上に掲げたのは、 『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』の、鬼平の父・備中守宣雄(のぶお)の項である。
池波さんも、これを読んで、宣雄のことを「生来、謹直な人物」として造形した。
長谷川宣次(のぶつぐ)を祖とする伊兵衛家の歴代が、ヒラの番方(武官系)で終始していたのに、宣雄は従五位下・備中守に叙爵され、役方(行政官系)へ栄進している履歴に目をとめことも一因であったろう。
もっとも、池波さんの中では、宣雄は、5代目・宣安(のぶやす)の第4子としての続柄であったが(史実は宣安の第3子の庶子)。
ぼくは、2007年4月19日[寛政譜(15)]で、宣雄こそ、「長谷川家中興の祖」ともちあげた。
その理由を話す前に、宣雄の孫の辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した[先祖書]の宣雄の冒頭の部分を、まず掲げる。
ついでだからメモっておくと、宣雄が京都西町奉行所の役宅で没したとき、辰蔵は4歳であった。宣雄の初孫として、その膝に抱かれたこともあったろう。30歳に達し、西丸に小納戸としてつめていた辰蔵は、[先祖書]の祖父の項を確認しながら、祖父の膝の感触を思い出していたはずである。
つまり、宣雄は、辰蔵が記憶している、最も古い肉親ということだ。
長谷川権十郎宣尹養子
右権十郎厄介
長谷川自休宣有総領
一、 七代目 生 武蔵
養母 無御座候
実母 元水谷出羽守 従三原七郎兵衛女
右備中守宣雄義
延享五戌辰年正月 権十郎宣尹義病気
差重 男子無御座候ニ付 従弟之続を以
同月十八日 養子奉願置 同十日卒 同年
四月三日 養父権十郎宣尹跡目賜旨 菊之間
本多伯耆守伝 小普請組柴田七左衛門支配
上の記述の大半は、鬼平ファンはすでに承知していることだが、不審もないではない(延享5年は7月に寛延と改元)。
「宣尹(のぶただ)の病気がさしせまって重く、(相続するべき)男子がおりませぬため、従弟の平蔵(宣雄)に相続をお許しくださるように、同(正)月18日に養子を願い上げおきましたところ、宣尹は同月十日に卒(しゅつ)しました。
同(延享5)年 養父・権十郎宣尹の跡目を賜わる旨を、江戸城の菊ノ間において、本多伯耆守殿からお伝えいただきました」
「同(正)月18日に養子を願い上げ---」の同月18日という日付が、それである。つづくのは「宣尹は同月10日に卒(しゅつ)」である。
日付が逆転している。
目をこらして[先祖書]を読み返したが、間違いない。
このままだと、末期(まつご)相続になってしまう。つまり、当主の死後に養子を願いでるのを末期養子と呼ぶ。
幕府は、たしか、末期養子を禁止していた---と、ウロおぼえだったので、『御触書寛保(1741-3)集成』(岩波書店 初刷1934.11.14 第2刷1958.1.30)を書庫から取り出した。
タイトルは[寛保]となっているが、慶長20年(1615)以来の「武家諸法度(はっと)」が収録されている。
養子についての条項は、天和3(1683)年7月公布分に加条されていた。
一養子は、同姓相応之者を撰ひ、若し無之におゐては、由緒を正し、存生之内可致言上、五拾以上十七以下之輩及末期致養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目違たる儀、不可立之事。
そうか、「末期養子は吟味の上これを立てることができる」ということか。
ただ、その前の条文---「生存中に届け出るべきこと」というのが、その後の条文にもかかっていないかどうか。
届け出る先は、どこなんだろう?
宣尹は、2007年4月21日[寛政譜(17)]に記したように、西丸・小姓組第一番組の番士として、松平(久松)長門守定蔵(さだもち)を番頭(ばんがしら)にいただいていたことを明かした。病床にあったが、まだお役ご免の届けはしていない。
この組は竹千代(のちの10代将軍・家治)づきである。
養子縁組のことを、直かに番頭へ言上するとは思えない。まず、その下の組(与)頭(くみがしら)だろう。小姓組第七組組頭は牟礼(むれ)清左衛門葛貞(かつさだ 廩米800俵)へ届ける。
この組頭を探索していて、意外な史実を発見した。
延享5年、すでに大御所となっ西丸へ移ってはいたが、そこで家重の政治を看ていた吉宗はまだ矍鑠たるものだった。
その吉宗づきの小姓組の組頭が、なんと、長谷川小膳正直(まさなお)だったのだ。
そう、長谷川一門の本家の当主で、のちに火盗改メとなったとき、19,20歳の銕三郎に下情(かじょう)の探索を命じた仁である。
宣雄は、養子相続の一切を、うんと年長の従兄の正直に依頼したと推測しても、あながち、的はずれとはいえまい。
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