銕三郎の追憶
「松造(まつぞう)。しばらく、黙っていてくれ。考えごとがある」
長田(おさだ)家から借りた、家紋・枝柏入り提灯を、銕三郎(てつさぶろう 28歳)の足元にさしかけている松造(22歳)にいいつけた。(丸の内二枝柏)
神田川の北岸ぞいに、浅草橋門にむかっている。
神田川には、三日月の影をさざ波でゆらして行き来する舟が、たまに行きかっていた。
浅草橋までたどりつけば、船宿が数軒あるから、舟で帰ってもいいとおもっている。
長田越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)と交わした会話の中の一片に、銕三郎はこだわっているのだ。
「で、禁裏付をまる16年も---?」
「なじむと、京の水もおいしゅうござる。あ、長谷川うじは、なじむまもなく---?」
「いえ。いささかは---」
「ほう。お若いということは、なににもまして、甘いものに聡(さと)うござるな。それがしの禁裏付の発令は、人生も晩秋の51歳がおりで、しかも、妻同伴の身ゆえ、そちらのほうの楽しみは厳しい冬の晩ばかりでの---ふ、ふふふ」
「とても、まともにはお受けいたしかねますが---」
(「いささかは---」と応えたとき、おれはだれをおもい描いていたろうか?)
〔千歳(せんざい) 〕のお豊(とよ 24歳=当時)のことではないはずである。
女ざかりであったお豊は、幼いときに尾張・鳴海の宿で捨てられたといっていた。
京おんなではない。
【参照】2009年7月27日~[〔千載(せんざい)〕のお豊] (8) (9) (10) (11)
盗賊の一味とわかり、捕り方がふみこんだときには、穴道づたいに逃げおおしていた。
いまは、どこでどうしているか。
かなうことなら、捕まらないでほしいような気がする。
すると、貞妙尼(じょみょうに 享年25歳)であろうか。
青みがかってみえる透けるような肌が、興奮が高まると淡い桜色に変わり、下腹からもやってくる濃い香り---たしかに京のおなごのものといえた。
【参照】2009年10月12日~[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))](1) (2) (3) (4) (5) (6) (7)
貞尼(さだあま)は、仏門にはいる前は若妻であった。
亡夫は、貧乏牢人だったといっていた。
めずらしく美貌をおんなの宝にしないところが、いさぎよかった。
(そういえば、お竜(りょう 享年33歳も、そうだった)
お貞は、後家になると、その美貌に魅せられていた男たちが待っていたようにいい寄ってくるので、さっさと尼になって身を隠したつもりが、こんどは僧たちに口説かれた。
銕三郎には、融(と)けたように躰を許した。
求められなかったからかもしれない。
銕三郎が、金銭に恬淡としていたこともある。
婚ずる前に母親と住んでいた2軒長屋で抱きあうときには、仏法の戒律を破っている罪深さにおののくことで、おなんなとしての喜悦を高めていた。
それが、僧たちの嫉妬心に火をつけた。
【参照】2009年10月19日~[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1)2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
ただ、貞尼は口にはださなかったが、20歳ですでに2児をもうけている久栄(ひさえ)をうらやんでいる気配があった。
還俗したら、銕三郎の子を産むつもりだったのかもしれない。
いじらしいとおもうとともに、かなえてやりたい気持ちもあった。
父・宣雄が逝き、家禄を継げる資格をできたいまなら、その子を長谷川の庶子として届けることもできた。
たが、長田越中守に、「いささかは---」と応えたときに心中にあったおなごは、京生まれの貞尼ではなかったようにおもう。
そう、お竜(りょう)であったような---。
奇妙である。
お竜は、京へいそいでいる途中に湖中に消えた。
銕三郎は、京ではお竜を抱いていない。
しかし、夢の中では、結ばれあっていた。
京の三条白川橋西入ルの旅籠〔津国屋〕で見た夢には、会ったことのないお竜の母親・飛佐(ひさ)まで登場した。
【参照】2009年7月25日[千載(せんざい)のお豊] (6)
お竜を意識したのは、芝の牛小屋の牛の角に火のついた松明をくくりつけて放ち、捕り方のをほかへそらした盗(つと)めぶりと、その沖あいに小舟をうかべ、灯りでつなぎ(伝信)を送った者に目星をつけたことによる。
【参照】2008年9月3日~[〔蓑火(みのひ)〕のお頭] (6) (7) (8)
それで、お竜が生まれ育った甲斐国八代郡中畑村まで探索にでかけた。
その旅のとっかかりで久栄に出会ったのもなにかの縁というものであろうが、そのことはおいて---。
深い結びつきができたのは、お竜の知恵をもとめてであった。
【参照】2008年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] (8) (9)
その後は、、深慮遠謀をわかちあいながらの躰の結びつの深まりであった。
これは、それまで銕三郎が体験したことのない男女の交合の深みといえた。
2008年11月25日[屋根舟]
2009年1月1日[明和6年(1769)の銕三郎] (2) (3) (4)
2009年1月24日[掛川城下で] (4)
2009年5月22日[〔真浦(もうら)〕の伝兵衛] (2) (3)
「殿。浅草橋ご門です。舟を頼みますか?」
松造のことばに、銕三郎はわれに返った。
「そうしよう」
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コメント
物語での銕三郎は、女にもて、剣も強くてこそ、支持できます。
史実の銕三郎は、家禄400石の旗本の御曹司として、それなりにかまえていなれければなりません。
しかし、こうして読み返してみると、うらやましいほど、もてすぎますなあ。
とりわけ、貞妙尼との出来事が切ない。
投稿: 文くばり丈太 | 2009.12.15 05:53
>文くばり丈太 さん
出会わせたときには、そんな仕儀になるとは思っていないのですが、女性のほうから溶けるというのでしょうか、そうなってしまうんですね。
久栄も辰蔵もいることだし---と、足踏みもするのですが、まあ、子がふえれば、当時としては、閨閥づくりにも資するでしょうし---。
しかし、小普請組に入ったら、そういう場にはなかなか出会えないでしょう。ちょっと、寂しい気もしませんか?
投稿: ちゅうすけ | 2009.12.15 17:02