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2010.01.24

『よしの冊子』中井清太夫篇

禁裏の地下官人の不正摘発についての第2編である。

きっかけは、asou さんから、ご教示に富んだコメントをいただいたことによる。

「京都側の史料として「続史愚抄」(吉川弘文館)も参考になると思います。
この事件より少し後の時期に柳原紀光によって編纂された、いわば朝廷版の「徳川実紀」というべき書物です。
これによると安永二年の十月にはすでに御所役人たちの逮捕劇は始まっておりました」

「そして、翌三年の八月には判決。(逮捕~判決が一年足らず、これは早いような気もしないではないです)
山村信濃が京都奉行に着任して、すぐに当事者の逮捕が始まっていたことになるようで・・・山村信濃が密命を帯びて着任して、いろいろ捜査して、というのでは十月の逮捕劇に間にあったのだろうか、もっと前から調べていたのではないか、とも思えます」

ちゅうすけとしては、『続史愚抄』 の安永2年(1773)10月(巻15 p661 1行のみの記載)とその前後を仔細に読んだが、該当する記事は見つからなかった。
探し方が当をえていないのであろう。

「山村信濃(守良旺 たかあきら 45歳=安永2年 500石)が京都奉行に着任して、すぐに当事者の逮捕が始まっていたことになるようで・・・」

徳川実紀』の安永2年8月18日の項に、目付だった

山村十郎右衛門良旺京都町奉行となり---

同年6月22日に卒したことになっている西町奉行・長谷川平蔵宣雄(のぶお 享年55歳)の後任として、2ヶ月近くものあいだを置いての発令である。

実紀』の安永2年9月朔日の項に、

京都町奉行山村十郎右衛門良旺は赴任のいとまたまわり、叙爵して信濃守と称す。

発令されてから13日間ほどを、目付役の引継ぎや赴任準備・あいさつ廻りにあてていたのであろう。
しかし、「赴任のいとま乞い」のときに、〔信濃守〕の官職名と従五位下の叙爵というのも珍しい。
遠国(おんごく)奉行だから、受爵に帰府が難儀だから---との温情ともおもえない。
早くから禁裏に手をまわしていたのであろう。

長谷川平蔵宣雄の場合は、先手・弓の8番手の組頭から、京町奉行へ、明和9年(1772)10月15日の下命。
実紀』には、

同年11月15日京町奉行長谷川平蔵宣雄、叙爵して備中守と改め。赴任の暇賜ふ。

きっちり、1ヶ月間の猶予である。

13日後のいとま乞いと、30日後のそれと、どちらが先例かとおもい、平蔵宣雄の先任者・大田摂津守正清を『実紀』であたってみた。

明和元年(1764)閏12月15日京町奉行松前筑前守順広は持弓頭となり、目付大田三郎兵衛正清は京町奉行となり---

大田正清摂津守が叙爵されたのは、同年12月18日、ほかの2人と併記;されていた。
12月後半の叙爵は、毎年の定例である。
ちなみに、大田のいとま乞いの月日は記載がない。

大田正清の前任者として名前が出ていた松前筑前守順広は、

宝暦6年(1756)11月3日 駿府町奉行松前隼人順広京無町奉行となり。

いとま乞いの記録がないので、駿府からそのまま京都へ赴任したのか、いっとき帰府しいとま乞いをしたのかは不明。
筑前守への叙爵は、12月18日にほかの11人と連名で記されている。

こういう些細は、これまで目にしたことがないので、調べた先達がいらっしゃらないのかもしれない。
あとで、もうすこし、数を調べて、まとめておきい。


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コメント

該当する記述は『続史愚抄』 の713頁あたりになるかと思います。
十月の十五日に第一陣の逮捕、翌十六日にも第二陣と逮捕者が出ております。
(徳川実記とは少し書式が違うかもしれないですが)

あいにく今居住している市内には一か所しか所蔵している図書館がなくて(しかも貸出禁止の閲覧のみ)、記述箇所の頁までしか今回は確認できませんでした(そこで、時間切れ)。
明日は休館なので火曜日以後、出直して該当箇所のコピーを録ってこようと思います。(こんなことなら、引っ越す前にコピーしておけばよかったです)

ところで、京都町奉行の交代にかかる期間ですが、前任者の死亡による交代は、通常の人事異動の場合とはやはり違う、ということはないでしょうか?
前任者が亡くなって、江戸へ知らせて後任を早く決めて京へ派遣しないと公務に穴があいているわけですから、叙爵も早手回しにする必要があったのでは?

投稿: asou | 2010.01.24 18:26

>asou さん
平謝り。貴重なお時間をいただいてしまい、申しわけありませんでした。
借り出している『続史愚抄』(吉川弘文館 『新訂増補 国史大系15』)のご指示いただいたページにちゃんとありました。
なぜ、見つけられなかったか、シオリをはさんだページを確認したら、まさに、呆然。明和2年の10月をみて、早合点していたのでした。
ちゃんと、頭のなかでは、安永2年と了解しきっていて、このチョンボです。
お許しください。土下座です。

今早朝、オフィスに行き、安永2,3年をコピーしました。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.25 10:22

一度、市内で一番大きい図書館を訪ねる必要はあったので、あまりお気になさらないでください。
寛政譜と藤岡屋日記などを所蔵していたこともわかりましたし。
また、折を見て訪ねてみたいです。
国会図書館の代わりとまではいかないですが・・・
前住んでいたところの図書館がすごく充実していたのだと、今になって実感しております。

「続史愚抄」は源平藤橘に諱なので、少しやっかいかもしれません。
御仕置き例類集の通称と全員の特定はできませんでした・・・

投稿: asou | 2010.01.25 13:30

ご寛恕、ありがとうございます。
ホッとしました。
『寛政譜』を備えていてくれると助かりますね。なにしろ、場所をとのますから。
『藤岡屋日記』は、うちの近くの図書館も常備していてくれています。三一書房も住まいの近くでしたが、消えました。近くでのこっているのは、青蛙房ですが、もう買うこともなく、誤植を通知するくらいのご縁になりました。

投稿: ちゅうすけ | 2010.01.25 16:04

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