妹・与詩(よし)の離婚(2)
このブログ『Who’s Who』の中での養女・与詩(よし)は、16歳で、いうところの適齢期であった。
しかし、養母・妙(たえ 48歳)は、
「与詩が桑名橋を不縁になって---」
平蔵宣以(のぶため 28歳)に告げてしまった。
桑名橋は、小石川竜門町と同諏訪町に架かる橋で、三宅家が諏訪神社の裏手に150坪ほどの屋敷地を拝領していた。
このあたりの矛盾については、きのうの回に疑問を呈しておいた。
とはいえ、疑問のままにしておくわけにはいかない。
与詩が16歳で三宅半左衛門徳屋(とくいえ 56歳=明和7年(1770) 200俵 西丸小十人)に輿入れしたとすると、養父・宣雄(のぶお)が先手弓の8番手の組頭(役高1500石格)のころである。
その格式をもってしても、また実父はすでに亡いとはいえ、名門・朝倉の分流で、駿府町奉行(役高1000石)を勤めた仁左衛門景増(かげます 享年61=宝暦13年 300石)だし、嫡兄は書院番士が長いから、ふつうなら、50歳代の半左衛門に嫁がせるとは思えない。
ふつうでないとすれば、与詩の側に、身体的(容貌的)な、あるいは性格的な欠点があって、レベ゛ルを下げなければならなかったか。
いや、そういうマイナ点があれば、婚姻を家名の維持の一条件とかんがえていた当時、宣雄が養女にしたであろうか。
宣雄の在世中の婚儀としたばあい、一つかがえられなくもないのは、宝暦8年から宣雄が勤めていた小十人頭(がしら)時代の顔なじみということであるが、半左衛門徳屋は西丸の組子であるから、それも早計には肯定しかねる。
益ない詮索はおいて。
三ッ目通り長谷川邸に戻ってきた与詩は、どうしたろう?
母屋は、当主となった平蔵宣以とその室・久栄(ひさえ 21歳)、それに息・辰蔵(たつぞう 4歳)と於初(はつ 1歳)が離れから移り住んでいた。
養母・妙は、銕三郎(てつさぶろう)時代の夫妻が居住していた離れに入れ替わっている。
与詩も、住むとすれば離れに1 部屋を建てまして住むことになろう。
「母上。与詩に、ぜひとのお声がかかりました」
与詩は、妙を実母のように慕っている。
「おや、どこからかえ?」
「納戸町の於紀乃(きの 74歳)刀自さまからです」
【参照】2008年9月8日~[〔中畑(なかばたけ)のお竜(りょう)] (1) (2)
2008年10月5日~[納戸町の老叔母・於紀乃] (1) (2) (3) (4)
この話を母から相談をうけた夜、
「久栄。そういうことだが、男を知ってしまっている与詩が、老叔母の介護だけでもつものかな?」
「三宅の老夫さまが、どこまで熟(う)れさせておられますか。おんなは、男次第でございますゆえ」
「おんな同士、半左爺どののそのむきのこと、与詩から聞いておらぬか?」
「訊くには、銕(てつ)さまのその手ぎわも告白しませぬと、与詩さまも話しずらいでしょう」
「それは困る」
「あら、私は、はやばやと、熟れすぎさせられておりますよ」
「うむ」
久栄の指が、平蔵のものをやわらかく包み
「いかがでしょう? 隣家・松田(彦兵衛貞居 さだすえ 66歳 1050石)の於千華(ちか 38歳)さまに引きあわせて、訊きだしていただいては?」
「だめだ。燠火(おきび)を燃え立たせてしまうようなものだ」
「このようにでございますか?」
久栄が、熱くなっている下腹をすり寄せた。
【参照】2009年2月18日~[隣家・松田彦兵衛貞居] (2) (3)
2009年6月19日~[宣雄・火盗改メ拝命] (5) (6)
2009年7月3日[目黒・行人坂の大火と長谷川組] (2)
2009年7月24日[千歳(せんざい)のお豊] (5)
[]ちなみに、奥田河内守貞居は、2年前に山田奉行として赴任し、内室の於千華は、一人子・新三郎(14歳)と留守宅にあったが、芝居に入れあげているとの風評であった。
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コメント
御所役人と銕三郎との知恵比べをめぐってのやりとりについて、asouさんとちゅうすけさんのかけあい---智と智の助け合いの感じで、ネットなればこそですね。
投稿: tsuuko | 2010.01.06 05:56
>tsuko さん
asou さんのコメントには、大いに啓発されました。あの事件は、調べればしらべるほど、長谷川家にもかかわりがありそうで、asouさんのご教示をヒントに、再度挑戦してみたいと考えています。
投稿: ちゅうすけ | 2010.01.06 18:41