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2010.01.27

『よしの冊子』中井清太夫篇(4)

よしの冊子』に書かれている中井清太夫は、2回ほど、布衣(ほい)の官職位を希求していたとバラされている。

布衣は、従5位下なんとかの守の下位の地位だから、まず、お.目見(めみえ)以上の家格でないと、許されまい。

というわけで、『寛政重修諸家譜』の中井家を何度も確認した。
諸家譜』に収録されている中井家は2家きりである。

まず、1家は、このブログ---2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () ()に登場させた、西丸のご膳所頭の中井富右衛門儀剛 のりかた 59歳=安永2年 40俵3人扶持)である。
吉宗侯が8代将軍の座に就くにあたり、赤坂の藩邸から急遽、供の一員としてニノ丸へ召された家の者である。

もう一家は、代々、大和国三輪明神の神職を奉じており、のち、同国高市郡(たかいちこおり)巨勢(こせ)郷に住したというから、住地を称したともみられる。

巨勢孫兵衛正範(まさのり)は、大和国の豪族・万歳備前守則満に寄食して、その城の四隅に出城を構えたが、同国郡山の筒井順慶との葛城山麓の石橋における合戦で討ち死にした。
6歳だった遺児・正吉(まさよし)は、母方の同国竜田郡(たつたこおり)法隆寺村の工匠・中井伊太夫のもとで育てられた。

その子・藤右衛門正清(まさきよ)は、土木の才を買われて東照宮に仕え、500石を給されている。

正清の嫡子・正好(まさよし)は、駿府時代の東照宮の小姓組番士として仕えたが、病いをえて致仕、京師に行き卒したので、幕臣としては断家。

偶然の符合をいくつか記す。

まず、本貫・巨勢である。
吉宗の生母・浄円院、通称ゆりの方で、巨勢八左衛門利清(としきよ 江戸で3000石)のむすめということになっている。

巨勢利清の祖父・利次(としつぐ)の従兄弟・大和守正清については、上記に名をだしておいた。
したがって利清の父までは中井を称していたが、利清のときから巨勢に復したと『寛政譜』にある。

もし、北河内楠葉の郷士・中井ニ左衛門がどこかで、巨勢系かその同系の中井にかかわりがあれば、清太夫の御家人としての勤仕は、あるいは手ずるがあったかもしれない。

駿府を致仕した中井正好が京都に仮寓したということでも、京師と楠葉(くすば)はそう遠くはない。
いや、この断家した中井家の[先祖書]を呈したのも、あるいは巨勢家だったのかも。

土木の薀蓄という点でも、法隆寺村の中井家が匂わないであろうか。

生母・浄円院ゆりの方の素性についての俗説に、近江の彦根の医者のむすめだが、派手好きで生(いき)ざらしの刑のあと京都の洗濯屋・巨勢平助の養女となり、その縁で紀州藩士・巨勢利清の養女に転じたというのがある。
巨勢一族の縁つながりの俗説である。

興味を引くのは、土木・治水の知識・技術である。
楠葉村の中井ニ左衛門の嫡子・万太郎(家督後、ニ左衛門を襲名)も、川床高による水害を予防すべく、周辺の村々を説いて、土砂留の普請方を実地に指導、植林をすすめて淀土砂奉行・久世出雲守(不明)に賞されている。

素人の、気ままな推察だから、あくまでも、お目よごしとして。

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コメント

asou さまとちゅうすけさんの、智と智の交歓といいますか、情報の交換はすばらしい見ものでした。ネットなればこその双方向の高めあいでしたね。
いい勉強になりました。

投稿: 左衛門佐 | 2010.01.27 09:11

左衛門佐さんに先を越されてしまいましたが、御所官人の不正をめぐる、asou さまとちゅうすけさんのやりとりは、最近の圧巻でしたね。

投稿: 文くばり丈太 | 2010.01.27 11:22

>左衛門佐 さま
賛辞はすべて、asou さんがお受けになるはずのものです。ぼくは、ご教示にしたがったまでです。しかし、ありがとうございます。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.27 12:44

>文くばり丈太 さん
真意は、左衛門佐 さんへのレスに記しました。
asou さんのご指示にしたがってコピーしてある、『続史愚抄』や『よしの冊子』『御仕置例類集』の史料がまだけっこうあります。
アクセスしていただいている方々が「興味がある」とおっしゃれぱ、第3次分として公開したいとおもっています。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.27 12:51

過分な御言葉恐縮です。
中井清大夫ですが、彼本人は寛政譜に載っていないのですが、娘、養女が幕臣に嫁いだ形跡があります。
寛政譜21巻、238頁益田脩正、妻は中井清大夫九敬が女(ただし、嫡男は後妻の産んだ子のようで、子無くして亡くなったか離別されたか)
寛政譜12巻、50~51頁大久保忠度(実は野口辰之助直方が次男、母は中井清大夫九敬が養女)
特に養女の子である大久保忠度が養子に行った大久保家は養父が諸大夫にまでなっているのに驚きました。養女の実父が誰だったかは気になりますが、寛政譜の野口辰之助のところを見ても養女としかわからなかったです。肝腎の中井清大夫が寛政譜に載っていないもので、よほど松平定信派睨まれていたのか、とも。

投稿: asou | 2010.01.27 15:52

>asou さん
またまたのご教示、お礼の申しようもありません。
中井清太夫の家譜が『寛政譜』に収録されていないために、いろいろ、ほかの史料から類推するわけですが、清太夫のむすめ3人---2人はasouさんのこんどのご教示---もう1人は京都へいっしょにいった勘定奉行所の若林義方の継嗣・平蔵忠知に嫁いでいますね(1月28日の当ブログ)。
勘定奉行所仲間といえば、益田家へ夫婦養子にだした野口家も同じ職場でした。

養子でおもいつきましたが、養子口ききを職業のようにした幕臣もいたのかもしれませんね。婚活ならぬ養活(笑)。小説ネタですね。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.28 05:46

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