『よしの冊子』中井清太夫篇(3)
『よしの冊子』の隠密が、中井清太夫について初めてリポートしたものを asou さんがじつに巧みに引用なさっていたが、原文の後半部を現代語になおして、再掲示してみる。、
禁裏の地下官人たちの、購入品の買い入れ価格の改ざんによる利得の実態をあばいたときから14年後、天明7年(1787)の11月の報告書である。
中井清太夫は、勘定奉行所の御勘定吟味方改役か、その下の同改役並だったようである。
14年前の京都での働きにより、(御勘定から)御代官に昇進して、甲州に赴任。
勘定奉行・川井越前守(次郎兵衛久敬 ひさたか 530石 公事方 享年51歳=安永4年)に気に入られた。
【ちゅうすけ注】川井越前守の勘定奉行昇格は、この記事の8年前の安永7年(1778)2月28日で、勘定吟味役から。3000石高、役料700俵。公事(裁判)方と勝手(財政)方が各2名ずつで1年交替。その下の吟味役は2名。
この記事は、没して12年後。
川井越前守が逝ってからは、松本(伊豆守秀持 ひでもち 500石 58歳=天明7年)、赤井(越前守忠晶 ただあきら 700石 享年64歳=寛政2年)としごくこころやすいよし。
【ちゅうすけ注】松本秀持も赤井忠晶も田沼派とみなされ、田沼失脚後は不遇。清太夫は、その火の粉をどうはらったか。あるいは、こころやすかったは壮語であったか。
もしくは、清太夫の印象を落とすために、この隠密が、あえて赤井や松本の名前とならべたか。
中井清太夫について報告した密偵は同一人物のようだが、全部で38件もあり、ほとんどが負の内容を書いている。
甲州に(代官として)赴任していたとき、百姓にいいつけて、安藤弾正少弼(だんじょうしょうひつ)(惟要 これとし 73歳=天明7年 500石 宝暦11年(1761)から天明2年(1782)まで勘定奉行)の用人宅へ投げ文をいれさせたらしい。
その文面は、代官・清太夫はしごくよろしい役人であるから、ぜひ、甲州郡代に昇進させ、布衣(ほい)を許してやってほしい。百姓ども一同の希望である---といったもの。
もっとも、その投げ文は、用人が焼却してしまっているので、たしかめるわけにはいかない。
とにかく、百姓をそそのかして、目安箱にも訴状を入れさせているらしい。勘定吟味役・江坂孫三郎(正恭 まさゆき 評定所留役兼任 享年65歳=天明4年 150俵)などは、また、例の中井の箱訴かと、わらって真面目にはとりあわないことがたびたびだったとのこと。
この春、清太夫は(甲州から呼び戻されて)江戸詰めとなった。
先日、検見(けみ 田畑の実情測量)に出張ったときも、宿泊の宿の料理がまずいと怒鳴ったことがばれ、上からきつく叱られたよし。
このほかにも、甲州の百姓はお前たちよりもよく働くし正直だと説教したよし。百姓たちに「関東は甲州のような山ざるとは違うと、反論されてしまったよし。
だいたい清太夫は、人のことを悪しざまにいうのが得意らしい。だから、下の者は心服しないらしい。とはいえ、相応の働きもしており、自分では自慢をしているつもりはないと、おもいこんでいるらしいし、自分から折れるということもないようである。
ものごとの取り計らいはズサンなことが多いようだといわれており、勘定奉行衆もいささかあきれておられるもよう。
【ちゅうすけ注】『よしの冊子』は、松平定信侯の老中首座在任中の隠密のリポートだから、鬼平こと長谷川平蔵宣以が火盗改メを勤務していた時期と重なる。
平蔵にかかわるリポートの現代語訳は、別にカテゴリーをたてて掲出している。件数は100:件あったかどうか。
くらべて、重要役職についてもいない中井清太夫の38件は、書き手の悪意のようなものを感じるほどにしつこいといえる。
もっとも、それだけの悪印象を書き手にあたえたことがあったのかもしれない。
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