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2010年1月の記事

2010.01.31

貴志氏(3)

しばらく待っても、里貴(りき 30歳がらみ)があらわれないので、平蔵宣以(のぶため 28歳)は、ごろりと横になり、しんと静まりかえった部屋で、手枕のまま表の雑音を聞いているうちに、つい、仮眠してしまったらしい。

物音に目をさまし、見上げると、里貴がいた。
冷風がそよぐ堀傍ぞいを、よほど急いできたらしく、白い頬が紅潮している。
真向いにすわったとき、衿元からかすかに、白粉のそれとはちがう躰臭がもれた。

起きなおった平蔵が、
「よいのかな、店のほうは?」
「気分がすぐれないといいわけし、馴れている女中頭にまかせてきましたから---」
里貴を目あての客が失望するのではないか?」
「ご冗談ばっかり---」

戸ぶくろから取り出した紙葉を平蔵の前に置いた。
土岐氏の系図らしかった。

「困った。拙iには、そのようなものを読みこなす素養がない」
鷲巣(わしのす)さまにかかわりがございます」
「そういわれても---」
「いま、小十人頭をなさっている式部清貞(きよさだ 42歳 1000石)さまの祖父・淡路守清勝(きよかつ 享年53歳=享保12)さまが家名をおたてになった鷲巣家は、じつは、土岐家の姫が紀伊家のお3代・綱教(つなのり)さまの侍女となって鷲巣を名乗られ、ご養子・清勝さまを始祖にお立てになったのでございます」
「手っとりばやくいうと、紀州侯が土岐家の流れをくむ姫に手をつけたが、子をなさなかったということだな」

平蔵は、紀州家のことに首をつっこむ気はさらさらない。
ただ、里貴が雇われ女将をやっている茶寮〔貴志〕が、なんのためにあの場所に建てられたかに、疑義をいだいただけである。

「きょうは着替えないのか?」
鷲巣さまのお話がすむまでは、着替えるわけにはまいりません」
「それならそれでいいが、鷲巣どのが、里貴にどうかかわるのだ?」

「小十人頭・清貞さまに5人の弟ごがいらっしゃいます。うち、お2方が清水中納言重好(しげよし)卿にお仕えになっていらっしゃいます」
「ふむ」

「お兄さまを利兵衛清胤(きよたね 700石)さま、お若いほうを伊織清好(きよよし 500石)さまと申されます」
「そこまでは、わかった。で、里貴は---?」
「お弟ごの清好さまに呼ばれて紀州から参った藪 保次郎春樹(はるき 享年27歳=明和4年)の妻でございました」
「やっと、目の前の里貴にたどりついた」
「おひやかしになるのでしたら、もう、お話しいたしません」

「悪かった。どのは、いつ、お亡くなりになったのかな?」
「6年前でございます」
「そのとき、里貴はいくつであったのかな?」
「訊問がお上手でございますこと」
「火盗改メ方・平蔵宣雄(のぶお)、直伝の尋問法でな」
「お答えしないと、拷問なさいますか?」
「いや、長谷川式は、拷問などしないで白状させる」

「謎めいたところのある女性(にょしょう)のほうがお好みなのでは---?」
「おなごは謎だらけの存在だ」
「男衆だって謎だらけでございます」
「解ける謎は、解いてみたい」
「拷問をなさってみては---?」
「お望みかな?」
「女囚をお責(せ)めになるときは、単衣(ひとえ)を着せた上で行うのでございましょう? 着替えてきます」

「その前に、田沼侯の屋敷に入ったのは、どのが亡じられてすぐかな」
「そのことも、お責めになったときに---」
里貴は、嫣然とした微笑みをのこし、奥の間へ消えた。

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、 

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2010.01.30

貴志氏(2)

「゛こんどは、いつ?」
里貴(りき 30がらみ)が切りだしたとき、女中が、
〔女将さん---」
襖の向こうから呼びかけた。

眉根をよせて立っていく。

平蔵(へいぞう 28歳)は、頭の中でいそがしく日めくりをくったが、あてられそうな宵はみつからなかった。
(遠出でもしないかぎり無理だが、店のある里貴は、とても出られまい)

四半刻(しはんとき 15分)もして戻ってきた里貴に、貴志頼母忠高(ただたか 42歳 500俵 書院番士)の名が書かれた紙片を見せた。

目を走らせた里貴が、
「あら。この店の名を姓にしておいでのお武家さまもいらっしゃるのですね」
「知らないご仁かな?」

しばらく黙っていたが、
「この方の大々お姉さまにあたる方が、私の大々叔母です」
「大々叔母?」
「紀州藩士・鷲巣(わしのす)家のむすめだったのですが、ご縁があって、貴志さまにもらわれていったのです」
「嫁した?」
「いいえ。養女でした」

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(鷲巣家からの養女と貴志頼母忠高の個人譜)

祖の鷲巣伊左衛門清勝(きよかつ 42歳)が、吉宗の長子・長福丸(のちの家重 6歳)の輔弼(ほひつ)としてつきそってニノ丸入りし、小納戸を勤め、1000石を給された紀州系の名家のひとつであることは、平蔵もこころえていた。

「ということは、里貴どのも鷲巣家の?」
「いいえ、そうではありません」
里貴は、その透(す)きとおるほどに白い面(おもて)に困惑の色をうかべた。

(てつ)さま。ここでは仔細をお話しすることはできません。これから、御宿(みしゃく)稲荷の脇の家へ参りましょう。早引けする手くばりをして追っかけますから、先にお着きになったら、手伝いの老婆を帰してやってください」
帯のあいだから、表戸の鍵を平蔵の手に載せ、両掌で上下からぼんと叩くようにはさんだ。
「老婆はお(やす)といいます。おに、酒の肴を忘れないように、と伝えてくださいますか」

老婆・お(60がらみ)は、まるで孫でも迎えたみたいに、ほくほくと、
「魚安の若いのが、今獲(いまど)れの鯖(さば)を持ってきてくれたから、船場煮をつくっておいたよ。お里貴さんが戻ったら、出し汁で暖めるていどに火にかけ、短冊に煮てある大根をのっけて食うように言っておくれでないか」
「わかった。おいしそうだな」
「あたりまえだよ。おらっちがつくった料理だもの」

言うだけのことをいい、おはさっさと帰った。
里貴の私生活などにはまったく興味がないらしい。
いや、里貴に、そういうふうに仕込まれているのであろう。

(自分はどうだろう?)
里貴という不思議な魅力をもったおんなの、すみずみまで知りたがってはいないか。
(いや。たまたま、貴志村の名を告げただけで、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)が気をきかせ、貴志姓の由来をとどけてきた。
(それを、里貴に示しただけだ)

(しかし、里貴はそうとは受けとらなかったようだ)
ことは、紀州藩にも、なにかのかかわりがありそうな気配になってきた。

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2010.01.29

貴志氏

「本所の長谷川さまから、お使いが参っております」
奇妙な笑顔で、下僕・太作(たさく 62歳)がとりついだ。
平蔵宣以(のぶため 28歳)は、太作とは秘密を共有している仲と観念している。
14歳のときに、男になることを手配してくれたからである。
はやくおんなを知ったことで、妄想を持たないで育てた。
相手の女性(にょしょう)・お芙佐(ふさ)は、25歳の若後家であった。

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(清長『柱絵巻物』右部分 イメージ)

参照】2007年7月16日~[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)] () (
2007年8月3日~[銕三郎、脱皮] () () () (
2007年12月22日[与詩(よし)を迎えに] (

脇の玄関に待っていたのは、過日、多い目の駄賃をやった小者であった。
太作の皮肉な笑顔はこれであった。

届けられた書状には、

貴志頼母忠高(ただたか)。42歳。500俵。書院番士。屋敷=小日向馬場脇。
吉士(きし) 百済からの渡来人。
貴志---難波吉士の後裔。
貴志村---紀伊国那賀郡(ながこおり)と同国海部郡(みべこおり)。
貴志家は、北条方から徳川に召され、のち、有徳院殿(吉宗)に使えた。

記されていたのは、これだけであった。
小者が「三ッ目通りの長谷川家に届ける書状はないか、とでも、主人の書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)にせっついたのであろう。

多すぎるとおもったが、前回のとおり、小粒・1朱(1万円)をひねってわたした。

(ほう。茶寮〔貴志〕の里貴(りき 30歳がらみ)には、百済人の血が入っているかもしれないのか。抜けるような肌の白さは、そのせいか)
平蔵がほのかに甘い追憶にふけっていると、太作がひやかした。
「若。くせになります。甘やかすのも、いい加減になされ」
(自分を甘やかしているのかも---)

てれ隠しに咳をし、書状をふところに納めながら、平蔵は、貴志忠高という幕臣に会う算段を考えていた。
(小日向馬場といえば、納戸町の大叔父・久三郎正脩(まさひろ 63歳 小普請支配)の屋敷への道すがらだが--)
思ったとたん、里貴に訊けばすむことだと気づいた。

一橋北詰の火除け地角の茶寮〔貴志〕へ行こうと支度をととのえているところへ、遣いに出ていた松造(まつぞう 22歳)が戻ってきた。
西ノ丸書院番頭の水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 50歳 3500石)の与(くみ 組)頭・牟礼(むれい)郷右衛門勝孟(かつたけ 54歳 800俵)の屋敷からの返事をとってきたのである。
「明後日が休仕の日なので、お待ちしている」

松造。すまないが、もう一度、牟礼家を訪ねてきてくれないか。用件は、〔貴志〕の席がとれるかどうかなので、そこまで一緒してくれ」
とっさに、牟礼与頭を昼餉に招くことを思いついたのである。

〔貴志〕で筆を借り、招き文をしたため、もたせた。
里貴が、
「昼餉どきが終わったので、板場が一服しております。お茶だけでおよろしければ---」
里貴どのの躰があいていれば、それでいい」
「あいていなくても、あけます」
目と目をあわせて笑った。

お茶を手配して戻った里貴が、
「先夜を思いだすと、躰が熱くなるのですよ」
ほら、まくってさしだしたニの腕が、ほんのりと淡い桜色に染まっていた。
「あの宵は、乳房もそのような色になっていた」

「こんどは、いつ?」
里貴の双眸(りょうめ)の光が増した。

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2010.01.28

『よしの冊子』中井清太夫篇(5)

よしの冊子 五』には、天明8年(1788)8月からのリポートがまとめられている。

このブログでの進行は、まだ、安永2年(1773)の晩秋から初冬のあたりだから、天明8年といえば、15年も先走ってしまうことになるが、中井清太夫にかかわってしまったので、目をつむっていただきたい。
清太夫のことは新史料が手に入るまで、とりあえず、今日で中断ということで打ち切る。

天明8年という年は、禁裏にとっても、幕府にとっても、京都市民にとっても大変な年となった。

1月30日、鴨川の東から失火した火が、鴨川を越えて四条寺町の永養寺へ飛び火し、そこから禁裏、二条城、(たぶん、東・西奉行所)、37神社・201寺院、1,424町、65,300世帯を焼尽した。

もちろん、火盗改メ・助役(すけやく)だった長谷川平蔵宣以(のぶため 43歳=天明8年)は、亡父・備中守宣雄(のぶお 享年55歳=安永2年)が在任していたときに公私ともに世話になった吟味与力・浦部源五郎(げんごろう 65歳 隠居中)に見舞いの金子を贈ったことはいうまでもない。

幕府は、とりあえず、勘定奉行の根岸肥前守鎮衛(やすもり 500石 52歳)に、組頭・若林市左衛門義方(よしかた 58歳 100俵5口)と中井清太夫をつけて、はせのぼらせ、禁裏と二条城の普請を沙汰させた。

このことを記した『よしの冊子』(天明9年4月26日)

京都炎上で、根岸肥前守、若林市左衛門、中井清太夫が上京したとき、3人とも言語同断の倹約を申し出、とりわり中井はやかましく倹約をいいたて、ひはだぶきを瓦ぶき、良材をつかうべきところを松杉にするようになどと言いはり、しきたりもしらずにやたらと倹約をいいたてたので、御用掛はこの3人には仰せつけられず、余人を任命なされたのは至極よかったと申されたよし。

申された方の主語が抜けているが、まさか、主上でなかろう。

しかし、「倹約」「倹約」と口酸っぱ言ったと非難しているが、時の老中首座は古典経済主義者の松平定信侯だから、その心情を忖度すれば当然、「倹約」をいわざるを得なったかろう。
また、清太夫は、3人のうちでいちばん軽輩だから、嫌われ役を引きは受けざるをえまい。

だいたい、この書き手の隠密は、だれを取材したのであろう?
資格・身分(小人目付など)からいって、禁裏でも地下官人が相応であろう。
かつて、清太夫の策略で大勢の地下官人が不正のために処罰されている。
彼らは、清太夫に恨みこそあれ、好感をもっているはずはない。
また、地下官人たちは幕府の寄食者的存在で、生産者ではないから、「倹約」といわれても、素直には受けとるまい。

もちろん、中井清太夫を弁護する気持ちは、さらさらない。
才能というべきかもしれないが、上の者にとりいる姿勢が目にあまる。
主要幕閣の一人---本多弾正少弼(しょうひつ)忠籌(ただかず 50歳 泉藩主 2万石 若年寄)侯に気にいられていると公言し、松平定信侯のおもわくを聞きだすために、生家の田安家にさぐりをいれていると書かれたりで、かんぱしくない。

おかしいのは、京都へいっしょに行った組頭・若林義方の継嗣・平蔵忠知(ただとも)の後妻にむすめを嫁がせていることだが、残念ながら早逝し、忠知はあと2人の妻を娶っている。(4人!---とうらやましいとは、ちゅうすけもおもうが、こちらの気質をのみこませる手間もたいへん)。

とにかく、『よしの冊子』での清太夫の評判はよくないが、これは、書き手にも問題があるということを知っていただくために、ながながと引用した。
というのは、これに近い筆法が長谷川平蔵にも使われた時期があるということを存じおいていただきたかった。

明日からは、また、安永2年初冬へもどる予定。


       ★     ★     ★

きのう、週刊『池波正太郎の世界7 剣客商売二』(朝日新聞・出版局)がとどいた。

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大治郎と三冬が表紙を飾っている。『寛政重修諸家譜』の田沼家の譜には、三冬に相当する女子は収録されていない。だから、池波さんは、家臣の佐々木家へやられたむすめとした。佐々の流れをくむ佐々木家の家紋は三ッ目結(ゆい)である。表紙の女剣士の着物の紋は、秋山家の家紋をつけているようだから、祝言をあげたあとなのであろう。余談だが、武田家に仕えていた秋山一門は、三階菱をいろいろに変化させて使っていたようである。


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2010.01.27

『よしの冊子』中井清太夫篇(4)

よしの冊子』に書かれている中井清太夫は、2回ほど、布衣(ほい)の官職位を希求していたとバラされている。

布衣は、従5位下なんとかの守の下位の地位だから、まず、お.目見(めみえ)以上の家格でないと、許されまい。

というわけで、『寛政重修諸家譜』の中井家を何度も確認した。
諸家譜』に収録されている中井家は2家きりである。

まず、1家は、このブログ---2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () ()に登場させた、西丸のご膳所頭の中井富右衛門儀剛 のりかた 59歳=安永2年 40俵3人扶持)である。
吉宗侯が8代将軍の座に就くにあたり、赤坂の藩邸から急遽、供の一員としてニノ丸へ召された家の者である。

もう一家は、代々、大和国三輪明神の神職を奉じており、のち、同国高市郡(たかいちこおり)巨勢(こせ)郷に住したというから、住地を称したともみられる。

巨勢孫兵衛正範(まさのり)は、大和国の豪族・万歳備前守則満に寄食して、その城の四隅に出城を構えたが、同国郡山の筒井順慶との葛城山麓の石橋における合戦で討ち死にした。
6歳だった遺児・正吉(まさよし)は、母方の同国竜田郡(たつたこおり)法隆寺村の工匠・中井伊太夫のもとで育てられた。

その子・藤右衛門正清(まさきよ)は、土木の才を買われて東照宮に仕え、500石を給されている。

正清の嫡子・正好(まさよし)は、駿府時代の東照宮の小姓組番士として仕えたが、病いをえて致仕、京師に行き卒したので、幕臣としては断家。

偶然の符合をいくつか記す。

まず、本貫・巨勢である。
吉宗の生母・浄円院、通称ゆりの方で、巨勢八左衛門利清(としきよ 江戸で3000石)のむすめということになっている。

巨勢利清の祖父・利次(としつぐ)の従兄弟・大和守正清については、上記に名をだしておいた。
したがって利清の父までは中井を称していたが、利清のときから巨勢に復したと『寛政譜』にある。

もし、北河内楠葉の郷士・中井ニ左衛門がどこかで、巨勢系かその同系の中井にかかわりがあれば、清太夫の御家人としての勤仕は、あるいは手ずるがあったかもしれない。

駿府を致仕した中井正好が京都に仮寓したということでも、京師と楠葉(くすば)はそう遠くはない。
いや、この断家した中井家の[先祖書]を呈したのも、あるいは巨勢家だったのかも。

土木の薀蓄という点でも、法隆寺村の中井家が匂わないであろうか。

生母・浄円院ゆりの方の素性についての俗説に、近江の彦根の医者のむすめだが、派手好きで生(いき)ざらしの刑のあと京都の洗濯屋・巨勢平助の養女となり、その縁で紀州藩士・巨勢利清の養女に転じたというのがある。
巨勢一族の縁つながりの俗説である。

興味を引くのは、土木・治水の知識・技術である。
楠葉村の中井ニ左衛門の嫡子・万太郎(家督後、ニ左衛門を襲名)も、川床高による水害を予防すべく、周辺の村々を説いて、土砂留の普請方を実地に指導、植林をすすめて淀土砂奉行・久世出雲守(不明)に賞されている。

素人の、気ままな推察だから、あくまでも、お目よごしとして。

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2010.01.26

『よしの冊子』中井清太夫篇(3)

よしの冊子』の隠密が、中井清太夫について初めてリポートしたものを asou さんがじつに巧みに引用なさっていたが、原文の後半部を現代語になおして、再掲示してみる。、

禁裏の地下官人たちの、購入品の買い入れ価格の改ざんによる利得の実態をあばいたときから14年後、天明7年(1787)の11月の報告書である。
中井清太夫は、勘定奉行所の御勘定吟味方改役か、その下の同改役並だったようである。


14年前の京都での働きにより、(御勘定から)御代官に昇進して、甲州に赴任。
勘定奉行・川井越前守次郎兵衛久敬 ひさたか 530石 公事方 享年51歳=安永4年)に気に入られた。

ちゅうすけ注】川井越前守の勘定奉行昇格は、この記事の8年前の安永7年(1778)2月28日で、勘定吟味役から。3000石高、役料700俵。公事(裁判)方と勝手(財政)方が各2名ずつで1年交替。その下の吟味役は2名。
この記事は、没して12年後。

川井越前守が逝ってからは、松本伊豆守秀持 ひでもち 500石 58歳=天明7年)、赤井越前守忠晶 ただあきら 700石 享年64歳=寛政2年)としごくこころやすいよし。

ちゅうすけ注】松本秀持も赤井忠晶田沼派とみなされ、田沼失脚後は不遇。清太夫は、その火の粉をどうはらったか。あるいは、こころやすかったは壮語であったか。
もしくは、清太夫の印象を落とすために、この隠密が、あえて赤井松本の名前とならべたか。
中井清太夫について報告した密偵は同一人物のようだが、全部で38件もあり、ほとんどが負の内容を書いている。

甲州に(代官として)赴任していたとき、百姓にいいつけて、安藤弾正少弼(だんじょうしょうひつ)(惟要 これとし 73歳=天明7年 500石 宝暦11年(1761)から天明2年(1782)まで勘定奉行)の用人宅へ投げ文をいれさせたらしい。
その文面は、代官・清太夫はしごくよろしい役人であるから、ぜひ、甲州郡代に昇進させ、布衣(ほい)を許してやってほしい。百姓ども一同の希望である---といったもの。
もっとも、その投げ文は、用人が焼却してしまっているので、たしかめるわけにはいかない。
とにかく、百姓をそそのかして、目安箱にも訴状を入れさせているらしい。勘定吟味役・江坂孫三郎正恭 まさゆき 評定所留役兼任 享年65歳=天明4年 150俵)などは、また、例の中井の箱訴かと、わらって真面目にはとりあわないことがたびたびだったとのこと。
この春、清太夫は(甲州から呼び戻されて)江戸詰めとなった。

先日、検見(けみ 田畑の実情測量)に出張ったときも、宿泊の宿の料理がまずいと怒鳴ったことがばれ、上からきつく叱られたよし。
このほかにも、甲州の百姓はお前たちよりもよく働くし正直だと説教したよし。百姓たちに「関東は甲州のような山ざるとは違うと、反論されてしまったよし。

だいたい清太夫は、人のことを悪しざまにいうのが得意らしい。だから、下の者は心服しないらしい。とはいえ、相応の働きもしており、自分では自慢をしているつもりはないと、おもいこんでいるらしいし、自分から折れるということもないようである。
ものごとの取り計らいはズサンなことが多いようだといわれており、勘定奉行衆もいささかあきれておられるもよう。

ちゅうすけ注】『よしの冊子』は、松平定信侯の老中首座在任中の隠密のリポートだから、鬼平こと長谷川平蔵宣以が火盗改メを勤務していた時期と重なる。
平蔵にかかわるリポートの現代語訳は、別にカテゴリーをたてて掲出している。件数は100:件あったかどうか。
くらべて、重要役職についてもいない中井清太夫の38件は、書き手の悪意のようなものを感じるほどにしつこいといえる。
もっとも、それだけの悪印象を書き手にあたえたことがあったのかもしれない。

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2010.01.25

『よしの冊子』中井清太夫篇(2)

きのうは、京都町奉行に発令されてから、何日後ぐらいに上京の途につくかを調べるのに、おもわず時間をとられてしまった。

山村信濃守良旺(たかあきら 45歳=安永2年 500石)が、京都西町奉行所へ赴任の道中は、15日間前後と推察するが、柳営にいとま乞いして、その翌日に出立するものでもあるまいから、山村西町奉行が京の北西洛の千本通りの役宅に入ったのは9月20日ごろか。

それで、1ヶ月もしないで禁裏の官人の処分をはじめたとすると、そこそこに正確な情報がすでに手にはいっていたと断じていいのかもしれない。
それが、前任の長谷川平蔵宣雄からの申し送りの案件であったら、いうことはないのだが、話がうますぎるか。

asou さんのご教示に、『御仕置例類集』の安永3年分があります。

「1361番、1371番、1424番、1460番(1460番が一番主だったもののようです)1600番、1999番(361番と重複?)」

1361番は、「等閑又は亀忽之部 亀忽又は心得違之類」の範疇のもので、

安永三年御渡
京都町奉行
  山村信濃守伺

一  御所役人共、御仕置吟味一件
         御畳方定職人
                三人
右のもの御所畳表請負人どもより振る舞いを受け候段、不届きにつき、きっと叱り、以来、,念を入れ候よう、申し渡す。
 この儀、 御所役人どもえ賄賂差し出し候儀も相聞こえず、請負人どもよにり振る舞いを受け候ものどもにて、  一件の内、善兵衛ほか三名に見合い、格別品軽く御座候あいだ、きっと叱り。

こういう納入業者による供応接待は、受けない側の者からの妬みによる風評がもとで発覚することが得多い。
ことは小さな接待だが、それがもとで、芋ずる式に大きな不正があばかれる。

地下官人の事件の発覚の端緒かもしれない。

参照】2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (
2009年8月10日~[ちゅうすけのひとり言] (36) (37) (38) (39) (40)
2009年9月19日[命婦(みょうぶ)、越中さん
2009年9月20日~[御所役人に働きかける女スパイ] () () (
2009年9月23日[幕末の宮廷』因幡薬師』
2009年9月24日[『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

三田村鳶魚翁『御所役人に働きかける女スパイ』(中公文庫『敵討の話・幕府のスパイ政治』に収録)は、

一件聞合せのため、江戸から小十人衆(こじゅうにんしゅう)・御徒衆(おかちしゅう)が内々上京し、横目というので、御小人集(おこびとしゅう)も入洛しているのを、(西町奉行所の)組下の者どもに感知されない用心までしていた。
そうだから、隠密御用で入洛した連中は、夜陰人静まった頃でなければ、山村信濃守のところへ忍んで来ることをしないほどであった。
こうして、着任後の半年を、江戸からの隠密御用で来ている人々と共に、懸命な捜索につとめたけれども、何の甲斐もない。
さすがに山村信濃守も手段方法に尽き果てて、命令の仕様なく、隠密方も工夫才覚が断えて、献策する者もなくなってしまった。

今度上京した御徒目付中井清太夫、この清太夫は河内楠葉の郷士の倅で、親父仁右衛門が利口な当世向き男だから、如才なくその向きへ取り入って、倅清太夫を御普請役(四十俵五人扶持)に採用して貰った。


この、中井清太夫が徒目付となって上京してきて、探索の妙案をだしたことは、第1篇にすでに記した。
asou さんは、『よしの冊子』から中井清太夫の記述を探しだし、こんな追加コメントをくださった。


女スパイの話で事実とちがっていることがわかりました。
肝腎の中井清大夫の経歴に「徒目付」がなかったことです。
目付時代の山村信濃の配下に徒目付の中井清大夫がいて、禁裏役人の不正を追及していた、という仮説が否定されたのです。
中井清大夫については、
「よしの冊子 二」の(「日本随筆百花苑」の八巻か九巻か記載を忘れてしまいましたが)、59頁にもいろいろ書かれています。
真偽のほどが確実でない噂話の集合体なので話を割り引くとして、
「中井清大夫は大和国百姓の二男で、江戸へ来て御徒になった。京都の禁裏の御勝手役人に清大夫の伯父がいて、この伯父から内々に京都役人の私曲を聴きだし、これを幕府へ密告、その伯父の首も切らせて、その功績で代官に出世した。もっとも伯父の子を引き取ったらしいが・・・(以下略)」
これによると、中井清大夫は元は御徒であって徒目付ではなく、また、上方の出身であり、鳶魚翁の記述とは別バージョンの話で、禁裏役人の不正追及に関わっていたと思われていたことが興味深いです。

これだけでは実在の中井清大夫の前歴が徒目付だったか、御徒だったか断定はできませんが、後にもっと確実な史料で彼の経歴が御徒であったことが確認できました。
同時代の幕臣の隠居である小野直賢という人が延享2年(1745)から安永2年(1773)まで、幕府の令達や人事等の記事に加え小野家の日々の生活を記録した日記である、
「官府御沙汰略記」という史料です。
この存在を知ることができ、それにより
中井清大夫は、御徒から支配勘定にとりたてられ、勘定方の中で段階を踏んで出世して、安永二年の御所役人の逮捕劇が起きた時点では「御勘定」であったこと(偶然か
鳶魚翁の記述でも、京都に「御勘定の格式で乗りこんできた」ことになっていますが・・・)が確認できました。

かなり有能だったのか、御徒身分から勘定方へ登用され出世も比較的早かったのでしょう、他のライバルや御役につけない御家人たちの妬みを買っていたのかもしれません。それでやっかみ半分で根も葉もないうわさを流されてしまったのではないでしょうか?
下橋翁の講話とこの「よしの冊子」の中井清大夫に関する噂と翁草をミックスすれば、鳶魚翁の女スパイ話ができあがるかもしれません。

よしの冊子』の原文の前の方を写してみる。

よしの冊子 二          この巻必ず他へ出さざることと書きおく也

(天明七年(1787)十一月より四月マデ

一 中井清太夫雑評、一躰山師ニて、大和之百姓の次男、
江戸へ參り御徒二相成候処、京都禁裡御勝手方之役人ニ、
清太夫伯父御座候由。右伯父ニ内々ニて京都役人私曲之
筋坏承り表向へ申立、清太夫懸りニ相成、右伯父ノ首ヲ
切せ其外をも刑罰被ニ仰付候由(尤伯父ノ子ヲバ手前へ
引取候よし)                    其功ニ依
て御代官ニ相成、甲州へ參居候由。尤河合越前ニ気ニ入、
其後松本と縁を結、赤井へも至極心安キよし。甲州ニ居
候節、百姓をだまし、安藤弾正少弼用人之宅へ捨文致さ
せ候由。(其趣意ハ漬太夫至極よろしき役人故、何卒甲州
御郡代ニ被ニ仰付、布衣ニ被仰付候様、百姓一統ニ奉願度ノ
よしを認候よし)。
尤其捨文ハ焼捨二相成候由。とかく百姓ニ進め、箱訴
杯致させ侯由。江坂孫三郎杯、又例の中井箱訴かと被
レ笑候事坏度々御座候由。


(後段部分は、あとで---ということにして)

ちゅうすけ注】引用した『よしの冊子』の原文中の河合越前は、勘定奉行だった川井越前守久敬(ひさたか 530石 享年51=安永4年)、松本は、伊豆守秀持(ひでもち 700石 61歳=天明7年)、赤井は、越前守忠晶(ただあきら 700石 58歳=天明7年)。両人とも前年まで勘定奉行。
安藤弾正少弼(だんじょうしょうひつ)(惟要 これとし 73歳=天明7年 500石)は、宝暦11年(1761)から天明2年(1782)まで勘定奉行。
江坂孫三郎正恭 まさゆき 享年65歳 150俵)は、清太夫の上役の、勘定吟味役。

三田村鳶魚は、清太夫は楠葉村の郷士の次男としているのに、『よしの冊子』の隠密(徒目付や小人目付)は、「大和の百姓の次男」と書きすてている。

A_360
京都から楠葉村(明治19年 参謀本部陸地測量部製)

A_360_2
(上掲図の楠葉周辺を拡大)

_130地図でみると、北河内の楠葉は、山城国南端からも大和の西北からもそれほど離れてはいない。
それで、北河内を大和としたのかも---とおもったが、諸田玲子さん『楠の実が熟すまで』(角川書店)の末尾の参考文献のひとつに、
枚方市史』(枚方市教育委員会編)
があげられていた。

枚方市史』は昭和26年(1951)刊行の旧版と、昭和40年代に20年近くを要して全12巻にまとめた新版がある。
両版を点検したところ、旧版に、水治をよくした中井ニ左衛門宗山と、その嫡男・万太郎を顕彰した文章があった。

ニ左衛門の書き出しは、

楠葉南村の人、宗山と号した。地方の郷士として高四百余石を所有し、地理に明るく、治水に対する造詣がふかかった。
そのあとの記述がすごい。

近隣の村々98ヶ村は、あわせて高53,500石余だが、山からの出水や悪水にしばしば98ヶ村を襲われ、元文元年からの10年間の取米は年平均14,400石余でしかなかったというのである。
治水に明るいニ左衛門の指導によっての築堤防で3,400石の増益、悪水抜井路の普請成就で27,200石余を上納できるようになったというのである。
当時の幕政としても、喜悦満面であったろう。

中井清太夫ニ左衛門の次男であったとすれば、、三田村翁のように「親父仁右衛門が利口な当世向き男だから、如才なくその向きへ取り入って、倅清太夫を御普請役(四十俵五人扶持)に採用して貰」うだけの財力とは別に、幕府の執政たちは、清太夫を徒(かち)の組子なり、勘定奉行所の下級官吏---御勘定に採用して報いたであろう。

ついでだから記しておくと、楠葉村の高は、代官支配地が1,920石余、幕臣・船越某の知行地が554石余であった。
ニ左衛門の400石余は代官・多羅尾織之助の支配地であったろう。

また、ちょうどこの時代(明和期1764~)の楠葉村の農民階層は、
本百姓  232軒
水呑高持  77軒
水呑    102軒
と新編『市史』に記録されているところから推察するに、中井家の持分はとびぬけて大きい。

で、結論だが、長谷川平蔵宣以(のぶため)に対する評価の経緯を見、前々から疑念を抱き、公けにも言っていたことだが、『よしの冊子』の報告者である隠密の程度は、密疎の差がありすぎる。

追記】中井ニ左衛門の歿したのは明和8年(1771)8月3日、歿齢は不明だが、50歳から60歳のあいだではなかろうか。
嫡子・万太郎(家督後、ニ左衛門を襲名)が没したのは、平蔵宣以と同じ寛政7年(1795)の、4月15日。
なお、楠葉共同墓地にあるニ左衛門父子の墓碑fは、かなりの傷みがきているという。子孫が枚方市にいないのであろう。
そういえば、明治以後の楠葉村の、歴代の村長や村会議員に中井姓は見あたらなかった。

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2010.01.24

『よしの冊子』中井清太夫篇

禁裏の地下官人の不正摘発についての第2編である。

きっかけは、asou さんから、ご教示に富んだコメントをいただいたことによる。

「京都側の史料として「続史愚抄」(吉川弘文館)も参考になると思います。
この事件より少し後の時期に柳原紀光によって編纂された、いわば朝廷版の「徳川実紀」というべき書物です。
これによると安永二年の十月にはすでに御所役人たちの逮捕劇は始まっておりました」

「そして、翌三年の八月には判決。(逮捕~判決が一年足らず、これは早いような気もしないではないです)
山村信濃が京都奉行に着任して、すぐに当事者の逮捕が始まっていたことになるようで・・・山村信濃が密命を帯びて着任して、いろいろ捜査して、というのでは十月の逮捕劇に間にあったのだろうか、もっと前から調べていたのではないか、とも思えます」

ちゅうすけとしては、『続史愚抄』 の安永2年(1773)10月(巻15 p661 1行のみの記載)とその前後を仔細に読んだが、該当する記事は見つからなかった。
探し方が当をえていないのであろう。

「山村信濃(守良旺 たかあきら 45歳=安永2年 500石)が京都奉行に着任して、すぐに当事者の逮捕が始まっていたことになるようで・・・」

徳川実紀』の安永2年8月18日の項に、目付だった

山村十郎右衛門良旺京都町奉行となり---

同年6月22日に卒したことになっている西町奉行・長谷川平蔵宣雄(のぶお 享年55歳)の後任として、2ヶ月近くものあいだを置いての発令である。

実紀』の安永2年9月朔日の項に、

京都町奉行山村十郎右衛門良旺は赴任のいとまたまわり、叙爵して信濃守と称す。

発令されてから13日間ほどを、目付役の引継ぎや赴任準備・あいさつ廻りにあてていたのであろう。
しかし、「赴任のいとま乞い」のときに、〔信濃守〕の官職名と従五位下の叙爵というのも珍しい。
遠国(おんごく)奉行だから、受爵に帰府が難儀だから---との温情ともおもえない。
早くから禁裏に手をまわしていたのであろう。

長谷川平蔵宣雄の場合は、先手・弓の8番手の組頭から、京町奉行へ、明和9年(1772)10月15日の下命。
実紀』には、

同年11月15日京町奉行長谷川平蔵宣雄、叙爵して備中守と改め。赴任の暇賜ふ。

きっちり、1ヶ月間の猶予である。

13日後のいとま乞いと、30日後のそれと、どちらが先例かとおもい、平蔵宣雄の先任者・大田摂津守正清を『実紀』であたってみた。

明和元年(1764)閏12月15日京町奉行松前筑前守順広は持弓頭となり、目付大田三郎兵衛正清は京町奉行となり---

大田正清摂津守が叙爵されたのは、同年12月18日、ほかの2人と併記;されていた。
12月後半の叙爵は、毎年の定例である。
ちなみに、大田のいとま乞いの月日は記載がない。

大田正清の前任者として名前が出ていた松前筑前守順広は、

宝暦6年(1756)11月3日 駿府町奉行松前隼人順広京無町奉行となり。

いとま乞いの記録がないので、駿府からそのまま京都へ赴任したのか、いっとき帰府しいとま乞いをしたのかは不明。
筑前守への叙爵は、12月18日にほかの11人と連名で記されている。

こういう些細は、これまで目にしたことがないので、調べた先達がいらっしゃらないのかもしれない。
あとで、もうすこし、数を調べて、まとめておきい。


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2010.01.23

ちゅうすけのひとり言(51)

京・禁裏の地下官人の不正をめぐる項について、asou さんから、かなり専門的なご教示のコメントをいただいた。

参照】2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (
2009年8月10日~[ちゅうすけのひとり言] (36) (37) (38) (39) (40)
2009年9月19日[命婦(みょうぶ)、越中さん
2009年9月20日~[御所役人にはた働きかける女スパイ] () () ()
2009年9月23日[幕末の宮廷』因幡薬師』
2009年9月24日[『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

asou さんがおすすめの『続史愚抄』(吉川弘文館)は、昨日、近くの図書館が取り寄せてくれた。
同じくご推薦の『御仕置類例集』と『よしの冊子』は書棚にある。
続史愚抄』とともに、再吟味にとりかかるつもりでいる。

その後、一橋北詰の火除け地の角に茶寮〔貴志〕が建ち、女将・里貴(りき 30がらみ)と若いころの長谷川平蔵(28歳)が、tsuuko さんがご杞憂のように、少々おかしな気配になってきた。

あわてて、かねて企画していた、8代将軍となった紀州侯・吉宗が江戸城へ入るときに、赤坂の藩邸から伴っていった紀州藩士の『寛政重修l諸家譜』の一覧性化((A3化)を、この年末年始からこのごろにかけて約150家分、整備した。

というのは、

参照】2008年613日[ちゅうすけのひとり言] (14

に予告しておいたように、


人生の残り時間が少なくなってはいるが、目標の家譜の再構成は、

今川方から徳川へ移った家
・武田方から徳川へ移った家
吉宗とともに紀州から幕臣となった家


この3目標にかかわる『寛政譜』の一覧性化を、折にふれて、少しずつすすめてきていたので、その補充をいそいだのである。

・紀州藩から幕臣となり、300石(俵もふくむ)以上の家禄をあたえられた90家、
・おなじく、299石(俵)以下が45家、
・御薬込方から御庭番が17家、
で、計152家。

里貴のかかわる元紀州藩士は、300石(俵)の家柄の中にいるにちがいない。

List_360
(左=300石以上の家。右=299石以下の家)


 

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2010.01.22

日本橋通南3丁目箔屋町〔福田屋〕(3)

「お待ちしていますから、すぐにお越しくだせえ」
使いの小僧が、〔丸太橋(まるたばし)〕の小頭・雄太(ゆうた 39歳)の口上を持ち帰ってきた。

横川に架かる黒船橋北詰の駕篭屋〔箱根屋〕から、仙台堀の枝川に架かっ深川材木町(現・江東区福住2丁目)と富久町(同深川1丁目)をむすんでいた丸太橋までは、5丁(600m)あるかどうかである。

池波さん愛用の近江屋板の切絵図でみてもらうと、赤ドットが〔箱根屋〕のある蛤(はまぐり)町、緑ドットが丸太橋西詰の源次(げんじ)元締の住まいのあった深川材木町。

_360

もっと鮮明には、近江屋板をモノクロで書き起こした『古板江戸図集成』(中央公論美術出版)で。

_360_2

材木町の所以(ゆえん)は、日本橋・京橋界隈の材木商の木場であったからといわれている。

ちゅうすけ注】『鬼平犯科帳』の熱愛読み手なら、深川の〔丸太橋〕とくればも、まず、巻1[暗剣白梅香]で、金子半四郎に殺しを依頼した、深川一帯に睨みをきかせている〔丸太橋〕の与平次 p207 新装版p219 をおもいだす。
つづいて巻11[密告]p198 新装版p209 で、悪い旗本の孕まされた小むすめのおが、赤子をだき、びっこを引きひき丸太橋をわたって上総へ帰っていく情景をおぼえているはず。

さて、香具師の元締・〔丸太橋〕一家では、小頭・雄太平蔵権七を迎えた。
元締の源次は躰の具合が悪くて臥せっているというのだが、その後の噂で、中風で立てないのだとわかった。

〔箱根屋〕の親方には、いつもお世話になっておりやす」
雄太があいさつをした。
「小頭。手前どもがお世話になっております駕篭切手の案は、こちらの長谷川さまがおもいつかれたものです」
雄太平蔵にも頭をさげ、
「〔音羽(おとわ)の2代目さんからも、[読みうり]のお話をおぼろげにうけたまわっておりやす。せいぜいお引き立てをお願い申しやす」
「きょうは、そのことで---」

平蔵が、日本橋南3丁目箔屋町の〔福田屋〕がお披露目枠を買いたがっていることを告げると、雄太小頭は、
「ものを動かして儲ける時代から、形のねえものを動かして利を稼ぐ時代になるようでやすなあ」
さすがに「風声」とは言わなかったが、見るところはみている。

「それで、来月初めの元締衆の集まりには、小頭がこちらの元締の代理ということだと、小頭の代理は?」
「2番小頭の千吉(せんきち 26歳)というのがおりやすが---」
「いや。こんどのお披露目枠は、雄太どのに仕切ってもらったほうがよさそうだ」
「なぜ、でごさんす?」
「形のないものから利を稼ぐということは、なかなか理解がおよばないのです。それがお分かりの小頭はさすがだ」

じつは、雄太の容姿を買った。
商店の主が恐ろしがらない、一見、おだやかな風貌の持ち主であった。

ほめられても、雄太はにこりともしなかった。
なにか、もっと大きな稼ぎを目論んでいるかのようにもみえた。

「それから、〔音羽〕の2代目さんから、化粧指南師の見習いということでやしたが、うちのなにの姪っ子に、それらしいのがいますが---」
「そのこと、そのこと。〔福田屋〕にはすでに指南師がいるから、急には用はないが、お師匠を〔音羽〕のご新造・多美(たみ 32歳)どのがお引きうけくだされたから、義理にでも入門してあげてほしい」
「承知いたしやした」

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2010.01.21

日本橋通南3丁目箔屋町〔福田屋〕(2)

「おや、長谷川さま。ちょうど、お屋敷へうかがおうと算段をしていたところでやす」
平蔵(へいぞう 28歳)の顔をみた[風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 41歳)---いまでは世間で、駕篭屋〔箱根屋〕の親方でとおっている、その権七が、平蔵を人気のない裏庭へみちびいた。

「なにかあったのか?」
権七が声をひそめて言うには、三河町の〔駕篭徳〕につめている加平(かへい 23歳)組が、ゆうべ、〔駕篭徳〕の舁き手たちがひそひそと交わしているうわさを小耳にはさんだからと、三河町へつめる前にここの店へよって権七へ伝えていった次第によると、茶寮〔貴志〕の女将が、若い武士を、御宿(みしゃく)稲荷脇の自宅へ連れこんだというのである。

「その若い侍(の)の名前でもわかったのかな?」
「いえ。初めて見る顔だが、女将とずいぶん親しげであったと」
「女将は、しょっちゅう、男をあげているのか?」
「ゆうべが初めてだが、あの親しげな具合では、かなり深い仲で、ただではすまなかったろうって、かなわぬ嫉妬(やきもち)半分の他愛もない噂だったそうでやす」
権七どん。駕篭屋稼業が出入の上得意の噂話をばらまいては、店の信用にかかわろうと、〔駕篭徳〕の親方に注意をしてやりなさい」
「それもそうでやす。さっそく---」

「しかし、うまくやったらしい侍(の)が、うらやましくはある」
長谷川さま。奥方さまに言いつけますぞ」
「冗談だ。あっ、はははは」
「いや、手前もうらやましくおもっとりやす。たいした別嬪の女将だそうで、だから舁き手たちが噂をしてやすんで---」
「拙の狙いは、女将の情夫(まぶ)ではないぞ。〔貴志〕を密談場所にしてなにかをたくらんでいる者たちである」
「承知しておりやす」

平蔵は、日本橋通南3丁目箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕が[化粧(けわい)読みうり]深川板のお披露目枠を買い切りそうだから、その話をつなぐために、〔丸太橋(まるたばし)〕の源次(げんじ 58歳)の同意をえておきたいので、これから板元の権七ともどもうかがっていいか、使いをたててくれないか---というと、
「あいかわらず、お手まわしのすばやいことで---」
感心しながら、小僧を走らせた。

返事を待つあいだに、〔福田屋〕文次郎とのやりとりのおおよそを伝え、
「〔丸太橋〕の元締のところに、こわもてでない、気のきいた小頭がいるかね?」
「元締自身は鬼瓦に近いといったほうがあたっていやすが、おかみさんが器量よしで、むすめがそっちの血を引いたらしく、雄太(ゆうた 39歳)ってのを婿にむかえて一番小頭にしていやす」

「駕篭切手の支払いは間違いないか?」
雄太小頭がきちんと仕切って---」

参照】2009年4月12日~[〔風速(かざはや)〕の権七の駕篭屋業]  () () () (


       ★     ★     ★

_360

送られてきた週刊『池波正太郎の世界 6 鬼平犯科帳ニ』の表紙は、文庫巻6[大川の隠居]である。多くの鬼平ファンが、シリーズ1位に推している佳篇。
この巨鯉、実在していた。
池波少年が育った家の近く---竜宝寺(台東区寿1-21-1 fax03-3843-3167)の鯉塚に鎮魂碑が建立されている。
池波さんは、この鯉塚縁起に少年時代から親しんでいて、[大川の隠居]を構想したのであろう。もっとも、作家はネタばらしはしたがらない。

Photo

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参照】2007年5月8日[映画『大川の隠居』]
2005年2月24日[〔浜崎(はまざき)〕の友蔵


 

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2010.01.20

日本橋通南3丁目箔屋町〔福田屋〕

「これはお役人さま。お久しぶりでございます」
白粉問屋〔福田屋〕の一番番頭・常平(つねへい 47歳)が目ざとくみつけ、声をかけてきた。

「変わりはないかな?」
「お役人さまも?」
躰は、すでに奥へむかって立っていた。

A_360
(日本橋通南3丁目箔屋町・南角 白粉問屋〔福田屋〕文次郎)

主人・文次郎(ふんじろう 38歳)があらわれるのを待ちなら、店内を見わたすと、脇の小部屋で、25,6歳のおんなが、まだ15、6歳らしいおんなの子に白粉を塗(はた)いていた。
(お(かつ 31歳=当時)の後釜の化粧(けわい指南師)であろう。

なにごとかといった不審顔の文次郎が、平蔵(へいぞう 28歳)を奥の座敷へ招じた。

ひととおりのあいさつを交わしたあと、火盗改メの者ではないことを打ちあけた。

「はい、存じておりました。目黒・行人坂の付け火の犯人をお召し取りになった長谷川さまの若さまでございましょう? 中野監物清方 きよかた 享年50歳=安永9年 300俵)さま組のご同心・田口耕三 30歳=当時)さまからお聞きしました」

参照】2009年6月3日~[火盗改メ・中野監物清方(きよかた)] () () () () (

「ご存じであれば、話が早い」

平蔵は、懐からみやこ板〔化粧(けわい)読みうり]を出してひらき、文次郎と常平の前へ、置いた。
さすがに商売人、2人とも食いいるように見つめ、
「この春、京へお年賀にのぼったとき、〔紅屋〕さんと〔雁金屋〕さんから、効き目のほどは、たっぷりと聞かせていただきました。とりわけ、お披露目からはずされた〔雁金屋〕さんが、〔延吉屋〕さんをうらやましがっておられました。たいそうなご繁盛だそうで」

平蔵は、〔延吉屋〕へ化粧指南師としておを入れたことは伏せ、発案の張本人は自分で、〔紅屋・小町紅〕へお披露目枠の話をもちこんだのは、祇園一帯を仕切っている〔左阿弥(さあみ)〕の若元締・角兵衛(かくべえ 42歳)であることを打ちあけた。

「知恵者は、長谷川さまでございましたか。捕り物・探索名人だけではなく、商いのほうでも一流とは---恐れいりました」
商人らしく、お世辞半分ながら感じいった顔の文次郎に、こんど、江戸でも〔化粧読みうり〕を出すことになったが、深川一帯に配布する板のお披露目枠のあつかい元は、〔丸太橋(まるたはし)の源次(げんじ 57歳)元締だが、もし、こちらで枠を1年を通して10回、 1枠か2枠を買占めたいのであれば、話をつなげられる---とのべた。

店主と番頭は目を見合わせただけでうなずきあい、
「深川を買占めさせていただきますが、いかほどで?」
「1回2000枚、現金掛け値なしで1枠1両2分(24万円)」
「とりあえず2枠を仮おさえさせていただき、早飛脚を京の小町紅の製造元の〔紅屋}さんと〔雁金屋〕さんに1枠ずつおさえないかと問い合わせてみます」
「それぞれの土地の元締衆が寄って話しあうのは来月の5日だから、それまでにお決めになるように---」

平蔵は、内心、にやりとしながら辞去し、その足で、深川・黒船橋北の権七(ごんしち 41歳)の駕篭屋の〔箱根屋〕へ向かった。

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2010.01.19

三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇(2)

「この家では、躰のあちこちを縛られるのがいやなので、素裸でいることだってあるのでございますよ」
里貴(りき 30がらみ)が、白い歯をほころばせ、平蔵を瞶(み)すえてささやいたとき、光を透きとおらせるほどに白い裸躰の幻影を、頭からふりはらった。

里貴も小椀に酒を満たし、平蔵のまん前に片膝を立ててすわった。
身動きすると裾がひらき、太股の奥までのぞけそうな姿態であった。
といって、ふしだらとか、不潔な感じは露ほどもない。
魅惑しようとの意図も感じず---品よく、ごく自然に色気をただよわせている。

_220_2平蔵は双眸(りょうめ)をそらし、家で鏡にむかって小町紅を濃くひき、おんなに戻る一刻をひとりでたのしんでいる里貴を空想してみた。(国芳『葉奈伊嘉多』 里貴のイメージ) 

冷や酒がほとんど減っている小茶碗ごしに、平蔵を瞶(み)つめている里貴の透明さを帯びた肌を、酒の酔いが早くも、うっすら桜色に染めはじめていた。

股間が膨張するのを懸命におさえようとしたが、意思のちからでどうかなるものではなかった。

見透かしたように、里貴が、
長谷川さま。お袴をお脱ぎになって、お楽におなりなさいませ」
背後から前に手をまわして袴の結び目をほどきにかかった。
背に、押しつけられた乳房を感じる。
魔法にかかったように、ふらふらと立った平蔵は、袴から足を抜いていた。

その袴を、里貴が手なれた手さばきできちんと畳むのを、
(どこでおぼえたか。そうか、茶寮で脱いでくつろぐ客もいるのであろうな)
平蔵は、ぼんやりと察していた。

里貴どの---」
「どのが余計です。里貴---と呼びすててくださったほうが、うれしゅうございます」
「では、拙のことも、長谷川さまでなく、平蔵と---」
さまより、(てつ)さまとお呼びしとうございます」
(どうして、その相続前の通称を?)

「ご内室さまは、そう、お呼びなんだそうですね」
松造(まつぞう 22歳)だな」
「おほ、ほほほ。お人違いをなさっていらっしゃいます」
「では、誰が---」
「そんな詮索はお置きになって呑みましょう」

里貴が片膝立ちで膳ごしにのりだして片口から注ぎたす。
その姿勢が自然躰のようでもあった。
寝衣の衿元もゆるんだ。
こぼれそうなほど豊かな乳房が平蔵の目の前にきた。

首すじから胸にかけての肌には、しみもほくろもなかった。
肉色のかわいい乳頭が誘いかけるように突起している。
あのときまで男には吸わせたことのないお(りょう 29歳=当時)の小さな先端に似ていた。
子を産んでいないおんなの、おとめのもののような乳頭であった。

参照】2008年11月16日~[宣雄の同僚・先手組頭] () () (

「ご内室さまには、夏目藤四郎信栄 のぶひさ 22歳 300俵)さまと、偶然に〔貴志〕で会い、酔ってしまったと言いわけをなさいませ。お酒の匂いが、おんなの匂いをつつみます」
「おんなの匂い?」
「この家には、内風呂がありません。近くの銭湯は、もう、閉まっております」
「なん刻(どき)だろう?」
「五ッ(8時)には、まだ、だいぶありましょう」

(抱かないで帰れば、里貴に恥をかかすことになり、これからのことに差しさわるであろうな。抱いてしまうと、後を引くことになるやもしれないが---)

「灯を借りるだけのつもりであったが---」
「男とおんなのあいだこと、いつ、どのようなひょんなことになっても、不思議はありません。まして---」
「人違いであってもかな?」
「人違いかどうか、抱いて、おたしかめなさいませ」


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2010.01.18

三河町の御宿(みしゃく)稲荷脇

「西ノ丸・書院番の4の組の与(くみ 組)頭の牟礼(むれ)郷右衛門勝孟(かつたけ 53歳 800俵)どのへ申し送り? 聞いてはおりませぬぞ」
案の定、小普請9の組の与頭・朝比奈織部昌章(まさとし 46歳 500石)がちょっと不機嫌な目つきで言った。
もっとも、風邪ぎみで休仕しているから鼻にこもった声とはいえ、さほど気を悪くはしていないのかもしれない。

平蔵が、2日前の小普請支配お逢対(あいたい)日に、長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)に訊かれたので、出仕するなら「西ノ丸・書院番の4の組の水谷(みずのや)伊勢守勝久(かつひさ 52歳 980石)さまの組下---と希望を出した。
そのとき、与頭同士で通じさせておく、と約してくれた。

「与頭どの。お風邪でのお休みは、何時からですか?」
「昨日から---そうか。それでは申し送りを聞きようもないな。しかし、長田支配さまの今度の書役(しょやく)は筆づかいはたしかに流麗じゃが、仕事のほうがとろくてな」
「ご快癒なされてご登城なされば、書き留めが待ちわびておりましょう」
「さようであってほしいものよ」

それからしばらく、他愛もない世間話をし、辞したときに日は暮れていた。
朝比奈与頭は、提灯を貸そうか、とは訊かなかった。

あたりは武家屋敷と寺院つづきで、灯を購うこともできない。
このままではこころもとないので、どこかで提灯を借りようとおもったが、知り合いの家が思いつかなかった。

運慶橋をわたったところで、茶寮〔貴志〕が頭に浮かんだ。

武家屋敷ばかりで道が暗い小川町から一橋通りへ出ると、覚えのあるあたりで灯がもれていた。
(よかった、閉めていなかった)
寄ってみると、灯は客がでてくるのを待っていた駕篭の提灯であった。
玄関に出てきた里貴(りき 30歳がらみ)と、ばったりの感じになった。
「おや、どうなさいました?」

灯を借りようかとおもって---告げると、
「いま、帰るところです。すぐ、そこの三河町の御宿(みしゃく)稲荷の脇ですから、いっしょにいらっしゃってくだされば、うちのをお貸しできます」

里貴が乗りこんで動きだした駕篭の脇につきながら、
「ほんのわずかな距離なのに、駕篭とは?」
「いいえ。火除け地は真っ暗で、おんなの一人歩きは危いのです。それで、帰りはかならず、〔駕篭徳〕さんに、こうして、迎えにきてもらっていますの」
「なるほど。夜の火除け地は、男でも危険だからな」

話しているうちに、御宿稲荷の前に着いた。
駕篭を帰したが、〔駕篭徳〕は、半丁と離れていない。
里貴が解錠しているあいだ、帰っていく駕篭の灯を目で追い、
(権七のところの加平(かへえ 23歳)と時次(ときじ 21歳)が〔駕篭徳〕の舁ぎ手に化けて詰めているのは、あそこか)

参照】2010年1月8日[府内板[化粧(けわい)やー読みうり] (

「お待たせいたしました。長谷川さま、どうぞ、お入りくださいませ」
「いや。灯をかりるだけだから---」
「それはそうでございますが、戸をあけたままだと、冷たい風が入りこんできて、部屋が冷えます」
仕方なく、戸を閉めざるをえなかった。
(さすがの女将だ。店の前では駕篭屋がいたからおれの名を呼ばなかったが、誰も聞く者がいないところでは、親しそうに名で呼びかける)

長谷川さま。夕餉(ゆうげ)は、まだでございましょう? なにもございませんが、ごいっしょにいかがです?」
平蔵がためらっていると、背中に手をまわして押しあげ、表戸にさっさと心張棒(しんばりぼう)をかってしまった。

湯気をたてている鉄瓶が火鉢にのってい、部屋は暖められていた。
「昼間は、近くの老婆が留守番していて、夕餉をつくってくれ、私が帰ってくる時刻に消えますの」

「さ、お箸をおとりください。私、おなかがぺこぺこ---」
平蔵の両肩を押しさげた。

「毎晩、こうなのかな?」
「だって、私のほかには、誰もいませんもの。猫も飼っておりません」
「それにしては、けっこうなお住まいだ」
「火事のあとに建った家ですから、まだ木の匂いがしていますでしょう?」

一人膳に差しむかいなので、顔と顔がくっつきそうなほど近い。
鉢に盛られている大根や里芋の煮物を、里貴は自分の箸できれいに2つに割ってから、
「あっ、お酒、忘れていました。冷やでおよろしいでしょう?」

小椀になみなみと注がれたのを手わたし、
「お座敷着のままなので、着替えてまいります。お一人にしておいて申しわけございませんが、お酒をめしあがっていてくださいませ」
_120_2次の間で帯を解く絹ずれの音、衣裳箪笥を開け閉めし、そのあと、布団を延べているらしい気配があり、
(いま、帰らないと、困ったことになりそうだ)
思いながら、尻が畳にくっついたようで、、平蔵は立ちそびれていた。
(歌麿『名所腰掛』の内 里貴のイメージ)

里貴は、なんと、寝着としかおもえない、淡いくちなし色に白い花柄を抜いたものに着替えてあらわれた。
緋色のしごき帯を、わざとなのか、そういうしめかたが好きなのか、ゆるゆるに巻き、前結びにして、襟元が広くあいていた。

くちなし色の寝着が白い肌をより引きたててみせる。

_300

見方によっては、素肌のようでもある。

「はしたない着方でごめんなさい。お座敷着だと、躰のあちこちを一日中、何本もの紐でしめつけておりますから、家では縛られるのがいやなのです。素裸でいることだってあるのでございますよ」


ちゅうすけ注】三河町2丁目(現・千代田区内神田1丁目6)にある御宿(しゃく)稲荷は、『鬼平犯科帳』巻22長篇[迷]p113 新装版p108 で、平蔵おまさが待ち合わせの場所---御宿(しく)稲荷として登場。
 
参考御宿稲荷神社

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2010.01.17

お逢対の日(3)

(〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)どんのご内儀・多美(たみ 32歳)どのの手伝い人(てつだいびと)に、上野山下から広小路一帯を仕切っている元締・〔般若(はんにゃ)〕の捨吉改め・猪兵衛(いへえ 26歳)どんの情人・髪結いのお(しな 25歳)はどうだろう?)

平蔵(へいぞう 28歳)が、
「名案だぞ」
おもわず、つぶやいたので、供の松造(まつぞう 22歳)が驚き、
「何か、おっしゃいましたか?」
「いや、ひとり言だ。気にいたすな」

2人は、ほとんど人けのない江戸川べりを服部坂に向かっている。
坂上には、小普請9の組の与(くみ 組)頭・朝比奈織部昌章(まさとし 54歳 500石)の屋敷がある。
音羽から帰りに立ち寄ると告げてあった。

平蔵がおもいついた髪結い・おとは、3年前に知り合った。
 
参照】2009年6月23日[〔銀波楼〕の今助] (

を情婦にしている同郷の〔般若〕の猪兵衛は、前の元締や小頭が流刑に処されたので、ところてん式にシマを預かることになり、前の元締・〔衣板(きぬた)〕の宇兵衛のむすめ・おの婿になったのだが、おとの仲を公然とさせることを合点させていた。

参照】2009年6月29日~[〔般若(はんにゃ)〕の捨吉] () (

石切橋の西に、赤提灯がみえた。
松造。ちょっと考えごとがある。あそこで一杯やって、別かれよう。わしは、朝比奈さまのあと、一人で帰る。おぬしは、適当にやって帰れ」

小粒を一つ、にぎらせた。
平蔵はお茶を頼み、松蔵には酒を注文してやった。

平蔵の考えごととは、日本橋通り3丁目箔屋町の白粉問屋〔福田屋〕文次郎のお披露目枠の権利を、どの元締にわたすかという思案であった。
化粧(けわい)指南師をおもいついたのは、〔福田屋〕の文次郎が掛川城下でお(かつ 31歳=当時 そのときはおを自称)を見かけたからであった。

参照】白粉問屋2009年6月6日[火盗改メ・中野監物清方(きよかた)] () (

上野・広小路や浅草・今戸は、枠を買いきる店にはこまらないであろう。
それで、〔般若〕と〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 26歳)どんは外していい。
新橋・銀座一帯をシマにしている〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵・伸太郎親子も、心あては充分にあろう。
のこったのは、〔丸太橋(まるたばし)]の源次(げんじ 51歳)と音羽の元締である。

(〔丸太橋〕の元締には会ったこともないが、この際、地元の〔風速(かざはや)の権七(ごんしち 41歳)の顔をたて、源次どんに恩を着せておくか)

参照】2009年4月15日[〔風速(かざはや)の権七の駕篭屋業] (

ふんぎりがついたところで、松造に声をかけ、屋台店を出、石切橋を来たほう---東へわたり、
「さて---」
と独り言を洩らした。
このところ、次の案件にとりかかるときに、つい、口ぐせになっている、意味のない科白である。
それだけ、かわっている案件が増えたということかもしれない。
意味のない科白はしかし、革(あらた)めないといけないとおもいつつ、油断すると、やはり独りごちている。

朝比奈与頭の門を敲いたときには、〔化粧(けわい)読みうり]の雑念は、頭からきれいに消えていた。
平蔵は、気分の切り替えが、ますます早くなっている。

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2010.01.16

お逢対の日(2)

小普請支配への自宅訪問日は、毎月の6日、19日、24日と定められていた。
与(くみ 与)頭のほうのそれは、10日と晦日の2回であった。

長田(おさだ)(越中守元鋪 もとのぶ 74歳 980石)支配との第1回目の逢対を19日に無事にすませた平蔵(へいぞう 28歳)は、与頭・朝比奈織部昌章(まさよし 54歳 500石)の晦日まではかなり日があるので、とりあえず、〔音羽(おとわ)〕一帯の若元締・重右衛門(じゅうえもん 47歳)の新造と会うことにした。

使いに出した松造(まつぞう 22歳)が、
「いつにても、どうぞ」
返辞をもらってきたので、善は急げ---と、で板行ずみの[化粧(けわい)読みうり]を3板分ほどを持ち、道すがらなので小普請与頭・朝比奈邸に立ちより、晦日訪問の時刻を告げておけば念が入ることに気づき、手みやげに脊肉の雄節(おかつぶし)を1本、久栄(ひさえ 21歳)に包ませた。

朝比奈邸は、音羽通りへ出る3丁手前の右側の服部坂上にある。
実情をいうと、支配より与頭のほうが昇進人事の推挙に深くかんでいる。

急な服部坂を登って訪(おとな)いを乞うと、昌章自身があらわれた。
風邪ぎみなので、大事をとって休仕したのだという。
あがって話していけとすすめられたが、音羽への用件の途次だから、帰路に寄してもらうと断った。

音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)は、8丁目の裏通りの台地がせまっているあたり、父母の料亭とは別に住んでいた。
平蔵の訪問にすっかり恐縮し、
「うちは、子どもたちがまだ小さいもので、〔愛宕下(あたごした)〕のところのように小ぎれいにはまいりません」
2軒おいた父母の料理茶屋〔吉田屋〕へ案内した。

引きあわされた新造はお多美(たみ 32歳)で2人の子持ちとはおもえぬほど小ざっぱりしたものを着ており、手も荒れていなかった。
「お内儀。元締どのとごいっしょにおなりになる前は?」
「祇園のお茶屋に---」
重右衛門が助け舟をだす。
「実家が大きなお茶屋だったのでやす。そこの末むすめで---」
「小いとさんでしたか。それではお目が肥えておられよう」

平蔵が、用意してきた〔化粧読みうり〕をひろげると、1枚ずつ手にとり、興味深げに読む眸が輝き、生(き)むすめにもどったようであった。

「お預けしておきますから、元締衆のお集まりに、元締どのとごいっしょにお持ちせください」

それから、重右衛門に訊いた。
「ご内儀が、化粧指南師たちを教えなさる場所は?」
「音羽では、西に偏りすぎおりやすから、〔般若(はんにゃ)〕の猪兵衛(いへえ 26歳)どんに湯島天神の寄りあい部屋を借りてもらうことにしやした」

多美が畳紙(たとう)から幾十枚もの美人画を取り出した。
「これは---?」
「うちが、むすめ時代に描きましてん」
「参りました。いうことはありません」

重右衛門が一献とすすめたのを、このあと、上役の家へ寄ることに゜なっているからと謝絶、服部坂へ向かった。

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2010.01.15

お逢対の日

「それで、小姓番組と書院番組とでは、どちらをお望みかな?」
抜けている前歯2、3本のあいだから息がもれるので、小普請支配・長田(おさだ)越中守元鋪(もとのぶ 74歳 980石)の言葉は馴れないと聞きとりにくい。

安永2年(1773)9月19日。
月に3日ある小普請支配の、組子との逢対日で、長谷川平蔵(へいぞう 28歳)にとっては、小普請入りして初めての、御茶ノ水の,上水樋東詰、建部坂上の長田邸の書院である。

小普請入りといっても、平蔵の場合は、役目上の過失があって無役に落ちたからではなく、跡目相続が公式に認められたあと、出仕するまでの仮の待命期間だけの小普請身分である。

支配も、長谷川家が家禄は400石と高くはないが、書院番士と小姓番組入りの資格のある両番の家柄であることをふまえた上での応対をしている。

「できますれば、西ノ丸の書院番4の番頭の水谷(みずのや)伊勢守勝久 かつひさ 51歳 3500石)さまの組に欠員がでましたら、お願いしとうございます」
伊勢守勝久は、3年前に小姓組の番頭から西ノ丸の4の組の書院番頭に転じていた。

平蔵が希望を述べると、長田支配はかたわらの書役に書き留めを顎で合図し、
伊勢どのにこだわる理由(わけ)は?」

訊かれた平蔵は、亡父・備中守宣雄(のぷお 享年55歳)を産んだのが、備中国松山藩の100石の元藩士のむすめであったことを告げた。

参照】2006年11月8日[宣雄の実父・実母
2007年4月12日~[寛政重修諸家譜] () () (15) (17
2007年5月22日~[平蔵宣雄の『論語』学習] () () (

5万石の小藩で100石を給されていれば、30万石の藩であれば600石、いや、800石にも相当する。
長田支配が、役柄は? と問うた。
「馬廻役だったそうです」
「ふーむ」

馬回役といえば、藩主の親衛隊である。
それが、藩主の世継ぎの手つづきの手違いから絶藩となり、藩士のほとんどが失職し、処士となった。
100石という高禄が再就職の重荷となったことは、長田支配にもよくわかる。

水谷伊勢守は、断絶された松山藩主の数代後裔であった。
家康に対して、豊臣方の情報を報せた功に免じて---との口実で、藩主は3000石(のちに500石加増)の幕臣となった経緯は長田支配も心得ていた。

「それだけではないのです。伊勢守さまのご養子・兵庫勝政(かつまさ)さまと、初見がいっしょでした。
「それは、ご縁---」

参照】2008年12月5日[初お目見] (
2009年5月12日[初お目見の数] () () () () (

わかった、とうなずいた元鋪は、柳営で伊勢さまにお会いしたら、そこもとのことを耳うちしておこうと言ったあとで、
「西ノ丸の書院番の4の組の与(くみ 組頭)は、たしか1年前に、牟礼(むれい)郷右衛門(勝孟 かつたけ 53歳 800俵)どのに代ったはず。辞を通じておくがよろしい」
牟礼さまと申しますと、ご先代が葛貞(かつさだ)さまと申された---?」
「故・清左衛門どのをご存じかな?」
「いいえ、拙は----。父の従兄---わが家の6代目が西の小姓組に出仕しておりました節、与頭をしておられたように聞いております」

参照】2007年5月2日[『柳営補任』の誤植

「それは重畳。当方の与頭・朝比奈織部昌章 まさあき 54歳 500石)から意を伝えさせておくから、なるべ゜く早く辞を通じておきなされ」
親切:げにすすめたものの、何より肝心なのは、水谷どのに、この若者を引きとる気がありやなしやだな---内心ではおもっていた。

なに、平蔵のほうだって、亡父・宣雄から、役人というものは、名刺と顔つなぎの世界であるから、ムダ弾とわかっていても、撃っておけ---と教えられていた。

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ページ・ヴューが500,000アクセスを通過するのは、gawk
1月23日 正午すぎ
と予測できるところまできました。


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きのう、週刊『池波正太郎の世界 5』[雲霧仁左衛門]がおくられてきた。感謝。

_360

平凡社の東洋文庫『大岡政談 2』(1984.12.10)の[雲切仁左衛門]と、あまりにもちがっているので、池波さんの空想力におどろいた記憶がある。

小説『雲霧仁左衛門』は、雲霧と火盗改メの安部式部信旨(のぶむね 48~56歳 1000石)との知恵くらべの物語である。
安部一門からは、もう1人、火盗改メに就いている。兵庫信盈(のぶみつ 1500石)で、銕三郎宣以がほんのすこしかかわりあった。

参照】2009年12月11日[赤井越前守忠晶(ただあきら)] (

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2010.01.14

〔お人違いをなさっていらっしゃいます」(3)

「お昼餉(ひるげ)を督促してまいります」
里貴(りき 30がらみ)は、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)が席につくかつかないのに、避けでもしているように座を去った。

信栄は気にもとめず、
「明日のご逢対日には、いの一番に参上させていただくと、お礼参りのときに、用人どのに先手をうっておきました。しかし、長谷川お支配のお屋敷は立派ですなあ」
藤四郎は、平蔵にとっては叔父にあたる小普請8の組の支配・長谷川久三郎正脩(まさひろ 63歳 4070石)に属したのであった。

「納戸町の長谷川家は、行人坂の大火を蒙っておりませぬからな。 蒙っておらぬといえば、ここ〔貴志〕が建ったのは大火の前? あと?」
「女将がきたらお聞きになればよろしいでしょう」

信栄は、組支配のよい人柄に対して、与(くみ 組)頭の本目権兵衛直記(なおのり 48歳 200俵)の底意地の悪いのには参った---、
長谷川どのも、あの日、焼火の間で、ぎょろ目の与頭をご覧になったでしょう。なんと、本目(ほんめ)というのが本姓ですよ」
「あのときはあがっていて、よくは覚えていないのです。人こごちが戻ったのは、書院ご門を出てからでした」
他家のことにかかずわわってはならぬ---と、いつも亡父からたしなめられていた平蔵は、たくみに逃げたつもりであった。

参照】2009年12月21日~[夏目藤四郎信栄(のぶひさ)] () () (

しかし、信栄はつづけて、お礼廻りの来かたが遅いの、音物(いんもつ)の出し方がまちがっているのと、やられたというのである。

配膳する女中とともにあらわれた里貴が、
夏目さま。廊下端まで聞こえております。幸い、お客さまはまだいらっしゃっていませんが、もうすこし小さい声でお話しくださいませんか。長谷川さまにもご迷惑がかっては取り返しがつきません」
「将たるものは、大声でないと、戦場で卒が動かぬのだ」

「ここは、戦場ではございませぬ。茶寮でございます」
(武家のむすめの地をだしたな)
平蔵は、里貴へうなずいて微笑み、
夏目うじ。ご本家に訊いてくださるといわれた、三方ヶ原での例の記録、いかがでしたか?」

一瞬、気まずがった信栄が、救われたように、
「本家で調べたが、長谷川勢のことは記されていていないとのことでした」
「やっぱり---。300人ほどが、駿河の田中城から大権現さまの旗下へ参じていたのですが---」

参照】2008年6月12日~[ちゅうすけのひとり言] (13) (14) (17) (18) (32

「あ、うかつでした。長谷川さま。お供の方が、なにか、ご指示いただきたいと申されていたのに、私としたことが---」
平蔵が立つと、里貴もついて廊下へ出、角をまがったところで腕をとって立ちどまらせ、白い手をあわせた。
「先刻は、お救いくださいまして、この通りでございます。命びろいをいたしました」
「そりより、里貴どののたしなめ方がみごとでした。やはり、武家育ちとお見受けした」

平蔵の胸にたなごころを沿わせ、
「またも、お人違いをなさっていらっしゃいます」
その手に手をそえた平蔵が、
里貴どのこそ、人違いをされておろう」
「いいえ。私は違えてはおりません」

「さて、松造はどこ?」
「あれは嘘。こうしてお礼を申したかったのです」
里貴は、平蔵の手の甲に軽く唇を触れた。
(この大胆なしぐさは、武家のむすめのやりようではないような。人違いかなあ)

鼻の近くにきた里貴の髷からの伽羅の香油が匂った。
それまでは、里貴というおんなが秘めている秘密めいた雰囲気をたしかめることに気持ちがかたむいていた平蔵は、とつぜん、男として、生身の里貴を意識した。
想像のなかで、光を透きとおらせる里貴の裸体がうきあがったのである。
いや、貞妙尼(じょみように)の裸躰に、里貴の顔がのった、それであった。
(目前にしても、やすやすとはくずれないと、決心したばかりではないか)

平蔵の迷いを見透かしたように、里貴がつぶやくように、
「三河町2丁目の御宿(みしゃく)稲荷脇---」
途中で首をふってやめ、廊下の向こうの帳場へ消えてしまった。

ちゅうすけ注】三河町2丁目(現・千代田区内神田1丁目6)にある御宿(みしゃく)稲荷は、『鬼平犯科帳』巻22長篇[迷路]p113 新装版p108 で、平蔵おまさが待ち合わせの場所---御宿(しく)稲荷として登場。
 
参考御宿稲荷神社

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2010.01.13

〔お人違いをなさっていらっしゃいます」(2)

「お指(さ)し刻(どき)は午(うま 12時)でいただいておりますが---」
里貴(りき 30がらみ)が、光が透きとおるようほどに白い小首をかしげるようして、瞶(みつめ)てきた。

「申しわけない。拙の腹土圭(はらどけい)が午を指しておったもので---そのあたりをぶらぶらして刻(とき)をつぶてきます」
平蔵(へいぞう 28歳)は、わざと早く着いたのだが、誤魔化(ごまか)した。

「いえ。お昼餉(ひるげ)はお揃いになってからということで、お部屋でお待ちになってもおよろしいのでございますよ」
「お言葉に甘えさせていただこう」
まんまと、あがりこんだ。
この前の部屋であった。

お茶を通してくれた里貴に、
「店の名は、紀州の貴志村からとったとのことでしたな」
「それがなにか?」
「いや。宿老の田沼侯も紀州でしたな」
「また、それを---お人違いをなさっていらっしゃいます」
なんと里貴は、片目をつむって否定した。
そのことは、どのような席でも口にするな、ということであろう。

長谷川さま。備中 宣雄 のぶお 享年55歳)さまのこと、ご愁傷でございました」
「父をご存じで?」
「目黒・行人坂の火付けをお召し取りになった火盗改メのお頭ですもの、江戸中でしらない人はおりません」
(また、誤魔化した。父を田沼別邸で見かけていたのだ)

しばらく、言葉をひかえ、お茶をすすっていたが、
「女将どの。ひとつ、お尋ねしてよろしいか?」
「木挽町(こびきちょう)の別邸のことでなければ---」
「白粉は、どこの店のものをお使いかな?」
「お武家さまで、化粧(けわい)の品のことをお口になさったのは、長谷川さまが初めてでございます。お嫌いな匂いでしょうか?」

「そうではありませぬ。父が京都町奉行として赴任しておりますとき、小遣いかせぎに[化粧(けわい)読みうり]を板行したのです」
「小遣いかせぎに?」
「お披露目枠を売ったのです。紅屋の〔小町紅〕が大どころの金主になってくれて---」
「あら。私のこの紅は〔小町紅〕でございます」
「紅はさしておられぬとおもったが---」
「お客さまの前にでますときは、ほんのちょっぴり。なんでしたら、吸ってお確かめになりますか?」
「お人違いをしてござる---」
「うっ、ふふふ」
「あ、ははは」
いっぺんに、へだてていた柵がとれた。

_150_3「その[読みうり]で、紅屋の濃い紫の紅を流行らせたのです」
「濃い紫の口紅---って、考えもおよびませんでした。黒っぽくては、紅って呼べませんね」
「若い娘(こ)たちが飛びつきました」
「お歯黒の代りだったのでしょうか?」
「流行りものに、理屈などありませぬ」
(栄泉『艶本重似誌・饅頭蒸陰門相』 イメージ)
「理屈無用のところは、恋ごころと同じでございます」

参照】2009年10月26日[貞妙尼(じょうみょうに)の還俗] (

「せっかくの京くだりの〔小町紅〕、客の前ではつけないとすると、いつ、刷(は)くのかな?」
「ここが終わって、家で、おんなに戻るとき、鏡の前で---」
「家には、お子は?」
「背の君もいないのに、子がいるわけはございませんでしょう」
「背の君でなくても、男がいれば、子はできる」
「こ冗談ばっかし---男がいれば、こんな店で働いておりません」
「女将の店ではなかったのですか?」
「雇われ女将です」

平蔵は、わざと話題を変えた。
「さっきの問いかけの、白粉を購(あがな)う店だが---」
里貴が答えようとしたところに、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)が案内されてきた。
「遅れたとはおもえぬが---」
「お邪魔ってことも---」
「なんと?」

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2010.01.12

「お人違いをなさっていらっしゃいます」

{では、お眠(やす)みなさいませ」
久栄(ひさえ 21歳)が、遣った枕紙をまとめて部屋を出ていった。
久栄の寝間は、廊下をへだてたはす向かいである。

独りなったので、久栄の体温とあの匂いが残っているのを感じながら、明日、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)との会食のことをおもいうかべた。

料理茶屋〔貴志〕の女将・里貴(りき 30前後)がはべっているときに、信栄の内室・於菸都(おと 20歳)のことを話題にのせて、顔色を読むか。

あるいは、信栄のすきをみ、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)からの書付を、付文(つけぶみ)もどきに、そっと袂へ入れてやるか。

奥村内蔵允矩永(のりなが)どの。明和6年正月20日歿。36歳。書院番士。600石。内室は菅沼次郎右衛門武勝(200石)の次女」

(帳場へ退(さが)ってから確かめ、どきっとするかな)

いや、待て。
どこかおかしい。

そうだ、木挽町の田沼意次 おきつぐ)別邸で顔を見たのは4年前であった。

夫・奥村矩永が病没したのは明和6年(1777)---つまり、4年前だから、田沼別邸にいたことも辻褄があわないわけではない。
しかし、喪もあけないうちから、ほかの男の屋敷に住みかえるであろうか。
ましてや、跡目相続をした継嗣を措いて婚家を出るだろうか。

その年の4月か5月に相続の奉書がくだされているはずだから、嫡子のことも書物奉行・長谷川うじ確認してみないとな。

ちゅうすけ注】平蔵(へいぞう 28歳)に内緒で暴露(バラ)すと、継嗣・三平が相続の許しを申しわたされたのは、当主・矩永が没した年---明和6年の4月4日。このとき三平矩恭 のりゆき)は16歳。母は、矩永の正室。
さらに三平には、姉もいた。
ということは、後家の正室は、16歳で長女を、18歳で三平を産んだすると、いま36歳より上ということになる。30歳なんて若さではない。

奥村矩永の内室---とカマをかけて、あの透きとおるような顔で、
「お人違いをなさっていらっしゃいます」
逃げられるのがおちであろう。

〔駕篭徳〕の舁ぎ手に化けている加平(かへえ 23歳)と時次(ときじ 21歳)の2人からのつなぎ(報告)を得てから、あれこれ考えをめぐらしても遅くはなかろう。

それにしても、男を知ってはいるがその匂いがつゆとも肌にあらわれず、それでいて30年増の脂っけはしっかりとつけている里貴という女性(にょしょう)の正体には興味をそそられるが、
(おれの探索のそもそもは、公儀がわざわざに創設した火除け地iに、あの料理茶屋があっけらかんと建てられた裏の事情がしりたいたのだ)

しかし、平蔵には、貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)に似た肌を持ち、〔中畑(なかばたけ)お(りょう 享年32歳)の秘密めいた雰囲気もあわせもっている里貴ヘのこだわりも薄くはなかった。

参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] () () () ()() () (

[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) () () () () () () () () () (10

2009年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] () (
2008年11月25日[屋根船
2009年1月24日[掛川城下で] (

すべては明日のこと---と、布団をぱっとめくり、久栄の残り香をはたきだし、眠りについた。


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2010.01.11

府内板[化粧(けわい)読みうり](4)

松造紋次兄ィを送りがてら、〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛どのの、お披露目をすすめる口説き上手の話を聞かせてあげな」
平蔵(へいぞう 28歳)が目で合図をおくると、松造(まつぞう 22歳)はうなずき、さっと立っていった。

〔耳より〕の紋次(もんじ 30歳)がいなくなると、駕篭屋の親方・〔箱根屋〕の権七(ごんしち 41歳)が、さも心からのような深い声音(こわね)で、
長谷川さまは、上方でどえらい修行をなさってきやしたね」
「なんの話かな?」
「風声(うわさ)を金(きん)に変えてしまう手だてのことでやす」
「歩(ふ)は金(きん)になるさ」
「冗談ごとでなく---」

権七どの。他人ごとではなく、板元はそなただ」
「えっ?」
「1板出るごとに、どんなに少なくて見積もっても、5両(80万円)という利がころかりこんでくる。4人の元締が仲間入りすればその4倍---」
「げっ、20両---」
「うまくいけば---だが」
「ものを売り買いすれば儲かることもあるのはわかりやすが、風声を売って儲かるとは---」
「風声を売るのではなく、風声を創るから、創ってほしい側が喜んで金を出す」
権七には、平蔵が説いていることの半分ほどしか、納得したふうではなかった。
(じっさいに小判を手にすれば合点がいくだろう)

平蔵がクギをさした。
「とりあえず、板木をとりに、万吉啓太を京へのぼらせ.る。その旅費と、早飛脚賃は、その利の中からはらってもらうことになる」
「ええ、ええ。利の半分は、長谷川さまにさし上げます」
「かたじけない。それで、〔駕篭徳〕への支払いもすませられる。正直言って、父上の役高1500石がなくなって、ふところは火の車に近い」
「では、[読みうり]の純利の7割をおとりください。3割は、まさかのときの用に貯めておきます」
「欲のないところが、権七どののいいところだ」
「こんなときにお誉めいただいても、うれしゅうはありやせん」
「はっ、ははは」
「あは、ははは」

長谷川さまが風声を創ってお売りになるのだとしますと、あっしのこの駕篭屋商売は、楽(らく)を売っているんでしょうかね?」
「そうとも見えるが、じつは、刻(とき)を売っているのではないかな」
「刻を売る?」
「人はみな、ひとしく、1日に12刻(24時間)しか持たされていない。自分で歩けば小半刻(30分)かかるのに、〔箱根屋〕の駕篭に乗ればその半分の刻で行ける。つまり、それだけ刻をトクするわけだ」
「なるほど。そうしますと、駕篭屋稼業もけっこう人さまのお役に立っているわけでやすな。舁(か)き手どもに、そう教えてやりやしょう。なるほど、刻を売る---ねえ」

三ッ目通りの屋敷の隅にしつらえられた15階段を、鉄条入りの振り棒を振ったり薙いだりしながらの朝の日課をこなしていたとき、〔箱根屋〕の若い衆が、〔駕篭徳〕との話がついたので、きょうから加平(かへえ 23歳)と時次(ときじ)の兄ィ組がつめていると伝えてきた。

報らせがくるときというのは奇妙に重なるもので、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)からも、とりあえず、第1信をお入れすると、小者が書状をとどけてきた。
今後のこともあるので、多いとはおもったが、駄賃をふんぱつして、1朱(1万円)つつんだ。
小者は、大喜びで帰った。

奥村内蔵允矩永(のりなが)どの。明和6年正月20日歿。36歳。書院番士。600石。内室は菅沼次郎右衛門武勝(200石)の次女」

平蔵の目は、菅沼の文字に釘づけになった。
(まさか。話がうますぎはしないか)

翌日は、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)と、一橋北詰の料理茶屋〔貴志〕で会うことになっている。
信栄の内室も、菅沼攝津守虎常(とらつね 59歳 2000石 日光奉行)の三女・於菸都(おと 20歳)と聞いた。

〔貴志〕の女将・里貴(りき 30前後)が菅沼から奥村家への帰嫁であれば、於菸都とも従姉妹ということで、知り合いであっておかしくない。


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Photo
(奥村内蔵允矩永の個人譜)


ちゅうすけ注】菅沼にこだわっているのは、平蔵宣以より、むしろ、ちゅうすけのほうかもしれない。
ちゅうすけは、宮城谷昌光さんの『風は山河より』(新潮社)にいたくほれ込んだ。で、単行本5冊をそろえているのに、昨年晩秋に文庫化xされるや、迷わずに全巻購った。出先へ携行する---との口実をもうけて。何度でも、折にふれて読み返すつもりなのである。すでに2読目を終えた。

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小説の菅沼家の中心は、野田菅沼て゜、きょうの菅沼は、紀州侯iに配され、吉宗の江戸城入りにしたがった長篠菅沼の分流である。
紀州へ移った長篠菅沼の分流の一つが田沼意次につながっていることを、静岡のSBS学苑[鬼平クラス]の安池さんが追っていることはすでに報告した。

ついでだから、紀伊長篠の分流の一つ---俊弘と、その末の定勝のむすめの家譜を掲げる。

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2010.01.10

府内板[化粧(けわい)読みうり](3)

初瀬川(はつせがわ)さんが?」
〔耳より〕の紋次(もんじ 30歳)がそう呼んだとき、松造(まつぞう 22歳)は泰然としている平蔵(へいぞう 28歳)をちらりとたしかめ、おおよそのところを推察した。

紋次さん。〔左阿弥(さあみ)〕の元締さんは、傘下のそれにふさわしい仮店に、100枚ずつ渡し、10文で売らせなさったんです」
「10文で---」
「店々の稼ぎというより、::景物紙(フリー・ペーパー)として軽くあつかわれるのを防いだのです」
平蔵が言い足した。

「なるほど。まあ、江戸では、[読みうり]はゼニをだして読むものときまってやすがね。それより、これまでの板木はどうなっていやす?」
「さて---」
「取り寄せれば、その分、彫り代が浮きやす。彫り師の手間は、上方より江戸のほうが高い」
「急ぎ飛脚をたてて、問い合わせてみよう」

「で、あっしの取り分は?」
訊いた紋次の目をじっと瞶た平蔵が、
「ゼニのこともあるが、お披露目枠を扱うというか、傘下の仮店に売らせるのが、〔音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 46歳)元締、〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 43歳)元締、浅草・今戸の〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 26歳)元締---あと、話がつくのが、ここ、深川の〔丸太橋(まるたばし)〕の源次(げんじ 57歳)元締、上野山下から広小路の〔般若(はんにゃ)〕の元締などが寄って話し合いをなさる席にはべられるとしたら---?」
「えっ? まことでやんすか?」
紋次どのの胸ひとつ」
「乗らせてもらいやす。ゼニ金じゃありやせん」

紋次どの。なにもタダとは言いませぬ。それぞれの元締さんから、1板ごとに取りまとめ賃を1分(4万円)ずついただいても、4人の元締さんで1両(16万円)にはなる話です」
「すげえ」

「もっとも、実るか実らないかは、これからもお披露目枠がうまるかどうかにかかっています」
「実らせてえ。ぜひ、実らせてくだせえ」

紋次にとっては、各盛り場を取り仕切っている大物の元締たちと顔がつながるだけでも、仕事の将来に大きな得になることは目に見えている。

しかも、その席で、[読みうり]の識者として遇される。
こんなうまい話は、めったにあるものではない。
躰が宙に浮いたかとおもえるほど、興奮した。

「で、どうでやしょう? [化粧読みうり]の頭に、[今風]とか、[みやこ風]とかつけたら---」
「いい思いつきです。元締衆の前で、持ち出してください」
「きっと---」

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2010.01.09

府内板[化粧(けわい)読みうり](2)

松造(まつぞう 22歳)が、〔耳より〕の紋次を伴って入ってきた。

平蔵(へいぞう)と〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち 41歳)は、それまでつづけていた料理茶屋〔貴志〕の話題をさりげなく閉じた。

紋次どの。知恵をお借りしたい」

ちょうど折りよく、使いに行かせた小者が、2枚板にはさんだみやこ板[化粧(けわい)読みうり]を持って帰ってきた。

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(佐山半七丸『都風俗化粧伝』東洋文庫より)

手渡された紋次は、さすがにその道に通じている者らしく、どの板にも、お披露目枠に〔小町紅〕と窯元白粉〔延吉屋〕がでんと居座っているのを指して、
「この枠の買い切り料はいかほどです?」

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松造、覚えておるか?」
平蔵の問いかけの真意を察し、
「8枠のうちの半分の4枠を独り占めでしたから、6両(96万円)でした」
5割、下駄---というより高下駄をはかせて応えた。

参考】2009年8月22日[〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛] (

「これっぽっちで、6両!」
さすがの権七も、驚きの声をあげた。
紋次は落ち着いていて、
松造さん。刷り数は何枚ですか?」
「2000枚」
「ふむ。で、紅屋さんの売り上げの伸びは?」
「ならすと、1板ごとに5割増しの60両(960万円)以上と聞いたような」
「化粧の品や薬は、原価の9層倍というから、もとは充分にとれている。それで、紅屋へお披露目枠を持ち込んだのは?」
「祇園一帯をシマにしている〔左阿弥(さあみ)〕 の元締二代目・角兵衛さんです」
「元締の扱い手数料は?」

これには、平蔵が答えた。
「お披露目枠料の2割」
「とすると、お披露目枠全部で12両だから、2両1分2朱ちょっと。〔左阿弥〕の若元締が、それっぽっちの金のために動きますかねえ」
紋次の読みは、さすがに鋭い。
しかし、平蔵はけろりとして、
「8枠のうちの4枠は買いきりみたいなものだし、お披露目したがている店舗のほうから若元締のところへ頼みこんでいたくらいくでな」
「なるほど。濡れ手に粟って感じ---」
「お披露目したがっている店舗をこなすために、月に2板も板行する始末でな」

「絵は?」
「狩野派くずれの町絵師・北川冬斉。なんでも、祇園や北野天神前にできている新顔の色町の売れ妓(こ)を描いてやって、その妓からの袖の下が大きかったらしい。しかし、紋次どには、こころやすい絵師が---」
「ああ、奇泉師匠のことを覚えてくだってやしたか」

参照】2008年8月12日[〔菊川〕のお松] (11

「ご健勝かな?」
「もちろん。ところで、文章は?」
「拙です」
初瀬川(はつせがわ)さんが?」
「いけませぬか?」
「恐れいりやした。弟子入りしてえぐらえで---」

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2010.01.08

府内板[化粧(けわい)読みうり]

松造。西両国の聞きこみ人・〔耳より〕の紋次兄ィに、黒船橋北の駕篭屋〔箱根屋〕までお越しを---と、伝えてきてくれ。〔風速(かざはや)〕の親方のところで待っている」
愛宕下〕家の玄関脇の部屋に控えていた若党の松造(まつぞう 22歳)に告げた。

この家(や)の息子・伸太郎が気をきかせて、冷酒を湯呑に注いで置いていたが、さすがに、このごろはそういう誘惑にも耐えるようになってきていた。

「そこまで、お供をします」
音羽(おとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 47歳)がいっしょに玄関をでた。

万吉(まんきち 22歳)も啓太(けいた 20歳)も、やっと、江戸の水に馴れてきたところです。あれこれ、お役に立つとおもいやす」
「お仕込み、かたじけない。ほんの2ヶ月ほどですむとおもいます」
「2ヶ月が半年になってもかまうもんではありやしやせん。それより、誠心院(しょうしんいん)の比丘尼さまのこと、ご愁傷でございました」
祇園一帯をシマにしている〔左阿弥(さあみ)の円造(えんぞう 60すぎ)からどの程度までとどいているのか?
あるいは、報復を助(す)けてくれた万吉啓太がことをふくらませてしゃべったか?

「いちばん落胆したのは、〔左阿弥〕の元締さんでしょう。色恋ぬきの善行をたのしんでおられたから--」
「あっしがお世話になっていた時分は、生ぐささがさかんな;お齢ごろで、つぎからつぎへと---いや、余計なおしゃべりをしてしまいました」
「〔左阿弥〕の元締さんの、貞妙尼(じょみょうに)どのへの接し方を見ておると、男として、おのれも早くあのように枯れた齢になりたいとおもわされました」
「そうでしょう、そうでしたろう」
(神泉苑(じんせいえん 現・上京区御池通り門前町)のご老師は、「生きとるうちは、淫欲との戦いや。男もおんなも、比丘も、比丘尼も、な」とのたもうた)

参照】2009年11月17日[三歩退(ひ)け、一歩よ] () (

(すると、〔左阿弥〕の円造のあれは、擬態にすぎなかったのかもしれん、な)

長谷川さま。化粧(けわい)指南師のお師匠ですが、あっしの女房ではいかがでしょう? 祇園でできちまったおんなですが、美しいものを看る目は、かなり肥えているとおもいますが---」
「近いうちにお訪ねします」
「お手数ですが---」

芝口橋をわたったところで、重右衛門は、小頭の〔大洗(おおあらい)〕の専二(せんじ 35歳)に目くばせし、道を左にとった。
それで、平蔵も、つられて右へ折れ、堀留橋のたもとの船宿で、横川に架かる黒船橋まで舟にした。

権七のところの若い衆に、三ッ目通りの屋敷まで走ってもらった。
結び文は久栄(ひさえ 21歳)あてで、手文庫にしまってある[化粧(けわい)読みうり]を2、3枚、使いの者にわたすように書いた。
耳より〕の紋次に見せたほうが話が早いとおもったからである。
紋次は、[読みうり]の商売人だから、一目でことをのみこむはずである。

権七親方。生業(なりわい)の按配(あんばい)は?」
「ぼちぼちでやす」
「なんだか、一丁前の商い人らしい返事だな」
2人は笑いあった。

紋次がきたら゜[化粧読みうり]の版元の件を話すが、そりの前に---と、
「目はしのきく駕籠舁き(かごかき)を一組、半日1朱(1万円)で借り切るわけにはいくまいか?」

権七は、ぴくりとも表情も変えず、
「よろしゅございやす。で、なにを---?」

一橋北詰に去年あたり開店した〔貴志〕という料理茶屋のかかりつけの駕篭屋に話をつけ、昼すぎから夕刻までその駕篭屋につめていて、〔貴志]から声がかかったら真っ先にうけてもらう。
で、その客の行き先をつきとめてもらいたい。
もちろん、駕篭屋が訊きまわるわけにはいくまいから、聞きこみは〔音羽〕の元締・重右衛門のところにに預けてある万吉啓太を引き取って、この2人にやらせる。
この2人をここで寝泊りさせてほしい。

「一橋北の料理茶屋が使いつけの駕篭屋といえば、三河町の〔駕篭徳〕でがしょう。同業の集まりで親しくしていますから、話は通じるとおもいやす」
「この1両(16万円)は、〔駕篭徳]へのお土産代わり。〔喜志〕からの客の駕篭賃はそっくり〔駕篭徳〕へわたすことにし、その半分は、拙がもつ」
「よろしいんでやすか? そんなに散財をなさって---。長谷川さまのお遣い分ぐらいでは、〔箱根屋〕はびくしもしやしませんぜ」
「それがな、あの、〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)めが、[化粧読みうり]のあがりの半分だといって、5両(80万円)、送金してきた」
「へえ。天変地変が近い---とは、このことでやしょう
「は、ははは」
「へ、へへへ」

参照】2009年11月27日[銕三郎、京を辞去


       ★     ★     ★

週刊『池波正太郎の世界』が届いた。封を切り、いささか、あわてた。

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大胆なのである。
お江(ごう)と幸村である。
別所温泉の〔真田の湯〕の中である。
裸躰である。

小説に描かれて一気に有名になったスポットの
トップは、熱海海岸の〔貫一・お宮の松〕
2番がこの〔真田の湯〕であろう。

ぼくは4回、つかりに行った。

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2010.01.07

〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵・元締(2)

「音羽の元締もお待ちかねです」
飯倉神明宮から愛宕社一帯を縄張りとしている香具師の元締・〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵(しんぞう 43歳)の息子・伸太郎(しんたろう 20をこえたばかり)が、平蔵(へいぞう 28歳)を座敷へいざなった。

前もって、〔音羽(あとわ)〕の重右衛門(じゅうえもん 41歳)へも、声をかけておいたのである。

参照】2009年7月1日〔愛宕下(あたごした)〕の伸蔵・元締

北新網町のこの家は、いつきても、小ぎれいに片づいている。
裏庭の盆栽の棚が見える部屋では、当主の伸蔵の前に、巨躰の〔音羽〕の元締と小頭・〔大洗(おおあらい)〕の専二(せんじ 35歳)が待っていた。

亡父・宣雄(のぶお 享年55歳)が京都西町奉行に抜擢されたのは、目黒・行人坂の大円寺に放火し、江戸の半分近くを焼失させた犯人の逮捕に、〔愛宕下〕一家の助(す)けがあったからともいえる。

参照】2009年7月2日~[目黒・行人坂]の大火と長谷川組] () () () () () (

生前の宣雄は、伸蔵元締からうけた恩義を忘れず、京都奉行所の役宅で病床に臥せていたときも、熱がひくと、
(てつ)。われがこうして町奉行にひき立てられたのも、〔愛宕下〕の元締どのの刺しがあったればこそ。帰府したら重々に礼をつくしてくれ」
「なにを仰せられます。回復なされて、ご自身の口からお述べください」

けっきょく、父の伝言を平蔵が、いま、こうして伝えることになったのだが---。
父が京で求めた来(らい)国長(くになが)の短刀を風呂敷からだし、「
「武家方でもない元締めにはぶしつけと存ずるが、父からの志です。お納めくだされ」

伸蔵はうやうやしく拝領してから、
「〔音羽〕の元締とも話しあっていたのですが、長谷川さまが京の〔左阿弥(さあみ)の元締と組んでおやりになった〔化粧(けわい)読みうり〕を、この江戸でもお出しいただくわけにはまいりませぬか?」
音羽〕の重右衛門ものりだし、
「浅草・今戸の〔木賊(とくさ)〕の今助(いますけ 26歳)どん、上野山下の 〔般若(はんにゃ)〕の元締、深川の〔丸太橋(まるたばし)の源次(げんじ 57歳)元締にも声をかけ、ほかにも2、3の元締衆が乗ってきましょう。が、とりあえずは5つのシマがそろえば、1万枚の刷りはかたいでやしょう。お考えいただけませんか?」
左阿弥〕の円造(えんぞう 60がらみ)から、かなりくわしい話がもたらされているらしい。

平蔵は、
(妙なことになった)
しばらく、思案の刻(とき)をかせいだ。

音羽〕の重右衛門に声をかけておいたのは、預かってもらっている〔左阿弥〕のところの若い者---万吉(まんきち)と啓太(けいた 20歳)を、ちょっとま、借りたかったためであった。

参照】2009年11月17日[三歩、退(ひ)け、一歩出よ]

京でやってうまくいったのは、化粧指南師のお(かつ 32歳)がいたことも大きい。
府内にはそうした手づるがない。

参照】2009年8月22日~[〔左阿弥(さあみ)〕の角兵衛] () (2
2009年8月22日~[化粧(けわい)指南師のお勝] () () () () () () () () (

しかし、〔左阿弥〕への義理もあるから、おを江戸へ呼びもどすのははばかられる。

「〔愛宕下〕の元締をお引きあわせくださった〔音羽〕の元締のお言葉だから、案は、練ってはみますが---」
答えた平蔵の頭にひらめいたのは、両国広小路の〔耳より〕の紋次(もんじ 30歳)の存在であった。
(いつか独りだちしたい---と申していた)

参照】2008年4月26日~[〔耳より〕の紋次] () (
2009年2月3日~{高畑(たかばたけ)の勘助] () (
2009年月3日

(こんなことになるのがわかっていたら、都板の[化粧読みうり]の実物わ3、4枚、懐中にしてくるんであった)

実物を示すのはこの次---とあきらめた平蔵は、おんなおとこになっていることは伏せて、おの美しさにたいする感覚のよさを説明し、それぞれの元締めのシマうちで、化粧(けわい)指南師になりうる女性(にょしょう)を見つけておいてほしいことと、元締一家は板元にならないでお披露目枠の扱いとシマうちでの配布にかぎること、板元は〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)という深川の町駕篭〔箱根屋〕とすること、自分は出仕が近いので表には立たないことなどを手短に告げた。
(こういう、金がからんだ話は、あまりくわしく説明しないほうが、聞き手の思惑がひろがるから、いいのだ)

とりあえず20日後に、4人の元締と小頭が〔愛宕下〕の元締の家へ集まることでまとまった。

伸蔵があらたまって、
長谷川さま。ご相続、おめでとうございます。つきましては、〔愛宕下〕の手前からのお祝いの真似事をさせていただきます。気持ちよくお受けくださいませ」
そういって手を打つと、隣の部屋から息子・伸太郎が、いつのまに整えたのか、来国長を奉書紙で巻き、熨斗をつけたのを捧げてあらわれた。

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2010.01.06

妹・与詩(よし)の離婚(2)

このブログ『Who’s Who』の中での養女・与詩(よし)は、16歳で、いうところの適齢期であった。

しかし、養母・(たえ 48歳)は、
与詩が桑名橋を不縁になって---」
平蔵宣以(のぶため 28歳)に告げてしまった。
桑名橋は、小石川竜門町と同諏訪町に架かる橋で、三宅家が諏訪神社の裏手に150坪ほどの屋敷地を拝領していた。

このあたりの矛盾については、きのうの回に疑問を呈しておいた。
とはいえ、疑問のままにしておくわけにはいかない。

与詩が16歳で三宅半左衛門徳屋(とくいえ 56歳=明和7年(1770) 200俵 西丸小十人)に輿入れしたとすると、養父・宣雄(のぶお)が先手弓の8番手の組頭(役高1500石格)のころである。
その格式をもってしても、また実父はすでに亡いとはいえ、名門・朝倉の分流で、駿府町奉行(役高1000石)を勤めた仁左衛門景増(かげます 享年61=宝暦13年 300石)だし、嫡兄は書院番士が長いから、ふつうなら、50歳代の半左衛門に嫁がせるとは思えない。

ふつうでないとすれば、与詩の側に、身体的(容貌的)な、あるいは性格的な欠点があって、レベ゛ルを下げなければならなかったか。
いや、そういうマイナ点があれば、婚姻を家名の維持の一条件とかんがえていた当時、宣雄が養女にしたであろうか。

宣雄の在世中の婚儀としたばあい、一つかがえられなくもないのは、宝暦8年から宣雄が勤めていた小十人頭(がしら)時代の顔なじみということであるが、半左衛門徳屋は西丸の組子であるから、それも早計には肯定しかねる。

益ない詮索はおいて。
三ッ目通り長谷川邸に戻ってきた与詩は、どうしたろう?
母屋は、当主となった平蔵宣以とその室・久栄(ひさえ 21歳)、それに息・辰蔵(たつぞう 4歳)と於初(はつ 1歳)が離れから移り住んでいた。

養母・は、銕三郎(てつさぶろう)時代の夫妻が居住していた離れに入れ替わっている。
与詩も、住むとすれば離れに1 部屋を建てまして住むことになろう。

「母上。与詩に、ぜひとのお声がかかりました」
与詩は、を実母のように慕っている。
「おや、どこからかえ?」
「納戸町の於紀乃(きの 74歳)刀自さまからです」

参照】2008年9月8日~[〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう)] () (
2008年10月5日~[納戸町の老叔母・於紀乃] () () () (

この話を母から相談をうけた夜、
久栄。そういうことだが、男を知ってしまっている与詩が、老叔母の介護だけでもつものかな?」
三宅の老夫さまが、どこまで熟(う)れさせておられますか。おんなは、男次第でございますゆえ」
「おんな同士、半左爺どののそのむきのこと、与詩から聞いておらぬか?」
「訊くには、(てつ)さまのその手ぎわも告白しませぬと、与詩さまも話しずらいでしょう」
「それは困る」
「あら、私は、はやばやと、熟れすぎさせられておりますよ」
「うむ」

久栄の指が、平蔵のものをやわらかく包み
「いかがでしょう? 隣家・松田彦兵衛貞居 さだすえ 66歳 1050石)の於千華(ちか 38歳)さまに引きあわせて、訊きだしていただいては?」
「だめだ。燠火(おきび)を燃え立たせてしまうようなものだ」
「このようにでございますか?」
久栄が、熱くなっている下腹をすり寄せた。

参照】2009年2月18日~[隣家・松田彦兵衛貞居] () (
2009年6月19日~[宣雄・火盗改メ拝命] () (
2009年7月3日[目黒・行人坂の大火と長谷川組] (
2009年7月24日[千歳(せんざい)のお豊] (

[]ちなみに、奥田河内守貞居は、2年前に山田奉行として赴任し、内室の於千華は、一人子・新三郎(14歳)と留守宅にあったが、芝居に入れあげているとの風評であった。

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2010.01.05

妹・与詩(よし)の離婚

与詩(よし 16歳)が不縁になり、戻されます」
母・(たえ 48歳)が、つぶやくように告げた。

ちゅうすけ注】おおかたの読み手の方は、「与詩はいつ嫁入りしたのだ?」と不審がられるであろう。ちゅうすけ自身が首をかしげている。

とにかく、当時、駿府奉行であった朝倉仁左衛門景増(かげます 61歳 300石)の次女・与詩(6歳=当時>を府中まで銕三郎(てつさぶろう 18歳)が迎えに行った顛末(てんまつ)は、以下に詳しく記している。

盗賊〔荒神(こうじん)〕の助太郎(すけたろう)とのかかわりも、〔風速(かざはや)〕の権七(ごんしち)という無二の盟友もこの旅でえた。

それよりなにより、『寛政譜』にも記載されていない銕三郎の婚外の子も、このときにつくった。
相手は、{芦の湯小町〕と呼ばれたこともある人妻・阿記(あき 21歳=当時)で、その経緯(ゆくたて)もたどっていて、たのしかった。

参照】2007年12月21日~[与詩(よし)を迎えに] () () () () () () () () () (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25) (26) (27) (28) (29) (30) (31) (32) (33) (34) (35) (36) (37) (38) (39) (40) (41

長谷川家に引きとられてからの与詩は、さほど登場しない。

参照】2009年1月11日[銕三郎、三たび駿府] (
2009年6月18日[宣雄、火盗改メ拝命] (

寛政譜』の長谷川平蔵宣以(のぶため)の項には、3人の妹が記載されている。

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3_260
(『寛政譜』の長谷川家の部分)

寛政譜』が長幼の序のあやまることは、ほとんどない。
ということは、2人の養女は、年齢が宣以よりも下ということである。
当時は数え齢だから、正月に兄が生まれ、晦月に妹が生まれた場合、まれに同い齢で兄妹ということもありえるが。

銕三郎と最初の養女・多可(たか)は、同い齢ということにした。

参照】2007年10月27日~[多可が来た] () () () () () () (

次の養女が与詩である。
銕三郎とは12歳違いとした。
安永2年(1773)には、16歳のはず。

ところが、不縁で長谷川家にかえされたと、『寛政譜』にある。
嫁ぎ先は、三宅半左衛門徳屋(のりいえ 59歳 200俵)。
この年齢で初婚らしい。

_360
(三宅半左衛門徳屋の個人譜)

しかも、与詩を離縁したあとに、小浜家(200俵)から後妻を迎え、継嗣・貞之丞をえている。
この貞之丞は、宝暦6年の生まれだから、安永2年には19歳である。

ちゅうすけ注】余談ながら、後妻の出である小浜家は、『鬼平犯科帳』文庫巻7[寒月六間堀]で、二ッ目通りをやってくる老武士の息子の仇・金貸しになりさがっている山下藤四郎を、鬼平が身をひそめた塀の屋敷の主---小浜某(4000石)の分流である。

えっ? 先妻の与詩が16歳で、後妻が産んで子が19歳?
どういう計算なの?

だれだって、不思議におもう。
けれど、『寛政譜』は、そう記載している。

貞之丞が生まれる前に与詩が離縁されたし、「3年、子なきは去る」の諺どうりと考えると、16歳で嫁いで19歳で去ったとして、宝暦5年には婚家を出ていないといけないから、与詩は元文2年(1737)生まれで、銕三郎より9歳上、父・宣雄が18歳のときの養女ということになってしまう。

ということは、三宅家が幕府に呈上した[先祖書]がおかしいとしかいえない。

とにかく、この謎を解くには、時間がかかりそうだ。

それはともかく、与詩は、不縁になって以後、ずっと長谷川家にとどまり、宣以の厄介になっているはずだが、菩提寺の戒行寺の霊位簿にその名がみあたらないのも不思議である。

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2010.01.04

ちゅうすけのひとり言(50)

銕三郎(てつさぶろう 28歳)が、跡目相続の許しをえて、平蔵(へいぞう)と襲名名を引き継いだ安永2年(1773)年に、おなじく相続した176名を洗いだして、父が歿してどれくらいで相続認可の儀式がおこなわれたか、また、致仕した父親は何歳で家督をゆずったか---などを史実によって考察するためのデータとして、煩瑣をいとちわず、リサーチとーしたものをアップしてきた。

きょうがその最終回である。
データ量が多いのは、史実どおりなので、ご了解を。
それにしても、相続の数の多さに、晦月のかけこみぶりがうかがえて妙。


まずは、12月6日の『徳川実紀』----

けふ中奥小姓松平駿河守信睦が養子男也信譲。小納戸藪半之丞勝成が養子七之助勝貞。寄合一柳帯刀直が養子献吉直郷を始め。父死して。家つぐせもの十人。


寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』から見つけたのは、『実紀』の3人も入れて5人きり。探し方が杜撰であったわけはないが、さりとて、もう一度、8000ページを再検するのは、ごかんべん(いつか、別のサブジェクトで総あたりするときにあわせてやるのでお預けということに---)

養父:松平駿河守信睦(のぶちか 5000石)
    安永2年9月3日卒 18歳
養子:(大河内)男也信譲(のぶよし)
    (跡目) 18歳
    安永8年(1779)死 24歳


養父:一柳帯刀直住(なおずみ 5000石)
    安永2年9月17日卒 27歳
養子:(安部)献吉直郷(なおさと)
    (跡目) 18歳
    寛政9年(1797)10月2日火事場見廻


祖父:水野清十郎勝承(かつつぐ 500石)
    安永2年9月25日卒 78歳
孫 :   岩之丞勝明(かつあきら)
    (跡目) 13歳
天明3年(1783)9月27日小納戸出仕


養父:藪 半之丞勝成(かつなり 400石)
    安永2年9月21日卒 70歳
養子:(津田)七之助勝貞(かつさだ)
    (跡目) 22歳
    安永3年(1779)10月27日書院番出仕


父 :伊勢藤兵衛久四郎貞匡(さだただ 300石)
    安永2年9月24日卒 42歳
子 :    主馬助貞候(さだなか)
    (跡目) 39歳
     明和2年(1765)12月勤番


12月27日の『徳川実紀』----

寄合大村小左衛門貞韶が子半七郎貢韶。奥医武田長春院信郷が養子宗安信復をはじめ。父死して。その子家をつぐもの二十六人。


寛政譜』から見つけたのは。

養父:松下藤次郎延綱(のぶつな 1740石)
    安永2年11月17日卒 47歳
養子:(石岡)藤次郎保綱(やすつな)
    (跡目) 19歳
    安永3年(1779)11月19日書院番出仕


養父:永田権八郎昌耆(まさとし 850石)
    安永2年11月24日卒 25歳
養子:(永田)求次郎尚賢(なおかた)
    (跡目) 17歳
    安永7年(1778)3月14日書院番出仕


養父:高嶋藤兵衛兼良(かねよし 500石)
    安永2年10月29日卒 31歳
養子:(松田)茂三郎兼賢(かねかた)
    (跡目) 26歳
    天明4年(1784)3月14日西城書院番出仕


養父:五十嵐権右衛門盛邦(もりくに 400石)
    安永2年11月21日卒 54歳
養子:(亀井)弥三郎永恵(ながよし)
    (跡目) 29歳
     安永3年(1774)年4月24日小姓組出仕


養父:武田長春院信郷(のぶさと 400俵)
    安永2年12月6日卒 74歳
養子:(武田)貞安信復(さだのり)
    (跡目) 37歳
    安永元年(1772)年6月3日奥医出仕


父 :桜井伝白次郎信秋(のぶあき 300石)
    安永2年11月朔日卒 76歳
子 :   市三郎信総(のぶふさ)
   (跡目) 61歳
    安永3年(1774)8月18日大番出仕


父 :木下平之丞一弘(かずひろ 300俵)
    安永2年11月24日卒 68歳
子 :   平次一完(かずさだ)
   (跡目) 26歳
    安永3年(1774)8月18日大番出仕


養父:天野彦次郎繁信(しげのぶ 300俵)
    安永2年12月10日卒 28歳
養子:(青山)金吾景貞(かげさだ)
    (跡目) 20歳
    安永3年(1774)年4月24日小姓組出仕


養父:石河茂十郎勝安(かつやす 200石100俵)
    安永2年10月28日卒 30歳
養子:(武田)貞安信復(さだのり)
    (跡目) 24歳
    安永8年(1779)年12月25日死


父 :庄 与左衛門直保(なおやす 270石)
    安永2年12月9日卒 76歳
子 :   伊織維直(これなお)
   (跡目) 35歳
    明和元年(1764)閏12月16日大番出仕


養父:林 甚助為成(ためなり 210石)
    安永2年12月2日卒 57歳
養子:(鈴木)安之丞為済(ためすみ)
    (跡目) 19歳
    安永6年(1777)年2月13日死


養父:深津又吉郎正勝(まさかつ 200俵)
    安永2年10月21日卒 69歳
養子:(木村)辰弥正逵(まさみち)
    (跡目) 26歳
    安永5年(1776)年8月14日御納戸出

父 :仁賀保金吾誠章(しげあきら 200俵)
    安永2年10月11日卒 73歳
子 :   万次郎誠房(しげふさ)
   (跡目) 38歳
    安永3年(1749)2月28日大番出仕


父 :大村小左衛門貞韶(さだつぐ 100俵5口)
    安永2年12月9日卒 76歳
子 :   寅之助貢韶(みつつぐ)
   (跡目) 42歳
    寛延2年(1749)12月26日小十人出仕


養父:植村覚之助正時(まさとき 90俵3人扶持)
    安永2年10月19日卒 69歳
養子:(高樋)織部正芳/strong>(まさよし)
    (跡目) 38歳
    天明5年(1785)年12月5日死(50歳)


父 :富田平次郎政寿(まさとし 月俸10人口)
    安永2年10月29日卒 46歳
子 :   長十郎政隆(まさたか)
   (跡目) 16歳
    寛政9年(1797)6月18日ID西城表火番出仕


父 :波根弥平次矩久(のりひさ 40俵2人扶持)
    安永2年12月5日卒 48歳
子 :   源次郎矩孝(のりたか)
   (跡目) 11歳
    安永9年(1780)5月2日鷹匠


父 :田中弥五八忠義(ただよし 20俵2人扶持)
    安永2年11月4日卒 75歳
子 :   喜三郎忠章(ただあきら)
   (跡目) 42歳
    寛政8年(1796)4月22日死(65歳)


          ★     ★     ★

安永2年(1773)の相続リストの総集

 2月11日  1 人      ひとり言(42) 
 3月 7日  12人中9人
 3月 16日   1人
閏3月 5日   9人中5人

 4月 6日  10人中7人 
 4月 8日  家督21人中15人

 6月6日 7人中5人  ひとり言 (45

 7月5日 9人中8人  ひとり言(46

 8月6日 17人中11人 ひとり言(47)
8月22日 9人中4人


 9月8日 13人中10人 ひとり言(41

 10月7日 16人中14人 ひとり言(48)

 11月5日 15人中11人 ひとり言(49)
 11月29日 21人中16人

 12月6日  10人中5人 ひとり言(50)
 12月27日 26人中18人


176人中123人


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2010.01.03

ちゅうすけのひとり言(49)

こんなに[ちゅうすけのひとり言]をつづけていいものか---とは逡巡はしているが、予告どおり、きょうと明日の2回で完了する目鼻がついたので、ご寛恕いたたきたい。
何回もいうとおり、安永2年の相続者を『寛政譜』から拾い出すだけで5日間をついやし、その日分を書き込むのに5時間を要している。
書き手も大儀なのである。

ま、興味が薄ければ、元服名(諱 いみな)の読み方---たとえば、利置(としたか)、正央(まさひさ)、政温(まさよし)などを知るだけでもトクした気分にならなかなあ?

ただし、この読み方が当を得ているとは、即断しかねる。というのは、『寛政譜』のために各家が差し出した[先祖書]には、ルビがふってないはずだからである。
どこでルビが。どうやってつけられたかも、研究課題。


11月5日の『徳川実紀』----

寄合松村因幡守安陳が養子鉄三郎時久をはじめ。父死して。家を継ぐ者十五人。

寛政譜』でひろいえたのは、3分の2の、11人


父 :渡辺唯次郎尹(すすむ 1000石)
    安永2年8月4日卒 45歳
子 :   伊三郎直(なをし)
    (跡目) 17歳


父 :松平(形原)藤兵衛房泰(ふさやす 800石)
    安永2年8月24日卒 42歳
子 :    式部房熟(ふさよし)
    (跡目) 27歳
     天明2年(1782)正月20日西城小姓組出仕


養父:小笠原:権九郎信安(のぶやす 700石)
    安永2年8月7日卒 51歳
養子:(小笠原)藤三郎信将(のぶまさ)
    (跡目) 24歳
    安永3年(1774)9月5日西城小姓組出仕


養父:森川七兵衛清房(きよふさ 400石)       
    安永2年8月10日 40歳大坂城で卒
養子:(森川)庄次郎清純(きよずみ)
    (跡目) 20歳


養父:松村因幡守安陳(やすのぶ 300俵)
    安永2年8月4日卒 54歳
養子:(永井)銕三郎時久(ときひさ)   
    (跡目) 26歳
    安永3年(1774)2月25日小姓組出仕


父 :大久保内膳忠興(ただおき 300俵)
    安永2年8月17日卒 67歳
子 :    丑之助忠俊(ただとし)
    (跡目) 32歳
    安永3年(1774)4月13日西城書院番出仕


養父:三輪久太郎久豊(ひさとよ 300俵)  
    安永2年8月14日卒 17歳
養子:(榊原)庄次郎久隆(ひさたか)
    (跡目) 16歳 
     寛政9年(1797)11月17日大番出仕


父 :石川清右衛門政辰(まさたつ 210石80俵)
    安永2年8月17日卒 51歳
子 :   伝次郎政久(まつひさ)
    (跡目) 28歳
    安永3年(1774)12月14日大番出仕


養父:新家幸之助知通(ともみち 200俵)
    安永2年8月18日卒 27歳
養子:(平松)主税知義(ともよし)
    (跡目) 17歳
    寛政4年(1792)8月27日大坂具足奉行


祖父:柴田藤市郎正森(まさもり 100石5口)
    安永2年8月11日卒 62歳
孫 :   金次郎忠宜(ただよし)
    (跡目) 10歳

11月29日の『徳川実紀』---

菅沼新三郎定堅が子数馬定喜。小笠原越中守長恒が子西城の小姓播磨守宗準。松前筑前守順広が子小姓組隼人広暉。岡村弥右衛門直昌が子小納戸久米次郎直実をはじめ。父致仕して、子家をつぐ者廿一人。


父 :土屋忠次郎利穀(としのり 2700石)
    安永2年11月29日致仕 54歳
子 :   亦次郎利置(としたか)
   (家督) 24歳
    安永3年(1774)7月16日西城小姓組出仕


養父:織田主水芳正(としまさ 2000石)
    安永2年11月29日致仕 63歳
養子:(松平)幸次郎正甫(まさもと)
   (家督) 18歳
    安永3年(1774)12月18日西城書院番出


養父:大久保甚四郎忠舒(ただのぶ 1600石)
    安永2年11月29日致仕 52歳
養子:(松前)甚兵衛忠章(ただあき)
   (家督) 20歳
    安永4年(1775)2月24日小姓組出仕
      

父 :岡野平兵衛成路(なるみち 1500石)
    安永2年11月29日致仕 58歳
子 :   豊五郎成韶(なるつぐ)
   (家督) 37歳


養父:安藤九郎左衛門信憲(のぶのり 1400石)
    安永2年11月29日致仕 43歳 
養子:(安藤)七太郎信姿(のぶたね)
   (家督) 25歳
    天明2年12月12日中奥番士出仕


父 :菅沼新三郎定堅(さだかた 1220石)
    安永2年11月29日致仕 49歳
子 :   藤馬定喜(さだよし)
   (家督) 24歳
    安永3年(1774)2月25日小姓組出仕


父 :新美弥一郎正容(まさかた 520石)
    安永2年11月29日致仕 64歳
子 :   五郎三郎正明(まさみつ)
   (家督) 34歳
    安永5年(1776)12月28日大番出仕


父 :雨宮十太夫正央(まさひさ 300俵)
    安永2年11月29日致仕 49歳
子 :   新五郎正脩(まさなが)
   (家督) 22歳
    安永5年(1776)3月21日西城小姓組出仕


養父:嶋田伊右衛門政温(まさよし 300俵)
    安永2年11月29日致仕 43歳 
養子:(村田)八十郎良吉(もとよし)
   (家督) 33歳
    安永3年(1774)9月5日西城小姓組出仕
    安永2年11月29日致仕 43歳 


養父:植林小市実冬(さねふゆ 300俵)
    安永2年11月29日致仕 70歳 
養子:(小林)弥十郎実包(さねかね)
   (家督) 40歳
    安永4年(1775)2月24日小姓組出仕


父 :岡村弥右衛門直昌(なおまさ 300俵)
    安永2年11月29日致仕 52歳
子 :   久米次郎直賢(まさかた)
   (家督) 23歳
    安永2年(1776)5月7日御納戸出仕


父 :大野藤助定安(さだやす 300俵)
    安永2年11月29日致仕 52歳
子 :   又三郎定幸(さだゆき)
   (家督) 23歳
    安永4年(1775)3月18日書院番出仕


父 :千村小八郎義智(よしのり 100俵10口)
    安永2年11月29日致仕 46歳
子 :   専太郎義豊(よしとよ)
   (家督) 23歳
    寛政6年(1794)9月27日表祐筆出仕


養父:相原直右衛門忠良(ただよし 100俵5口)
    安永2年11月29日致仕 70歳 
養子:(市川)長十郎忠次(ただつぐ)
   (家督) 29歳
    天明2年(1782)5月29日小十人出仕


父 :山中喜左衛門正休(まさよし 80俵10口)
    安永2年11月29日致仕
子 :   左源次均通(よしみち)
   (家督) 27歳
    御広敷添番


養父:服部権之進勝清(かつきよ 150俵)
    安永2年11月29日致仕 76歳(?) 
養子:(臼井)三十郎忠次勝種(かつたね)
   (家督) 21歳(?)
    安永8年(1779)11月29日御勘定出仕
    寺社奉行所支配とき罪ありて獄中死


   

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2010.01.02

ちゅうすけのひとり言(48)

きのう、安永2年(1773)8月分をアップした。

9月分は、去年の12月18日[ちゅうすけのひとり言] (41)にあげているので、きょうは、10月分。

10月7日の『徳川実紀』----

御側白須甲斐守正賢が養子幾之丞正雍。西城小納戸酒井清次郎実方が養子乙五郎実右。寄合河野主馬通英が孫当太郎通弘を始め。家をつぐもの十六人。

寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』で見つけた者、14人。

養父:白須甲斐守政賢(まさかた 2050石)
    安永2年7月12日卒 52歳
養子:(増山)幾之助正雍(まさちか)
    (跡目) 20歳
    安永2年7月24日小納戸出仕 


父 :大岡権之助直賢(なおかた 1000石)
    安永2年7月16日卒 38歳
子 :   城之助直孝(なおたか)
    (跡目) 17歳
    安永5年(1776)7月3日西城小姓組出仕


養父:窪田辰之助忠公(ただかね 700石)
    安永2年7月12日卒 30歳
子  :   亀次郎忠可(ただきく)
    (跡目) 18歳
    安永3年(1774)6月7日西城書院番士出仕


父 :佐野帯刀為英(ためひで 540石)
    安永2年7月8日卒 46歳
子 :   八郎為辰(ためとき)
    (跡目) 21歳


父 :数原清庵宗信(むねのぶ 500石)
    安永2年7月2日卒 55歳
子 :   政之助宗善(むねよし)
    (跡目) 9歳
    寛政7年(1795)6月7日番医   


父 :団 安左衛門景保(かげやす 400俵)
    安永2年7月14日卒 55歳
子 :  平八郎景定(かげさだ) 
    (跡目) 21歳
    安永3年(1774)6月18日小十人出仕


父 :久保右膳勝本(かつもと 300石)
    安永2年7月29日卒 52歳
子 :   繁三郎勝之(かつゆき)
    (跡目) 27歳
    天明元年(1781)7月6日御腰物方出仕


養父:酒井清次郎実方(さねかた 200石)
    安永2年7月4日卒 39歳
養子:(大久保)乙五郎実右(さねすけ)
     (跡目) 17歳


兄 :牛奥太郎八昌興(まさおき 200俵)     
    安永2年7月11日卒 37歳
弟 :   徳三郎昌純(まさずみ)
     (跡目) 22歳
    安永5年(1776)4月10日大番出仕


祖父:河野主馬通英(みちふさ 200俵)
    安永2年6月11日卒 78歳
孫  :   当太郎通弘(みちひろ)
    (跡目) 19歳 
    寛政元年(1789)6月7日小姓組出仕


父 :建部岩之助賢省(かたあき 100知俵10口)
    安永2年7月2日失心自殺 51歳
子 :   伊織文貞(ぶんさだ)
    (跡目) 17歳 
    安永6年(1777)5月3日死 21歳


父 :桜井林右衛門貴氐(たかもと 60俵2人扶持)
    安永2年6月11日卒 79歳
子 :   貞之進貴帷(たかかた)
    (跡目) 59歳
   すでに鷹匠から小十人


父 :細川桃庵(とうあん 300俵15口)   
    安永2年6月25日卒 47歳
子 :  宗仙(そうせん)
    (跡目) 
   安永5年博打により流罪

ちゅうすけ注】 少禄にもかかわらず『実紀』に酒井清次郎河野主馬の名があげられているのは、布衣を許されていたからか。 
自裁者(建部岩之助)と、博打により遠流(細川宗仙)があるのも、興味をそそられるし、当時の下流幕臣の生き方がうかがえておもしろい。

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2010.01.01

ちゅうすけのひとり言(47)

明けまして、おめでとうございます。
本年もよろしくお願いいたします。

正月早々から、年末から引きつづきの[ちゅうすけのひとり言]---安永2年の相続お許しの後半---とにかく片をつけないと、平蔵宣以が幕臣として門出ができません。
おつきあいください。


8月6日の『徳川実紀』----

広敷用人建部和泉守広高が子徒頭駿河守広通。先手頭石野藤七郎唯義が養子大助唯従。船手頭小幡市郎左衛門直政が養子千次郎直武をはじめ。父死して。その子家をつぐもの十七人。

寛政重修諸家譜』でひろったのは、11人にすぎなかった。

兄 :安部伊織正実(まさざね 2000石)
    安永2年5月11日卒 46歳
弟 :   金平正恭(まさゆき)  
    (跡目) 30歳
   安永4年(1775)7月晦日書院番出仕


養父:宇都野弥十郎正季(まさすえ 500石)
    安永2年5月3日卒 49歳
養子:(野一色)京三郎正尚(まさなお)
    (跡目) 22歳 
    安永4年(1775)6月10日大番出仕


兄 :石川銕三郎政英(まさひで 500石)
    安永2年5月23日卒 32歳
弟 :   造酒助政平(まさひら)
   (跡目) 17歳
    安永3年(1774)4月13日西城書院番出仕


兄 :五味乙十郎豊長(とよなが 200石200俵)
    安永2年5月6日卒 57歳
弟 :   帯刀至豊(よしとよ)
   (跡目) 20歳
    安永3年(1774)12月14日大番出仕


父 :建部和泉守広高(ひろたか 300石)
    安永2年5月9日卒 59歳
子 :   駿河守広通(ひろみち)
   (跡目) 32歳
   宝暦元年(1750)すでにお伽で出仕


養父:石野藤七郎唯義(ただよし 500俵)
    安永2年5月27日卒 67歳
養子:(永井)大助唯従(ただとも) 
   (跡目) 29歳
    安永4年(1775)10月5日死 31歳

参照】2009年6月8日[からす山の松造] (
2009年1月2日[明和6年(1769)の銕三郎] () (
2009年6月15日[宣雄、火盗改メ拝命] (


養父:加藤太郎右衛門景張(かげはる 230石)
    安永2年5月29日卒 39歳
養子:(広戸)千之助正知(まさとも)
   (跡目) 20歳
   天明6年(1786)5月26日大番出仕


父 :鳥居小左衛門季包(すえかね 200俵)
    安永2年5月19日卒 72歳
子 :   半十郎佳逹(よしみち)  
   (跡目) 29歳
    安永3年(1774)6月18日西丸小十人出仕


養父:三枝長次郎守明(もりあきら 150俵)
    安永2年5月28日卒 64歳
養子:(宮城)左京守寿(もりとし)
   (跡目) 38歳     
    安永3年(1774)9月19日小十人出仕


祖父:比企市十郎勝郷(かつさと 150俵月5口)
    安永2年5月22日卒 75歳
孫  :   徳次郎勝美(かつよし)    
   (跡目) 25歳
   寛政3年(17691)12月22日死 44歳


養父:高木弥十郎政温(まさあつ 90石5斗余)
    安永2年5月11日卒 22歳
養子:(松下)門蔵正利(まさとし)
   (跡目) 15歳
     寛政3年(17691)8月26日死 22歳  

8月22日の『実紀』----

寄合鈴木市左衛門之房が養子鉄五郎之武。南部彦九郎利起が養子幸吉利正をはじめ。父の家をつぐもの九人。


寛政譜』からさがせたのは、4人。

養父:南部彦九郎信起(のぶおき 3000石)
    安永2年8月22日致仕 54歳
養子:(南部)幸吉信由(のぶより)
    (家督) 21歳
    安永3年(1774)12月16日実家を相続


父  :佐野伝右衛門政豊(まさとよ 500俵)
    安永2年8月22日致仕 61歳
子  :   源之助政言(まさこと)
    (家督) 18歳 

参照】2007年11月26日[『田沼意次◎その虚実』] ()  

養父:鈴木市左衛門之房(ゆきふさ 450石) 
    安永2年8月22日致仕 78歳
養子:(安藤)銕五郎之武(ゆきたけ)
    (家督) 32歳


父  :安藤盛右衛門定煕(さだひろ 200俵)
    安永2年8月22日致仕 52歳
子  :   甚之丞定香(さだか) 
    (家督) 23歳
     安永2年12月晦日大番出仕 


偶然とはいえ、田沼意知(おきとも)を斬った佐野政言が入っていたのは、なんだか憑いている感じ。
「こいつぁ、春から縁起がいいわい」かな。
 

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