「お人違いをなさっていらっしゃいます」
{では、お眠(やす)みなさいませ」
久栄(ひさえ 21歳)が、遣った枕紙をまとめて部屋を出ていった。
久栄の寝間は、廊下をへだてたはす向かいである。
独りなったので、久栄の体温とあの匂いが残っているのを感じながら、明日、夏目藤四郎信栄(のぶひさ 22歳 300俵)との会食のことをおもいうかべた。
料理茶屋〔貴志〕の女将・里貴(りき 30前後)がはべっているときに、信栄の内室・於菸都(おと 20歳)のことを話題にのせて、顔色を読むか。
あるいは、信栄のすきをみ、書物奉行・長谷川主馬安卿(やすあきら 55歳 150俵)からの書付を、付文(つけぶみ)もどきに、そっと袂へ入れてやるか。
「奥村内蔵允矩永(のりなが)どの。明和6年正月20日歿。36歳。書院番士。600石。内室は菅沼次郎右衛門武勝(200石)の次女」
(帳場へ退(さが)ってから確かめ、どきっとするかな)
いや、待て。
どこかおかしい。
そうだ、木挽町の田沼(意次 おきつぐ)別邸で顔を見たのは4年前であった。
夫・奥村矩永が病没したのは明和6年(1777)---つまり、4年前だから、田沼別邸にいたことも辻褄があわないわけではない。
しかし、喪もあけないうちから、ほかの男の屋敷に住みかえるであろうか。
ましてや、跡目相続をした継嗣を措いて婚家を出るだろうか。
その年の4月か5月に相続の奉書がくだされているはずだから、嫡子のことも書物奉行・長谷川うじ確認してみないとな。
【ちゅうすけ注】平蔵(へいぞう 28歳)に内緒で暴露(バラ)すと、継嗣・三平が相続の許しを申しわたされたのは、当主・矩永が没した年---明和6年の4月4日。このとき三平(矩恭 のりゆき)は16歳。母は、矩永の正室。
さらに三平には、姉もいた。
ということは、後家の正室は、16歳で長女を、18歳で三平を産んだすると、いま36歳より上ということになる。30歳なんて若さではない。
奥村矩永の内室---とカマをかけて、あの透きとおるような顔で、
「お人違いをなさっていらっしゃいます」
逃げられるのがおちであろう。
〔駕篭徳〕の舁ぎ手に化けている加平(かへえ 23歳)と時次(ときじ 21歳)の2人からのつなぎ(報告)を得てから、あれこれ考えをめぐらしても遅くはなかろう。
それにしても、男を知ってはいるがその匂いがつゆとも肌にあらわれず、それでいて30年増の脂っけはしっかりとつけている里貴という女性(にょしょう)の正体には興味をそそられるが、
(おれの探索のそもそもは、公儀がわざわざに創設した火除け地iに、あの料理茶屋があっけらかんと建てられた裏の事情がしりたいたのだ)
しかし、平蔵には、貞妙尼(じょみょうに 享年26歳)に似た肌を持ち、〔中畑(なかばたけ)お竜(りょう 享年32歳)の秘密めいた雰囲気もあわせもっている里貴ヘのこだわりも薄くはなかった。
【参照】2009年10月12日[誠心院(じょうしんいん)の貞妙尼(じょみょうに))] (1) (2) (3) (4)(5) (6) (7)
[貞妙尼(じょみょうに)の還俗(げんぞく) (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10)
2009年11月17日~[宣雄の同僚・先手組頭] (8) (9)
2008年11月25日[屋根船]
2009年1月24日[掛川城下で] (4)
すべては明日のこと---と、布団をぱっとめくり、久栄の残り香をはたきだし、眠りについた。
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