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2010.01.25

『よしの冊子』中井清太夫篇(2)

きのうは、京都町奉行に発令されてから、何日後ぐらいに上京の途につくかを調べるのに、おもわず時間をとられてしまった。

山村信濃守良旺(たかあきら 45歳=安永2年 500石)が、京都西町奉行所へ赴任の道中は、15日間前後と推察するが、柳営にいとま乞いして、その翌日に出立するものでもあるまいから、山村西町奉行が京の北西洛の千本通りの役宅に入ったのは9月20日ごろか。

それで、1ヶ月もしないで禁裏の官人の処分をはじめたとすると、そこそこに正確な情報がすでに手にはいっていたと断じていいのかもしれない。
それが、前任の長谷川平蔵宣雄からの申し送りの案件であったら、いうことはないのだが、話がうますぎるか。

asou さんのご教示に、『御仕置例類集』の安永3年分があります。

「1361番、1371番、1424番、1460番(1460番が一番主だったもののようです)1600番、1999番(361番と重複?)」

1361番は、「等閑又は亀忽之部 亀忽又は心得違之類」の範疇のもので、

安永三年御渡
京都町奉行
  山村信濃守伺

一  御所役人共、御仕置吟味一件
         御畳方定職人
                三人
右のもの御所畳表請負人どもより振る舞いを受け候段、不届きにつき、きっと叱り、以来、,念を入れ候よう、申し渡す。
 この儀、 御所役人どもえ賄賂差し出し候儀も相聞こえず、請負人どもよにり振る舞いを受け候ものどもにて、  一件の内、善兵衛ほか三名に見合い、格別品軽く御座候あいだ、きっと叱り。

こういう納入業者による供応接待は、受けない側の者からの妬みによる風評がもとで発覚することが得多い。
ことは小さな接待だが、それがもとで、芋ずる式に大きな不正があばかれる。

地下官人の事件の発覚の端緒かもしれない。

参照】2009年7月15日~[小川町の石谷備後守邸] () (
2009年8月10日~[ちゅうすけのひとり言] (36) (37) (38) (39) (40)
2009年9月19日[命婦(みょうぶ)、越中さん
2009年9月20日~[御所役人に働きかける女スパイ] () () (
2009年9月23日[幕末の宮廷』因幡薬師』
2009年9月24日[『翁草』 鳶魚翁のネタ本?

三田村鳶魚翁『御所役人に働きかける女スパイ』(中公文庫『敵討の話・幕府のスパイ政治』に収録)は、

一件聞合せのため、江戸から小十人衆(こじゅうにんしゅう)・御徒衆(おかちしゅう)が内々上京し、横目というので、御小人集(おこびとしゅう)も入洛しているのを、(西町奉行所の)組下の者どもに感知されない用心までしていた。
そうだから、隠密御用で入洛した連中は、夜陰人静まった頃でなければ、山村信濃守のところへ忍んで来ることをしないほどであった。
こうして、着任後の半年を、江戸からの隠密御用で来ている人々と共に、懸命な捜索につとめたけれども、何の甲斐もない。
さすがに山村信濃守も手段方法に尽き果てて、命令の仕様なく、隠密方も工夫才覚が断えて、献策する者もなくなってしまった。

今度上京した御徒目付中井清太夫、この清太夫は河内楠葉の郷士の倅で、親父仁右衛門が利口な当世向き男だから、如才なくその向きへ取り入って、倅清太夫を御普請役(四十俵五人扶持)に採用して貰った。


この、中井清太夫が徒目付となって上京してきて、探索の妙案をだしたことは、第1篇にすでに記した。
asou さんは、『よしの冊子』から中井清太夫の記述を探しだし、こんな追加コメントをくださった。


女スパイの話で事実とちがっていることがわかりました。
肝腎の中井清大夫の経歴に「徒目付」がなかったことです。
目付時代の山村信濃の配下に徒目付の中井清大夫がいて、禁裏役人の不正を追及していた、という仮説が否定されたのです。
中井清大夫については、
「よしの冊子 二」の(「日本随筆百花苑」の八巻か九巻か記載を忘れてしまいましたが)、59頁にもいろいろ書かれています。
真偽のほどが確実でない噂話の集合体なので話を割り引くとして、
「中井清大夫は大和国百姓の二男で、江戸へ来て御徒になった。京都の禁裏の御勝手役人に清大夫の伯父がいて、この伯父から内々に京都役人の私曲を聴きだし、これを幕府へ密告、その伯父の首も切らせて、その功績で代官に出世した。もっとも伯父の子を引き取ったらしいが・・・(以下略)」
これによると、中井清大夫は元は御徒であって徒目付ではなく、また、上方の出身であり、鳶魚翁の記述とは別バージョンの話で、禁裏役人の不正追及に関わっていたと思われていたことが興味深いです。

これだけでは実在の中井清大夫の前歴が徒目付だったか、御徒だったか断定はできませんが、後にもっと確実な史料で彼の経歴が御徒であったことが確認できました。
同時代の幕臣の隠居である小野直賢という人が延享2年(1745)から安永2年(1773)まで、幕府の令達や人事等の記事に加え小野家の日々の生活を記録した日記である、
「官府御沙汰略記」という史料です。
この存在を知ることができ、それにより
中井清大夫は、御徒から支配勘定にとりたてられ、勘定方の中で段階を踏んで出世して、安永二年の御所役人の逮捕劇が起きた時点では「御勘定」であったこと(偶然か
鳶魚翁の記述でも、京都に「御勘定の格式で乗りこんできた」ことになっていますが・・・)が確認できました。

かなり有能だったのか、御徒身分から勘定方へ登用され出世も比較的早かったのでしょう、他のライバルや御役につけない御家人たちの妬みを買っていたのかもしれません。それでやっかみ半分で根も葉もないうわさを流されてしまったのではないでしょうか?
下橋翁の講話とこの「よしの冊子」の中井清大夫に関する噂と翁草をミックスすれば、鳶魚翁の女スパイ話ができあがるかもしれません。

よしの冊子』の原文の前の方を写してみる。

よしの冊子 二          この巻必ず他へ出さざることと書きおく也

(天明七年(1787)十一月より四月マデ

一 中井清太夫雑評、一躰山師ニて、大和之百姓の次男、
江戸へ參り御徒二相成候処、京都禁裡御勝手方之役人ニ、
清太夫伯父御座候由。右伯父ニ内々ニて京都役人私曲之
筋坏承り表向へ申立、清太夫懸りニ相成、右伯父ノ首ヲ
切せ其外をも刑罰被ニ仰付候由(尤伯父ノ子ヲバ手前へ
引取候よし)                    其功ニ依
て御代官ニ相成、甲州へ參居候由。尤河合越前ニ気ニ入、
其後松本と縁を結、赤井へも至極心安キよし。甲州ニ居
候節、百姓をだまし、安藤弾正少弼用人之宅へ捨文致さ
せ候由。(其趣意ハ漬太夫至極よろしき役人故、何卒甲州
御郡代ニ被ニ仰付、布衣ニ被仰付候様、百姓一統ニ奉願度ノ
よしを認候よし)。
尤其捨文ハ焼捨二相成候由。とかく百姓ニ進め、箱訴
杯致させ侯由。江坂孫三郎杯、又例の中井箱訴かと被
レ笑候事坏度々御座候由。


(後段部分は、あとで---ということにして)

ちゅうすけ注】引用した『よしの冊子』の原文中の河合越前は、勘定奉行だった川井越前守久敬(ひさたか 530石 享年51=安永4年)、松本は、伊豆守秀持(ひでもち 700石 61歳=天明7年)、赤井は、越前守忠晶(ただあきら 700石 58歳=天明7年)。両人とも前年まで勘定奉行。
安藤弾正少弼(だんじょうしょうひつ)(惟要 これとし 73歳=天明7年 500石)は、宝暦11年(1761)から天明2年(1782)まで勘定奉行。
江坂孫三郎正恭 まさゆき 享年65歳 150俵)は、清太夫の上役の、勘定吟味役。

三田村鳶魚は、清太夫は楠葉村の郷士の次男としているのに、『よしの冊子』の隠密(徒目付や小人目付)は、「大和の百姓の次男」と書きすてている。

A_360
京都から楠葉村(明治19年 参謀本部陸地測量部製)

A_360_2
(上掲図の楠葉周辺を拡大)

_130地図でみると、北河内の楠葉は、山城国南端からも大和の西北からもそれほど離れてはいない。
それで、北河内を大和としたのかも---とおもったが、諸田玲子さん『楠の実が熟すまで』(角川書店)の末尾の参考文献のひとつに、
枚方市史』(枚方市教育委員会編)
があげられていた。

枚方市史』は昭和26年(1951)刊行の旧版と、昭和40年代に20年近くを要して全12巻にまとめた新版がある。
両版を点検したところ、旧版に、水治をよくした中井ニ左衛門宗山と、その嫡男・万太郎を顕彰した文章があった。

ニ左衛門の書き出しは、

楠葉南村の人、宗山と号した。地方の郷士として高四百余石を所有し、地理に明るく、治水に対する造詣がふかかった。
そのあとの記述がすごい。

近隣の村々98ヶ村は、あわせて高53,500石余だが、山からの出水や悪水にしばしば98ヶ村を襲われ、元文元年からの10年間の取米は年平均14,400石余でしかなかったというのである。
治水に明るいニ左衛門の指導によっての築堤防で3,400石の増益、悪水抜井路の普請成就で27,200石余を上納できるようになったというのである。
当時の幕政としても、喜悦満面であったろう。

中井清太夫ニ左衛門の次男であったとすれば、、三田村翁のように「親父仁右衛門が利口な当世向き男だから、如才なくその向きへ取り入って、倅清太夫を御普請役(四十俵五人扶持)に採用して貰」うだけの財力とは別に、幕府の執政たちは、清太夫を徒(かち)の組子なり、勘定奉行所の下級官吏---御勘定に採用して報いたであろう。

ついでだから記しておくと、楠葉村の高は、代官支配地が1,920石余、幕臣・船越某の知行地が554石余であった。
ニ左衛門の400石余は代官・多羅尾織之助の支配地であったろう。

また、ちょうどこの時代(明和期1764~)の楠葉村の農民階層は、
本百姓  232軒
水呑高持  77軒
水呑    102軒
と新編『市史』に記録されているところから推察するに、中井家の持分はとびぬけて大きい。

で、結論だが、長谷川平蔵宣以(のぶため)に対する評価の経緯を見、前々から疑念を抱き、公けにも言っていたことだが、『よしの冊子』の報告者である隠密の程度は、密疎の差がありすぎる。

追記】中井ニ左衛門の歿したのは明和8年(1771)8月3日、歿齢は不明だが、50歳から60歳のあいだではなかろうか。
嫡子・万太郎(家督後、ニ左衛門を襲名)が没したのは、平蔵宣以と同じ寛政7年(1795)の、4月15日。
なお、楠葉共同墓地にあるニ左衛門父子の墓碑fは、かなりの傷みがきているという。子孫が枚方市にいないのであろう。
そういえば、明治以後の楠葉村の、歴代の村長や村会議員に中井姓は見あたらなかった。

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コメント

『枚方市史』のご紹介ありがとうございます。父?の二左衛門が村の治水に力を注ぎ、生産性を上げたという話はすごく腑に落ちます。
代官時代の中井清大夫も「よしの冊子」のボロクソに近い記述とは裏腹に、かなり有能ないいお代官様だったということを想像させる話があります。
甲府代官時代に馬鈴薯栽培を奨励し、おかげで天明の飢饉のときに、甲州の住人はず随分と助かったのだそうです。
今も甲府の神明神社には天照大神とともに
「芋代官」として御祭神に祭られているそうです。(甲府まで行って確認したわけではないですが)

清大夫と二左衛門との血縁関係についても、「官府御沙汰略記」に記載が出ていました。
明和四年二月八日に御徒であった中井正(庄?)五郎が支配勘定に取り立てられ、このとき名前を清大夫に改名した事とともに、大阪表浪人中井仁左衛門弟と書かれているように読めます。
「官府御沙汰略記」は翻刻されていない、手書きの原文をそのまま写真に撮影した、影印判のため、読み取りにくい部分がところどころあり、弟という部分も少し字がにじんだというか、つぶれた部分があって自信が持てないのですが・・・

中井清大夫は大和国百姓二男ではなく、河内国楠葉の郷士中井仁左衛門の身内(息子か弟かのどちらか)である、のだと思います。
そうなると気になるのは鳶魚翁は中井清大夫が河内国楠葉の中井仁左衛門の子であるとする元ネタを別に知っていたことになるのではないかということです。
「翁草」にも「よしの冊子」にも楠葉の郷士の一族であるとする記述はなかったわけですから。

投稿: asou | 2010.01.25 17:02

>asou さん
いろいろお調べになった貴重な史料を、あれこれご開陳いただき、ありがとうございます。
おかげで、貧弱なフログの格があがります。
中井清太夫の記録は、けっこう残っているんですね。もしかするとると、長谷川平蔵より多いかも(笑)。
『続史愚抄』の処分の記録、『よしの冊子』の風評は、いずれ、第3弾という形で使わせていただきます。平岩弓枝さんや諸田玲子さんが、asou さんの一連のコメントに目をとめてくださるといいのですが。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.26 03:07

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