夏目藤四郎信栄(のぶひさ)
月番の奏者番が、一人ずつ名前を呼ぶ。
呼ばれた者は、控えていたご入側(畳敷きの廊下)から菊の間へ膝行ですすむ。
老中・板倉佐渡守(勝清 かつきよ 68歳 上野国安中藩主 2万石)が、肉がつきすぎてたるんだ頬をふるわせながら、
「だれそれの子ないがしに、父の跡目をつぐことをお許しになられた」
と奉書を読み上げる。
なるほど、先夕、盟友・長野佐左衛門孝祖(たかのり 27歳 600石 西丸書院番士)が警告しておいてくれたように、声が口内にこもって聞き取りにくい。
が、当人たちは平伏してうけたまわっているのだから、分明できようができまいがどうでもいい。
要するに、もったいぶっるための儀式なのである。
儀式は、複雑なにするほど権威が強まる。
と、はるかむこうから、将軍・家冶とおぼしい甲高い声で、
「はげめ」
さらに額を畳にすりつけ、荷車につぶされた蛙のようにへばりつく。
別の声が、
「なにがしに、本日ただいまより小普請入りを命ずる。支配はだそれであるゆえ、しっかりとはげむように---」
かしこまって退がるのも膝歩きである。
ここではじめて目線をあげると、はるか先の上段の席に将軍の姿が見える。
この日の13人全員が廊下へ戻ったころ、茶坊主があらわれ、相続者だけを焼火の間へみちびいた。
そこには、小普請支配の下で組頭を務めている12名が待っており、自分の組へいれられた相続者を引き取り、これからの義務について簡単に説明をし、おのおのが自分の屋敷のあり場所をつげ、
「月の10日と晦日が応対日だから、なにによらず相談にくるように---」
さすがに、
「手みやげを要しますか?」
訊き返した新参者はいなかった。
銕三郎(てつさぶろう)---いや、相続をゆるされた瞬間から、相続名・平蔵である。
宣雄から、伊兵衛でなく、平蔵が相続名となった。
したがって、安永2年9月8日の四ッ(御前10時)以後は平蔵と書かねばなるまい。
平蔵宣以は、予測どおり、長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の組に配られた。
与(くみ 組)頭は、顔見知りの朝比奈織部昌章(まさとし 54歳 500石)。
だから、
「お初にお目にかかります」
代わりに、
「お久しゅうございます」
隣の、長谷川久三郎正脩(まさひろ 64歳 4050石)の組の与頭にあいさつをしていた若者が、驚いたように平蔵を見た。
朝比奈組頭も、さらりと受けたあと、
「お父上は、これからというときに、さぞや、ご無念でありましたろう」
ところが、隣の若者をうけとった与頭も、
「お父上のこと、異郷でのご病歿、さぞかし、ご無念でしたな」
慰められた若者は、大きな地声で、
「現地の寺で香華(こうげ)いたしましたが、年忌に行くこともかなわず---」
それでいて、目をぬぐっていた。
朝比奈与頭が、そっちの若者に顔を向けた平蔵に、
「お引きあわせしよう。長崎ご奉行の嫡子の夏目藤四郎うじです」
菊の間で、平蔵の3,4番あとに呼ばれた若者と、覚えていた。
場所が場所だけに、お互いに頭を軽くさげただけのあいさつですませる。
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コメント
いよいよ、小普請入り時代の平蔵の生活がはじまるのですね。
期待しています。
投稿: 左兵衛佐 | 2009.12.21 06:00
>左兵衛佐 さん
小普請組って、役に就いていないご家人グループなんですね。
もっとも、長谷川平蔵や夏目藤四郎の場合は、出仕ポストが決まるまでの待命タイムではありますが。
その間、逢対日には、支配や与頭(くみがしら)の家に伺候し、希望やら雑談やらをしなければならないのですが、支配のほうは、組下が不始末をしでかすと連帯責任になりますからたいへんです。
組下といっても、オフィスに集まっているわけではないから目がとどきません。
だから、初お目見のときに、そういう怖れのありそうな世継ぎの者は、組下として受け取らないように、根回しもしているのでしょう。まるで、ババ抜きですな。
投稿: ちゅうすけ | 2009.12.21 11:37