ちゅうすけのひとり言(41)
この12月3日の[銕三郎の跡目相続まで](2)に、安永2年(1773)中に跡式を相続をゆるされた家205という総数と、月日、跡目と家督の別をあげた。
再掲示すると、
2月11日(跡目) 1人
3月7日(跡目) 12人
3月16日(跡目) 2人
閏3月5日(跡目) 9人
4月6日(跡目) 10人
4月8日(家督) 21人
5月6日(家督) 6人
6月6日(跡目) 7人
7月5日(跡目) 9人
8月6日(跡目) 17人
8月22日(家督) 9人 、
9月8日(跡目) 13人
10月7日(跡目) 16人
11月5日(跡目) 15人
11月29日(家督)21人
12月6日(跡目) 10人
12月27日(跡目)26人
*太字は、銕三郎が召出されたグループ。
『徳川実紀』は、その9月8日を以下のように書き留めている。
京町奉行は長谷川備中守宣雄が子平蔵宣以。先手頭永井内膳尚尹が子主水尚喜。使番安部助九郎信方が子信尹をはじめ。父の家をつぐもの十三人。
長谷川家が筆頭に書かれているのは、備中守宣雄の下賜称号のゆえと推察する。
名があげられていない10人を、『寛政重修諸家譜』5200余家を総点検して、やっと7人、みつけた。
禄高順にならべると---
養父:嶋田虎之助利広(としひろ 1800石)
安永2年6月5日卒 21歳
養子::(松平)吉十郎氏馬(うじうま)
(跡目) 19歳
天明2年(1782)5月14日小姓組出仕
父 :安部助九郎信方(のぶかた 1000石)
安永2年6月9i日卒 69歳
子 : 主税信尹(のぶただ)
(跡目) 35歳
安永3年(1774)2月25日書院番出仕
父 :永井内膳尚尹(なおただ 500石)
安永2年6月30日卒 76歳
子 : 主水尚喜(なおよし)
(跡目) 46歳
天明6年(1786)3月16日西丸御膳奉行出仕
父 :長谷川備中守宣雄(のぶお 400石)
安永2年6月22日京で卒 55歳
子 : 平蔵宣以(のぶため)
(跡目) 28歳
安永3年(1774)4月13日西丸書院番出仕
父 :松倉外記高則(たかのり 300石)
安永2年6月8日卒 46歳
子 : 彦五郎高住(たかすみ)
(跡目) 22歳
安永8年(1779)10月22日書院番出仕
父 :夏目藤四郎信政(のぶまさ 300俵)
安永2年6月12日長崎で卒 62歳
子 : 虎之助信栄(のぶひさ)
(跡目) ?歳
安永3年(1774)2月25日小姓組出仕
父 :山田源三郎直永(なおなが 200俵)
安永2年6月8日卒 43歳
子 : 甚之丞尚陽(なおはる)
(跡目) 17歳
安永5年(1776)4月10日大番出仕
兄 :山本大蔵長卿(ながあきら 200俵)
安永2年7月9日卒 25歳(無役)
弟 : 直吉長孝(ながたか)
(跡目) 17歳
兄 :中村藤次郎敬基(よしもと 200俵)
安永2年6月29日卒 31歳
弟 : 藤三郎徳基(のりもと)
(跡目) 24歳
無役
祖父:笠原養泉述満((のぶみつ 100俵月10口)
安永2年6月21日卒 77歳
子 岩之丞武嘉(たけよし)
(跡目) 27歳
寛政6年(1794)小石河川養生所見習
これで、『徳川実紀』に抜粋される家格が推測できるだろうか。
家禄1000石以上というと、嶋田家が落ちているのが解せない。
永井家の記載から、父親が使番(布衣)以上という線も仮定できないでもなさそうである。
ま、学問的な発表では、もちろん、ないのだし、長谷川平蔵かかわりであるていどのことがわかればよしとしたいが、それではあまりに無責任すぎよう。
明日、もうすこし、サンブルをアップすることにしたい。
これだけのデータをそろえるのに、--週間と眼精疲労からきた頭痛を要した。
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