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2007.04.25

養子縁組

ちょっと脇道へ。

2007年4月24日のコンテンツで、平蔵宣雄(のぶお)の末期(まつご)養子の疑いにからめて、天和3年(1683)7月に公布された[武家諸法度]養子縁組の条を引用した。この年の法度が、養子に関しての初めての言及であったからである。

一養子は、同姓相応之者を撰ひ、若し無之におゐては、由緒を正し、存生之内可致言上、五拾以上十七以下之輩及末期致養子、吟味之上可立之、従雖実子、筋目違たる儀、不可立之事。

養子は、まず、一門の中から選べ。もし一門の中に適当なタマがいなかったら家系をたしかめ、被相続者(法律用語ではこういうんだそうだ)が生きているうちに届け出ておけ。50歳以上あるいは17歳未満の者、さらに末期養子の場合は一応吟味される---と、まあ、こんな趣旨である。

じつは、見落としがあった。同じ『御触書寛保集成』に、[御条目之部]とタイトルされたものが収録されてい、そこに寛永9申年(1632)9月に申しわたされたものが、養子について言及されたもっとも古いもののようである。
大名家や高禄幕臣の家の跡目騒動の調整に、徳川幕府がなやんだ末の法制化だったのだろうか。
前掲の[武家諸法度]は、50年ほど前の条目を組みこんだものと推察される。

跡目之儀、養子は存生之内可得 御意、及末期忘却之刻雖申之、御用ひ有へからず。勿論筋目なきもの御許容有ましき也。縦雖為実子、筋目違たる遺言、御立被成ましき事。

養子縁組の裁定者は将軍---という建前の文意になっている点に留意。

この[条目]は3年後の寛永12亥年(1635)12月の[条目]にも繰り返されているが、将軍裁許の文意は薄れている。たぶん、幕府の上部機関、大名家の扱いは老中、幕臣の場合は若年寄の属僚の所管となったのではあるまいか。

綱吉の時代から6代・家宣の世になった2年目の宝永7寅年(1679)4月公布の[諸法度]は、編集子が手をいれたか、平かなまじり文になっている。

一継嗣は其子孫相承すへき事論するに及はす。
 子なからんものハ、同姓の中その後たるへき者を撰むへし。
 凡(およそ)十七歳より以上は其後たるへき者を撰ミ、現存の
 日に及ひて望請ふ事ゆるす。
 或は実子たりと言ふとも、立へき者の外を撰ミ、或は子なく
 してその後たるへき者を撰むのときは、親族家人議定の上
 を以て、上裁を仰くへし。
 若(もし)其望請ふ所理におゐて相合はす井其病危急の時に
 臨みても望請ふ所のこときは、其望請をゆるすへからす。
 しかりと言へとも、或は父祖の功績いは其身の勤労、他に異
 なる輩におゐては、望請ふ所なしといへとも、別儀を以て恩
 裁の次第有へき事。
  附。同姓の中継嗣たるへきものなきにおゐては、旧例に准
  して、異姓の外族を撰ミて言上すへし。
  近世の俗、継嗣を定むること、或は我族類を問すして、貨
  財を論するに至る、人の道たるかくのことくなるへからす。
  自今以後、厳に禁絶すへき事。

ふーむ、徳川家臣団にして、100年におよばすしてすでに人心のたががゆるんだか。
平和というのはなにものにも替えがたく尊いが、腐敗から発する臭気もなかなかのもの。
                             (この項 つづく)                         

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コメント

現在でも財産のあるところでは相続問題でもめていますが、当時は財産即ち家督を継承する事が一番の重大事ですね。

50年の期間でこのように何度も繰り返し令を出すということはそれだけこの問題が噴出しているのでしょう。

天和3年(1683)の武家諸法度がこの後200年改正されることなく守られてきたのでしょうか。

投稿: みやこのお豊 | 2007.04.25 09:50

>みやこのお豊さん
(つづく)としたとおり、2,3回、これにつづく法度と条目を並べる予定です。
打つ込みがたいへんです。

投稿: ちゅうすけ | 2007.04.25 14:55

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