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2009.11.28

銕三郎、京を辞去(2)

滝川政次郎先生が『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫)の執筆時には、鬼平ブームは起きていなかったばかりか、平蔵宣以の同時期の詳細な記録『よしの冊子』(中央公論社 『随筆百華苑』第8、9巻)も刊行されていなかった。

そこで、滝川先生は窮余の策として、「全幅の信頼を措くには足らないが---」とことわりながら、牢人・岡藤利忠の『京兆府尹記事』を引き、京都時代の銕三郎(てつさぶろう 28歳)を素描なさっている。

その一つ---家族を引き連れて江戸へ帰府する銕三郎を、町奉行所の与力・同心が見送るくだり---、
,
平蔵が曰、おのおの方御堅固に御在勤あるべし。后年長谷川平蔵と呼ばれて、当世の英傑と世に云れん事を思う。(中略)各(おのおの)方御用として参府あらパ、必らず訪(とむら)ハせらるべく候、と暇乞いたしける。組士とかくいふ、幼者とて平蔵大言猥(みだ)りに吐(はく)。

いつかも記したが、筆者の藤岡は、銕三郎をこのとき13歳としている。
史実は28歳だから、半分以下に誤記しているぐらいだから、信用度は薄い。

が、言ったかどうかはともかく、
「用務で江戸へお下りになった節は、南本所のわが屋敷へもお立ちよりになり、その後の都の話などに花を咲かせて、奥などを楽しませてやってください」
くらいのお世辞を吐いたとしても、別に、おかしくはない。

鬼平犯科帳』では巻16[見張りの糸]で、町奉行所の与力・浦部彦太郎が訪ねてき、〔五鉄〕のしゃも鍋をふるまわれているが、じっさいに組士がきたかどうかは、分明でない。

似たような逸事が、四壁菴茂蔦わすれのこり』(中央公論社 『続燕石十種 第2巻』)に「長谷川平蔵殿」と題して掲げられている。

本所花町に、火附盗賊改長谷川平蔵殿役中、賞罰正しく、慈悲心深く、頓知の捌(さばき)多し、名高き稲葉小僧といふ賊も、その手にて召捕らたり。人々、今の大岡殿と称し、本所の平蔵様とて、世にかくれなし。上にも、町奉行になされ度き御含なれど、持高の少き故、其御沙汰もなかりし。

【参照】2006年7月27日[ 「今大岡」とはやされたが

盗賊・稲葉小僧は、ある資料によると、明和元年(1764)の生まれというから、平蔵宣以が火盗改メに任じた天明7年(1787)にはまだ14歳である。
池之端で厠の用をいいたてて縄抜けし、いらい行く方しれずとなったというから、捕らえたのは長谷川組ではなさそう---というひことは、「わすれのこり」の記述も信用がおけないということになる。

しかし、この件は別段、正確さをうんぬんするほどのものでもなので、以下、現代語訳にして綴っておく。


そのころ、本所三ッ目のあたりに、大工職で平蔵というのおり、かせぎのために京へ上り、2,3年後に江戸へ帰るにあたり、もし、江戸へくるようなことがあったら「本所の平蔵」でわかるから、寄ってくんねえ。悪いようにはしねえから」と大言をぬかした。

ところか゜、真にうけたのが江戸へやってきて平蔵を探し、火盗改メの平蔵のところへ案内された。
もちろん、平蔵宣以に覚えはないが、捨ててもおけず、手をつくして大工の平蔵を見つけだし、面倒をみてつかわせ」と、その京男を渡した。

この話から察するに、牢人・藤岡は、「わすれのこり」から換骨脱胎したのではあるまいか。


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コメント

極めて少ないといわれている長谷川平蔵のデ-タの宝庫ですね、このブログは---。
ちゅうすけさんの収集力というか、ご努力かな、それとも資金力かな、とにかく、なみじゃないです。
フアンとしては、感謝のかぎりです。

投稿: 文くばり丈太 | 2009.11.29 05:45

>文くばり丈太 さん
おかげさまで、コピライターなんて実入りがすこしいい職についていましたので、史料はそのアブク銭で買い貯めていたのですが、数年前に、南〇堂書店という神田の札つきの悪古書店にひっかかりまして。

投稿: ちゅうすけ | 2009.11.29 08:01

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