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2007年4月の記事

2007.04.30

シリーズ・タイトル〔鬼平犯科帳〕

『オール讀物』編集部時代に池波さん担当だった花田紀凱さんが、朝日新聞社刊『池波正太郎作品集』(1976)に挟入された月報に寄せたエッセイによると、シリーズ・タイトルが〔鬼平犯科帳〕に決まるまでには、編修部内で〔本所鬼屋敷〕、〔本所の鬼平〕、〔本所の銕〕、〔鬼平捕物帳〕などの案が出た。

ギリギリになって〔鬼平犯科帳〕とつぶやいた仁がいた。4年前に出て新鮮な感じを与えた岩波新書『---長崎奉行所の記録---犯科帳』を思い出したらしい---と、花田さんが『ダカーポ』に語っている。

その定説に、あえて、反論をとなえてみたい。
『長谷川伸全集 第十巻』(朝日新聞社 1971.8.15)は、[新コ半代記]などの自伝・エッセイ集だが、その中の1972年10月に人物往来社から刊行された[私眼抄]と題した覚え書きが収録されている。
書きつぶした原稿用紙の裏に示された文章らしいが、[法刑・犯科篇]という章に目がいく。

1972年(昭和42)は、[1-1 唖の十蔵]が1968年に連載第1話として『オール讀物』に発表された4年後である。
しかし、長谷川伸師の草稿は、同書の上梓のずっと前から書きつづけられており、その内容は、新鷹会その他で折りにふれて伸師の口から語られていたと想像できる。
「犯科」という言葉も出ていよう。
池波さんがは長谷川平蔵宣以に興味を抱いて史料を探索していることをご存じだった伸師は、それとなく草稿を示していたともいえないだろうか。

いや、『オール讀物』の通しタイトルは、編集部内で発案・議論されたものだ。試案が決まってから、池波さんの了解がとられたはず。
やはり、〔鬼平犯科帳〕は、岩波新書がヒントだったのだろう。

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2007.04.29

牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)

出は讃岐国だが、先祖が駿河国今川義元・氏真に仕えて、蒲原に住したというから、今川家臣の系統。
ということでは、今川家臣で徳川へ就いた長谷川家と、まんざら、縁がないわけでもなさそうである。

Photo_344

いま以上に血縁、地縁などの人間関係が重きをなした時代である。もし、徳川幕臣の中に元・今川とでもいう懇親グループがあったら、長谷川本家の太郎兵正直衛(まさなお)と顔見知りだったということも想像できて面白い。

さて、延享5年1月10日に病死するまでの権十郎宣尹(のぶただ)が属していたのは、松平長門守定蔵(さだもち)が番頭だった西丸の小姓組で、組下を実質的に取り仕切っていたのは、寛保2年(1742)から(与)を勤めていた牟礼清左衛門葛貞(800俵)だった。

牟礼清左衛門葛貞(48歳)の許へ、長谷川太郎兵衛正直(39歳)が平蔵宣雄(30歳)を同道で、権十郎宣尹の病気免職願いを提出してきた。
前年、太郎兵衛正直は、大御所(吉宗)つきの小姓組組頭になったばかりで、じつは前夜、単身で牛込築土下五軒町にある牟礼家を訪れて、病免願の上呈を打診していた。
太郎兵衛正直の長谷川本家の拝領屋敷は、外堀を隔てて牛込に近い一番町新道にあった。
石高は長谷川本家は1450石で、牟礼家の800俵よりも家格は上位にあったが、組頭の先輩としての礼をふんだのである。

宣雄を見た清左衛門が、上機嫌で言った。
「ご息災のおもむきで、なによりのこと」
権十郎宣尹のたびたびの病欠に困り果てていたことを匂わせた。
太郎兵衛正直が代弁した。
「組頭には、ご心配のかけどおしでございました。これは、ご覧のとおりに躰だけは頑健に育っております」
宣雄の父が病床にあることは伏せて、言葉をつぐ。
「これの家督のお願いもよしなにお取り計らいを」

宝暦5年(1755)
 牟礼清左衛門葛貞は先手弓の第4番組頭に(66歳)。
宝暦13年(1763)
 長谷川太郎兵衛正直は先手弓の第7組番組頭に(54歳)。
明和2年(1765)
 長谷川平蔵宣雄は先手弓の第8番組頭に(47歳)。

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2007.04.28

久松松平家と長谷川平蔵家の因縁

2007年4月21日[寛政譜(17)]に、辰蔵宣義(のぶのり)が幕府に上呈した[先祖書]の6代当主・権十郎宣尹(のぶただ)が病気から再起して、

延享四丁卯年(1747) 再御奉公 奉願同年
五月十二日 西丸小姓組 松平長門守え御番入
被命

と書き出していることを報告した。

この、西丸小姓の第1組の番頭の松平長門守定蔵(さだもち)については、2006年5月6日[脇ばし、2つ]にある程度のことを記している。

その後の、久松松平家と長谷川平蔵宣以(のぶため)との陰の確執を理解するためにも、久松系の松平定実(さだざね)から発する[寛政譜]を掲げる。

360_62
青○=長門守定蔵、緑○=左金吾定寅(さだとら)

久松松平一門の成り立ちの経緯については、2006年5月6日[松平左金吾の家系]にゆずり、重複を避けたい。

さて、青○=長門守定蔵と緑○=左金吾定寅の項をアップ(部分省略)。

360_63
属親をカットして2人は親子関係だけをクロースアップしている。

ここでは、権十郎宣尹と短い縁(えにし)がつながった長門守定蔵の項をさらに取り出して読めるようにしてみよう。

360_64

年譜をつくってみる。

元禄16年(1703)      生
享保 5年(1720)前後 18歳 松平家へ養子に入る
    6年(1721)   19歳 吉宗へ御目見
    7年(1722)   20歳 遺跡相続 寄合
   11年(1726)    24歳 中奥の御小姓として出仕
                   このころ婚儀、
                   内室は平野九左衛門長喜が養女
                   女(夭折)、男(28歳で歿)誕生
   17年(1732)    30歳 従五位下長門守に叙任
寛政 2年(1742)   40歳   定浄(さだもと のち左金吾)誕生
                    母親は杉本氏
延享 3年(1746)    44歳 西丸御小姓組の番頭
宝暦 1年(1751)   49歳 西丸御書院番番頭
    9年(1759)   56歳 大番の頭
    11年(1761)   58歳 致仕
明和  8年(1771)   68歳  歿
  
名家にふさわしい、順当な栄達であり、長谷川平蔵宣雄のあわただしい養子縁組を拒むような遺恨はまったくない。
次には、権十郎宣尹の直截の上司だった、小姓組組頭・牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)を検分してみたい。
    
ご興味のある鬼平ファンは、『鬼平犯科帳』にはその名がでていないが、史実では平蔵宣以の強烈なライヴァルだった松平(久松)左金吾定寅のあれこれを、この画面の右サイドバー[カテゴリー]欄 [092 松平左金吾定寅]をクリックして補習。

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2007.04.27

養子縁組(その3)

幕府が定めた養子とりについての法規を、[武家諸法度][御条目]から引いた。
古いほうから、年代順に、並べてみる。

寛永9年(1632)9月、[御条目] 
 被相続人の生前に同姓の中からの申請をといい、末期養子は認めず、きびしすぎる。

寛文3年(1663)[御条目]
 寛永9年分につけ加えて、被相続人が50歳以下の場合は、末期養子は品次第と、少しゆるめる。
 同姓でも、弟同甥同従弟同甥並に又従弟と、被相続人より年下からの選択を勧める。
 同姓の中に適任者がいない場合の救済内規を定めた。

天和3年(1683)7月[武家諸法度]の一項目に入れる。
一養子は、同姓相応之者を撰ひ、若し無之におゐては、由緒を
 正し、存生之内可致言上、五拾以上十七以下之輩及末期致
 養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目違たる儀、不可立
 之事。

(養子は、姓を同じくする一族の中からふさわしい者を選ぶこと。
 もし、ふさわしい者がいない場合は、家格とか縁者などを吟味
 して、被相続者が生きている間---なるべくなら50歳までのあ
 いだに手続きをとること。
 被相続者が50歳以上、または17歳以下であったり、末期養
 子の場合は、お上が適否を判断することになる。
 実子の場合であっても、嫡子をさしおいて、理由なく次子や第
 三子を立てるとぃった、筋目をたがえてはならない)。

宝永(1679)4月
 親族家人による議定を条文に挿入する。
 危急の場合の処置には、父祖の功績を考慮にいれた特例を許す。
 係累を軽視した貨財目的の養子をいましめる。

享保2年(1717)3月11日[諸法度]
 天和3(1683)年7月の[諸法度]の再公布。

延享3年(1746)5月[諸法度]
 天和3(1683)年7月の[諸法度]の再確認。
 
ここまでは、紹介済みである。
130_15このあとは『御触書天明集成』(岩波書店 初刷1936.8.15 第2刷1958.5.27)と『御触書天保集成・上』(同 1937.11.30 1958.7.28)に拠る。

天明7年(1787)9月[諸法度]
 天和3(1683)年7月の[諸法度]の再確認。

『御触書天保集成・上』は、天明7年9月の[諸法度]の条項を再録しているのみ。

幕府も後期に入ると、養子縁組の常識が定着するとともに、抜け穴もいろいろと考案・黙認されて、条文は名目上のものになった気配があるが、そのことは、このブログの趣旨ではない。

平蔵宣以(のぶため)も、辰蔵宣儀(のぶのり)も、「法度」どおりの跡目相続をしているからである。

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2007.04.26

養子縁組(その2)

この項[養子縁組(その1)]iに宝永7寅年(1679)4月公布の [諸法度(はっと)まで掲げた。

またも、見落としがあった。寛文3年(1663)の[御条目]である。宝永7年の[諸法度]よりも40数年前に公布されている。

一跡目之儀、養子は存生之内可致言上、及末期雖申之、不可
 用之。
 雖然、其父年五拾以下之輩は、雖為末期、依其品可立之。
 拾七歳以下之もの於致養子は、吟味之上許容すへし。
 向後は同姓之弟同甥同従弟同甥並に又従弟、此内を以、相
 応之ものを可撰、
 若(もし)同姓於無之、入婿娘方之孫姉妹之子種替り之弟、
 此等之者其父之人柄により可立之。
 自然右之内にても、可致養子者於無之は、達奉行所、可受
 差図也。
 縦雖為実子、筋目違いたる遺言立べからざる事。

長谷川権十郎宣尹(のぶただ)と従弟の平蔵宣雄(のぶお)のケースは、「被相続者(養父)が50歳以下の場合は、末期なりといえども、その品によって養子縁組を行うことができる」の、〔その品〕をなんと読むかで論のわかれるところだが、一応、合法といえようか。

次に公布された[諸法度]は、吉宗が将軍に就いて2年目の享保2酉年(1717)3月11日のもの。

一養子は、同姓相応之者を撰ひ、若(もし)無之にお
 ひてハ、由緒を正し、存生之内可致言上、五拾以上十七以
 下之輩及末期致養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目
 違たる儀不可立事。

2007年4月25日[養子縁組]に紹介した、34年前の天和3年の条文と、かな送りのわずかな差異のほかは同文といってよい。

ここで、史料が『御触書宝暦集成』(岩波書店 初刷1935.3.25 第2刷1958.3.27.)に変わる。

130_14活字5冊本の『御触書集成』は、幕府評定所が保管していた慶長20年(1615)から天保8年(11837)におよぶ、240冊が、17年を要して少部数だけ学究のために公刊され、戦後に復刊されたものである。ぼくは、法学部ではなかったが、なぜか、興をそそられて、昭和33年(1958)からの復刊本を揃えておいたのが、いま役たっている。人生の不思議だ。

さて、8代将軍・家重の治世2年目の延享3年(1746)---銕三郎(のちの平蔵宣以)が誕生の年である。
寅年であるこの5月に、またまた[武家諸法度]が公布された。
養子縁組の条は、これまでのものとほとんどかわっていない。「同姓」が「同性」と誤写されているのがご愛嬌といえるだけ。

一養子は同性相応之者を撰ひ、若(もし)無之におゐ
 ては、由緒を正し、存生之内可致言上、五十以上十七以下
 之輩及末期雖致養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目違
 たる儀不可立事。

この[初法度]により、宣尹の末期養子の形で、平蔵(宣雄)の跡目相続が認可されたのは、延享5年(1748 7月に寛延と改元)4月3日であった。 (つづく)

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2007.04.25

養子縁組

ちょっと脇道へ。

2007年4月24日のコンテンツで、平蔵宣雄(のぶお)の末期(まつご)養子の疑いにからめて、天和3年(1683)7月に公布された[武家諸法度]養子縁組の条を引用した。この年の法度が、養子に関しての初めての言及であったからである。

一養子は、同姓相応之者を撰ひ、若し無之におゐては、由緒を正し、存生之内可致言上、五拾以上十七以下之輩及末期致養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目違たる儀、不可立之事。

養子は、まず、一門の中から選べ。もし一門の中に適当なタマがいなかったら家系をたしかめ、被相続者(法律用語ではこういうんだそうだ)が生きているうちに届け出ておけ。50歳以上あるいは17歳未満の者、さらに末期養子の場合は一応吟味される---と、まあ、こんな趣旨である。

じつは、見落としがあった。同じ『御触書寛保集成』に、[御条目之部]とタイトルされたものが収録されてい、そこに寛永9申年(1632)9月に申しわたされたものが、養子について言及されたもっとも古いもののようである。
大名家や高禄幕臣の家の跡目騒動の調整に、徳川幕府がなやんだ末の法制化だったのだろうか。
前掲の[武家諸法度]は、50年ほど前の条目を組みこんだものと推察される。

跡目之儀、養子は存生之内可得 御意、及末期忘却之刻雖申之、御用ひ有へからず。勿論筋目なきもの御許容有ましき也。縦雖為実子、筋目違たる遺言、御立被成ましき事。

養子縁組の裁定者は将軍---という建前の文意になっている点に留意。

この[条目]は3年後の寛永12亥年(1635)12月の[条目]にも繰り返されているが、将軍裁許の文意は薄れている。たぶん、幕府の上部機関、大名家の扱いは老中、幕臣の場合は若年寄の属僚の所管となったのではあるまいか。

綱吉の時代から6代・家宣の世になった2年目の宝永7寅年(1679)4月公布の[諸法度]は、編集子が手をいれたか、平かなまじり文になっている。

一継嗣は其子孫相承すへき事論するに及はす。
 子なからんものハ、同姓の中その後たるへき者を撰むへし。
 凡(およそ)十七歳より以上は其後たるへき者を撰ミ、現存の
 日に及ひて望請ふ事ゆるす。
 或は実子たりと言ふとも、立へき者の外を撰ミ、或は子なく
 してその後たるへき者を撰むのときは、親族家人議定の上
 を以て、上裁を仰くへし。
 若(もし)其望請ふ所理におゐて相合はす井其病危急の時に
 臨みても望請ふ所のこときは、其望請をゆるすへからす。
 しかりと言へとも、或は父祖の功績いは其身の勤労、他に異
 なる輩におゐては、望請ふ所なしといへとも、別儀を以て恩
 裁の次第有へき事。
  附。同姓の中継嗣たるへきものなきにおゐては、旧例に准
  して、異姓の外族を撰ミて言上すへし。
  近世の俗、継嗣を定むること、或は我族類を問すして、貨
  財を論するに至る、人の道たるかくのことくなるへからす。
  自今以後、厳に禁絶すへき事。

ふーむ、徳川家臣団にして、100年におよばすしてすでに人心のたががゆるんだか。
平和というのはなにものにも替えがたく尊いが、腐敗から発する臭気もなかなかのもの。
                             (この項 つづく)                         

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2007.04.24

寛政重修諸家譜(19)

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上に掲げたのは、 『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』の、鬼平の父・備中守宣雄(のぶお)の項である。
池波さんも、これを読んで、宣雄のことを「生来、謹直な人物」として造形した。
長谷川宣次(のぶつぐ)を祖とする伊兵衛家の歴代が、ヒラの番方(武官系)で終始していたのに、宣雄は従五位下・備中守に叙爵され、役方(行政官系)へ栄進している履歴に目をとめことも一因であったろう。

もっとも、池波さんの中では、宣雄は、5代目・宣安(のぶやす)の第4子としての続柄であったが(史実は宣安の第3子の庶子)。

ぼくは、2007年4月19日[寛政譜(15)]で、宣雄こそ、「長谷川家中興の祖」ともちあげた。

その理由を話す前に、宣雄の孫の辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した[先祖書]宣雄の冒頭の部分を、まず掲げる。

ついでだからメモっておくと、宣雄が京都西町奉行所の役宅で没したとき、辰蔵は4歳であった。宣雄の初孫として、その膝に抱かれたこともあったろう。30歳に達し、西丸に小納戸としてつめていた辰蔵は、[先祖書]の祖父の項を確認しながら、祖父の膝の感触を思い出していたはずである。
つまり、宣雄は、辰蔵が記憶している、最も古い肉親ということだ。

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                   長谷川権十郎宣尹養子
                 右権十郎厄介
                 長谷川自休宣有総領

一、 七代目  生 武蔵
           養母  無御座候
    実母  元水谷出羽守 従三原七郎兵衛女

    右備中守宣雄
    延享五戌辰年正月 権十郎宣尹義病気
    差重 男子無御座候ニ付 従弟之続を以
    同月十八日 養子奉願置 同十日卒 同年
    四月三日 養父権十郎宣尹跡目賜旨 菊之間
    本多伯耆守伝 小普請組柴田七左衛門支配

上の記述の大半は、鬼平ファンはすでに承知していることだが、不審もないではない(延享5年は7月に寛延と改元)。

宣尹(のぶただ)の病気がさしせまって重く、(相続するべき)男子がおりませぬため、従弟の平蔵(宣雄)に相続をお許しくださるように、同(正)月18日に養子を願い上げおきましたところ、宣尹は同月十日に卒(しゅつ)しました。
同(延享5)年 養父・権十郎宣尹の跡目を賜わる旨を、江戸城の菊ノ間において、本多伯耆守殿からお伝えいただきました」

「同(正)月18日に養子を願い上げ---」の同月18日という日付が、それである。つづくのは「宣尹は同月10日に卒(しゅつ)」である。
日付が逆転している。
目をこらして[先祖書]を読み返したが、間違いない。

このままだと、末期(まつご)相続になってしまう。つまり、当主の死後に養子を願いでるのを末期養子と呼ぶ。

130_13幕府は、たしか、末期養子を禁止していた---と、ウロおぼえだったので、『御触書寛保(1741-3)集成』(岩波書店 初刷1934.11.14 第2刷1958.1.30)を書庫から取り出した。
タイトルは[寛保]となっているが、慶長20年(1615)以来の「武家諸法度(はっと)」が収録されている。

養子についての条項は、天和3(1683)年7月公布分に加条されていた。

一養子は、同姓相応之者を撰ひ、若し無之におゐては、由緒を正し、存生之内可致言上、五拾以上十七以下之輩及末期致養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目違たる儀、不可立之事。

そうか、「末期養子吟味の上これを立てることができる」ということか。
ただ、その前の条文---「生存中に届け出るべきこと」というのが、その後の条文にもかかっていないかどうか。

届け出る先は、どこなんだろう?
宣尹は、2007年4月21日[寛政譜(17)]に記したように、西丸・小姓組第一番組の番士として、松平(久松)長門守定蔵(さだもち)を番頭(ばんがしら)にいただいていたことを明かした。病床にあったが、まだお役ご免の届けはしていない。

この組は竹千代(のちの10代将軍・家治)づきである。

養子縁組のことを、直かに番頭へ言上するとは思えない。まず、その下の組(与)頭(くみがしら)だろう。小姓組第七組組頭は牟礼(むれ)清左衛門葛貞(かつさだ 廩米800俵)へ届ける。

この組頭を探索していて、意外な史実を発見した。
延享5年、すでに大御所となっ西丸へ移ってはいたが、そこで家重の政治を看ていた吉はまだ矍鑠たるものだった。
その吉宗づきの小姓組の組頭が、なんと、長谷川小膳正直(まさなお)だったのだ。
そう、長谷川一門の本家の当主で、のちに火盗改メとなったとき、19,20歳の銕三郎に下情(かじょう)の探索を命じた仁である。

宣雄は、養子相続の一切を、うんと年長の従兄の正直に依頼したと推測しても、あながち、的はずれとはいえまい。

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2007.04.23

家督相続と跡目相続

2007年4月21日『寛政譜(17)』に、静岡の〔パルシェの枯木〕さんから、「御目見(おめみえ)」の資格とか手続きについてのコメントをいただいた。
鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の亡父・宣雄御目見にからんでのことである。

気になったので、直系の宣尹が歿し、厄介だった宣雄が入り婿の形での養子が許され、相続が無事にすんだ完延元年(1748)の御目見と、相続した人数を、『徳川実紀』であたってみた。
(注:『寛政譜』には、宣尹の歿年は延享5年となっているが、この年の7月に改元されて寛延)。

御目見した者で記録されているのは、24人。
相続は毎月のようにあって、総計で 151人。

120_14相続の理由に、父の致仕(隠居)と、父の死とがあった。4月3日に相続を許された宣雄の場合は、養父の死である。
この2つの理由による相続は、どう異なるのか。
稲垣史生編『三田村鳶魚 武家事典』(青蛙房 1959.6.10)で確かめた。

父(被相続人)の隠居による場合は、家督相続。
父の死による相続は、跡目相続、と。

宣雄や平蔵宣以、辰蔵宣義のケースは、すべて、跡目相続であった。

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2007.04.22

寛政重修諸家譜(18)

2007年4月21日『寛政譜(17)』で、書き忘れていたのは、6代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)が妻帯していなかつたことだ。

Photo_3429代目当主・辰蔵宣義(のぶのり)が幕府へ上呈した[先祖書]に、

       宣尹妻   無御座候
       宣尹養子 譜末ニ有之

とある。
30歳代にも達した家禄400石の家柄の当主のところへ、嫁が来ないというのは、いささか不審だ。
仮に、宣尹が衆道好みであったとしても、体面上、娶るはず。
宣尹の持病を怖れて、来手がなかったというほうが、より真にちかいのではなかろうか。

そういう目で[先祖書]を眺めていくと、いろいろと納得がいく。

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『寛政譜』黄○女子は、同一人である。小説で波津(はつ)という名を与えられている。
左端のおって書きには、

実は宣安(むすめ---つまり、宣尹の妹)。宣尹にやしなわれて宣雄となる。

このあたりの経緯は、鬼平ファンなら、小説でしっかりと心得ているはず。
ほんとうに、そうか?

母親
は、兄の宣尹と同じ、家女---つまり、召使い女、池波さん流の表現をとると、下女であり、妾(めかけ)。
父親は、2007年4月19日の[寛政譜(15)]に記したように、これまた、40歳近くまで妻帯もかなわなかった病気もちの5代目・宣安

兄・宣尹は、父・宣安が39歳のときの初めての子。
当の家女が、1人産めば2人産むもそう変るものでなし---とおもえば、2人目の女の子は2,3年で産んだろう。
とすると、黄○の女子は、宣有の庶子・宣雄よりも1,2年、先に生まれたことも考えられる。

兄・宣尹の養女になったときは、30歳をすぎていたかも。
それまで嫁がなかった---いや、嫁げなかったのは、病身で、夫婦生活に耐えられなかったから、とも推測できる。ふた目と見られない醜女(しこめ)でないかぎり。

病床に寝たままの30歳すぎの花嫁を了承するのは、厄介者ぐらしをしてきた宣雄しかいない。
形の上はともかく、波津は真の妻ではないのだから、3歳の子・銕三郎とともに厄介になっていた宣雄の(?)も同意するしかなかった。

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2007.04.21

寛政重修諸家譜(17)

長谷川伊兵衛直系の最後の仁となった、6代目・権十郎宣尹(のぶただ)には、若干の疑点がある。

360_60

その1.なぜ、歴代当主の名である伊兵衛を継がなかったか。
『寛政譜』に記されているのは、権太郎、修理、権十郎

その2.享保10年(1725)9月1日、11歳で将軍・吉宗に御目見しているが、なぜ、急いだか。

とりあえず、9代目・辰蔵宣義(のぶのり)が幕府へ上呈した[先祖書]を写してみる。

                  宣安総領
一、六代目  生 武蔵  長谷川権十郎宣尹
   右権十郎義
   享保十六年辛亥年(1731)四月六日 父伊兵衛宣安跡
   式賜 小普請入 永見新右衛門支配
   元文二丁巳年(1737)十月廿日 竹中因幡守支配之節
   西丸御書院番 水野河内守組え御番入被命

これには、幕臣の家督にとって必須事項である御目見の年月日が脱落しているのに、『寛政譜』にあるのは、気づいた編輯者が辰蔵宣義へ問い合わせて補ったのであろう。
もちろん [先祖書]辰蔵自身が筆をとって書いたとはおもえない。用人か代書人の手によっていよう。

[寛政譜(15)]に、権十郎宣尹の生年を、父・宣安が39歳の正徳5年(1715)とした。遅い継嗣の誕生である。
宣尹御目見のときは宣安は50歳。
推測だが、このときすでに、宣安の躰は長谷川家の家病にむしばまれつつあったのではなかろうか。

宣安の死は、それから5年とちょっとあとで、17歳になっていた宣尹への跡目裁可は、3ヶ月後。

[先祖書]にあって『寛政譜』では省かれている小普請入りだが、支配の永見新右衛門為位(ためたか)は、清康・広忠以来の家柄で、3050石。51歳で、上司としてはおおようで、すでに病気がちだった宣尹には申し分のないご仁。

永見為位は4年後に甲府勤番支配に転じ、後任の支配は竹中因幡守定矩(さだのり)と[先祖書]にあるが、『柳営補任』『寛政譜』周防守定矩。竹中一門に因幡守はみあたらない。斉藤道三以来の家柄。2230石。
小普請支配は享保20年(1735)、47歳。

権十郎宣尹西丸御書院番入りしたのは、23歳。46歳で番頭となっていた水野河内守忠富(ただよし)は、水野一門でも家柄は古いほう。5700石。
宣尹が休みやすみに勤めていた寛保3年(1743)閏4月15日には大番の頭へ転じた。

辰蔵宣義の上呈[先祖書]へ戻る。

延享二乙丑年九月 板倉筑後守組之節
病気ニ付願之通 閏十二月小普請入
竹中周防守支配ニ入 後快ニ付
延享四丁卯年 再御奉公 奉願同年
五月十二日 西丸小姓組 松平長門守え御番入
被命

家名・家禄を守るために、頑張っている姿が痛々しい。悲劇の人---といっておこう。
代打要員の平蔵宣雄御目見できない存在だったこともあったろう。
再奉職した延享4年(1747)といえば、4歳違いの従弟・平蔵宣雄が、のちの鬼平、鉄三郎を得た翌年で、宣尹は33歳。
翌年の正月10日には、小姓組番士のまま、歿。その数ヶ月前から病床に伏せていたろう。

屋敷は、祖・宣次(のりつぐ)以来の、赤坂築地中之町(港区赤坂6-11)

360_61
(「ハセ川イ兵」とあるのがそう。547坪)

けっきょく、御目見をしていない宣雄は、養女の婿という形で跡目相続が許された。

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2007.04.20

寛政重修諸家譜(16)

Photo_3402007年4月19日[寛政譜(15)]で、長谷川伊兵衛宣次系5代目・伊兵衛宣安次々弟・藤八郎宣有と、その庶子・平蔵宣雄が、当家の代打要員として厄介していたことを記した。

藤八郎宣有には代打の出番はなかったが、平蔵宣雄は、大ピンチでみごとに働いた。
すなわち、寛延元年(1748)正月10日、病床にあった6代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)が息を引き取ったのである。

[1-2 本所・桜屋敷]には、こうある。

宣雄が、下女のお園に手を出し、お園の腹にやどったのが、すなわち平蔵(幼名・銕三郎。のちの宣以)である。
宣雄は生来、謹直な人物で、病弱の甥の修理(改名後は権十郎)がちからとたのんでいたほどであったけれども、三十ちかくなっても妻を迎えられぬ身であったから、ついつい下女に手を出したとしてもむりはない。(略)
平蔵(銕三郎)が生まれた。
ところが、それからニ年目に、修理(権十郎・宣尹)の病患(びょうかん)ただならぬことになり、子がないため、妹の波津(はつ)を急ぎ養女にしたものである。
修理(権十郎・宣尹)は気息奄々(きそくえんえん)たるうちに、
「波津に、叔父上を---」
いいのこして亡くなった。 p56 新装p59

池波さんは、連鎖短篇シリーズ『鬼平犯科帳』の企画を10年近くも温めていたと、あちこちに洩らしている。
長谷川伸師の書庫から借り出した『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』で、[長谷川平蔵年譜 基メモ]も準備していた。
もっとも、それは、あわただしく書き写されたものらしく、平蔵宣雄を実父・宣有の弟として並べていた。
『寛政譜(5)』でようやく手にいれることができた栄進舎版『寛政重修諸家譜』をあらめたときも、自分の早飲みこみに気づかなかったかして、宣有宣雄続柄が修正された気配はない。
頭の回転がすばらしく速い池波さんらしい、ほほえましいとしかいえない、即断の一つである。

池波さんは、宣雄「生来、謹直な人物」という性格設定をした。
従五位下、備中守まで昇進している経歴から判じたのであろうか。

宣雄生誕は、寛保4年(1719)。父親の宣有は、30代後半か。
家長・宣安は43,4歳で、4年前に家女に権太郎(のちの修理、権十郎宣尹)を産ませていた。

宣雄を武家にふさわしい「謹直な人物」に育てたのを、宣安の家女とは断じがたい。
実母で、備中・高梁の松山藩で馬廻役を勤めてした三原七郎兵衛の家風を受けついでいた女性を、どうしてもおもいうかべてしまう。
少なくとも、宣雄の性格形成期までは、藤八郎宣有の看病がてら、長谷川家で起居し、宣雄を養育・教導したのではあるまいか。

そして、20数年経過
寛延元年(1748)正月10日。宣雄の息・銕三郎(のちの平蔵宣以)とそのも、長谷川家に暮らしていた。
当主・権十郎宣尹は死の床に。

Photo_341
(黄○=宣尹の実妹。小説では波津。母は家女)。

そして、30がらみになっている病いがちの実妹・波津だが、このところも具合は相変わらずで、床にあったと推測する。
つまり、彼女を養女とし、従兄弟・宣雄を婿として迎えたのは、家名と俸禄を失わないためで、花嫁は病伏したまま、名ばかりの婚儀にすぎなかったのではなかろうか。

そう推測する根拠は2つある。
その1。戒行寺の霊位簿を調べた釣 洋一さんによると、波津は、2年後の寛延3年(1750)7月15日に没している。死因は、兄・宣尹と同じく長谷川家の家病である、労咳。
銕三郎は5歳。

その2.平蔵宣以(幼名・銕三郎)の実母は、平蔵が火盗改メとしてあげた抜群の成果を惜しまれつつ、寛政7年(1795)5月10日(公式発表は19日)に逝った、その4日前まで生きており、戒行寺へ葬られ、宣雄の伴侶にふさわしい戒名を授かっていること。 [寛政7年(1795)5月6日の長谷川家]

波津の婿となることを従兄・宣尹から頼まれた宣雄が、容易に諾したのは、上記の事情があったからであろう。

もっとも、小説にあるような、波津による継子いじめを設定したほうが大衆受けするということも、わからぬではない。

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2007.04.19

寛政重修諸家譜(15)

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の実父・宣雄(のぶお)は、能吏でもあり、長谷川家中興の祖ともいえる人物であった。

「中興の祖」---などと、おどろおどろしい、といわれるかもしれない。が、事実そうなのだから誉めるしかない。

長谷川一門の『寛政譜』A3貼りこみを再掲する(一門といっても、第1ページのみ)。

360_59

1,2段目本家。3段目は本家からの分家。
4,5段目が、始祖・正長の第2子・宣次が立てた、はじめ伊兵衛、のちに平蔵と通称を変えた分家
赤○は、4代目・宣就(のぶなり)の第3子・宣有(のぶあり)と子・宣雄銕三郎祖父と実父)。
緑○は、5代目・宣安(のぶやす)と継嗣で6代目を家督した宣尹(のぶただ)。

Photo_339

5代目(緑○)・宣安を読んでみる。

忠左衛門 (家督して)伊兵衛 母は真治が女

真治とは、同朋(どうぼう 俗称・茶坊主)方の永倉珍阿弥(ちんあみ)真治。今川の家臣で遠江国豊田郡小山に住してのち、徳川家康に同朋として仕え、2代目・真治のとき廩米300俵。
長谷川家も今川の家臣だったから、その縁で、真治の3女宣就の妻となり、宣安と次男・正重を産んだ(正重はのち永倉家へ養子に入る)。

余談だが、[1-2 本所桜屋敷]で、銕三郎の放蕩に愛想をつかした宣雄夫人・波津

「妾腹の子などより、親類の子を後つぎに!!」
猛然として運動をはじめた。
別の叔父の子・永倉亀三郎を養子に迎えようというのである。

池波さんが、別の叔父の子として、永倉の名を出したのは史実にのっとっている。
しかし、永倉へ養子に入った正重がつくった1男2女の、男の子は、[本所桜屋敷]の事件の36年前、銕三郎が7歳の時に早逝しており、永倉家には、長谷川へやるような男子はいなかった。

閑話休題(それはそれとして---)。

5代目(緑○)・宣安が、享保16年(1731)正月21日に卒したときの享年が記されていない。
宣安と正重は同じ腹から生まれた可能性はきわめて高い。
宣有が同腹かどうかは不明。宣安が妻を、いつのときか、離縁しているからである。

宣有の兄である次男・正重は、養家先の永倉家で、寛保3(1743)年6月5日、65歳で卒している。[寛政譜(8)]参照。ということは、延宝7年(1679)の誕生。

同腹の生まれなら、長男・宣安は2年ほど早く生まれたか。と、享年55。

継嗣・宣尹(のぶただ)は正徳5年(1715)、宣安が39歳での初めての子。
母は家女
宣安が妻帯した記録は、どこにもない。
宣安が書院番士として出仕したのは49歳。家督7年後。遅すぎないか。
原因は、父の4代・宣就にありそうだが、これは別の機会に探索する。

宣安にも原因があったと推察している。妻帯もかなわないほどの病弱である。
弟・宣有も、養子に出られないほどの病い持ちであったが、宣安にまさかのことがあったときの代打要員として家におかれていたのではなかろうか。

そして、家女から遅く生まれた修理宣尹。これも病弱な男子。
5年遅れて、病い持ちの代打要員の宣有が、備中・松山藩の浪人の三原七郎兵衛のむすめに宣雄を身ごもらせた。ふたたび[寛政譜(8)] 
代打要員がさらなる代打要員をつくったのである。家系は万全の備え完了。

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2007.04.18

寛政重修諸家譜(14)

辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した[先祖書]のうち、平蔵宣以の項にこだわっている(国立公文書館に保管されているものを、長谷川本家の末・長谷川雅敏さんがコピーしたもの)。

引きかえって、頭書の部分。

250

               長谷川備中守宣雄総領
一、八代目  生 武蔵  長谷川平蔵宣以
        母 家女    始 銕三郎
  右平蔵宣以義
  明和五戌子年十二月五日 部屋住ニテ初メテ
  御見得仕候 父備中守宣雄 京都町奉行
  相勤候節
  安永ニ癸己年六月廿一日京都於御役宅
  卒 同年九月八日父願置候通 跡目菊之間

銕三郎は、武蔵で生まれた、とある。
武蔵は広い。江戸の長谷川邸---赤坂築地中之町(港区赤坂 6-11)もそうなら、巣鴨本村も武蔵である。
知行地の一つであった寺崎村は上総国だから、そこの庄屋のむすめ説をとるばあいは、赤坂へ引き取られて出産したと推定する。

母親は〔家女〕とあるから、父親の本妻ではないことはたしか。もちろん、この時期、父・宣雄は、従兄で六代目・宣尹の厄介になっていたから、本妻を娶ることばほとんどできない。
〔家女〕ということは、奉公にあがっていたむすめといっていい。

ただし、この項、 『寛政譜』では、〔某氏〕と記入されている。
池波さんが読んだのは、 『寛政譜』の〔某氏〕のほうである。
それを、巣鴨本村の大農家の三沢家から奉公にあがっていた〔むすめ〕---すなわち〔家女〕と見抜いたのは、たまたまとはいえ、するどい。

「明和五戌子年十二月五日 部屋住ニテ初メテ御見得仕候」というのは、まだ家督相続していないうちに御目見したということ。

宣雄の没年については、2007年4月14日の[諸家譜(10)]で言及しているので、6月22日と21日の異同については、ここでは触れない。

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2007.04.17

寛政重修諸家譜(13)

_120_3辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した「先祖書」に記入されていて、『寛政譜』には採用されていない数行がある。

編輯方で不要とみなしたのか、それとも、ほかの理由があったのか、判断に迷う。

活字化すると、

  安永八己亥年(1779)ニ月廿四日
 孝恭院様(家基)薧御ニ付同年四月十五日
  被為召
  只今之通可相勤之旨 於菊之間松防州

  
  天明元辛丑年(1781)閏五月十八日
 公方様え被為附候旨 松右京太夫伝候段
  水谷伊勢守於宅 達之間勤人組節

『徳川実紀』の安永八年二月廿日を読んでみる。

大納言新井宿(大田区山王あたり)のほとりに鷹狩したまひ、東海寺にいこはせらる。にわかに御不豫の御けしきにていそぎ還らせ給ふ。

360_56
東海寺・牛頭天王社(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

この鷹狩に、書院番士の長谷川平蔵も扈従していたのであろうか。
家基18歳平蔵34歳

4日後の24日家基不帰の人となった。死因は咳気---悪性の風邪であった。

2ヶ月後、1日違いの4月16日の『実紀』に、継嗣はいなくなったが、西丸勤務をつづけるようにとの命を、書院番組頭・水谷(みずのや)伊勢守勝久ほかの面々が受けたことが記されている。
蔵たちは、菊之間で、伊勢守勝久からつたえられたのであろう。
長谷川家は、これを文書で残していたから「先祖書」に写したものとおもえる。

天明元年5月18日の『実紀』

(一橋)民部卿治済(はるさだ)卿。嫡子 豊千代君(10歳)をともなひて出仕あり。
(将軍・家治)御座所に召して拝謁せらる。
ときにこたび 豊千代君を養はせ給ひ、御代つぎに定めらるるよし仰せくだされ、豊千代君に長光の御刀、来国光の御差そえさづけ給ひ、御手づから熨斗鮑まいらせらる。

書院番頭の水谷伊勢守以下、長谷川平蔵も、新しい西丸の主に仕えることになった。

案ずるに、このような公事は、平(ひら)番士の平蔵には関係ないと判断されて、『寛政譜』から除外されたのであろうか。

【つぶやき】[先祖書]にある[松右京太夫]は、高崎藩主(8万3000石)の老中(1758~81)・松平(大河内)右京太夫輝高(てるたか)。
松平信綱の5男がたてた大名家。
享保10年(1726)生まれ。天明元年(1781)9月1日、病床に伏し、26日卒。享年57歳。葬地は野火止の平林寺

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平林寺内の、松平(大河内)一門の墓域

老中に在職中、職権をもって絹物品質改め会所新設のたくらみに乗り、一揆を起こされて廃案したことがある。高崎城へ寄せた一揆勢は1万人近かったとも。

もう一人の、[松防州]は、やはりの老中・松平(松井)周防守康福(やすよし 石見国浜田藩 4万石)。田沼意次の盟友ともいえ、次女が田沼意知内室
享保4年(1719)生まれ。老中の在任は宝暦12年(1762)から天明8年(1788)まで26年間。享年71歳。墓地は西久保の天徳寺

もう1件。
水谷(みずのや)伊勢守屋敷とある。
嘉永2年(1849)の近江屋板でみたら、三田寺町に水谷水生邸があった。

Photo_337
寺に囲まれた、水谷家の屋敷。

史料によると、3500石の水谷家の屋敷は三田寺町にあるだけだから、ここだろう。
町名どおり、周囲は寺だらけ。したがって、3500石にふさわしく、1500坪前後の宅地だろうに、妙に小さく見える。寺院が土地を広くとっていすぎるのだ。
水谷伊勢守勝久は、長谷川平蔵番頭だから、そこは気配りのたしかな平蔵のこと、幾度もこの水谷邸を訪れたことだろう。急な坂道が多いから、文句の一つも吐いたか。
いや、勝久が番頭だったのは平蔵が41歳まで。
坂道をぼやいたのは、60歳を越えて毎日登城・帰宅の往復していた勝久のほうだったかも。

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2007.04.16

寛政重修諸家譜(12)

長谷川平蔵宣以(のぶため)の『寛政譜』を眺めていると、いくつかの疑問が生じてくる。

360_55

__5その1は、最初の行の「母は某氏」である。
これについては、2006年7月24日[実母の影響 ]に書いた以上のことは、いまのところ進展してはいない。
かいつまんでいうと、知行地の一つ---上総国武射郡寺崎村(千葉県山武市寺崎 222石余)の庄屋のむすめ説があるが、確認がとれない。

小説では、武州巣鴨村の富裕な農家・三沢家の次女・園が奉公にあがっていて銕三郎をもうけたが、夫の宣雄が長谷川家の当主の養女と結婚して家督したので、幼児を抱いて実家へ帰り、病死。

菩提寺・戒行寺の霊位簿でみるかぎり、実母は長谷川家に同居し、平蔵宣以が病死する4日前まで生存、戒名宣雄の正妻同様のあつかいを受けている。

__4その2は、将軍・家治(いえはる)へのお目見(おめみえ)の年齢が23歳というのは、遅くはないか---という論者がいること。
池波さんも、放蕩説をとっている。

長谷川平蔵が勘当(かんどう)を許され、屋敷へもどって、十代将軍・家治に拝謁(はいえつ)したのは、明和五年(1768)十二月五日のことで、ときに平蔵は二十三歳であった。([11-密告] p190 新装p198)

『徳川実紀』によると、この日にお目見したのは30名で、姓名が明記されている17名の平均年齢20.9歳
平蔵の23歳は、決して早いとはいえないが、28歳の最年長者もいることを考えると遅すぎとはいえない。

遅れぎみだった理由を、放蕩とするのは、根拠がない。
平蔵と同時代の記録『よしの冊子(ぞうし)は、視点が低いので信憑度はそれほど高くはないが、寛政2年(1790)12月の項に、「長谷川平蔵は、かつては手のつけられない大どらものだったので、人の気をよく呑みこみ、とりわけ下々の者の扱いが行きとどいて上手のよし」とある。

「どら」とは、「どら息子」というときの「どら」である。「金使いかあらい」とか「女遊びがすぎる」息子のことを指すが、多くのばあい、大げさに言っている。
いや、別に銕三郎(平蔵の幼名)を擁護しているわけではない。
2007年4月8日の『寛政譜(4)』で報告したように、銕三郎が遊びたいざかりの18,9歳のとき、本家の伯父火盗改メだった。
その配下のような顔をして情報をとるために盛り場に出入りしたのではないかと推測しているだけである。 (この項、つづく)

【つぶやき】亡父・宣雄にふさわしい戒名とは、

従五位下、備中守であった宣雄のそれは、
  泰雲院殿夏山日晴大居士
実母は、
  興徳院殿妙雲日省大姉

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2007.04.15

寛政重修諸家譜(11)

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)が、8年間も火盗改メとして辣腕をふるうことができた、そもそもは、41歳の若さ(?)で先手組の組頭に抜擢されたからともいいうる。

天明6年(1786)7月26日付で発令された。平蔵宣以年譜
このとき、平蔵をのぞく33名の先手組頭の年齢は、82歳の最長老をかしらに、平均62.5歳であった。

先手組頭は1500石格。家禄がこれに満たない者にはその差分の足高(たしだか)が給された。
1500石格は、番方(武官系)ではもっとも高額。
これより高い格の石高を求めるなら、役方(行政官)になるしかない。

ほとんど人間、収入が多いほうがいいと思うにきまっている。
いちど先手組頭となると、老いてもその席を放さない仁が、平蔵のころには多くなっていた。
平均在職年数が10年を大きくこえる者はザラだった。
先手組頭は、番方の爺ィの捨てどころ---ともいわれた。

田沼意次が若手(?)の長谷川平蔵を抜擢したのは、先手組頭若返り策の初手だったようにもおもえる。

それで、『鬼平犯科帳』では評価が高くない田沼意次を調べるために、田沼をとりまいていた幕臣たちの、『寛政譜』の高一覧性版をつくりはじめた。

田沼在職中の幕臣50余家を選び、その閨閥も調べるためである。

『寛政譜』からコピーし、切り離してA3判に貼りつける。
原典1ページがほぼ1段におさまる。高一覧性版は1ページに5段貼る。

家康時代から分家の末までだと、A3判で20枚近くになる家もある。

高一覧性A3判は、A4サイズに折って、右耳に家名の見出しをつけてファイルする。

360_54

老中職、若年寄職がとりあえず終わった。
いまは、勘定奉行配下に着手している。

いつ終わるか、予想もつかないが、これまで、やった人がいたという声を聞かないから、つづけるしかない。
あとから、これに補って、考察する人のためにも。
『寛政譜』は、田沼時代を知る宝庫の一つでもあるのだから。

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2007.04.14

寛政重修諸家譜(10)

徳川幕府が14年の歳月をかけた『寛政重修諸家譜』だからといって、100パーセント正確とはかぎらない。
栄進舎版、完成会版が活字化するときに、お家流で筆書きされた文章を読み間ちがいしているかもしれない。
そもそも、諸家が上呈した素稿が誤記したり、意図的に改竄することもないとはいえない。

鬼平=長谷川平蔵宣以(のぶため)の父・宣雄で検証してみよう。

宣雄の『諸家譜』の項を掲げる。

350_32

火盗改メを勤めた記述が脱落している。
明和8年(1771)10月17日から冬場の加役を発令され、翌9年春の本役・中野監物清方の病死(50歳)により、本役を引きついだ。
それで、2月29日、目黒・行人坂から出火して江戸の半分近くを灰燼した、いわゆる行人坂の大火の放火犯人を検挙する大手柄をたてた。その褒章の形で、京都西町奉行へ栄転ということがあったのに、この一連のことがすべて欠落しているのである。

辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した素稿を調べてみると、きれいに省略している。
意図は、火盗改メのような大きな支出をともなう役職は、亡父・宣以で十分すぎると考えたからであろう。
つまり、火盗改メの家系と見られたくなかったのだ。

ま、それも道理と見逃しておこう。

__2検討を要するのは、『寛政譜』の享年の55歳と没年月日、それと、彼地(京都)千本の華光寺に葬るの文言。

辰蔵宣義側の素稿は、

同(安永)ニ癸己年六月廿ニ日 京都於御役宅卒。 
齢五十六歳 京都千本通葬 華光寺---

となっており、享年のほかは『寛政譜』にそのまま採用されている。

上の記述のとおりに解すると、宣雄の墓は、千本出水の華光寺に現存していることになる。
だからこそ、『鬼平犯科帳』』巻3に収録の[艶婦の毒]Iで、長谷川平蔵が上京、黒羽織に袴の正装で、

行先は千本出水(せんぼんでみず)、七番町にある華光寺(けこうじ)である。この寺は蓮金山と号し、日蓮宗・妙顕寺派の末寺で、平蔵の父・宣雄がここにねむっているのだ。p81 新装p66

Photo_335
(現在の華光寺本堂)

H300長谷川本家の末・長谷川雅敏さんが葬儀をとりおこなった華光寺から取り寄せた記録のコピーをいただいている。

入寂したのは、安永2年(1773)6月17日未刻(ひつじのこく 午後2時)。64歳。
葬儀は6月23日酉刻(とりのこく 午後6時)に僧正解師に引導されたのち、僧14人の読経に送られて出柩し、逢坂で火葬、といったことが記されている。

寺側の解説によると、葬儀は執りおこなったが、遺骨は江戸へ持ち帰られたので墓域はないと。

ほぼ20年後の寛政5年(1793)に鬼平が華光寺へ墓参に行ったのは小説の構成として、死亡日が6月17日と22日と2つあるのは、後者は公の諸手続きを終えた公式の命日で、前者がほんとうの他界日とみたい。

華光寺のいうとおり、火葬後、遺骨は江戸の菩提寺である戒行寺の墓へ改葬されたのであろう。

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2007.04.13

寛政重修諸家譜(9)

2007年4月7日の[寛政譜(3)]に、寛政譜の一覧性を高めるために、見開き2ページがA4判になっている原本をコピーして、A3の用紙に貼りこんでいる例として、長谷川一門のそれを掲げておいた。
重複するが、一部に手を加えて再掲載しよう。

_360_1
(4段赤○=平蔵宣以、5段赤○=次男・正以---長谷川正満の養子)

2007年4月6日[寛政譜(2)]で、徳川軍団に加わった長谷川紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が、元亀3年(1572)極月の三方ヶ原の合戦で戦死したとき、3人の遺児が浜松へ連れてこられていたことを記した。

長男・正成 天正4年(15776)に家康に仕える。のち1,451石
次男・宣次 天正10年(1582)家康の小姓となり、のち400石。
3男・ 正吉 天正7年(1579)に秀忠の小姓に召され、4050石余。

次男に先んじて召された3男の高禄は、その眉目秀麗さが秀忠の好みにあったとしかいいようがない。
次男・宣次とは、母親が異なっていたのかも。

正吉家は、ずっと高禄を保ち、一門でもっとも裕福だった。
御納戸町に1000坪を越える屋敷に住み、数万坪の別荘地を千駄ヶ谷に拝領してもいた。

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青○=牛込御納戸町の長谷川邸(久三郎は10代目)

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(A3判貼りこみ家譜では、正吉家は第2ページ目にまわっている)。

8代目にあたる正満(まさみつ 青○)は、安永6年(1777)に家督したが、一生無役だったから、役柄にともなう出費もなかったろう。
天明・寛政初期とおもえる時期に、思い立って家祖の地・駿河国志太(しだ)郡小川村を訪れ、三方ヶ原の合戦で戦死した正長の墓(信香寺)と、今川義忠と竜王丸に仕えた法栄長者の墓(林叟禅寺)を一新し、それぞれの寺へ供養料を供えた。

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(長谷川正満が建立した祖・正長の墓 信香寺)

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(長谷川正満が建立した祖・法栄長者夫妻の墓 林叟院)
これを←クリック、目次から[林叟院の探索](SBS学苑〔鬼平〕クラス 中林さん)へ。

鬼平こと平蔵宣以は、この4000余石の長谷川分家へ、次男・正以(まさため)を養子に入れた。それだけ、一門の中での宣以の発言権が強くなっていたといえる。

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正以は、平蔵宣以が没した3年後の寛政10年12月22日にお目見をすませた。18歳であった。
家譜には、母親は小説でいう、久栄とある。
天明元年(1781)年の生まれだから、父35歳、母29歳の子。
辰蔵とは10歳違い。

【つぶやき】長谷川一門の遠祖にあたる法栄長者は、司馬遼太郎さん『箱根の坂』で、相当に大きな役目を演じている。このことは、次の機会に紹介。
法栄長者が、鬼平=長谷川平蔵の遠祖である史実を、司馬さんは友人の池波さんへ告げたフシがない。
ということは、司馬さんも、法栄長者が鬼平の遠祖であることに気づかなかったのかもしれない。

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2007.04.12

寛政重修諸家譜(8)

2007年4月11日の当ブログ[寛政譜(7)]に掲げた史料とコンテンツについて、コメント欄に質問が寄せられた。

質問は、「看病にきていた備中・高梁の松山藩の浪人・三原七郎兵衛のむすめに宣雄を身ごもらせた」は、どのようにして調査したのか? というもの。
質問者は、〔枯れ木のパルシェ〕さん。さすがに鋭い。

三原七郎兵衛の名は、[寛政譜(7)]でクロースアップした『寛政譜』宣雄の項に、

 母は三原氏の女。

(三原氏のむすめ)の意である。 『寛政譜』では、女性には一切、名前を書かないことに決められている。
(---の女)とあったら、(---のむすめ)と読んでおく。
「三原氏の女」のように父親の姓に「氏」がついていたら武家
女性の出自がふつうの庶民の場合は「某女」と書かれる。いわゆる「そば妻(め)」の類である。

『寛政譜』は、各家が上呈した「先祖書」を基にして諸事勘合し編まれた。
提出した素稿の多くは、 国立公文書館に蔵されていると聞く。

辰蔵宣義(のぶのり)が寛政11年(1799)12月20日に上呈した長谷川平蔵家の素稿のコピーをとったのは、長谷川本家の末裔・長谷川雅敏さん。

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(長谷川平蔵家の上呈素稿の宣雄の項の一部)

活字化(?)させたのは、研究家・釣 洋一さん。
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  養母 無御座候
  実母 元水谷古出羽守 従三原七郎兵衛女

「従」とは、「家臣」のこと。
で、水谷(みずのや)という大名を調べた。

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常陸国下館藩(3万2000石)から備中・成羽藩(なりわ 5万石)、さらに同・松山藩(5万石)へ移封。元禄6年(1693)、藩主・出羽守勝美(かつよし)が31歳で卒したとき、嗣子問題で断絶。養子を解消して家を継いだ弟・勝時は3000石の幕臣となる。
(黄○伊勢守勝久は書院番士として出仕した平蔵宣以の番頭)。

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この備中・松山藩の水谷家の廃絶で、三原七郎兵衛は浪人となった。
松山城のある岡山県高梁(たかはし)市の教育委員会へ三原七郎兵衛について問い合わせて、家禄100石馬回り役(藩主の親衛隊)、屋敷は市内の中級家臣団の柿ノ木町と教えられた。

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(備中・松山城(左上の山城)と城下町。左辺と上辺が武家屋敷)

三原七郎兵衛。5万石の藩の100石だから、10万石の藩なら200石、20万石の藩だと400石取りだったともいえる。幕臣で400石の長谷川伊兵衛より格式は上だったかもしれない。

ついでだが、長谷川家の当主は代々、伊兵衛を襲名したが、入り婿の宣雄以降、平蔵を襲名することになった。

つぶやき辰蔵(じつは遺跡を相続していて平蔵なのだが、まぎらわしいので幼名・辰蔵で)宣義(のぶのり)が上呈した「先祖書」の、自休宣有(のぶあり)---宣雄の父、平蔵宣以の祖父---に項に注してこうある。

右自休義、病身ニ付、厄介ニテ罷在、年齢不知 卒

菩提寺である戒行寺(新宿区須賀町9)の霊位簿を釣 洋一さんが調べた。

宝暦12年(1762)閏4月6日歿 法号・常信院自休日行居士

父・伊兵衛宣就(のぶなり)の没年も、長兄・宣安(のぶやす)のそれも『寛政譜』には記されていない。
ただ、母方の永倉家へ養子に入った次兄・正重(まさしげ)の没年が、永倉家の家譜に載っている。寛保3(1743)年6月5日、65歳。
宣有はそれより19年長生きしている。推定享年80前後。歿地は鉄砲洲・築地の屋敷。一病息災とはよくいったもの。
そのとき、銕三郎は17歳。祖父のこともよく覚えていたろう。
もしかしたら、宣雄の母者も生きていたかもしれないが、戒行寺の霊位簿にはそれらしい仏は載っていないようだ。


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2007.04.11

寛政重修諸家譜(7)

池波さんが座右に置いていた栄進舎版『寛政重修諸家譜』は、池波正太郎記念文庫(台東区西浅草3-25-16 区生涯学習センター1階)の、復元書斎に展示されている。
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同館は撮影禁止なので、リーフレット表紙。

その『寛政譜』は、9冊セット。第9輯(しゅう)は、索引。
長谷川平蔵家は9冊の真ん中---第5輯(1917.11.30)の526ページからはじまっている。
第5輯の、それも、ほぼ真ん中あたりなので、開いておきやすい。
で、長谷川平蔵家がはじまる526~7ページを見開きにし、その左右に4冊ずつ、背表紙を立てて展示。
せっかくの配慮も、解説がつけてないし、照明がおとしてあるために、栄進舎版『寛政譜』の貴重さに気づかないで見過ごしてゆく参観者がほとんどのよう。

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掲出の526~7ページ見開き図版では、宣雄の父・宣有緑○宣雄赤○、宣雄の養父となった宣尹(のぶただ)とその養女となって宣雄を夫としてむかえた実妹青○を付した。

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_360

部分拡大図版では、 『寛政譜』が付している家督相続線を意識的に太線に変えた。原典のままの細い横線は兄弟姉妹を示している。

『オール讀物』1968年新年号から、足元から鳥がとびたつようなあわただしさで『鬼平犯科帳』の連載がきまった第2話目[本所・桜屋敷]で、鬼平の家庭状況を説明しなければならなくなった池波さんは、10年ほど以前に作りかけにしていた[長谷川平蔵年譜 基メモ]ノートを取り出した(手書きの系図は2007年4月5日の『寛政譜(1)』 

130_12ノートしておいた家系図にしたがって、

五代目の当主・伊兵衛宣安の末弟が、平蔵の父・宣雄(のぶお)だ。
家は長兄・伊兵衛がつぎ、次兄・十太夫は永倉正武の養子となった。こうなると、末弟の宣雄だけに養子の口がかからぬ以上、長兄の世話になって生きてゆかねばならぬ。
長兄がなくなり、その子の修理(しゅり)が当主となってからも、宣雄はこの甥(おい)の厄介(やっかい)ものであった。

池波さんが『寛政譜』から作成した家系図では、宣雄は宣安の末弟になっている。
しかし、『寛政譜』を仔細に眺めると、宣安の末弟は宣有(のぶあり)であり、宣雄は、宣有の子である。

宣有も病弱で、養子の口がかからなかったから、結婚できなく、看病にきていた備中・高梁の松山藩の浪人・三原七郎兵衛のむすめに宣雄を身ごもらせた。

したがって、6代目を家督した修理宣尹は、宣雄にとっては、甥ではなく、5歳年長の従兄(いとこ)にあたる。
修理宣尹の妹(小説では波津)は、のちに宣尹の養女となり、宣雄を夫に迎える。本来なら従兄の宣雄を、形式的には叔父ということで婿にとった。

家名、俸禄をまもるためのややこしい家族関係を、『鬼平犯科帳』』を書きはじめるまでの10年間近く、池波さんは折りにふれ反芻していたろう。

だから、史実はどうあれ、池波さんが構築していた鬼平ワールドでは、宣雄はあくまで4代目宣就(のぶなり)の四男であり、すぐ上の兄が宣有であった。

ついでに記すと、連載の10年ほど前に準備したノートの表書きは、文字どおり[長谷川平蔵年譜 基メモ]であって、[鬼平犯科帳年譜 基メモ]ではない。「鬼平犯科帳」という通しタイトルは、『オール讀物』1968年新年号の連載開始時に考案されたものだ。

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2007.04.10

寛政重修諸家譜(6)

大正6年(1917i)に栄進舎によって刊行された『寛政重修諸家譜』全9巻について、ミク友であり学兄でもある[えむ]さんから、メッセージが2通、とどいた。

[えむ]さんの研究母体であるW大学の図書館に、栄進舎版があるということなので、リサーチをお願いしておいたのだ。

まず、2007年4月9日の『寛政譜(5)』 に、栄進舎版の奥付に【非売品】とある件について。

Photo_331W大学図書館所蔵本には、 [東照宮三百年祭記念会]からの寄贈である印が捺されていると。
[えむ]さんの推理だと、「出版もその会による自家出版?ではないか」と。

なるほど、その線だと、 【非売品】の理由もつく。
しかし、[えむ]さんも、「ちょっと読んでみましたが、膨大なエネルギーをかけて書かれた本なのですね。改めて舌を巻きました」と感嘆しているごとく、栄進舎版『寛政譜』は、ちょっとやそっとの手間で刊行できるほど、なまやさしい事業ではない。

5000数家から提出されている手書きの「先祖書」を活字化したわけである。
想像を絶する学識者の労力と膨大な資金を要する。 [東照宮三百年祭記念会]がどのような組織であったかは知らないが、一会の手でこなしうる事業ではなかったはず。
奥付に会の名も印刷されていない。

[えむ]さんは、推理の基として、栄進舎版の「活字本寛政重修諸家譜序」を抜粋してくださった。

「先年故男爵岩崎弥之助君内閣本ニ拠リテ一本ヲ作ラレシコトアリ、現ニソノ静嘉堂文庫ニ蔵セラル」も、世人はもとより専門家もなかなか利用できないので、「是レ予輩ノ久シク遺憾トスル所ナリキ、然ルニ列聖全集編纂会ハ、予輩ノ勧奨ヲ容レ、内閣ノ許可ヲ得、本書ヲ印行シテ世ニ公ニセントノ企アリ、予輩ハ、ソノ学界近来ノ一快事ナルヲ信ジ、曩ニ之ヲ江湖ニ紹介セリ、男爵岩崎小弥太君ガ、特ニ門外不出のノ書ヲ編纂会ニ貸シテ、出版ノ便ヲ与ヘラレ、東照宮三百年祭記念会ガ、至大ナル援助ヲ与ヘラレシハ、トモニ斯界ノタメニ感謝スヘキコトナリトス」
「大正六年七月 東京帝国大学文科大学教授兼史料編纂官
                  文学博士      三上参次」

これで東照宮三百年祭記念会の資金援助の次第は判明。

ただ、三上博士の「序」には、次の一文もある。

「予約出版ノ事公告セラルルニ及ビ、天下翕然トシテ之ニ応ジタル---」

すなわち、予約出版だったのだ。だから【非売品】。予約価は不明。

池波さんが大枚20余万円を古書店に支払ったのは、古書の世界において、それほど稀覯(きこう)本だったのである。
刊行セット数などについては、有力古書店のご店主に教えを乞いたいところ。

120_13さて、次の疑問。もともとの装丁の色---ぼくの記憶では「グレー」だったが、W大学の所蔵本は、[えむ]さんの写真では黒に近い「焦げ茶」

ぼくの記憶間違いだろうか。

気になった。台東区の池波正太郎記念文庫の復元書斎へ走った。
本類の焼け防止のため、照明は薄暗くしてあり、判然としない。
係の年配女性に確認した。
「黒に近い焦げ茶」
とのこと。---「憲法茶」
W大学の蔵書のとおりであった。

[えむ]さんの労に感謝。

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2007.04.09

寛政重修諸家譜(5)

住まいに近い区図書館で、検索用パソコンを借り、栄進舎版『寛政重修諸家譜』(大正6年刊)の公的な所蔵先を探した。

ぼくが勝手に「エンジ版」と呼んでいる栄進舎刊行の同『寛政譜』を、池波さんが1955年ごろ、大枚20余万円で購(あがな)ったことは、2007年4月6日のこのブログ 『寛政譜(2)』に報告している。

検索により、江東区深川図書館に蔵されていることがわかった。
同館は、清澄3丁目3-39 清澄公園の一隅にある。公園は、久世大和守(下総国関宿藩4万8000石)の下屋敷だったところ。
 
さっそく、同館すぐの福住に住む、ハンドルネーム〔永代橋際蕎麦屋のおつゆさん(鬼平熱愛倶楽部メンバー)に長谷川平蔵家の項のコピーをお願いした。

池波さんの読み間違いともおぼしい、亡父・平蔵宣雄の続柄を確認するためである。

〔おつゆ〕さんに依頼してから、全9巻がそろっているのかどうか、心配になったので、同館に電話で確かめた。
エンジの装丁の、栄進舎により、大正6年刊。全部で9巻です」
そう告げると、係の人は、
「書庫へ行って調べてくるから、このまま待っていてください」
_60ややあって、
「ありました、エンジの装丁でいいのですね?」

臙脂(えんじ)? 台東区の池波正太郎記念文庫に復元されている書斎の栄進舎版はグレーのハード・カヴァーだったような。

〔おつゆ〕さんに、間違ったものを依頼していたら申しわけない。
すぐ、深川図書館へ出向いた。

出してきてくれた『寛政譜』は、たしかに大正6年(1917)刊のものに間違いないが、装丁は臙脂。「この表紙を撮影したい」
というと、先刻、電話に出た上役らしい事務所の男性が現れ、写真の使用目的などを問う。
当ブログに掲示すること、森下文化センター鬼平講座を担当していること、江東区地域振興財団へ出向して全文化センターを統括している0さんと親しいことなどを告げる。

「なにしろ、古い史料なので、傷んだ装丁を図書館側でやり直しているのでしょう」
いわれて背文字をみると、たしかに装丁しなおした風情だ。

3階の事務室で撮影。

それで、また、疑問が生じた。復元された池波書斎で、栄進舎版の装丁は「グレー」と思いこんでしまったが、あれも、古書店へ売った人が自家装丁した表紙ではないのかと。

〔おつゆ〕さんからのファクスの奥付には、【非売品】とある。

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どういう形で刊行されたのだろう? 
さらに、疑問が増えた。

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2007.04.08

寛政重修諸家譜(4)

長谷川家の祖・紀伊守(きのかみ)正長(まさなが)が三方ヶ原(みかたがはら)の武田信玄勢との合戦で戦死したことは、この『寛政譜(2)』で報告した。

正長には遺児が数人いた。
うち上の3人は浜松へ連れられていたが、幼なすぎた末児は、静岡城下郊外の瀬名(せな)村へ、中川と姓を変えてひそんだ。祖先の繁栄の地であった小川(こがわ)と、去った田中城から一字ずつとった姓であるという。中川家はいまなお地元で旧家として遇されている。

遺児のうちの長子は、亡父がそうであった藤九郎を幼名としていた。
父の戦死後3年目の天正4年(1576)、13歳のときに家康の小姓として召された。
戦死者の遺族を手厚く遇さないと家臣はついてゆかない。
徳川家が江戸へ移ると、長谷川本家の筑後正成(まさなり)は1700余石を給された(のち分与し1451石)
屋敷は、一番町新道(千代田区三番町)に約1000坪。
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長谷川一門の本家6代目の当主が、太郎兵衛正直(まさなお)である(『寛政譜』上から2段目の赤○)。
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当家は、5代目までは小姓番組の平番士で終わっていたが、正直は先手弓の二番組の組頭、その後、槍奉行にまで栄進している。幹部としての才能が認められたのであろう。
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先手組頭のときに火盗改メも拝命した。
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鬼平こと平蔵宣以(のぶため)が就いた先手弓の組頭も、伯父・太郎兵衛正直が任じられていた二番手組である。
なにかの因縁があると推察しているが、いまのところ、報告するほどの材料は発見できていない。

平蔵の亡父・宣雄と、息・辰蔵宣義(のぶのり)が就いた組頭は、先手弓の第8番手組であった。

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2007.04.07

寛政重修諸家譜(3)

池波さんが、[鬼平犯科帳・雑記](未刊行エッセイ集『作家の四季』 講談社)で、1955年(昭和55)からちょっと後に、〔エンジ版=栄進舎版〕 『寛政重修(ちゅうしゅう)諸家譜』を入手し、長谷川平蔵宣以(のぶため)についての基礎的な知識を得たことは、4月5日に記した。

14_64_3『寛政重修諸家譜』を検分することは、鬼平こと長谷川平蔵宣以研究---というと大げさだか、『鬼平犯科帳』を2倍楽しむための第1歩といってもいいすぎではない。
鬼平ワールドの楽しみは、『寛政譜』の長谷川家譜に登場している人物の概略を読みとることから始まる。
池波さんもそうやって、あの、膨大な『鬼平犯科帳』141編を創作した。

1964年から刊行された〔ダイダイ版=(株)続群書類従完成会版}なら、たいていの中央図書館が常備しているはずだから、鬼平ファンを自称しているほどの仁は、いちど手にとってご覧になるといい。
徳川幕臣には、長谷川を名のっている家系は数家ある。
平蔵の長谷川家は、〔ダイダイ版・第14巻〕、左側の95ページの下1段から、3ページ目の上1段まで。
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鬼平こと平蔵宣以の記述は、2枚目のほうの右側96ページの最下段。

ついでだから、92ページの本家から99ページまでコピーする。

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99ページに、養子にいった鬼平の次男・正以(まさため)が載っている。 

ただ、1ページA5判、見開きだとA4判の記述を、何ページもめくって行きつ戻りつしながらの検分は、けっこうわずらわしいく、見逃しも多い。

思いついたのが、長谷川家にあてられている全ページをコピー、A3判用紙に長ながと、そして5段に貼りつけて、一覧性を高めようと。

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ファイリングは、A3判の右側を左へ真半分に折り、つづいてそれを右側へ半分折り返す。
シートは左端にパンチング穴をあけてファイルする。
こうすると、右側につねに検索用の家名がくる・

一覧性を高めた『寛政譜』シートでわかったのは、最上段にある長谷川本家の6代目・太郎兵衛正直が火盗改メに任じられていた期間、分家の銕(てつ)三郎(家督後は平蔵)は、18,9歳であった。
本家の伯父が博徒・火盗改メをしているとき、分家の若い甥が賭博場や岡場所で遊べるか、という疑問が湧く。

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2007.04.06

寛政重修諸家譜(2)

『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』は、老中上座・松平越中守定信の発議で編纂されたと伝わっている。
保守・家柄派の定信とすれば、当然のアイデアであろう。

130_11170余年前に家光の命によって編まれた『寛永諸家系図伝』を手本としている。
『寛永諸家系図伝』も、(株)続群書類従完成会が1980年(昭和55)1月25日に第1巻を発行、1,400余家の大名・旗本を収録した16巻で、たしか、完結---というのは、各巻4,800円、長谷川家が載った第8巻でぼくとしては意を遂げ、第13巻で購買を挫折してしまったためである。

定信が30歳で加判列・老中上座に就いたのは、天明7年(1787)6月19日。
寛政5年(1793)7月23日に、将軍補佐、加判列を罷免された。
この在任期間のいつ、『寛政譜』の編纂を発令したのかは知らない。

定信罷免後は、その遺志を帯した若年寄・堀田摂津守正敦(まさあつ)が成就させたという。
堀田摂津守正敦は、近江国堅田1万石の藩主で、定信と同歳の盟友であった。

大名・お目見以上の格の旗本5,000を越える家々へ先祖書の提出令が発せられ、締め切りは寛政10年前後であったらしい。

池波さんが、『鬼平犯科帳』巻3の[あとがきに代えて]で、

長谷川平蔵は実在の人物である。
平蔵の家は、平安時代の鎮守府(ちんじゅふ)将軍・藤原秀郷(ひでさと)のながれをくんでいるとかで、のちに下川辺を名のり、次郎左衛門政宣(まさのぶ)の代になって、大和の国・長谷川に住し、これにより長谷川姓を名のったそうな。
のち、藤九郎正長(まさなが)の代になってから、駿河(するが)の国・田中に住むようになり、このとき、駿河の太守・今川義元(よしもと)につかえた。
義元が、織田信長の奇襲をうけ、桶狭間(おけはざま)に戦死し、今川家が没落したので、長谷川正長は徳川家康の家来になった。
長谷川正長は、織田・徳川の連合軍が、甲斐の武田勝頼と戦い、大勝利を得た長篠の戦争において、
「奮戦して討死す。年三十七」
と、ものの本にある。

さすがに戦国時代の歴史に精通している池波さん、まことに手際よくまとめている。
最尾行の「ものの本」が『寛政譜』であることはいうまでもない。
が、後段、徳川軍団へ加わった正長が戦死したのは、長篠の戦い(1575 天正3)の2年前、1573年(元亀3)12月22日(陰暦)、浜松の北、三方ヶ原での武田信玄軍団との決戦においてである。

『寛永系図』は、

元亀三年十二月二十二日、遠州三方原(みかたがはら)の戦場において討死。三十七歳。法名存法。

『寛政譜』は、

元亀三年十二月二十二日三方原の合戦のとき、奮戦して討死にす。年三十七。法名存法(今の提譜に信香)。駿河国小川(こがわ)村の信香寺に葬る。

と記す。
戦死の状況は、どこにも記録がない。
三方ヶ原での戦死者を記録した諸書のリスト←ここをクリックし、5月7日まで降りる。

多分、他国からの新参者の常として、先陣に配置されて戦ったと推量している。

ある研究家は、首を打ち落とされた正長と弟の遺体を、遠州・三方ヶ原から武田軍の占領地である駿州・焼津在の小川村の信香寺まで運ぶのはなみたいていの苦労ではなかったろう---と推察していたが、遺体だったか遺骨・遺品だったかは、不明である。

信香院(曹洞宗)は、いまなお、長谷川本家の菩提寺。
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〔鬼平〕クラスが信香寺(上・山門)へ墓参(下・正長の墓)・香華。

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2007.04.05

寛政重修諸家譜(1)

130_10未刊エッセイ集は年代順に編まれており、5冊目の『作家の四季』(講談社 2003.9.15)は、1983年(昭和58)から池波さんの最晩年のものまでの集である。
この第5集に[鬼平犯科帳・雑記]と題した一文がある。
歿する5年前の1985年(昭和60)の『オール讀物・増刊号』に掲載された。

徳川幕府が十四年の歳月をかけて、諸大名と幕臣の家系譜(かけいふ)を編(あ)んだ「寛政重修諸家譜(かんせいちょうしゅうしょかふ) 全九巻を、ようやく手にいれたのは、約三十年ほど前だったろう。

と、書き始めている。
「約30年ほど前」とは、いつなのかを推定するために、書かれた年にこだわった。
1985年から30年前というと、1955年(昭和30)だが、「ようやく」との文言があるから、原稿料が入りはじめたころとみると、直木賞受賞(1960)前後と見たい。

いまは新版がでているが、当時は大正六年発行の栄進舎版の稀覯(きこう)本のみで、値段はたしか二十万円をこえていたとおもう。
そのころ私は芝居の脚本と演出で暮していたが、終戦後の全盛期を迎えた新国劇で、私の一本の脚本・演出料では、この本を買いきれなかった。
それだけに、これを手に入れるまでには二年ほどかかった。

直木賞を受けるまでも、この賞の候補にえばれた短篇を、池波さんは幾篇か書いているが、そのほとんどは〔新鷹会〕の『大衆文芸』誌で、原稿料はなかった。

私ごとで恐縮だが、1960年(昭和35)、ぼくは関西系の家電メーカーの宣伝部を、30歳で中途退職した。月給は4万円にはるかにおよばなかったようにおもう。
いや、私事はどうでもいい。

手にいれて、見ているうちに、私が心をひかれたのは、四百石の旗本・長谷川平蔵宣以(のぶため)の家譜であった。

130_9池波さんに、[長谷川平蔵年譜・基メモ]と題字した大学ノートがある。


最初の見開きページに、『寛政譜』の記述を家系図の形式に書き写している。
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これをぼくは長いあいだ、長谷川伸師の書庫にあった栄進舎版『寛政譜』から心せかれて写したために見あやまり、鬼平の父・宣雄を祖父と並べてしまったと憶測してきた。

しかし、池波さんが手に入れた『寛政譜』から[基メモ]をつくったとすると、、せかせかと書き急ぐ必要はない。

とすると、栄進舎版の『寛政譜』が誤植していたのかも知れない---と、憶測の再検討を迫られているが、これはまだ果たしていない。栄進舎版を蔵しているところも、まだあたっていない始末だ。

120_12ぼくが所有しているのは、池波さんが「いまは新版がでているが---」と書いた、1964年(昭和39)2月25日に第1巻が発行された22巻もの、そして索引が4巻の続群書類従完成会版である。
ちなみに、ぼくの完成会版は第4刷、1巻が4,800円で、26巻で計12万5000円弱だった。

池波さんが求め、、いまは台東区の記念文庫に飾られている、表紙が濃い臙脂色の栄進舎版全9巻を、ぼくは仮に「臙脂(エンジ)版」と呼び、ぼくの所有している完成会版が橙色なので「橙(ダイダイ)版」と仮称しているので、以降はこの略称による。

「ダイダイ版」についている索引が、「エンジ版」にもあるのか、これも調べてみたいことの一つである。

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2007.04.04

こころに響くことば

120_11月刊『PHP』(創刊60周年記念・2007年5月臨時増刊号)が贈られてきた。
60周年といえば、1947年(昭和22)---戦後3年目の創刊---いやあ、長寿も長寿、たいへんな長寿、あらためて、おめでとうございます。

この号は、表3に毎号1名ずつが寄せていた[こころに響くことば]を100人分、1冊にまとめたもの。
ぼくがご指名をうけたのは、肩書きが〔多摩美術大学講師〕となっているから、6年以上も前のこと。
まあ、8年3カ月たたないと100人にならない。

阿久 悠さん、塩川正十郎さん、金田正一さん、有馬稲子さん、今井通子さん、和田 勉さんらの名前が見えるから、各界を網羅しており、ぼくなんかが入ったのは、まさに僥倖(まぐれ)といえる。

ぼくのは、第二章◆人生を切り拓く に分類掲載されている。

「人間というやつ、遊びながらはたらく生きものさ。善事をおこないつつ、知らないうちに悪事をやってのける。悪事をはたらきつつ、知らず識(し)らずに善事をたのしむ」---池波正太郎『鬼平犯科帳』

[2-2 谷中・いろは茶屋]で、長谷川平蔵が同心・木村忠吾に吐くセリフで、『鬼平犯科帳』を通しての主題の一つでもある。

これを引いた理由として、ロンドンやパリで取材がおわるとホテルにこもって持参した本をひらいている。独り旅ならそれもいいか、連れは納得しない。鬼平の言葉を肝に銘じ、ほかの人の遊びぶりを観察するようにこころがけている、と自戒の弁を添えている。

ぼくの前は、日本医師会会長・坪井栄孝さん。

ならぬことはならぬものです

会津藩校日新館の「什(じゅう)の掟」から、「虚言(うそ)をいふ事はなりませぬ」「卑怯な振舞をしてはなりませぬ」「弱い者をいじめてはなりませぬ」などを引いていらっしゃる。

ぼくの次は、映画監督の羽仁 進さん。

私の学説が正しければ、ドイツ人は私をドイツ人と言い、フランス人は私をユダヤ人と言うであろう。私がまちがっていれば、ドイツ人は私をユダヤ人と言い、フラスン人は私をドイツ人と言うであろう。---アルバート・アインシュタイン

羽仁さんは、判断する前に、もう一度考え直してみたいと。

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2007.04.03

脚本家・野上龍雄さん

2007年4月6日(金)の午後9時から、2時間スペシャル『鬼平犯科帳』の[一本眉]が放映される。

H130中村吉右衛門さん=鬼平のレギュラーでは、1989(平成元)年9月20日に放映されている。
プロデューサー:市川久夫さん・能村庸一さん(フジテレビ)
脚本:野上龍雄さん
監督:田中徳三さん
題名は[一本眉]だし、〔清洲(きよす)〕の甚五郎が主役だったが、ストーリーは、[〔墨つぼ(すみつぼ)〕の孫八]から借りられていた。

_13_130推察するに、原作の[一本眉]はとてもよくできた話なのだが、いかんせん、内容のほとんどが本格派〔清洲〕の甚五郎一味と、急ぎばたらき派の〔倉渕(くらぶち)〕の佐喜蔵一味の盗みの先手争い(?)で、長谷川平蔵組からはコメディ・リリーフ役の同心・木村忠吾がちらっと出て、〔一本眉〕に酒肴をおごられるだけ。

彦十、おまさ、粂八、伊三次の出番がない。
これでは、鬼平テレビとして鬼平ファン視聴者が納得すまい---とおもんぱかったのではなかろうか。

もう一つ愚考を加えると、木村忠吾は、小なりといえども、中央官庁・徳川幕府の役人=火盗改メの同心である。
その忠吾が、双方が互いの身分を知らないとはいえ、盗賊に酒肴をおごられるのは、役人に清廉をもとめる現代の庶民感覚からいって、だらしがなさすぎると判定されたか。

一方の〔墨つぼ〕の孫八は、「通り名(呼び名)」からも察しがつく、大工上がりの盗賊の首領(かしら)だが、難病で死ぬだろうという恐怖感にとりつかれている。
長谷川組とのつながりは、かつて引き込みに使ったこともあるおまさを介してついている。

そこで、プロデューサーから、脚本の野上龍雄さんへ、〔清洲〕の甚五郎の〔一本眉〕に、〔墨つぼ〕の孫八の身上(しんじょう)をかぶせて物語がつくれないかとの依頼があったのであろう。

野上龍雄-Wikpediaによると、1928年の東京府生まれ。テレビの『鬼平犯科帳』には、松本幸四郎(白鸚丈)=鬼平のときからずっと脚本を担当している大ベテランの一人。

もっとも、[一本眉]の製作は中村吉右衛門さん=鬼平のときのみ。野上さん59歳、円熟期に書いたもの。

今回のスペシャル番組化では、かつての1時間ものだった脚本を倍の2時間にのばすため、木村忠吾がおごられる湯島天神裏門の居酒屋〔次郎八〕の場も加えられた。

前の〔清洲〕の甚五郎役は故・芦田伸介さんだったが、こんどは宇津井健さん。

野上さんの仕事歴は、野上龍雄 (ノガミタツオ) - goo 映画で一覧できる。赫々たる業績である。

2時間スペシャル『鬼平犯科帳』の[一本眉]、期して待つべし。

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2007.04.02

「もう聞くことはないのか!」

佐藤隆介さんは、ある時期、池波さんにぴったりつき添って、その言行を書き留めた貴重な人である。
池波ファンにとっては、池波さんの素顔に、もう一歩近づく手だてといえようか。

ちょっとオーヴァーにいうと、辞書製作者の碩学サミュエル・ジョンソンと、その言行を記録したジェイムズ・ボズウェルの関係に似ている。

100_33佐藤隆介さんのお仕事の一つに『男のリズム』(角川文庫 1979.12.20)の巻末解説がある。
いや、佐藤さんは、文庫になった池波さんの小説やエッセイの多くに、丁寧な解説文を寄せているから、とりたてていうほどのことはないのだが、『男のリズム』のそれは、ちょっと調子が違う。
冒頭に、自分の生の声をぶつけているのだ。

電車の座席で、マンガ雑誌を読みふけっている若者に、
「きみは明日死ぬかもしれないんだよ---」
と言ってみてやりたい衝動をおぼえるというのだ。

人間は、生まれたときから死へ向かって日々歩いている---が、池波哲学の一つであることは、ファンならみんな知っている。
佐藤さんは、それをじかに池波さんの口から聞いている生き証人である。
佐藤さんの哲学の一部になっているから、若者に言ってやりたくもなるのであろう。

『男のリズム』の[最後の目標]という章に、

私の師匠・長谷川伸(はせがわしん)は、生前、よく私に、
「君、もうすぐに、ぼくはあの世へ行っちまうんだよ」
と、いわれた。
これは、御自分が生きている間に、もっと聞きたいことはないのか、と、いうことなのだ。

昭和38年6月11日に長谷川伸師が逝き、すぐあとの追悼号ともいえる『大衆文芸』(1963年8月号)に、池波さんは[先生の声]と題し、こうも書いている。

「君ねえ、ぼくなんか、いつ、ひょっくりと死ぬかも知れないんだよ。聞くことがあるんなら今のうちだよ」
にこにこと言って下さっているうちは、よかったが、対座して話題につきると、
「もう聞くことはないのか!」
きびしく、言われた。

これを書いたとき、池波さんは40歳。長谷川伸師の享年79。
40歳になっても教えを乞える師がいるなんて、人生の幸せの時ともいえ、うらやましい。

長谷川伸という師は、自分の体験したことであれ、温めている小説のテーマであれ、門下の人には惜しむことなく明かしたと、エッセイ『石瓦混肴』にある。

長谷川伸師が聖路加病院の病室で亡くなったとき、池波さんは玄関ホールまではかけつけたが、病室へは、あえて入らなかったという。
師の尊顔は、生き生きしていたときの思い出だけで十分---と決めていたからだと。

そうそう、J・ボズウェルが書きとめたS・ジョンソンのこんな言葉が、『オクスフォード引用句辞典』に入っていて、英語圏の人はよく、引用する。
「ロンドンに飽きたら、人生に飽きたに等しい」

ぼくも、〔ロンドン〕を〔『鬼平犯科帳』〕に置き換えて、ときどき使っている。

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2007.04.01

『堀部安兵衛』と岸井左馬之助

小谷正一さん---と書いても、知らない人のほうが多かろう。
ぼくにとっては、恩ばかり受け、恩返しもできなかった、あまりにも大きすぎた先達である。

井上靖さんに[闘牛]という佳品がある。たしか、芥川賞受賞作ではなかったかな。
井上靖さんがまだ毎日新聞社に在籍なさっていたときの同僚で、小説[闘牛]の主人公が小谷正一さん。企画の天才。
のちに、夕刊紙を発刊。まだ大丸の宣伝部員だったサトウサンペイさんを起用された目ききでもある。

100_31その夕刊紙に、1966年(昭和41)連載されたのが『堀部安兵衛』である。
そのご縁からか、角川文庫『堀部安兵衛』(1973.3.10)に巻末解説を寄せていらっしゃる。

二部上場の銘柄と見做(みな)されていたものが、みるみるうちに一部上場の花形株となり、今や高配当、堅調をはやされているものに、池波正太郎株がある。

『鬼平犯科帳』の連載と池波株の大ブレイクは、『堀部安兵衛』の2年後で、これをうけての小谷さんの評言は、じつにあざやか。

100_32池波さんのエッセイ集『小説の散歩みち』(朝日文庫 1987.4.20)に収録されている[堀部安兵衛]に、高田馬場の血闘のあとの安兵衛を解説した、こんな文章がある。

安兵衛は、江戸の東郊・柳島村へかくれて、事件後の成りゆきを見まもっていたというが、このときのシーンで、決闘の翌日、安兵衛が手鏡に自分の顔をうつし、酒で洗ったぬい針で、わが顔面へめりこんだ刃の破片をほじくり出すところを私は書いた。
これは---むかし、私が剣道をやっていたとき、師匠から聞いた〔はなし〕の中で、真剣の型を演じたときたがいに打ち合う刃と刃が、その刃の細片を飛び散らせ、これがひたいへのめりこんだことがある---というのをおぼえていて、小説につかったのだ。

池波さんが『鬼平犯科帳』で大ブレイクしたことは、先に書いた。
その第72話目---[11-2 土蜘蛛の金五郎]『オール讀物』 1973年12月号)で、長谷川平蔵に成りかわった岸井左馬之助と鬼平が、汐留川のほとりで、組太刀による偽りの決闘を演じて、盗賊の金五郎をだます。

その3,4日後、清水門外の役宅で岸井左馬之助は、問いかけた酒井祐助同心へ、

「なあに、平蔵さんと久しぶりに、高杉先生直伝の組太刀をつかって斬り合ったとき、双方の刃と刃が噛み合い、細かな破片(かけら)が飛び散って、額へめりこんだのをほじくり出しているのですよ」

『堀部安兵衛』より先に[土蜘蛛の金五郎]のほうを手にとった読み手は、この場面に驚かなかったろうか。

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