するからな。ご免」
右に折れ、桜田ご門へ向かってしまった。
次郎左衛門信卿も、屋敷が本所・南割下水の二ッ目と三ッ目の橋のあいだなので、神田橋ご門からのほうが近いからと、別れた。
一橋をわたったところに小体(こてい)な茶屋があり、2人はあがって裃を脱ぎ、それぞれの供のものに持ち帰らせた。
運ばれてきた昼の膳には、銚子がのっていた。
「祝杯です」
夏目信栄が、手なれたふうにすすめる。
「いい店ですな」
平蔵がほめると、藤四郎は、すぐに女将(おかみ)を呼んだ。
あらわれてたのは、30歳前後とおもわれる、容姿がちょっとお竜(りゅう 享年33歳)に似ていた。
「お里貴(りき)でございます。本日は、おめでとうございます」
(ほう。藤四郎は、よく利用しているようだな。気をつけよう)
酌をした手が、貞尼のように透き通った白さであった。
そういえば、白粉をはたいていない首すじも、光が通りぬけているようだった。
「長谷川どのはご存じかとおもいますが、手前の室は、菅沼さまから帰嫁(きか)しております」
「それはそれは、お美しい奥方さまでございますよ」
お里貴がもちあげた。
「菅沼さまといわれたが、まさか、下谷御徒町にお屋敷のある---」
「その、まさかの、摂津守虎常(とらつね 59歳 700石)さまが、手前の舅どのです」
【参照】2009年3月19日[菅沼摂津守虎常] (1) (2) (3) (4)
「奇遇です。拙の奥・久栄(ひさえ 21歳)の実家・大橋の家も菅沼さまのところに近いそうで---」
「奥から、長谷川どのの奥方のおうわさは伺っております」
「お転婆(てんば)で有名だったからでしょう?」
「私の前で、奥方さま方のお噂は、耳が痛うございます」
「あ、これは失礼。長谷川どの。このお里貴女将は、数年前まで、600石の直臣のご内室であられましてな」
「ほう。それで、どことなく、気品のある女御(にょご)とお見受けしていたところです」
「お上手ばっかり---」
「上手を申さねばならぬ義理はありませぬ」
「とりあえず、うれしゅうございます。おほ、ほほほ」
「あ、はははは」
(夏目信栄の個人譜 『寛政譜』)
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コメント
夏目栄四郎って、夏目漱石の夏目家関係ありかしら?
投稿: tomo | 2009.12.22 05:36
>tomo さん
G00glってみましたが、漱石の夏目家の祖先と、藤四郎の夏目家のつながりを示す記述はみつかりませんでした。
藤四郎のほうの夏目家の記録も、寛政10年までですし。
とても、、慶応3年までは橋わたしできません。
どなたか、ご存知の方、よろしく。
投稿: ちゅうすけ | 2009.12.22 19:05