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2007年5月の記事

2007.05.31

本多紀品と曲渕景漸(2)

西丸の書院番士をあしかけ9年ほど勤めた長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、小十人組頭(1000石高格)へ出世した。
のちに火盗改メとして名前を売った長谷川家は、宣雄の先代まで130年間、〔両番〕(小姓組と書院番組)の家柄とはいえ、当主は6人ともヒラのまま終えていた。欲と運がなかったといえばそれまでだか、どうも、歴代の家譜を読んでみると、出世よりも人生をのんびりと楽しむほうを選んでいたように思えて仕方がない。病気がちということもあったようだ。

しかし、平蔵宣雄は違っていた。父親は厄介の分際であったが、武家の出の実母は、平蔵(宣雄の幼名。宣雄が家督して以後は相続名となる)を、平時の有能な武士とするべく、計画的に教育した。

その成果あって、平蔵宣雄小十人組頭(1000石高格)へ出世し、宝暦8年(1758)10月某日の夕刻、同役とはいえ2000石の家禄と、広大な屋敷を番町にもつ、6番組頭・本多采女紀品(のりただ)の客間にいる。

「先夜、曲渕(まがりぶち)どのから、何かたのまれ申したかの」
本多紀品からそう訊かれたとき、宣雄は、正直に答えたものか、一瞬、迷った。

しかし、口をついて出たのは、
「左様なことは---」
であった。頼まれたとも、頼まれなかったともとれる。

「まあ、よろしい」
おだやかに微笑した紀品は、わかっているといった目つきでうなづいた。
つづいて、
「長谷川どのが田中藩のご隠居どの(本多伯耆守正珍 まさよし)の組下だったころ、同じ書院番士で、三枝(さいぐさ)平三郎守雄(もりお)という仁が、番頭・花房近江守職朝(もととも)どのの組にいたのをご存じか?」
「はい。お名前だけは。されど、ご年配でおわしたのと、組も違いましたので---」
「いや。あの仁の父御・平三郎守令(もりよし)どののことを申しあげたかったのです」

そのあと、本多采女紀品が独り言のように話しはじめたことによると---。

三枝家は、、武田家のほうから縁を求めたほどの、甲斐国のもともと名家で、家康が家臣団を取りこんだときも、扱いは武田親類衆として重んじた。
三枝の分流である平三郎守令(500石)は、本丸の小姓・三番組の伊沢播磨守方貞(まささだ 3250余石)の組下から、宝暦3年(1753)7月に小十人の1番組頭へ栄転した。すでに51歳であったから、早い出世とは決していえない。

55歳のときに難病にかかり、そのことを理由に、上のほうから辞職が薦められた。ふつうなら、死後辞表を出す。
この辞意の早期願い出を工作したのが、後任として発令された曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)の疑いがある。

曲渕家も武田家臣団の出だが、祖は、山県衆の一員だから、家格はそれほど高くはなかった。が、分流が、四代将軍・家綱の寵愛をうけて1650石と、本家を上まわる家禄を拝した。
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3代目・景漸末妹大奥に仕えたために、兄の政治力がさらに増した。

「いや、美形の家すじでござるよ」
「はい。男の目から見ましても、曲渕どのは凛々しく感じられます」
「長谷川どのまで、さような---」
「失礼つかまつりました。お忘れください」

それだけで、この話を打ち切った紀品は、
「さきほど話題にした三枝どのの祖・右衛門尉虎吉(とらよし)、息・土佐守昌吉(まさよし)は、武田方の守将として駿州・田中城にこもり、大御所軍の猛攻にもよく耐えていたと。勝頼どの戦死の報を、徳川方へ降ったいた穴山梅雪どのの矢文を見てのち、ようやく城を開けて近くの寺へ蟄居したと聞いており申す。さすれば、長谷川どのにも、あながち、かかわりのないこともない」

退出しながら、平蔵宣雄は、
(かなわないお人だ)
とつぶやいていた。

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2007.05.30

本多紀品と曲渕景漸

東両国の料亭〔青柳〕での同役へのお披露目の接待が無事におわって数日後、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、出仕して詰めている桧(ひのき)の間から小用に立った。
厠の前で、するりと近寄ってきた同朋(茶坊主)が、紙片を握らせた。
用をたし、そのまま厠の中で開いてみると、6番組の本多采女(うねめ)紀品(のりただ)からの伝文だった。
「今夕、酉(とり)の上刻(6時)、表六番町の拙邸へお越しいただきたい」
手水をつかい、手拭きをすすめている先刻の同朋に軽く会釈を返した。

下城してから酉の上刻まで、どう時間をつぶそうかと思案するまでもなく、さっきのとは別の同朋を呼び、西丸の小十人頭をしている従兄・長谷川小膳正直(まさなお)へ走らせた。小膳はのちの太郎兵衛で、長谷川一門の本家(1450余石)の当主である。宣雄より13歳年長で、伝承の屋敷が一番町新道(現・千代田区三番町6あたり)にあった。ここからだと、本多家までは500歩もない。
さいわい、従兄からの返事は、半蔵門からまっすぐに帰宅後は、手空(てす)きとのことであった。

_100宣雄は、本家の書院で正直から、本多紀品の風評を聞いた。
数多い本多一門の中でも、まっとうなのは、紀品までがすべて養子相続だからではなかろうか、というのが大方の月旦であるという。
(右上:本多一門の家紋=丸に右離れ立葵)
_100_1ただ、本多伊勢守忠利(ただとし)の七男で、初代を立てた利朗(としあきら)は、筋をとおすというか、やや意固地のところがあり、本多一門の家紋である〔右離れ立葵〕を〔左離れ立葵〕に変えたという。一族から離れて井上を称した時期があり、のち本多へ戻したことによると。
(丸に左離れ立葵。線が幹の左を縦に割っている)

「もっとも、4代つづいての養子相続だから、家祖・利朗どのの血は紀品どのにはまったく入ってはおらぬ。本筋を見誤らない、まっとうなお人柄である」
従兄・正直の本多紀品観である。

本家から借りた同じ家紋・左藤巴を描いた提灯で、小者が宣雄の足元を照らしながら、表六番町へ向かった。

本多紀品の屋敷は、番町を東西に貫らぬいている表六番町(現・三番町7 九段小学校向かい)にある。長谷川本家からだと、御厩谷坂下から西へ、2000石級の数家が向かいあっている区画にあった。囲りは400~500坪に区切られた下級旗本の家々が櫛比している中、それらの数家だけは間口も広く、邸内には樹々が茂っている。

客間へ招じられて席につくと、紀品は、先夜の〔青柳〕でのもてなしの礼をのべ、酒盃をすすめた。
「あいかわらずの貧乏暮らしで、お恥ずかしいかぎりだが、肴はこんなものしかなくての」
丸干しを焼いたのが数匹---いまは芝二葉町の中屋敷に隠居している、駿州・田中藩4万石の藩主だった本多伯耆守正珍(まさよし)を訪ねたときにでる肴と同じであった。
正珍は、丸干しをすすめながら、藩領に近い小川(こがわ)湊で採れ、送られてくるのだといった。
小川湊は、今川家が勢力を張っていた時代から、長谷川家が開発した地であった。だから、祖先の味覚ともいいうる。

宣雄は、本多家の質素ぶりに、むしろ、好意をいだいていた。

「先夜、曲渕(まがりぶち)どのから、何かたのまれ申したかの」
なんでもないことを訊くように、ぽつんと、紀品が切りだした。
宣雄は、正直に答えたものかどうか、一瞬、迷った。

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2007.05.29

宣雄、小十人組頭を招待

平蔵宣雄(のぶお)が、新任ごあいさつのために、9人の小十人組頭を東両国の料亭〔青柳〕へ招待したのは、宝暦8年(1758)の10月初旬のある日の夕刻であった。初冬をおもわす陽ざしは、はやばやと西の空に消えかかっていた。
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東両国駒止橋ぎわ、料亭〔青柳〕(『江戸買者物独案内』1824)

非番組は、駒止堀ぞいの会場へ、それぞれに現れた。
宣雄は、宴会場の下座に陣どり、一人々々を参会への謝辞で迎えた。
出勤組にあたっていた組頭たちは、〔青柳〕が迎えに鎌倉河岸まで出した屋根船でやってきたところで顔がそろった。

改めて、宣雄は、今後ともよろしくお引き回しをと頼む。
当番の、3番組頭・荒井十大夫高国(たかくに)が、長老の2番組頭・佐野大学為成(ためなり)になり代わって、招待にたいする礼の辞を簡単にかえしただけで、さっそくな酒席となった。

宣雄は、銚子の弦(つる)をもって、一人々々の惣朱塗内金蒔絵の盃へひととおり酌をしてまわった。
6番組の本多采女(うねめ)紀品(のりただ)へ注いだとき、
「芝二葉町のご隠居が、長谷川どのの訪問を待ちわびておられますぞ」
と、笑いながら言った。
二葉町の隠居とは、紀品の一族---駿州・益津郡の田中藩の元藩主・本多正珍(まさよし)のことである。この仁と宣雄との交渉は、2007年5月18日[本多伯耆守正珍の蹉跌(その4)]のほかにも記した。

1番組頭の曲渕(まがりふち)勝次郎景漸(かげつぐ)の盃に酒を配ったとき、
「宴が終わってから、小半刻(30分)ほど、お手間をとらせたいのだが」
とささやかれた。もちろん、うなづいた。

宴は1刻(2時間)で無事に終わった。手土産は8番組頭・仙石政啓(まさひろ)の助言のとおり、元飯田町〔壷屋播磨〕の菓子類であったが、とがめた者はいなかった。

曲渕景漸は、宣雄を引き止めるのでなく、小ぶりの屋根船を 〔青柳〕に近くの船宿から雇わせていた。

船には、7番組頭の神尾五郎三郎春由(はるより)も乗っていた。神尾の屋敷は神田橋門外なので、昌平橋までとのことだった。
船が大川へ出ると、さっそくに曲渕がきりだした。
30歳代の組頭だけで講を設けたいと。
宣雄が、何のための講かと訊くと、曲渕は、いや、まさかのときに立ちはたらけるのは若い力であるから、と言をにごした。
宣雄は、「考えておきます」と、その場では受けなかった。
神田川まで神尾を送り、ふたたび大川へ出、鉄砲洲築地で宣雄が降りた。
宣雄は、船着場で木挽町の屋敷まで帰っていく曲渕の船の灯を見送った。
ひやりとする風が吹き抜けた。

【つぶやき】Photo_366[宣雄は、銚子の弦をもって、一人々々の惣朱塗内金蒔絵の盃へ--]としたのは、徳利は座敷では使わなかったから。
居酒屋は燗をした<ちろり>のままで出し、料亭は<ちろり>から銚子へ移して出したと、喜多村守貞『守貞漫稿』は銚子の絵を添えている。

400石の宣雄でも私用外出には小者を従える。ましてや、1000石や2000石の役付き幕臣は一人では出歩かない。料亭は、小者たちのための食事も用意している。その分の請求は、もちろん、長谷川家へ。ただ、わずらわしいので、本文からは小者の影を消した。

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2007.05.28

宣雄、先任小十人頭へご挨拶

鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の政敵というか、平蔵を目の敵(かたき)にした2人の仁のうちの1人が、森山源五郎孝盛(たかもり)である。 
この仁の性格は、2006年6月8日の[『鬼平犯科帳』のもう一つの効用]にある程度記しているから、色変わりのタイトルをクリックしてお読みいただきたい。

この仁の随筆集『蜑(あま)の燒藻(たくも)』に、田沼意次の時代、新しく役付きになったら先任のご同役を高級料亭へ招待して挨拶しなかったら、あとでとんでもない意地悪をされる。手土産も、当時、江戸一番の菓子舗といわれた〔鈴木越後〕のものを持たなさいと、ひどい目にあう。〔鈴木越後〕の菓子だけで1人あたり1両(10万円から20万円に換算)近くもかかる---と書いている。
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(江戸一番といわれた菓子舗〔鈴木越後)『江戸買物独案内』(1824)

森山源五郎は、田沼を追い落とした老中首座・松平定信にべったりで、田沼時代のことは大げさに誹謗して、定信時代を謳いあげる習癖が顕著だ。したがって、田沼時代を誹謗した記述は、5割引きから7割引きで読むべきであろうと思っている。

しかし、いまでも歓迎会、歓送会はあるわけで、ただ、幕臣たちのそれは個人負担だったようなのだ。ま、小十人組頭に新任の宣雄の場合は、家禄400石、小十人組頭の格は1000石高---600石の足(たし)高が在任中は支給されるわけだから、新任ごあいさつ宴会の出費は仕方があるまい。

問題は、料亭の選定。長老(最年長)の2番組頭・佐野大学為成(ためなり)の屋敷に近いところか、次老(長老の次に年長)の10番組頭・山本弥五右衛門正以(まさつぐ)も考慮する。
佐野為成の住まいは北本所南割下水ぞい、山本正以のそれは四谷内藤新宿とあまりにもかけはなれていすぎる。
そういう場合は、最長在任者である8番組頭・仙石政啓(まさひろ)に意見を求める。この仁の屋敷は本所林町4丁目、竪川(たてかわ)ぞい。
その意見は、山本どのは駕籠で送ればよろしい。東両国の料亭〔青柳〕でいかがかな---と。
手土産は、なにも〔鈴木越後〕をはりこむことはない、元飯田町の〔壷屋播磨〕で十分---とも教えてくれた。
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(元飯田町中坂の菓子舗〔壷屋播磨〕)『江戸買物独案内』(1824)

2カ月前にご挨拶宴会をした4番組頭・1800石の長崎どの(元亨 もととを)は、足高も出ぬゆえと、これ以下の格の料亭であったぞ---と笑った。

幕臣の世界は、なにかにつけて、とかく、格づけがうるさい。

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2007.05.27

宣雄、小十人頭の同僚

宝暦8年(1758)9月15日。
平蔵宣雄(のぶお)は、小十人組5番組組頭に発令された。36歳であった。

そのときの、ほかの組頭を『柳営補任』によって列記する。年齢は宝暦8年現在。

1番組 曲渕勝次郎景漸(かげつぐ) 1650石 35歳
      宝暦7年7月1日-同9年1月15日目付   
2番組 佐野大学為成(ためなり) 540石 61歳
      宝暦4年5月1日-明和1年9月28日先手組頭  
3番組 荒井十大夫高国(たかくに) 250俵 49歳
      宝暦6年2月28日-明和3年11月12日先手組頭
4番組 長崎半左衛門元亨(もととを) 1800石 44歳
      宝暦8年7月12日-同10年6月23日目付
6番組 本多采女紀品(のりただ) 2000石 44歳
      宝暦3年12月28日-同12年11月7日先手組頭
7番組 神尾五郎三郎春由(はるより) 1500石 39歳
      宝暦4年5月28日-同9年11月15日新番頭
8番組 仙石監物政啓(まさひろ) 2700石 55歳
      宝暦3年3月15日-同12年4月15日先手組頭
9番組 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 1500石 49歳
      宝暦2年4月1日-同10年1月11日差は先手組頭
10番組 山本弥五右衛門正以(まさつぐ) 300俵 58歳
      宝暦5年3月15日-明和1年9月25日卒

笹間良彦さん『江戸幕府役職集成』(雄山閣出版 1965.6.20)は、小十人組について「小十人とは従人の意味であると「武家名目抄」にあり、小従人とも書く。徒士組と同じく、平時は桧の間に勤番し、戦時は兵隊である。(略)組頭は布衣・千石で躑躅の間席、詰所は中の口を入った右側、徒組の隣にある」

組の頭は1000石格だから、武官系では出世の第1段階といったところか。

宣雄を除いた9人の、この職についた平均年齢44,8歳で、宣雄36歳は平均より9歳弱若い着任といえる。
これをみても、宣雄の有能であったこと、もしくは、引きの強さが知れようというもの。

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2007.05.26

平蔵宣雄の僚友たち調べ

両番(小姓組と書院番組)の家柄とはいえ、長谷川伊兵衛伊兵衛は6代目当主までの相続名)家は、その6代目・宣尹(のぶただ)までは、全員がヒラの両番づとめであった。

7代目当主の平蔵宣雄(のぶお)の代で、初めて小十人頭(1000石格)先手組頭(1500石格)京都町奉行(1500石格。ただし余収が多かったらしい)まで出世した。家禄400石だから、それぞれの格高との差額を(たし)として給されることは、これまでも記した。

宣雄が抜きんでていたことを推量するのに、これまで、西丸書院番士の時代の彼の才能を認めた上役を報告してきた。

じつは、調べなければならない源泉は、ほかにも、
1. 寛延元年(1748)4月3日、老中本多伯耆守正珍(まさよし)から江戸城の菊之間で、平蔵宣雄とともに、父の死により相続の許しを告げられたあとの15名の氏名とその後の栄達など。
2. 寛延元年閏10月9日から宝暦8年(1958)9月14日までの10年間、西丸の書院番第3組の番士としてともに勤めた50人の中で、親しくしたと思われる者の割り出し。
3. 宝暦8年9月15日から勤めた小十人組頭時代の、10組の同僚組頭の氏名とその後の出世ぶり。
4. 明和2年(1765)4月11日から勤めた先手弓の頭の、ほかの9組組頭の氏名とその後の栄達ぶり。

これらを、 『寛政譜』をじっくりとくりながら記録していきたい。
もっとも、3.と4.は『柳営補任』で抑えられるから、23冊に活字化してまとめられている『寛政譜』を1巻ずつ調べつつ、まず、3.から報告していくことにしよう。

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2007.05.25

平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)

鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の実父・初代平蔵(のちの宣雄 のぶお)へ、実母・牟弥(むね)がいいきかせた話がある。

それは、息・平蔵が8歳のときで、儒学塾へ出かけようとして、4歳年長の従兄・権太郎(のちの6代目当主・宣尹 のぶただ)の支度がのろのろしているのを、「兄上のあゆみは、かたつむりのようじゃ」とからかった日であった。

牟弥は、塾から下がってきた平蔵を一室へ呼んでかしこまらせ、のちに3代将軍となった家光竹千代時代の逸話をきかせた。

竹千代には、同腹で2歳年下の弟・国千代がいた。母親というのは秀忠の正室・浅井長政の三女・於江与秀頼の母・の方の妹である。
秀忠・於江与ともに、なぜか国千代を偏愛した。容貌が母似の美形ででもあったためであろうか。

ある日、家康は、秀忠・於江与竹千代国千代を伴って機嫌を伺いにくるように命じた。
参上しすると、宿将たちも左右に控えていた。
上座から家康が声をかけ、自分の横を示し。
竹千代どのはこちらへ」
兄の後ろを幼い国千代がついていこうとするのへ、家康がぴしりといった。
国千代は、あなたの座へ」
それは、末座であった。
用意されていた菓子も、竹千代へは手づから渡したが、国千代へは、群臣のつぎに配られた。

このさまを見た秀忠・於江与は、世継ぎは竹千代と覚悟したという。
もっともこれは、出来すぎた逸話とおもえる。
家康秀忠へ将軍職をゆずったのは慶長10年(1605)、その2年後には駿府へ大御所として隠居している。
竹千代が生まれたのは慶長9年(1604)だから、5、6歳のころの逸話とすると、駿府城でのことでなければならない。
まあ、祖父・家康が駿府から江戸城へやってきたとしてのときのことであったのかもしれないが。

牟弥はいつになくぎびしい口調で、平蔵少年にいった。
どのは、この家を相続なさるお子です。どのは、どのをもり立てていく立場の人、くれぐれもどのを敬い、舎弟の分際(ぶんざい)を忘れないようになさりませ」

権太郎の母親は長谷川家の家婢で、すでに家には置かれていなかった。
また、徳川幕府としては、家督争いの絶滅を期して、竹千代のころから嫡男相続を徹底することにしていた。

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2007.05.24

平蔵宣雄が受けた図形学習(2)

2007年5月21日の日記に、実母・牟弥(むね)から[平蔵宣雄が受けた図形学習]を記した。
そのつづき。

平蔵宣雄の幼名。のち相続名となる)たちがそのころ住んでいたのは、赤坂築地中之町(港区赤坂6丁目)であった。
近くの高台の先端に、広大な境内を誇る赤坂氷川神社があった。牟弥は、平蔵をつれて参詣し、神域のはずれから町々を見下ろさせ、30数えおわると向きをくるりとまわさせ、いま見下ろした景色にあったものを、上手から下手へ順に報告させた。

8歳の少年も、馴れてくると、瞬間に、ほとんど写真に撮ったように風景を、眼に焼き付けることができるようになった。牟弥は、平蔵の興味をそそるために、戦場における敵味方の配置や合戦の進行を見取る学習と称していたが、じつは注意力を瞬時に集中させるための鍛錬だった。

町を歩いていて、すれちがった者の年齢・職業、衣服の色などを問う。
推理力がつくと、向こうで立ち話をしている2人の会話の内容を推測させた。年齢・職業がわかれば、手ぶり身ぶりから話していることも推し測れようというのだった。

平蔵は、並外れて注意深い青年に育っていた。
この学習法は、のち、宣雄から鉄三郎(平蔵宣以の幼名)へもほどこされた。

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2007.05.23

平蔵宣雄の『論語』学習(2)

2007年5月22日[平蔵宣雄の『論語』学習]で、母御・牟弥(むね)独自の『論語』解義を紹介した。
そのつづき。

子張(しちょう)、禄を干(もと)むるを学ばんとす。子曰く、多くを聞き疑わしきを闕(か)き、慎んで其の余を言えば尤(とが)め寡(すく)なし。多くを見て殆(あや)うきを闕き、慎んで其の余ほ行えば悔い寡なし。言って尤め寡なく、行って悔い寡なければ、禄その中にあり。

どの。出仕なさったら、その部署に、一日でも早く着任されている方はすべて先輩と心得なさい。先輩とは、年上ばかりではありませぬ。どのより先にそのポストについた方すべてが先輩なのです。
何かを議するとか、建議しなければならないことが生じたなら、できるだけ聞く側へまわりなさい。
言を求められたら、確かめていないことはどんなことでも口にしてはなりませぬ。みなさんが発言なさったこととか、確信できていることだけを申しのべなさい。
しかし、手短に、ですよ。どう言えば手短に述べられるか、口にする前に、心の中でよくよく予行しておきなさい。
口数を少なく少なくと心がけていれば、非難をうけることもすくないのです。また、口数が少ないほうが、思慮深げな侍にも見えます。
新しいことをしなければならなくなったら、それに似た事例を思い出して、確信がついたら行いなさい。そうすれば、あとで後悔するにしても、非難されることは少ないでしょう。新しいことをするには、二番手でいいのです。もちろん、戦いの場では別です。しかし、それとても、大将どのの軍令をないがしろにして先を競ってはなりませぬ。
いま申しているとおりに言葉をつつしみ行いを慎重になされば、家禄を守って子や孫へつなぐこともでき、もしかして加増を受けるようなこともあるかもしれませぬ。
(注:長谷川伊兵衛家は、番方(小姓組か書院番組)の家柄とはいえ、6代目まではヒラのままで終わっていたのが、7代目の平蔵宣雄の時に、先手組頭はおろか、役方(行政系)の京都西町奉行にまで出世している。
徳川幕臣における出世とは、定まっている家禄とは別の、家禄を上まわる役務給---足高(たしだ)か を得ること)。

子曰く、約をもってこれを失う者は鮮(すく)なし。

「こちらに心当たりになるようなことがないのに、不運にも左遷とか降格とか窓際へ置かれたとしましょう。そんな時にくよくよ悩んでみてもはじまりませぬ。不満を口にするなどはもってのほかです。酒におぼれなければ、その地位で大失敗をすることは少ないはずです。むしろ、その境遇を楽しみ、晴ればれとした顔でいなさい。塞翁が馬というではありませぬか(おや、どうして『論語』の話に仏蘭西国の皇帝の事例なんぞが出てくるのでしょう? 不思議千万)。やがて陽があたります。世の中、夜ばかりではないのです。

子曰く、君子は言に訥(とつ)にして、行いに敏ならんことを欲す。

「侍の子は、言葉数はなるべく少なく、口に出す前に胸の中で三度繰り返してみることです。いえ、塾の先生は、話すのが仕事ですから、それは仕方のないことです。でも、庶民の上に立つ侍というものは、できれぱ、黙って行いで示したほうが、納得されるし、尊敬もされます。

【付言】 『論語』の解義には、宮崎市定さん『現代語訳 論語』 (岩波現代文庫 2000.5.16)を参考にさせていただいた。

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2007.05.22

平蔵宣雄の『論語』学習

2007年4月19日[寛政重修諸家譜(15)]に、平蔵宣雄(のぶお)は、4歳年長で病気がちの6代目当主・宣尹(のぶただ)のスペア要員として育てられた、と書いておいた。

交替要員としていつ表舞台に立っても、それなりのプレイができるようにも教育された。
儒学塾へも、8歳のときから、権太郎宣尹 のぶただ の幼名。『鬼平犯科帳』では元服名の修理)につれられて通った。もっとも、病身な権太郎は欠席がちであったが。

一方の平蔵宣雄の幼名。のち相続名となる)は、皆勤に近かったが、帰宅後には、母の牟弥(むね)のおさらいの講義が待っていた。
牟弥は、 『論語』も一日に一句しかさらえなかったが、その解義は、独特であった。

子曰く、弟子(ていし)、入りては則ち孝、出でては則ち悌(てい)、謹みて信あり、汎(ひろ)く衆を愛して仁に親しみ、行って余力あれば則ち以って文を学べ。

どのよ。腹の底の底まで沈めて心得ておくのですよ、よろしいですか。侍の子たる者は、家にあっては親に孝、元服したら恥をかかないように気くばりし、約束したことはかならず守らねばなりませぬ。ですからよく考えて、できないことは約束しません。よろしいですか、約束したほうは忘れてしまっていても、されたほうはいつまでも覚えているものなのです。約束をしばしば忘れる侍は、信用を落とします。多くの人と親しくしなりたかったら、どんなに小さな約束も守りなさい。親しくなる人にも、約束を守る人を選びなさい」

子曰く、君子重からざれば威あらず。学べば固(こ)ならず。忠信を主とし、己(おのれ)に如かざる者を友とするなかれ。過ちては改むるに憚(はば)かること勿(なか)れ。

「侍の子は、言行がおっちょこちょいに見えてはなりませぬ。侍は庶民の手本になるべく生まれています。それが、おっちょこちょいでは下じもから軽蔑されます。学問も意見も、片意地を張っていては嫌われるばかりです。
自分の考えは、なるべく、人よりあとに口にしなさい。できれば、誰某さんと何某さんのご意見に賛成ですが、付言させていただくと---というようにいいなさい。自分とくらべてみて、怠けぐせの強い人を親友にしてはなりませぬ。どのがどんなにまごころをもって付き合っても裏切られるからです。もし、過失をしたり言い過ぎたと気づいたら、すぐに訂正し、あやまりなさい。あとで気づいたのなら、手紙であやまりなさい」

子曰く、人の己を知らざるを患(うれ)えず。人を知らざるを患うるなり。

どの。あなたの孝行ぶりや賢さ、発想が豊かなことは、この母者がいちばんよくわかっています。それは、あなたが私の子だからです。いつもそばにいて見ていますからね。しかし、他の人は、あなたをいつもいつも見ているわけではありませぬ。世間の人は、どのにとくべつに関心があるわけではありませんからね。自分のよさが認められないことを、くよくよ悩んだり、ぶつぶつ不平を言ってもどうなるものではありませぬ。それよりも、付き合いたいとおもっている方のことをもっと知ってあげるようにすると、末長いお付き合いになるはずです」

【付言】 『論語』の解義には、宮崎市定さん『現代語訳 論語』 (岩波現代文庫 2000.5.16)を参考にさせていただいた。
【ひとりごと】このプログが、鬼平ファンの話題としてひろがらないことを患えても仕方がないか。いや、それとこれとは違う。このブログの場合は、PRのやり方に欠陥があるのだ。

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2007.05.21

平蔵宣雄が受けた図形学習

長谷川伊兵衛家(400石)の5代目・宣安(のぶやす)が、宣雄(のぶお)の伯父にあたることは、2006年11月8日[宣雄の実父・実母]で説明している。

宣雄の実父は、宣安の次々弟で、病床にありがちな身を、宣安の厄介として療養につとめていた宣有(のぶあり)であったことも、上記で明かした。

その宣有を看護にきていた女性が妊娠した。
女性の名を、仮に牟弥(むね)としておく。武士の娘だから、漢字2字名。

そう、備中松山藩・5万石・水谷(みずのや)家の馬廻り役---つまり、親衛隊で、100石を給されていた三原七郎右衛門が父親だった。そう、だった---徳川の治下となって4代目の藩主の急死で、相続の手続きに齟齬があって封を召し上げられ、継嗣がようやくに3000石の幕臣として残った。
ほとんどの藩士とともに七郎右衛門は失職した。

幼女の牟弥をともなって江戸へ下り、浪人暮らしは果てしなく長びき、牟弥も働きに出、宣有の子を産んだ。
生まれた平蔵宣雄の幼名。のちに相続名となる)を育てるために、牟礼は、長谷川家に残った。

平蔵が3歳をすぎたころから、牟弥は特別の教育をほどこしはじめた。○、О、□、◇、△、▽、☆といった図形をしめして記憶させた。
当主の宣安がわけを訊くと、
「旗竿の紋どころや陣羽織の家紋などをとっさに記憶するためでございます。武士は戦場でその心得が肝要と、父上から教えられました」

それは表向きの理由で、じつは、人の顔を図形にあてはめていたのである。だから、六角形も八角形も、しもぶくれも、横ひろがりの楕円もあった。

6歳ともなると、町屋の高張り提灯屋の前で寸時立ちどまり、家紋を覚えさせた。

享保11年(1726)、平蔵8歳。
牟弥は麻布百姓町に屋敷があった親類・永倉珍阿弥(ちんあみ)正重(まさしげ 300俵)へあいさつに出向いて、中古の武鑑をもらってきた。
永倉家と長谷川家が縁つづきなことは、2007年4月19日[寛政重修諸家譜(15)]に簡単に記している。
長谷川家4代目・宣就(のぶなり)に婚してきたのが、永倉むすめで、両家は今川の元家臣というつながりとともに、宣有の次兄・正重は永倉家へ養子として入り、平蔵が生まれた享保4年(1719)に家督していた。

永倉の家は同朋(どうぼう 茶坊主)頭だから、諸大名・大身幕臣のあれこれに通じていなければならないので、須原屋などが毎年刊行する武鑑は必需のもの。しかし、新しい年のものが出ると、それ以前の年のものはほとんど必要がなくなる。

借りてきた武鑑lで、牟弥平蔵に、各藩の紋どころや槍の穂鞘の材質と形状のほか、歴史まで教えた。
武士に100人の味方がいると、100の敵もいるとみなければならない。しかし、敵を味方ではなくても、敵にまわさないだけの配慮をなすべきである。心くばりのひとつが、相手の顔と姓を覚えて、間違いなく姓で呼びかけること---というのが牟弥の教えであった。

平蔵(のちの宣雄)は、長ずるにしたがって、剣技や素読のほかに、人の顔をすばやく分類して姓とともに記憶する術に人一倍長じてきた。

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2007.05.20

組頭、能勢十次郎頼種

2007年5月5日に、表を掲示し、 宣雄、西丸書院番士時代の上役]として、番頭の3人---
 柴田丹波守康完(やすのり 5500石)、
 仙石丹波守久近(ひさちか 2000石)、
 岡部伊賀守長晧(ながつぐ 廩米3000俵)

(与)の2人---
 松平新次郎定為(さただめ 1000石)
 能勢十次郎頼種(よりたね 600石) 
をあげ、それぞれが、長谷川家---いや、宣雄の後ろ楯となったかどうかを検討したつもりであったが、うっかり、能勢十次郎頼種を吟味し忘れてした。

墨田区本所4丁目に、能勢妙見山という日蓮宗の寺院があり、北辰一刀流の千葉周作も信心していたと標識に書かれている。
嘉永4年(1851)の近江屋板切絵図には本所横川町の西側に、能勢惣左衛門・妙見山と記された屋敷がある。『寛政譜』の能勢13家の中に、惣右衛門(1500石)はいるが惣左衛門はいない。
『江戸幕府旗本人名事典 三』(原書房 1989.8.30)に収録の能勢17家の中に、惣右衛門家の主が天保のころに惣左衛門と変えた記述が見つかった。もっとも、屋敷は虎ノ門外。その後、本所に屋敷替えしたのであろう。

Photo_361
赤○=能勢惣左衛門と妙見山

聞くところでは、本家(4000余石)の邸内にあったものを移したと。そのもとは、鎌倉幕府のころから摂津国(大阪府)能勢郡(のせこおり)を領していた能勢家が祀っていたものを、徳川の幕臣となってから江戸へ移鎮。

すなわち、能勢十次郎頼種の本家は上のとおり。十次郎頼種の家は、2代前が分家からさらに分家している。
次に掲げる一覧性の『寛政譜』は、5ページのうちの第2ページ目である。

_360_5

家柄の由緒は古いが、なにしろ上方の出だから、幕臣の中でも異質といえ、政治力は強くはなかったろろとみる。

それを裏づけるかのように、十次郎頼種が西丸書院番の組(与)頭の席を手にいれたのは54歳の時、番方(武官系)での終着ポストといわれている西丸の先手(鉄砲)組の組頭(1500石)にたどりついた時には、68歳に達していた。75歳で歿するまでその職にあった。

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2007.05.19

本多伯耆守正珍---心おぼえ

2007年5月14日[本多伯耆守正珍の勉強]に、正珍が老中になって2年目の延享4年(1747)8月15日の、幕閣を上げておいた。

その一部を、補筆・採録する。

・老中
 酒井雅楽頭忠恭(ただずみ 上州・前橋藩主 38歳 15万石
  のち姫路藩へ)
 西尾隠岐守忠尚(ただなお 遠州・横須賀藩主 59歳 3万5000石)
 堀田相模守正亮(まさすけ 総州・佐倉藩主 36歳 10万石)
 松平右近将監武元(たけちか 上州・館林藩主 35歳 6万1000石)
 本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 48歳 4万石)
・若年寄
 板倉伊予守勝清(かつきよ 駿州・相良藩主 42歳 2万石)
 戸田右近将監氏房(うじふさ 濃州・大垣新田藩主 44歳 1万石)
 加納遠江守久通(ひさみち 勢州・八田藩主 65歳 1万石)
 三浦志摩守義理(よしさと 三州・西尾藩主 52歳 2万3000石)
 秋元摂津守凉朝(すけとも 武州・川越藩主 31歳 7万石)

_150_1なお、本多正珍が老中を解任された、宝暦8年(1758)9月23日(『柳営補任』による)後---

・老中
 松平右近将監武元(たけちか 上州・
  館林藩主 46歳 6万8000石)
 堀田相模守正亮(まさすけ 総州・
  佐倉藩主 47歳 11万石)
 秋元但馬守凉朝(すけとも 武州・
  川越藩主 42歳 7万石)
 酒井左衛門尉忠寄(ただより 羽州・
  庄内藩主 55歳 12万石)
・若年寄
 板倉伊予守勝清(かつきよ 駿州・相良藩主 53歳 2万5000石)
 小出伊勢守英持(ふさよし 丹波・園部藩主 53歳 2万6000石)
 松平宮内少輔忠恒(ただつね上州・篠塚陣屋 39歳 1.2万石)
 酒井山城守忠休(ただよし 羽州・松山藩主 45歳 2万石)
 小堀和泉守政岑(まさみね 江州・小室陣屋 69歳 1万余石)
 水野壱岐守忠見(ただちか 房州・鶴巻藩主 29歳 1万5000石)

このリストに、就任年月日を付け加えると、本多因幡守正珍の罷免を待っていたような新老中がわかる。
10月18日付で、京都所司代から転じた松平右京大夫輝高(てるたか 上州・高崎藩主 34歳 7万2000石)である。この仁はのちに、いささか欲もからんだ絹改メ会所を新設しようとして、二重課税だとの一揆を誘発、あわててひっこめた。

それよりも、たしか、ここの藩士とおもうのだが、三木忠大夫忠任の娘を、平蔵宣雄が養女とした。平蔵宣以の次妹として『寛政譜』に載っている。高崎市教育委員会に問い合わせたが、三木忠任は主だった家臣リストに載っていないとの返事だった。

郡上八幡の一揆の件で若年寄を罷免になったばかりか、封地召し上げの上、あずけとなった若年寄・本多長門守忠央(ただなか 遠州・相良藩主 51歳 1万石)の後任が、水野一門の壱岐守忠見(ただちか 房州・鶴巻藩主 29歳 1万5000石)である。
水野一門の増殖ぶり(分家の多さ)には目を見張る。つまり、覇権志向の強い家柄だった。

【余談】老中・酒井忠寄の庄内藩が、藤沢周平さんの海坂(うなさか)藩もののモデルである。

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2007.05.18

本多伯耆守正珍の蹉跌(その4)

老中を罷免された本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)が蟄居している、芝二葉町の中屋敷へ、長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、話相手として訪問しているシーンを想像した。

正珍は、49歳、宣雄は、36歳。
話題は、武田信玄軍から「家康にすぎたるもの二つあり。唐獅子頭と本多忠勝」とはやされた、本多家の祖・平八郎忠勝にまつわる武勇譚がほとんどであった。

信州と遠州の国境、青崩(あおくずれ)峠を越えて南下してきた武田軍2万5000が元亀3年10月14日に袋井へ入ってきた。
家康方からも本多忠勝などの小部隊が偵察に出、三ヶ野川で遭遇し、もちろん敗走。
殿(しんがり)をつとめた忠勝は、なんども踏みとどまっては抵抗を試みた。その戦いぶりの凛々しさを武田勢がほめたのである。
徳川勢が無事に天竜川を渡りきれるように、視界をくらますために見付の町衆が民家に火をつけて援護した(この功で、のち、見付の税はほかよりも軽くなったと)。

このときの小競りあいは、大久保彦左衛門『三河物語』に記録されている。

Photo_359
青○=東海道筋の藤枝 赤○=田中 黄色=小川(こがわ)

この2年前に田中城を捨てて家康の許に入っていた長谷川家の祖・紀伊(きの)守正長(まさなが)は、本多平八郎忠勝の隊に組みこまれていたろう。いや、正珍宣雄の会話では、いたことになっていたはず。

別の日には、武田方が三日月堀をめぐらせて築きなおした田中城のすぐれた構造についても語りあったとおもわれる。
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リーフレット[史跡 田中城下屋敷]より田中城の図
(藤枝市教育委員会)

そういうときの正珍の顔には血がのぼり、さも、おのれが戦い、築城したといわんばかりであったにちがいない。

正珍の蟄居は、足かけ6ヶ月後の翌宝暦9年(1759)年2月13日に許された。
しかし、幕政への影響力はほとんど消えていた。

安永2年(1773)、64歳になった正珍は、次男・正供(まさとも)へ家督を譲り、まったくの隠居となった。
嫡子・正堅(まさかた)が、郡上八幡の一揆事件で老職を罷免される前の年---宝暦7年7月に22歳で病歿してしていたための次善の相続であった。考えようによっては、郡上八幡の件で処置を手ぬかったのは、この前後の憂いと悲しみが大きかったためとも見られるが、国政にたずさわっている者としては、情が深いではすまされまい、ともいえる。

正供は延享3年(1946)の生まれだから、銕三郎(平蔵宣以の幼名)と同年。銕三郎の後ろ楯を期待するには、あまりにも無力すぎた。

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2007.05.17

本多伯耆守正珍の蹉跌(その3)

宝暦4年(1754)夏から足かけ4年におよぶ美濃国・郡上八幡農民一揆が、老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)の責任問題にまで及んだ概略は、これまでに記した。

『徳川実紀』宝暦8年10月28日の項---。

前の宿老・本多伯耆守正珍は在職時に、金森兵部少輔頼錦(よりかね 濃州・郡上(八幡)藩主 3万8000石)が封地の農民ら、領主の命令を拒否し、不良のふるまいを繰り返してはげしく行っているのを、頼錦はかねて縁のあった正珍に、内々に相談していた。

頼錦の家士たちが正珍の家士たちと不正な談合を持ったことも、正珍は承知していながら、ふかく糾明もしなかったばかりか、同列にも報告せず、なおざりに放置していたために、あらぬ風説さえ広がった。

あれといいこれといい、重職にも似合わない手落ちなので、逼塞を命じられた。

前の若年寄・本多長門守忠央(ただなか 遠州・相良藩主 51歳 1万石)も同じことについ内々の請託を入れて、勘定奉行・大橋近江守親義(ちかよし 2120石)をひそかに頼錦へ紹介。親義はさらに美濃郡代・青木次郎九郎安清(やすきよ 73歳 200俵)へ命じた。

ところが、一件吟味の際、忠央が重職にある立場を考慮して寛恕の尋ねをしたにもかかわらず、事実を否認したり、虚偽の答えをしたので、評定所での鞠問(きゅうもん 再審)まで受けることとなり、ついに白状したのは、まことに重職にふさわしからざる仕儀である。よって封地を召し上げ、松平越後守長孝(ながたか 作州・津山藩主 5万石)へあずけられた。養子・兵庫頭忠由(ただよし 24歳)も父の罪により同然。

大目付・曲渕豊後守英元(ひでもと 1200石)も、郡代・青木次郎九郎安清とのやりとりを隠したので、免職小普請入りの上、閉門

大橋近江守親義は事が公けになると、手元にあった一件書類を届けて長門守忠央に任せ、虚偽の申し立てをしたので、采地没収の上、相馬弾正少弼尊胤(たかたね 陸奥・中村(相馬)藩主 6万石)へあずけ

青木次郎九郎安清は、小普請入り、逼塞。おそらく、老年だし、上からの命令にしたがったことの情状酌量があったのであろう。

とにかく、百姓一揆で老中を含めて幕閣や藩主が免職・改易になったのは、江戸時代でこの事件だけといわれているほど、大事件にまで発展したのは、駕籠直訴もあるが、査問のときに虚言を弄して切り抜けようとした役職者がいたことにもよるようである。

その点、本多伯耆守正珍は、幼少時からの儒学の習得が効果があったかのように、免職・逼塞という比較的軽い処罰ですんでいる。人徳といってよかろう。

しかし、この事件の経過を、平蔵宣雄(のぶお)は、どう見ていただろう。誠意の人だから、とたんに遠ざかるようなことはしていないと思える。
あんがい、芝二葉町の中屋敷に蟄居中の正珍を何食わぬ顔で見舞ったりして---。その表裏のない態度を伝え聞いた士たちが、好感をもったかもしれない。

ちなみに、この年、銕三郎(平蔵宣以の幼名)は13歳。武士の子なら、一人前扱い。宣雄は、正珍のことをどう話して聞かせたろう?

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2007.05.16

本多伯耆守正珍の蹉跌(その2)

平蔵宣雄(のぶお)の後ろ楯だったかもしれない、駿州・田中藩主の本多伯耆守正珍(まさよし 49歳)が、在職足かけ6年たらずの宝暦8年(1758)9月2日に老中罷免された経緯を記している。

宝暦8年12月25日の『徳川実紀』を見てみよう。

_33美濃国郡上城主・金森兵部少輔頼錦(よりかね 46歳)は、封地を収公され、南部大膳大夫利雄(としかつ 盛岡藩主 20万石)に預けられ、その子・出雲守頼元をはじめ、二、三男まで同じく士籍を削り去られる。

これはさきに、領地の租賦を検見(けみ)法をとったので国民が擾乱を起こしたので、いたし方なく、その年は定免法にしたが、それでも先に布告した検見法をあきらめなかった。
それで、勘定奉行・大橋近江守親義(ちかよし 2120石)に頼み、美濃郡代・青木次郎九郎安清(やすきよ 73歳 200俵)をして農民をあれこれ説得させて承諾させた。

また、縁のある宿老・本多伯耆守正珍に仔細を告げて相談をもちかけ、他の老中にも指示を仰いだなどと、顕職の人たちの名を書簡に載せた。さらに大目付・曲渕豊後守英元(ひでもと 1200石)および近江守親義、次郎九郎安清にも言いおくっていたが、じつは老中たちには相談したことはなかったのである。

また、領民の代表が老中の駕籠に直訴したのを、上裁をまたずに勝手に斬首したことも違法である。

結果、郡上(八幡)藩士で遠流になった者2人、斬首された者2人、追放された者6人。
郡上藩の画策

この事件でみるかぎり、本多伯耆守正珍は情に篤すぎ、深めた学問にもかかわらず政治の本道をあやまったといえるが、この情の濃さは肉親だけにかけられたのではなく、部下にもおよんでいるから、田中城がらみで、平蔵宣雄の引きたてにも関係したとみたい。

もっとも、伯耆守正珍の処分は、宣雄小十人頭への昇進発令の13日前である。正珍の処置はその前から御用部屋の議題であったろう。とすると、宣雄の昇進への手くばりはそのずっと以前から行っていたとみるべきであろう。

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2007.05.15

本多伯耆守正珍の蹉跌

延享3年(1746)は、駿州・田中藩主の本多紀伊守正珍(まさよし)にとって、いい年であった。10月25日、老職に就くとともに紀伊守伯耆守と改めるようにとの御旨を受けた。12月15日には老中にふさわしく従四位下に叙せられた。

翌4年(1747)5月15日。濃州・八幡(郡上)藩主(3万8000石)で、親しくしていた金森兵部少輔頼錦(よりかね 33歳)が奏者番に任じられた。兄をもって任じている伯耆守正珍が9年前に就いた大名出世コース・スタートライン職である。
「兄をもって任じている」と書いたが、頼錦との婚約がととのっていた正珍第二妹が病没していなければ、まさしく義兄となるはずであった。妹の未婚病没のことがあったが、正珍は、3歳年下の頼錦の指導役のつもりでいた。

若狭守頼錦の奏者番への就任が、自分の蹉跌の火種となったことに気づいていないまま、伯耆守正珍は金森家に昇進祝いを届けた。自分が老中になった去年には、金森頼錦からも老職就任の祝いを贈られてもいた。

大石慎三郎さん『田沼意次の時代』 (岩波現代文庫 2001.6.15)で農民一揆を扱った[奏者番金森頼錦]の項から引用。

Photo_358そもそもことは郡上八幡藩主金森(かなもり)頼錦(よりかね)が、延享4(一七四七)年幕府の奏者番になったところからはじまった。この役は将来幕閣の中枢にもと嘱目された若手大名がつく役職で、そこで有能と認められると、やがて三奉行の筆頭役寺社奉行の兼帯(正珍がそうだった)を命ぜられ、さらには大坂城代、京都所司代を経て、若年寄、老中へと途がひらけたポストである。いわば幕政の幹部候補生といったポストであったので、若い頼錦がその前途に野望をいだいても無理からぬものがあった。そのため彼は家臣に資金(出世金)の調達を命じ、また家臣たちも少々の無理をしてもこれに応えようとしたのであった。

家臣たちの思惑を上掲書はこのように推察している。

金森氏は美濃の守護土岐氏の庶流で、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康に仕えた中世以来の名門である。(略)飛騨の国を領し高山を居城とし表高三万石でありながら、実高一○万石といわれる大変豊かな藩。(略)であった。

それが、頼錦の祖父の時代に、幕府の林業政策から出羽・上山(かみのやま)実高3万石へ国替えとなり、6年後に濃州・郡上八幡3万8000石へ戻された。家臣たちとすれば、幕閣上層部への働きかけで、実高10万石のもとの高山藩への国替えを夢みたとしても責められない。

出世金の捻出は、農民への強制となり、郡上一揆として知られる一連の騒擾を誘発した。その経過は前掲書などにゆずる。
宝暦郡上一揆

一揆は足かけ4年iにおよぶ異例の様相となった。
したがって、一気に『徳川実紀』宝暦8年(1758)9月2日へ飛ぶ。

○宿老本多伯耆守正珍がはからう事ども御旨にかなはずとて職ゆるされ、雁間の座班にかへさる。

ようするに、老中の罷免である。理由は、ほぼ2ヶ月後の『実紀』に明かされている。

金森若狭守頼錦の除封とお預け、一家の士籍削除の申しわたしは同年12月25日であった。

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2007.05.14

本多伯耆守正珍の勉強

平蔵宣雄(のぶお)へ、西丸・書院番士としての出仕を申しわたした月番老中・本多伯耆守正珍(まさよし 田中藩主 4万石)が、田中城のよしみで、宣雄に声をかけたか、その後もなにかと後ろ楯になった可能性をさぐるために、伯耆守正珍のあれこれについて史実の断片を集めて、類推の資料としている。
2007年5月11日[本多伯耆守正珍のエピソード
2007年5月12日[細川越中守宗孝の刃傷事件
2007年5月13日[細川越中守宗孝の刃傷事件(2)

細川越中守宗孝(むねたか 熊本藩主 32歳 54万石)が江戸城の大広間の北の落縁にある厠(かわや)前で、背後から寄合・板倉修理勝該(かつかね 6000石 35歳?)にいきなり斬りつけられた事件は、延享4年(1747)8月15日の午前8時すぎに起きた。

鬼平熱愛倶楽部のメンバー---みやこのお豊さんがネットで検索したところ、江戸城内で起きた7件の刃傷事件のうち、これは5番目にあたるという。

この前に起きた4番目の事件fは、22年前の享保10年(1725)7月28日に水野隼人正忠恒(ただつね 松本藩主 25歳 7万石)が突然狂気し、毛利主水正師就(もろなり 長州・府中藩主 20歳 5万7000石)に斬りつけたもの。

25年前といえば、本多正珍は16歳だったから、事件そのものはかすかな記憶であったろうが、その後、28歳で奏者番、30歳で寺社奉行を兼帯しているから、この手の事件の処置については、ある程度の知識があったかもしれない。

それよりも、事件後は全閣僚や大目付、奉行もただちに出仕して討議をこらしたろうから、その手続きは、正珍のものとはいえまい、
その時の閣僚をとりあえず記しておく。

・老中
 酒井雅楽頭忠恭
 西尾隠岐守忠尚
 堀田相模守正亮
 松平右近将監武元
 本多因幡守正珍
・若年寄
 板倉伊予守勝清
 戸田右近将監氏房
 加納遠江守久通
 三浦志摩守儀次
 秋元摂津守凉朝
・大目付
 河野豊前守通喬
 水野対馬守忠伸
 石河土佐守政朝
 土屋美濃守正慶
・町奉行
 馬場讃岐守尚繁
 能勢肥後守頼一
・寺社奉行
 大岡越前守忠相
 山名因幡守豊就
 小出信濃守英智
 酒井修理大夫忠用

これだけの老練・豪華な顔ぶれがいるのだから、新参の本多伯耆守正珍がしゃしゃり出て発言することはあるまい。

それで、SBS学苑パルシェ[鬼平]クラスの安池さんからメールでいただいている、『現代語訳 田中藩史譚』(仲田義正 1994.9.1)を読み返した。

丹波長喬(ながたか)
丹波平治兵衛長喬は克亨(正珍の法号)公の守(もり)役となり、彼の仕法によって輔導をした。
公は学問を好み厳しい日課を設けて勉励した。

100_35ふむ、と、手元の上・下で2100ページを越える笠井助治さんの大著『近世藩校に於ける学統学派の研究』(吉川弘文館 1969.3.30)で、田中藩の項を開いた。

田中藩主本多氏は享保十五年(1730)、正矩が上野沼田四万石から駿河田中城に移り、子孫相承して田中を治めていたが、明治元年(1868)、正訥(まさもり)の時、安房に移封し、長尾城に治した。従って本多氏の田城は、享保から明治元年まで、百四十余年の治世である。
○正武-正矩-正珍-正供-正温-正意-正寛-正訥-正憲-正復
藩校・日知館の創設は、天宝八年(1837)である。時の藩主、正寛は儒官石井耕、師範熊沢惟興、家老職遠藤喜平、都築弥助、黒田庭筠に命じて、学校を田中城内一の丸。大手東角に創立し、藩士子弟に文武の教育を授けた。万延元年(1860)、藩主正訥は、さらに江戸在府の子弟のため神田の藩邸内にも学問所日知館をいとなみ、芳野金陵及び桐野逸蔵を師範として教授に当たらせた。

ここまで読んで、「まてよ」と足ぶみ。
正珍が本多家の長子が襲名する三弥時代を送った江戸の藩邸---父・正矩が沼田藩主の時代なら中屋敷は赤坂今井、田中藩主となった享保15年(1730)、三弥21歳以後なら神田橋外にあった中屋敷ということになる。
ま、いずれにしろ藩校は関係ないとしても田中藩の学統は、笠井助治さんいうところの折衷学派---徂徠に古学を加味したものらしい。
守役・丹波長喬も折衷学派に基づいて三弥を教えたのであろうか。

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2007.05.13

細川越中守宗孝の刃傷事件(2)

2007年5月12日[細川越中守宗孝の刃傷事件]に関する『徳川実紀』の記述のつづきである。

前回は、知らせを受けた月番老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)と若年寄・本多伊予守忠統(ただむね 勢州・神戸藩主 1万5000石)が事件の知らせをうけて急ぎ登城、あと処置にとりかかったところまでを引いた。

【また、永井伊賀守直陳御使者奉りて、宗孝が家にまかり、御たづねの仰をつたえぬ。次の日掘田相模守正亮またその邸にまかり、さきに弟民部をかわりの養子に聞えあげ置たれば、かつて継嗣の事は心安かるべければ、しづかに手きず養べしと、いとねんごろなる特旨をつたふ。】

永井伊賀守直陳(なおのぶ 奏者番 武州・岩槻藩主 3万2000石)が将軍の代理として、大名小路にある細川越中守宗孝(むねたか 肥州・熊本藩主 54万石)の上屋敷へ、見舞いの使者に立った。
翌日には、老中の掘田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 10万石)が細川屋敷をおとない、継嗣のことは、さきに仮の養子として2歳違いの弟・重賢(しげかた)との届けがでいるから、安心して、心置きなく養生にはげまれたいと述べた。
(注:重傷の宗孝は32歳。室は紀伊大納言宗貞卿の息女だが、まだ子がなかったらしい。国持ち大名は、参勤交で帰国のさい、まさかのときの世継ぎの名を書いた奉書を幕府に差し出し、上府すると戻してもらうしきたりになっていたという。そのしきたりに準じての継嗣なのか、あるいは別段で届けていたのかは不明)。

【(世に伝ふる所は、板倉修理勝該、日ごろ狂癇の疾ありて、家をおさむべきものならねば、宗家の佐渡守勝のはからひにて、勝該を致仕せしめ、勝清の庶子もて家つがせんとをきてしを、勝該聞付て、はじめこの事はかりしをのが家人をころさんとせしかば、其家人はではしりぬ。よて勝清ひそかに勝該を家にこもらせおきしが、勝該はとかくいひこしらへてけふ出仕し、勝清を御所のうちにて、一太刀にきりすてんとおもひもうけしが、細川越中守宗孝が家の紋の似かよひたるにまどひて心みだれ、かつ、見たがひて殺害せしといふ。これしかしながら、修理狂気のいたす所にて、害せし後も、すずろ言のみいひさせぎしとぞ。)】

(いろいろ調べていくと、板倉修理勝該(かつかね 35歳? 6000石 寄合)は、日ごろから奇矯な言動があり、一家の主人としては不適当ということで、板倉一門の宗家で側用人・佐渡守勝清(かつきよ 上州・安中藩主 2万石)は、勝該を致仕・隠居させ、自分の5人の男子のうちから家督を継がせるべく相談に乗っていた。
そのことを知った勝該は、家人(妻は建部丹波守政民の女。ただし妻とはかぎらず、用人ということも考えられる)を斬ろうしたが、家人は姿をくらませた。
このことがあって、佐渡守勝清は、勝該を屋敷内に閉じこめておくように指示したが、なんのかのと理由をつけて登城し、江戸城内で勝清をねらっていたが、たまたま、紋が似ている細川越中守宗孝を見誤って斬りつけてしまった。
取りおさえられたあとにいうことも意味をなさず、これはもう、狂気の沙汰としかいいようがない)

付記:板倉修理勝該は、預けられていた水野大監物忠辰(ただとき 岡崎藩主 5万石)の屋敷で同月26日に切腹、家は改易となった。

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2007.05.12

細川越中守宗孝(むねたか)の刃傷事件

2007年5月11日[本多伯耆守正珍のエピソード]に、江戸城内での本多伯耆守正珍(まさよし)のエピソードを、  『現代語訳 田中藩史譚』 から引いた。

延享4年(1747)8月15日のこの事件は、 『徳川実紀』にもうすこし詳しく記載されており、『現代語訳 田中藩史譚』といささかニュアンスが異なる。
本多伯耆守正珍の性格にもかかわることなので、長めだが、引用してみる。

【○十五日 月なみの拝賀なれば群臣出仕す。然るに細川越中守宗孝もおなじくまうのぼりしが、辰のときばかりに、大広間のかはやのもとにいたりしに、うしろよりなにものともしれず、差添もてきりつけたり。】

Photo_355将軍(家重)への定例のご拝賀の日にあたっていたので、諸大名や重臣たちが登城していた。
午前8時すぎであったろうか、細川越中守宗孝(むねたか 熊本藩主 32歳 54万石)もそのなかの一人として、大広間・北の落縁にある厠(かわや)のあたりを歩いていると、何者かが背後から差添で斬りかかって、何箇所も傷をおわせた(左は細川家の九曜紋)。

【朝会の輩擾騒してその事聞えしかば、上直のくすしをはじめ、朝参せし医どもまでめしあつめられ、療治せしめらる。】

朝会に参列の諸侯が「医師ッ 医師ッはおらぬか」と騒ぎたてので、宿直の医師をはすじめ、登城してきていた医師たちが治療に当たった。

【さて、宗孝をあやめし者をたづね出さんとて、目付等ここかしこもとめしに、さらにたづね得ず。よて、玄関のまゐら戸をとざし、諸門を打たせて出入りを禁ず】

宗孝に傷をおわせた犯人を、目付があちこち探がしたが、見つからない。そこで、玄関への戸を閉ざし諸門も扉をと閉めさせた。

【かかる内に宗孝いたてゆえ、元気よはりければ、ことに奥医武田叔庵信郷、おなじく外科西玄哲規弘に療治の事仰下りて、葠湯をたまひ、、湯漬の飯を下され、かれが家人二人を殿中にめして看侍せしめらる。】

数箇所におよぶ宗孝の傷はかなり重傷でだいぶんに弱ってきた。奥医・武田叔庵信郷と外科医・西玄哲規弘に手当てを仰せられ、葠湯と湯飯を下された。御殿の外に控えていた藩中の供の者のなかから、2人を特別に殿中に呼んで看護させた。

【やがて、大広間の厠の中に、何ものともしれず、ひそみ居けるものありしかば、尋よりてこれを見るに、寄合板倉修理勝該なり。目付等事のさまとひきはめしに宗孝をあやめしよしをこたちへたれど、そぞろごといひて、失心のさまなれば、蘇鉄の間のかたにとらへ置、網をかけたる轎にのせて水野大監物忠辰にめしあずけらる・】

そうこうしているうちに、大広間の厠にひそんでいた寄合・板倉修理勝該(かつかね 6000石 35歳?)が見つかった。目付たちがいろいろ尋問したが、越中守宗孝に斬りつけたことは認めたが、あとは失心でもしたかのようにしどろもどろなので、蘇鉄の間に引きこんで、網をかけた轎(竹かご)に押しこんで、水野大監物忠辰(ただとき 岡崎藩主 5万石)に預けられた。

【この事、宗孝が家士に告しめられんとて、中らひある織田山城守信旧に命じてかの邸へいたらしむ。さて、宗孝を、殿中まで轎かき入。家におくりかへさせ給ふ。このとき宿老いまだのぼらざるまへなれば、よろづの事、御側まの輩御旨をうけ給はりて事はからひしとぞ。本多伯耆守正珍、少老本多伊予守忠統は直月なれば、此事により速に出仕し、それよりの事どもはからひしなり。】

事件の成り行きを熊本藩に告げるべく、内室が細川家の姫という縁筋の織田山城守信旧(のぶひさ 柏原藩主 2万石)がさしつかわされた。轎を殿中まで運び入れて重傷の宗孝を乗せておくった。
このときまで月番老中・本多伯耆守正珍と若年寄・本多伊予守忠統(ただむね 伊勢神戸藩主 1万5000石)はただちに登城、あとのことにあたった。

付記:細川越中守宗孝は、手当ての甲斐もむなしく、翌16日に息を引き取った(『現代語訳 田中藩史譚』は17日としている)。
Photo_357犯人・板倉修理勝該は、自分を廃嫡にしようとした本流・板倉板倉周防守勝清(かつきよ 安中藩主 2万石)の板倉巴紋と細川宗孝の九曜紋を見間違えての刃傷だったというが、よほど目が悪かったか、殿中が薄暗かったか。

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2007.05.11

本多伯耆守正珍のエピソード

2007年5月7日本多伯耆守正珍(まさよし)で、静岡県立中央図書館に、この老中の性格を類推する史料が少なすぎた---と嘆いた。

この日の午後、SBS(静岡放送)学苑パルシェで4年来ともに学んでいる[鬼平]クラス安池さんに、ついでがあったら田中藩があった藤枝市図書館か、藤枝資料館をあたってほしい---と依頼しておいた。

中央図書館で『現代語訳 田中藩史譚』まで辿りつきながら、時間がなくて見逃した、つぎのようなエピソードが、安池さんからメールされてきた。

談叢第一(藩主略伝
第七世 克亨公(正珍)(まさよし)

板倉修理の江戸城中刃傷事件

延享3年(1746)正珍公は老中を拝命した。
延享4年8月は公が月番に当たっていたが、その月の15日、江戸城で細川越中守宗孝に斬りつけた者が居り、城内は大騒ぎとなった。

これより先、板倉修理は本家の板倉周防守勝清を恨み、ここ幾年か仕返しの時機をねらっていた。

たまたま城中で細川越中守の九曜の紋所を遠くから見て、それを板倉家の九つ巴と勘違いして、その衣装を着た越中守を背後から斬った。

正珍公はその時、登城の途中で、人々が大騒ぎしているのに出会(でくわ)して、心中、何事かと怪しんだ。
城門にさしかかると、騒ぎはますますひどくなった。目付の役人が慌ただしく公を迎えて城中の事件を伝えた。
ついで、大目付もまた出迎えた。

公は静かにうなづき、諸門の閉鎖を命じ、事の次第を問いただして、真相を了解すると、直ちに門外の者に対して、「細川越中守を傷つけた者は旗本の板倉修理である。」と告げたので、人々の心はやっと静まった。

石竹の水かけ
公は石竹を好んだ。ある夏、永いこと雨が降らなかったので、渋川貞蔵に水をかけるように命じた。彼は袴の股立ちを取り、水を入れた桶を一荷担いで来て、桶を傾けて、ざんぶり水をかけたので、石竹はそれに耐えられず、地面に倒れてしまった。公は後に、
「いやしくも武士たる者に、こんな事をさせたのは不覚の至りであった。」
と言って笑った。

孝心
公は至って孝心に厚く、老中を退いてからは、自ら質素倹約につとめ、飲食服飾をきりつめたが、母君には不自由な思いをさせぬよう、手厚くいたわった。

慈悲心
公は寛大で慈悲深く、罪人に対する刑さえ執行するに忍びないというところがあった。死刑該当者があっても、もし母君が命乞いをすれば、寛大な処置をしたという。

二葉町での老後
公は老後を二葉町の邸で過ごした。田中からやって来てご機嫌伺いをする者があれば、その家柄にはお構いなく、裏の庭園を自由に見物させ、彼等の喜ぶ様子を見ては楽しんだという。

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(注:田中藩の芝二葉町の中屋敷は安永(1780)まで、土橋の西突き当たり---近江屋板切絵図・赤○の西にあったが、近江・大溝藩(分部若狭守 2万石)上屋敷に収公され、赤坂三河台へ移転。
正珍は隠棲しても駿河へ帰国しなかったのは、諸侯との交遊もあったためか)。

談叢第二(藩士略伝)

丹波長喬(ながたか)
丹波平治兵衛長喬は克亨公の守(もり)役となり、彼の仕法によって輔導をした。
公は学問を好み厳しい日課を設けて勉励した。
母の広寿院は勉強の度が過ぎると心配し、文をしたためて時には休養もせよと勧めたが公は従わなかった。
寛保2年(1742)6月長喬が病に伏すと、公は彼をいたわり、自ら薬まで煎じてやるほどであったが、そのかいなく病状は悪化した。長喬は再起不能を知ると、薬を断って程なく没した。

公は後に老中を拝命した時「自分がこのような大任をかたじけなくしたのはひとえに彼の教導の賜である。」と言い、急いで駕籠を用意させ、その墓所に詣でて供養をした。以後彼の命日にはいつも遺族に贈り物をし、その後、浅草徳本寺の本多家先祖の墓地のある所に改葬した。

これだけの史料が入手できたのだから、、本多正珍の性格は、ある程度、類推できようというもの。江戸城・菊の間で跡目相続の許しを伝えられた平蔵宣雄へも、予想どおり、案外、気軽に声をかけたかも。

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2007.05.10

岡部伊賀守長晧(ながつぐ)

2007年5月10日[仙石丹波守久近(ひさちか)]の項に、辰蔵宣義(のぶのり)が上呈した[先祖書]の、宣雄(のぶお)のくだりの一部を紹介した。
もちろん、『寛政譜』には採記されていない。

 同年(寛延元年)閏九月九日 西丸御書院番柴田丹後守
 組え御番入被命 其後岡部伊賀守組
 之節
 宝暦八戌寅年九月十五日 小十人頭被命

小十人頭に栄進したときの西丸書院番の番頭が、岡部伊賀守長晧(ながつぐ 2000石)だったことがこれで分かる。

宣雄が書院番士だった時の、3人目の番頭である。

岡部という姓からいっても、駿州・東海道筋の岡部に縁が深い。
初代から14代目・信綱(のぶつな)と15代目・正綱(まさつな)は今川義元(よしもと)の家臣であった。

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最初に詳細な記述が書かれている仁が15代目の正綱である。
朝日山城(現・藤枝市)を居城としていた。
家康が幼少・竹千代のころ、駿府に今川方の人質として囲われていた時から、親しくしていた。

義元が桶狭間で戦死後、武田信玄に攻められて守っていた駿府城を開城したあと清水に隠棲したが、その正綱のもとへ、家康からしばしば連絡があったという。

この後、家康にしたがって甲州・信州へも従軍、けつきょく、泉州・岸和田6万石の藩主におさまった。

正綱から5代、祖氏から数えると20代目・内膳正長敬(ながたか)から分家したのが、伊賀守長晧である。父の所領から廩米3000俵を分与された。

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宝暦3年(1753)10月15日、宣雄の番頭として着任したのは43歳。
平蔵宣雄は、足かけ6年間、長晧の下で番衆として励んだ。

今川方の出であること、朝日山の城は、長谷川正長が守った田中城と指呼の間にあること、長谷川の祖が小川(こがわ)を地盤としていたこと---などから、宣雄とそんな会話を交わしたと想像してもおかしくはない。

ついでにいっておくと、岡部宿は幕末まで幕府直轄となっていた。

伊賀守長晧の屋敷は赤坂溜池端で、赤坂築地中之町の長谷川邸から至近の距離である。
だからといって、宣雄がしばしば岡部邸を訪問したとはいわない。ヒラの番士と番頭では格が違いすぎる。
とはいえ、長晧宣雄に目をかけなかったといもいえない。

ただ、長宣雄の後ろ楯となったとしても、宝暦10年には大番の頭に転じているし、その5年後には55歳で卒(しゅっ)しているから、ながくは影響力を発揮してはいまい。

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2007.05.09

仙石丹波守久近(ひさちか)

長谷川平蔵家の9代目・辰蔵宣義(のぶのり)が『寛政譜』のために書き出した[先祖書]---7代目・宣雄が寛延元年(1748)閏10月9日に西丸・書院番士として出仕し、西丸・小十人頭に栄進した、宝暦8年(1758)9月15日までの上司の中に、宣雄後ろ盾がいたのではないかと、探索している。

候補者のリストは、2007年5月5日[宣雄、西丸書院番士時代の上役]にあげておいた。
第一候補は、あの5人の中にいるにいるはず。

辰蔵宣雄が上呈した[先祖書]の、その期間の項を写す。

 同年(寛延元年)閏九月九日 西丸御書院番柴田丹後守
 組え御番入被命 其後岡部伊賀守組
 之節
 宝暦八戌寅年九月十五日 小十人頭被命

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[先祖書]ははしょっている。
『柳営補任』の[書院番頭]の項を確認すると、仙石丹波守久近(ひさちか)が抜けている---というより、宣雄栄進には直接には関わりがないというので省いたのであろう。

仙石本家は、秀久(ひでひさ)が美濃国から発し、豊臣太閤に仕え、上杉攻めでは秀忠の軍に加わっている。のち丹後・但馬・美作で5万8000石。
久近の家は、最末4番目の分家で2000石の旗本。

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久近『寛政譜』を取り出して掲げるが、さしたる事跡はなく、西丸書院番頭に在職中に42歳で歿しているから、宣雄の後ろ楯とは断じがたい。

しかし、久近の父・丹波守久尚(ひさなお)は、絵島・生島事件大目付として歴史や俗書に名を残している。
事件は、幼い七代将軍家継の生母月光院側の老女・絵島を冤罪で陥れた、天英院側の作戦勝ちなのだが、世評は判官びいきで、

 人に嫌われる物は食いつき犬と仙石丹波守

と落首されたが、長谷川平蔵宣雄にはまったく無縁の劇なので、詳細は歌舞伎なり小説でどうぞ。
http://www6.ocn.ne.jp/~kai/yam.html

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2007.05.08

映画[大川の隠居]

100_34中村吉右衛門丈=鬼平のVTRでは、[6-5 大川の隠居]は独立短篇としてでなく、[8-4 流星]と合わせて、スペシャル長篇となっており、題名も[流星]のほうが取られている。

松本幸四郎(白鴎丈)=鬼平では、[大川の隠居]として、脚本・野上龍雄さん、監督・丸山誠治さんで、第89本目として1972年3月16日に放送された。

萬屋錦之介さん=鬼平でも、同じ脚本を、監督・高瀬昌弘さんが撮り、1982年8月17日オン・エア。
どちらも観た記憶がない。

120_16『オール讀物』平成元年(1990)7月臨時増刊号[鬼平犯科帳の世界](のち文春文庫に改編)に、池波さんが寄せた「著者が選んだ鬼平ベスト5」では、
大川の隠居
瓶割り小僧
盗法秘伝
山吹屋お勝
本門寺暮雪
で、トップに[大川の隠居]を置いている。それほど、愛着が濃いのであろうし、読み手側も、血なまぐさい場面が描かれていないこの短篇を推す人が多い。

80歳の老女ファンなどは、小学校高学年の国語の教科書へ収録すべきだとまで肩の入れようである。
「大川の隠居」の巨鯉にはモデルがある、と教えると、彼女、足の痛みをこらえながら鯉塚のある竜宝寺を訪れた。

その[大川の隠居]が、なぜ、[流星]と合わさってしまったのか。
脇の主役が〔浜崎〕の友五郎で共通しているから、視聴者に理解が得やすいということもあろうが、むしろ、テレビ向きとしては、80歳老女があげた長所が、弱点になったとも考えられる。

つまり、テレビ版鬼平にはつきものの、長谷川平蔵の刀技や、火盗改メ与力・同心たちの殺陣(たて)を見せる場面がない---ということ。観る者は、あれらの場面でスカッとしていると、制作側が考えているらしい。
それで、派手な斬りあいのある[流星]で補ったのではないか、と勘ぐってみた。まんざら間違ってはいまい。

[大川の隠居]が持つ暗喩---江戸期の人たちが親しんでいた非日常の魔珂不思議な世界の情緒---が、テレビでは十分に伝わらなかったのではなかろうか。

そう気づいて、スペシャル[流星]の制作陣を改めて見直したら、脚本・野上龍雄、監督・小野田嘉幹とあった。

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2007.05.07

本多伯耆守正珍(まさよし)

2007年5月某日、朝、8時6分東京駅発〔ひかり〕で、静岡県立中央図書館へ史料を探しに行く。
この列車だと、静岡駅から草薙駅へ引き返し、バス。9時から開館している図書館へ、ちょうどいいのだ。

目的は、本多三弥左衛門正重(まさしげ)からははじまった本多家は、6代目・正矩(まさのり)のときに、駿州・益津の田中藩(現・藤枝市)に移封。

次の7代目藩主が、老中をつとめた伯耆守正珍(まさよし)である。
長谷川家の7代目を養子相続をした平蔵宣雄(のぶお)との初接触は、2007年5月1日[宣雄、異例の出世]の項に記した。

宣雄との接触度を類推するために、さらに、正珍の人柄の手がかりを知りたくなった。

正珍が礼式にくわしいことは『寛政譜』からも読みとれる。
郡上八幡の藩主・金森頼錦(よりかね)に対する一揆の処置をめぐって、老中を辞めさせられた経過は、大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波現代文庫 2001.6.15)にくわしい。 鷹揚すぎるところもあったようだ。
38年の長期間、田中藩主であった。そのあいだに、 『寛政譜』のような公式記録には記録されるべくもない、一人の人間として、いろん面を見せているはず。

正珍の人柄の記録を読むには、静岡県立中央図書館にしくはないと、断じたのである。

150_7館の係に希望を申し出たが、初めて受けた相談らしく、PCで検索---ったって、google みたいに史料の内容まで入力しているわけではないから、書名であたりをつけるだけ。
『藤枝市史』は手持ちしているから、不要と告げる。

非開架式の奥の部屋から取り出してきたのが、ガリ版刷を製本した『田中城 本多御系図御家譜大略 解字』
坂野徳治という市井の研究家のご苦労の作だが、「正珍公御条目御定書(おさだめがき)」の部分だけコピー。
多分、幕府が各藩へ示したものの写しだ。

130_16さらに奥から出されたのが池谷盈進さん『現代語訳 田中藩史譚』(1994刊)。
「子の正珍公が立つ。人に情け深く、親に孝行で人材を大切にした---うんぬん」
うーん、これって、誰にでもあてはめられる形容だなあ。

「従五位に叙され紀伊守に任ぜられる」
これも、宣雄との会話の一つにはなりそうな---長谷川平蔵家の祖・正長は、今川の田中城主時代、紀伊守(きのかみ)を称し、武田信玄軍勢の猛攻にあい、一族と徳川へ走っている。

「元文2年(1737)奏者番(そうじゃぱん)となり、4年寺社奉行を兼ね、延享2年(1745)天下の朱印状を審訂し、3年(1745)老中を拝命し---」老中就任は36歳---政治的なやり手でもあったのだ。
しかし、この記述は『寛政譜』を写しているだけとみる。

けっきょく、これ以上の史料は見つからなかった。
あとは、藤枝市資料館へ問い合わすしかなさそう。
家臣のエッセイがあるはずなんだが、幕末に安房国長尾へ移封されているから、資料もそっちにあるのかもしれない。

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2007.05.06

松平新次郎定為(さだため)

2007年5月4日の [寛政譜(21)で、平蔵宣雄(のぶお)の(与)頭(くみがしら)・松平新次郎定為のことを、「穏健で、むしろ無能とおもえるほど人のよい」と評した。

いや、美質を褒めたつもりである。
徳川政権も後半に入り、身分制度が硬直したかのように見える組織にあっては、自分から動く者は、周囲に嫉妬と軽蔑のさざなみを立てる。
定為のように、待つことに馴れている仁は、自分からは動かない。茫洋とした擬態が苔のように顔にはりついているものだ。

新次郎定為『寛政譜』には、家督が35歳と遅かったこととともに、「実は帯刀定冬がニ男」とある。
定冬とは、初代・定寛(さだひろ)の長男だったが、「病により嗣たらず」と書かれている。

正妻ももたないで5男5女も産ませた定冬が、「病により嗣たらず」とは、なんの病いだったのだろう?
家督は初代・定寛の2男・定隆(さだたか)が継いだ。
定隆は3人の女子を得たのみ。それで、廃嫡された兄のニ男で甥・定為が養子となった。

ところで、始祖・定寛は84歳まで生きた。
2代目・定隆の享年は73歳。
定為は、家督したときには35歳になっていた。もちろん、末流とはいえ久松松平の一門である---家督するまでは24歳から書院番士として廩米200俵を得ていた。

こうした家庭事情を考慮して性格を推測した。
ちなみにいうと、定為も当時としては77歳まで長生きしている。西丸の先手・鉄砲の組頭を死の2日前まで務めていた。
まあ、先手の組頭は、番方(武官系)の双六でいう「上がり」(終着駅)みたいなものだから、終身しがみついていたとしても、非難はされない。

しかも、定為は69歳の宝暦4年に、嫡子・定岡(さだおか)に家督(1000石)を相続してしまっている。
ということは、邪推すると、先手組頭に給される格高1500石をそっくり頂戴していたともいえる。「茫洋」という表現を引きさげるべきかも。

ま、内実はそのようにしっかりしている仁だから、いろんな角度から平蔵宣雄の人柄を観察した末に、評価したのだろう。ただ、その評言を上へ伝えたかどうか。
宣雄の建言を、さもわが意見のごとくに、上へ話しただけってこともありうる。

いや、建言といっても、当時のことだから、倹約の手立てについてのものだったかもしれないが。

宣雄にとって幸い(?)だったのは、新次郎定為が、じっと死を待ちながら勤めていた先手組頭のときでなく、まだ生きることにゆとりをもっていた57歳から足かけ7年間だけの、定為との接触ですんだことだったとも思える。

【メモ】始祖・定寛は、麻布・閻魔坂ぞいの崇厳寺(すうごんじ)に葬られ、代々の葬地だったがいまは墓域のみ移転。

Photo_350

坂名の由来は、赤○=崇厳寺の閻魔堂によるといわれているが、先が行きどまりで通り抜けられない---にかけているようにも思える。
左下の5緑○=先手・鉄砲の第7番手の組屋敷。ここの坂名---御組坂のゆえん。別に龕前坊(がぜんぼう)谷とも。火葬がおこなわれたからの谷名。
『鬼平犯科帳』 [1-5 老盗の夢] に〔火前坊〕の権七という盗人の呼び名はここからきている。

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2007.05.05

宣雄、西丸書院番士時代の上役

平蔵宣雄(のぶお)を、長谷川家の中興の祖---と持ち上げた。
というのは、両番家柄なので、それまでの6代の当主たちは、たしかに書院番士と小姓組番士にはなった。
しかし、6人ともヒラのまま終わっている。両番は、将軍の親衛隊とはいえ、200俵格だから、400石の長谷川家には経済的な恩恵はもたらしていない。

宣雄は違う。
掲げた表の一番下をみてほしい。

Photo_349

西丸の書院番士を10年ほどこなして、小十人組の組頭に栄転している。
小十人組頭は1000石格である。
長谷川家は家禄が400石だから、宣雄が小十人組頭になると、差額の600石(たし)として補ってもらえる。
つまり、小十人組頭にふさわしい体裁を整えよ---ということ。

長谷川家にとって、足高が入る---つまり、収入がそれだけふえることになったのは、宣雄が初めてである。
しかも、その余慶は、宣以にも孫・宣義にも引き継がれた。幕府が、長谷川家をそういう格と家柄と認識したということだ。

長谷川家の幕臣としての、家禄はともかく、家格をあげる要因は、宣雄の西丸書院番士時代に仕込まれた---と見た。
それで、その時期の上役をリスト化してみた。

ついでにいうと、寛延3年(1750)年、宣雄が西丸へ書院番士として出仕している足かけ3年目の8月16日、名ばかりの本妻・波津が病歿した。
銕三郎(のちの平蔵宣以)は5歳になっていた。葬儀にまつわる奥の仕切りは銕三郎の実母が行なった。

宣雄は、先祖からずっと住んでいた赤坂から、屋敷を大川べりの、築地鉄砲湊町(現・中央区湊2-12)へ移した。

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2007.05.04

寛政重修諸家譜(21)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、寛延元年(1748)閏10月某日に初出仕した西丸には、継嗣・竹千代(のちの第10代将軍・家治)のために、4組書院番が配置されている。

組衆は各組50名ずつ。各組には1000石格の(与)(くみがしら)がそれぞれ1名。
3番手の組(与)頭は、久松松平新次郎定為(さだため)。組(与)頭の地位について6年目。63歳。家禄1000石。屋敷は麻布一本松町(ただし、幕末の切絵図にはないから屋敷替えがあったか)。

指導番の氏名は記録されていないが、組内はもとより、ほかの3組への挨拶まわりに付き添ってくれたのは、組の中でも先輩格の指導番であった。
なにしろ、この日と翌日は、書院番・小姓組番など、17人が初出仕の挨拶まわりをするものだから、西丸の廊下は行きかいで混雑した。
挨拶まわりが数日間にわたるのは、書院番士も小姓組番士も1直(宿直つき)勤務だからである。
このとき、番入りの古い順の者から先に挨拶をするのがしきたり。順序を間違えるとあとでいじめられる。もちろん、そこは指導番がうまく手引きしてくれる。

さて、宣雄の組(与)頭となった松平新次郎定為。この家の一統の『寛政譜』を示す。

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当主の印である黒丸を、やや大きめにした3名が、長谷川家と縁(えにし)がある。
2列目の右は、権十郎宣尹(のぶただ)の番頭(ばんがしら)だった長門守定蔵(さだもち)。
同じ列の左は、火盗改メ時代の平蔵宣以とことごとに対抗した因縁の、左金吾定寅(さだとら)。
5列目は、初代・信濃守の3男が立てた分家で、3代目・新次郎定為

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一覧用のA3判の『寛政譜』で見わたすまで、久松松平12家の中で、祖・定勝(さだかつ)の4男・定実(さだざね)が立てた1家のみと長谷川家が縁が深かったとは、想像もしていなかった。というのも、こちらの目が左金吾定寅に固定していたからだ。

新次郎定為にしても、40年もあとに、本家の従弟・左金吾定寅が、配下・宣雄の息・平蔵宣以と職務上の政敵(ライヴァル)になろうとは予想もしなかったろう。そもそも、当時、次男・定寅家督相続の目はなかったのだから。

穏健で、むしろ無能とおもえるほど人のよい組頭・新次郎定為だったが、すべてに折り目正しく、のみ込みは早いのに控えめで、発言はいつも最後に行い、それでいて人の気をそらすことのない穏和なまなざしをした宣雄には、ひそかに目をつけていた。
同輩たちからの敬意がたまったころをみはからって、指導番に推挙するつもりでいた。

120_15ついでだから、稲垣史生編『三田村鳶魚 武家事典』(青蛙房 1959.6.10 四版)から、[書院番(補)]を写す。笹間良彦『江戸幕府役職集成』(雄山閣)も、ほとんどこれの引き写しだから。

「戦時には小姓組と共に将軍(継嗣)を守るのが役目だが、平時は殿中(西丸)の要所を固め、儀式に際して小姓組と交替で将軍(継嗣)の給仕に当たった。
また将軍(継嗣)が外出する時は前後を護衛するので、重代の旗本中から先任するのがならわしである。
はじめ四組であったが、中頃から十組(うち4組が西丸詰)に増加し、各組とも(番頭と)組頭の下、番衆五十人が属していた。
その他各組に与力十騎、同心二十人が配された」

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2007.05.03

寛政重修諸家譜(20)

30歳になっていた宣雄(のぶお)へ跡目相続の許しをいい渡したのが、たまたま月番老中にあたっていた本多伯耆守正珍(まさよし)であった奇縁は、2007年5月1日[宣雄、異例の出世]に記しておいた。
本多伯耆守は、駿州・田中藩4万石の藩主であった。田中城は、長谷川家の祖・紀伊(きの)守正長が今川勢の将として守ってい、武田方の攻撃を受けて退き、徳川方へ縁を求めた歴史がある。

そのことがあって、われにもなく、つい、急ぎすぎた。平蔵宣雄の沈着を学ばねば---。

老中・本多伯耆守との縁(えにし)が生まれた寛延元年(1748)4月3日のことを、辰蔵宣義(のぶのり)が[先祖書]に、こう書きとめている。

 四月三日 養父権十郎宣尹が跡目賜る旨 菊の間で
 本多伯耆守伝える 小普請組柴田七左衛門の支配に。
 同年(延享5年)閏九月九日 西丸御書院番柴田丹後守
 組え御番入り命ぜられる。

役に就いていない幕臣で、長谷川本家のように禄高の高い者は寄合に、家禄が1000石にも満たない家は小普請組へ入れられる。
宣雄の場合は、役につくまでの待命の小普請入りであった。
案の定、 『徳川実紀』によるとその年の閏10月9日だが、宣雄は番方(武官系)の家柄らしく、ほかの26人とともに西丸へ番入りしている。

宣雄は、書院番3番手入り。
番頭柴田但馬守(のち丹後守)康完(やすのり)。55歳。5500石。諱(いみな)の「康」からしても武功の家柄らしい。
三河国額田郡(ぬかたこおり)柴田郷の出による姓。
上和田での一向門徒との戦いのとき、祖・七九郎重政が名を刻んだ矢を放ち、敵はそれらの矢と犠牲者数十人の名前を届けてよこしたので、家康が御感の上、一字を与えて康忠と改めさせたという因縁(いわれ)がある。
ただし、丹後守康完松平(五井)志摩守忠明(ただあきら)の三男、柴田家の養子となった人。

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宣雄のことで、もちろん、丹後守康完にも好意をもたれた。が、この番頭は在任が短すぎた。2年と6か月の上司だった。
後任は、仙石丹波守久近(ひさちか)。

そのまえに、(与)松平新次郎定為(さだため)に触れておくべきであろう。

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2007.05.02

『柳営補任』の誤植

ゴールデン・ウィークなので、肩の凝らない笑い話を。

長谷川家の6代目当主・権十郎宣尹(のぶただ)が、延享5年(1748)正月10日に卒したのにともない、西丸の小姓組の現役のjままの死だったので、辞職願い、死亡届け、実妹・波津の養子願い、宣雄との婚姻願い、跡目相続願いなどを順次上呈した。

受け取ったのは、組頭牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)。

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牟礼清左衛門葛貞が西丸の小姓組の何番手だったかを確かめるために、 『大日本近世史料 柳営補任(りゅうえいぶにん) 巻1 (東京大学史料編纂所)を開いた。
七番手だった。
西丸では1番手。番頭は久松松平長門守定蔵(さだとも)。
久松松平と鬼平こと長谷川平蔵宣以(のぶため)の関係も、このブログで何度も明かしている。

牟礼清左衛門---寛保2戌年(1742)10月15日当組より(昇進)
            宝暦5亥年(1755)8月15日御先手

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ふむふむ。 で、なんとなく、後任者に目をやった---というとカッコウがいいが、じつは、一瞬、錯覚したのである。
跡目相続を許された平蔵宣雄が、同年---ということは寛延元年(1748)10月に西丸の小姓組へ出仕がかなったと(ありようは、西丸の書院番)。

後任者---
神尾新五左衛門長勝---宝暦5亥年
(1755)8月25日当組より(昇進)

(えッ? 田沼時代に勘定奉行所で敏腕をふるった、あの神尾 (かんお)若狭守春央(はるなか)の一族が、平蔵宣雄の上司?)

と、 『寛政譜』3冊の神尾の項で、新五左衛門長勝を探した。3冊計17ページ、くまなく精査したが見当たらない。行きつ戻りつ、2時間。やはり、いない!

(うん。そういえば、田沼時代の執行者一族は、すべてA3判に貼りなおして一覧シートをつくっていたっけ)
と、神尾一門を取り出してき、目を細めて眺めた。

(う?)
[春由(はるよし)]の項に、「母は神保新五左衛門長治が養女」!

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「神尾」じなく--- 「神保」!

「神保」が収録されている『寛政譜 巻18』を取りに立ちあがろうとして、頭が冷静になった。

(待て! 平蔵宣雄が最初に就いた役は、西丸小姓組ではなくて、書院番士ではなかったか? そっちを先に確かめろ!)。

けっきょく、宣雄書院番士だったから、神保新五左衛門とは無関係

それにしても、 『柳営補任』「神尾新五左衛門」誤植、きのうまで発見されずにきたわけだ。
1963年3月25日初版発行、1997年9月25日に復刻されている。
ぽくの手持ちは後者だが、初版から復刻までの34年間、だれも「神尾新五左衛門」に用がなかったらしい。
いや、まあ、それほどの重要人物ではなかったということなんだろう。

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2007.05.01

宣雄、異例の出世

延享5年(1748)は、7月に寛延と改元された。しかし、『徳川実紀』『寛政譜』は、1月から寛延を年号として使用している。

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長谷川家の6代目・権十郎宣尹(のぶただ)が病歿したのはこの年の正月10日。
家を継ぐために、宣雄(のぶお)は、本家の6代目当主・太郎兵衛正直(まさなお)に介添いされて、西丸・小姓組の第1番手の組(与)頭である牟礼清左衛門葛貞(かつさだ)の許へ参り、諸届けを上呈した。

そのときの宣雄の立ち居が折り目正しく言語が伶利だったのが、牟礼清左衛門にはよほどに印象がよかったかして、諸手続きはおもいのほか順当にすすめられたようだ。そして、宣雄の人となりが、番頭松平長門守へ告げられたふしがある。長谷川家からは、むろん、組頭、番頭のへの音信を怠ってはいない。

で、寛延元年4月3日、ほかの15人とともに江戸城・菊の間へ出頭した宣雄へ、月番宿老本多伯耆守正珍(まさよし 4万石)から「父死してその子家を継ぐ」許しが伝えられた。
16人の氏名は『実紀』には明記されていない。

16人の氏名が記されていないのは、家格が低いためかと勘ぐった。
前日の4月2日に、「父致仕して、その子家嗣者十四人」のほうには、「寄合・三宅周防守康敬(やすよし 1000石)が嫡孫・康倶(やすとも)、小笠原平八長賢(ながよし 3000石)が養子・右膳長儀、長谷川肥後守慎卿(さねあきら 廩米300俵)が養子 大御所(引退した吉宗)方の小納戸(こなんど)・藤次郎寿茂(とししげ)」らの家名がでている。
これは、家格のせいではなく、致仕した被相続人は存命で、その仁たちに養老米300俵が給されることを記すためとおもわれる。
(宣雄、僻むにはあたらぬぞよ)。

それよりも、相続の許しを伝えた老中本多伯耆守(45歳)であったことのほうが、宣雄---というか、長谷川家にとてつもない幸運をもたらした。
本多伯耆守は、駿河国田中藩の藩主だった。菊の間を下がりかけた宣雄に声をかけた。
「長谷川平蔵宣雄どの。ご先祖の評判は、いまなお藩内でもなかなかによろしゅう御座るぞ」
祖の紀伊(きの)守正長のことを言っているのである。
「身にあまるお言葉、かたじけのう承りまして御座ります。先祖も冥土で祝い酒を喫しておることで御座りましょう」
宣雄は平伏した。
その年の10月9日から、宣雄は、宣尹の跡を継ぐかのように、西丸の書院番士として出仕することになったが、先輩たちには、本多伯耆守がかけた言葉が伝っていたばかりか、知行地での新田開拓のことも広まっていた。
上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の222石の知行所を、300石のものなりの地に変えたのである。

本多伯耆守正珍の引き立てはそればかりでなく、老中を辞する宝暦8年(1758)9月2日の前に、宣雄を西丸の小十人組頭へ抜擢する手配りをしてくれていた。

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