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2009.11.27

銕三郎、京を辞去

推測ではあるが、(陰暦)安永2年(1773)6月23日の葬儀を終えた銕三郎(てつさぶろう 28歳)は、手ばやく諸事をかたづけ、月末近くには所司代・土井大炊頭利里(としさと 52歳 古河藩主 7万石)ほか、東町奉行や禁裏付、山科代官所などへの返礼まわりをすませていた。

司所代では、用人・矢作(やはぎ)吉兵衛(きちべえ 39歳)と密談の形で、禁裏役人の不正の暴露ができなかったことを詫びた。
「なにしろ、ご任期がお短かすぎましたよ。せめて、もう半年、任につかれておられれば、手がかりがえられましたものを。備中さまも、さぞや、ご無念でありましたろう」
矢作用人は、銕三郎をなぐさめた。

「じつは、堺町四条上ルの宮中御用の白粉卸〔延吉屋〕へ、お(おかつ 32歳)と申す化粧(けわい)指南師をもぐりこませ、地下(じげ)官人の女房かむすめがひっかかる手はずをしております。もし、手がかりがつかめた節は、矢作さまへお伝えするように申しつけておきましたゆえ、しかるべくお手配をお願いいたします」
「おお、そのような奇特なお手くばりをなされておりましたか。さすがは、田沼老中さまが見込まれた備中さま---」

strong>銕三郎は、自分の手配であることを、ついにいいそびれたてしまった。

には、首尾があがらないようなら、てきとうに打ち切り、〔狐火(きつねび)〕のお頭のところへ戻るなり、江戸下ってくるようにいってあった。

の返事は、いまの仕事の実入りがいいし、お乃舞(のぶ 14歳)とその妹とのこともあるから、しばらく指南師をつづけるといったあと、
「もし、江戸へ行くようなときには、お乃舞たちもいっしょでいいですか?」
「江戸へ帰れば、亡父の跡目を継いでいようから、おぬしら3人くらいの面倒はみられよう」
「ありがとうございます」

参照】2009年9月24日~[お勝の恋人] () () (

祇園一帯の香具師(やし)の元締・〔左阿弥(さあみ)〕の円造(えんぞう 60すぎ)と2代目・角兵衛(かくべえ 41歳)に別れを告げに行き、〔化粧読みうり〕の板元は、打ち合わせ通りに、しばらくは〔相模(さがみ)〕の彦十(ひこじゅう 38歳)ということで町奉行所へ登録をすませたことを告げた。
角兵衛は、お披露目(ひろめ 広告)枠の手数料がつづいてはいることを喜んだ。
もっと嬉しがったのは彦十で、彫り師や刷り職へ手間賃をくばってまわるだけで1板でるごともに、2両(32万円)をこえる広告料がころがりこんでくるというので、有頂天であった。

さん、2両からはみ出た分は、貞妙尼(じょみょうに)の供養料ということで、母親のお(かね 47歳)にとどけてやってくれるとありがたいのだが」
「がってんでやすとも」
銕三郎には、彦十がおを抱くことはわかっていたが、花園の天寿院の住職の通い妾をするより、貞尼(ていあま)の供養になるとおもえたのである。

最後に、〔狐火(きつねび)〕の勇五郎(ゆうごろう 53歳)に別れを告げに、川原町すじの骨董舗〔風炉(ふろ)屋〕を訪ね、お(りょう 享年33歳)が葬られている寺を訊いた。

祇園丸山町の安養寺の墓域の中の、塔頭・蓮阿弥(れんあみ)の区画だと教えられた。
「そこのご住職が茶碗がお好きなもので、最初の女房・お(せい 没年26歳)が死んだときに、ささやかな墓地を買ったので、おの墓石も隣につくってやりました」
「分骨はしていただいおりますが、別れの墓参をいたしてやりたくて---」
「お(しず 25歳)に案内させましょうか?」
6年前、おが〔狐火〕のもちものになってすぐに、向島の寮で2人はできてしまったが、たしなめただけで勇五郎は若かった2人を許してくれた過去があった。

「とんでもない。いえ、葬儀にも加われなかったので、独りで、ゆっくり詣でてやりたいのです」
「それでは、庫裡(くり)のほうへ通じて、花と塔婆を用意させておきます」
「なにからなにまで、かたじけない」

参照】2009年8月1日[お竜(りょう)の葬儀] () () (

安養寺へ詣でた銕三郎は、はじめて左阿弥という塔頭もあることを知った。

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(円山・安養寺 左端中が蓮阿弥、下中が左阿弥 
『都名所図会』 塗り絵師;ちゅうすけ)

小さな墓石に香華をたむけ、銕三郎は胸の中で語りかけた。
(江戸へ帰る。ふたたび、この地へくることはあるまい。が、お、江戸の戒行寺にも納骨する。彼岸ごとに詣でてやるからな。それより、お前は、おれの頭のすみにいつもいて、なにかと教示してくれ。頼りにしている。あすは、大津に泊まり、お前を呑んだ湖に花を撒いてやろう)

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コメント

お竜さんの葬地は安養寺の蓮阿弥だったのですか。時宗の坊ですね。こんど、京都へ行ったら、詣でてきます。

投稿: tsuuko | 2009.11.27 05:57

>tsuuko さん
たしかに、お竜は、魅力的な女性でした。頭脳的にも、精神的にも、当時としては珍しい存在でした。現代なら、彼女以上に魅力的な女性が多いとおもいますが。

投稿: ちゅうすけ | 2009.11.27 09:37

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