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2009.12.02

銕三郎の跡目相続まで

松造(まつぞう)は、納戸町のご分家どのは初めてであったな」
銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、供をしている松造(22歳)にたしかめた。
きのう、松造は、納戸町の長谷川久三郎正脩(まさひろ 63歳 4070石 小普請支配)の屋敷へ、きょうの訪問を前触れしていた。
(当主・正脩は非番で在宅しているから、夕餉(ゆうげ)でも相伴するつもりでお越しを---)
との返事をもらっていた。

本家・長谷川太郎兵衛正直(まさなお 65歳 1450石 先手・7番手組頭)の一番町新道の屋敷で、奥方・於佐兎(さと 58歳)に帰府の報告と京での葬儀に心づかいをいただいたことへの礼を述べたあと、市ヶ谷門を経て、急な左内坂をのぼっている。

ちゅうすけ注】鬼平ファンなら、辰蔵が通っていた坪井主水の道場がこの坂の上にあることを覚えていよう。
また、愛犬家のファンだと、坂上の〔桔梗屋〕の喜楽煎餅(せんべい)を好物としているのが、長谷川家に飼われているクマ--と言っただけで、文庫巻9[狐雨]p251  新装p262の情景を想起なさろう。

正脩叔父のところの屋敷は広かったろう? なにしろ、山の手に2000坪近くも拝領している」
銕三郎にしてみれば、南本所三ッ目の自家の屋敷も1238坪あり、400石の身分としてはとほうもなく広いが、亡父・宣雄が大金をだして手にいれた土地なのに、納戸町は、お上からの拝領だからタダなのである。
もっとも、家祖が家光に寵愛された結果の優遇であった。

「はい、広大なお屋敷と申せば、ご分家さまもですが、ご隣家の三枝(さいぐさ)さま、そのお隣の巨勢(こせ)さまの広いのには驚きました」

隣の三枝源之助守恭(もりたか 37歳 6500石 寄合)の屋敷は、3500余坪、さらにその隣の巨勢求馬之助利喬(としたか 38歳 5000石 小納戸)のところは2400坪で、あのあたりでは、3家で2町内ほどを占めていた。

参照三枝家については、2007年6月1日~[田中城の攻防] () () (

2007年6月19日~[田中城のしのぶ草] () () (18

2008年10月7日[納戸町の叔母・於紀乃] (

左内坂のその先を右ななめに中根坂をのぼると、突きあたりに三枝家長谷川家の塀が見えてきた。
中秋だというのに、松造は額にうっすらと汗をうかべていた。
2つの坂が急なのである。

久三郎正脩は待っていてくれた。
1年前に、京へ旅立つときにあったときにくらべ、急激に老けた感じに見えたのは、白髷が小さくなっていたこともあるが、頬の肉がそげ、口の両端に深い皺がきざまれていたためであった。

香典の礼と、返礼の品をわたし、
「跡目相続の日どりは、いつごろになりましょうか?」

正脩は、3年前から、大身旗本の役職の一つである小普請支配を勤めている。
小普請支配は、12人いて、正脩は8の組のお頭である。

京都から相続願い送った銕三郎としては、きちんと受けつけられていることをたしかめたかった。

そう訊かれることを予想していた正脩は、かたわらに手控え帳を置いていた。

「7月8日に跡目を継いだ者たちが、願いをだしてからどれほどのあいだ待機したかだがな---」
眼鏡をさがしに立った正脩に代って、ちゅうすけがその手控え帳をのぞいてみよう。

安永2年(1773)7月8日

(久松)松平信之允定能(さだまさ 16歳 5000石)
養父・亀松定則(同年4月4日卒(18歳)

五嶋兵部盛恭(もりやす 20歳 3000石)
父・右膳盛峯(同年4月6日卒 48歳 交替寄合)

土岐寅之助頼久(よりひさ 28歳 1100石)
養父・十左衛門頼雄(同年4月27日卒 59歳 西丸小十人頭)

渡辺伊十郎胤(つづく 16歳 1000石)
養父・久蔵義(よし 同年4月24日卒 50歳 寄合)

山木次郎八勝明(かつあきら 31歳 400俵 小姓組)
養父・織部正伴明(安永2年4月24日卒 73歳 一橋家老)

など父死して家を継ぐもの9名。

末期養子がかなり多いこと、歿日からかなり間があいていることが目立つ。

もうすこし、帳面を盗み見してみよう。
正脩老、眼鏡の置き場所を忘れたらしい。


安永2年(1773)8月6日

安部金平正恭(まさゆき 30歳 2000石)
養父・伊織正実(同年5月11日 46歳 書院番士)

宇都宮文蔵正尚(まさひさ 22歳 500石)
養父・弥十郎正季(同年5月3日卒 49歳 大番)

五味源次至豊(としとよ 20歳 200石200俵) 
父・乙十郎豊長(同年5月6日卒 57歳 新番)


建部r駿河守広通(ひろみち 32歳 300石 徒頭)
父・和泉守広高(同年5月9日卒 広敷用人)

石野大助唯従(ただより 29歳 300俵)
父・藤十郎唯義(同年5月27日 67歳 先手組頭)

など17人が跡目を相続。
跡目とは、当主の死後の相続のこと。生前の相続は家督。

おや、正脩老が戻ってきたみたい。
このあとは、老から直かに聞くことに---。


参照】2006年5月22日[長谷川正以の養子先
2006年5月23日[平蔵の養父
2006年5月24日[正以の養家

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099幕府組織の俗習」カテゴリの記事

コメント

今日のリストもご苦心の作ですが、すごいのは、昨日の長谷川伸邸の書庫のコマ割り写真です。まったく驚きました。どういう手ずるで撮影ができたのでしょう。
一コマずつ、拡大してじっくりと見せていただきましたが、本の背文字まで読み取れ、参考になりました。
池波先生も、これらの本を借り出して勉強なさったんでしょうね。
いや、眼福でした。

投稿: 左兵衛左 | 2009.12.02 08:51

>左兵衛左 さん
長谷川伸師の書庫の撮影は、新鷹会の伊東事務局長のお許しを得ておこないました。もちろん、平岩弓枝現・会長のご援助がものをいっているとおもいます。
池波さんがフルに活用した書庫なので、池波研究には欠かせない資料とおもうのですが、どの池波研究書にも、この書庫の内容にふれていませんね。おかしなことです。盲点です。

投稿: ちゅうすけ | 2009.12.02 11:04

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