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2009.12.16

跡目相続、申し渡しのご奉書

「かねて願いでていた跡目相続の申し渡しをするから、9月8日、四ッ(午前10時)に、菊の間へ、後見者ともども出頭のこと」

ご奉書が20日前に届けられた。
後見者には、本家から3代前に300石を分与されて分家した当主・内膳正珍(まさよし 64歳 のち200石加恩があり500石)を頼んだ。
正珍は、享保20年(1735)から38年間、黙々として小姓組番士として出仕をしている、おとなしい人柄の仁である。

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、
「当日の1刻(2時間)j前の五ッ(午前8時)にお迎えにあがります」
「うむ」
うなずいただけで、意見らしいことは口にしなかった。

正珍の屋敷は千駄ヶ谷の硝煙蔵跡だから、南本所三ッ目の銕三郎のところからは、ほぼ1里半(6km)はたっぷりあり、それから江戸城までさらに小1里(4km)も歩く。

「それは大儀であろうから、一番町裏新道のご本家で落ちあってまいろう」
とでもいってくれるかとかんがえていた銕三郎は、なんとも気がきかないとがっかりしたが、顔色にはださなかった。

事情を久栄(ひさえ 21歳)から訴えられた本家・太郎兵衛正直(まさなお 65歳 1470石 先手・弓の7番手組頭)が介入してくれ、一番町で待ちあわせすることにはなったが。

20日のあいだに銕三郎がしたことは2つであった。

まず、5年前の明和5年12月5日に家治(いえはる)に初目見(おめみえ)した仲間の浅野大学長貞(ながさだ 22歳 500石 小普請組)と長野佐左衛門孝祖(たかのり 28歳 600歳)を、例のごとく飯田町中坂下角の料亭〔美濃屋〕に呼びだした。

参照】2009年6月17日~[銕三郎の盟友・浅野大学長貞] () (
2009年3月11日[明和2年(1765)の銕三郎] (
 
〔美濃屋〕では、主人・源右衛門の弔辞をうけ、帰りぎわには線香の包みをわたされたが、そのことよりも、銕三郎の用件は、5年前の12月5日の初目見よりも1ヶ月早く遺跡相続を許され、その2年後に西丸の書院番士として出仕している長野孝祖に、相続申しわたしの式次第を訊くことであった。

あらかじめに様態をしっておいて臨めば、不安にかられて粗相をしなくてすむ。
亡父・宣雄の教えであもあった。

長野孝祖が先輩然として語ったことをかいつまんで書くと、当人と後見者は、さだめられた時刻の前にご書院ご門の前に出頭する。
時刻になると、普請方同心が中の口へ導く。
そこから本丸内のご入側(廊下)をえんえんと歩き、小さいほうの中庭に面した菊の間のご入側に控える。

ちゅうすけ注】ご入側(廊下)には、もちろん、畳か敷きつめられている。

「控えているあいだは、後継者同士とも、後見者とも口をきいてはならぬ。ただ、宣告を待つ者同様に、座って、月番老中のお出ましを待つのだ。銕三郎は、とかく口数が多いから、とくにこのことをわきまえておくように。もっとも、菊の間まで、城内のあれこれの部屋の前を、初めてえんえんと歩くのだから、足はふるえ気味だし、喉はからからで、銕三郎といえども、口をきく勇気はあるまい」
「挑戦させる気か?」
「悚然(しょうぜん びくび)とするなって忠告だ」

廊下からいって菊の間左手---南側には、12名の小普請支配がならんでいる。

「月番ご老中は、板倉佐渡(守 勝清 かつきよ 68歳 上野国安中藩主 2万石)さまであったな。
あの方は、口跡がはっきりしなくなってきておるゆえ、聞き逃すでないぞ」
孝祖の注意は、仲間のことをおもんぱかってのことであった。

(3歩退(ひ)け。1歩出よ)
銕三郎は、あらために自分にいいきかせ、孝祖の盃を満たしてやった。

浅野長貞がめずらしく、こぼした。
「こっちは、家督して5年になるというのに、まだ、お召しがない。待つというのが、こんなに辛いものとはおもわなかった」
「あせるな、大学(家督前の長貞の幼名)。いちど出仕すると、もう、あとには引けないのだぞ。いまのうちに嫡子づくりにはげめ」

余談ながら、浅野家が嗣子をえたのは、この夕べから2年のちのことであった。
室は、諏訪七右衛門頼容(よりなり 51歳=当年 西丸小姓組 1500石)の長女(21歳=同前)で、3年前に嫁してきていた。

銕三郎がやったその2は、下野国・宇都宮藩への縁つなぎであった。

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コメント

江戸城内での緊張した空気が伝わってくるようです。早速城内の案内図を出して菊の間までの廊下を辿ってみます。

銕三郎はどうして後見役を分家の内膳正珍にお願いしたのでしょう?

投稿: みやこのお豊 | 2009.12.16 08:55

>みやこのお豊さん
本家の大伯父・太郎兵衛正直は先手頭の古参で手があかないし、納戸町の小叔父・久三郎正脩は小普請支配だから頼めません。
相続者を受けとる側ですから。
また、本家には、手すきの者がいないということで、順序からいっても、本家からの分家の内膳正珍ということになったのです。
後見といっても、まあ、付き添いみたいなものですから。

投稿: ちゅうすけ | 2009.12.16 15:24

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