本多紀品と曲渕景漸(2)
西丸の書院番士をあしかけ9年ほど勤めた長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、小十人組頭(1000石高格)へ出世した。
のちに火盗改メとして名前を売った長谷川家は、宣雄の先代まで130年間、〔両番〕(小姓組と書院番組)の家柄とはいえ、当主は6人ともヒラのまま終えていた。欲と運がなかったといえばそれまでだか、どうも、歴代の家譜を読んでみると、出世よりも人生をのんびりと楽しむほうを選んでいたように思えて仕方がない。病気がちということもあったようだ。
しかし、平蔵宣雄は違っていた。父親は厄介の分際であったが、武家の出の実母は、平蔵(宣雄の幼名。宣雄が家督して以後は相続名となる)を、平時の有能な武士とするべく、計画的に教育した。
その成果あって、平蔵宣雄は小十人組頭(1000石高格)へ出世し、宝暦8年(1758)10月某日の夕刻、同役とはいえ2000石の家禄と、広大な屋敷を番町にもつ、6番組頭・本多采女紀品(のりただ)の客間にいる。
「先夜、曲渕(まがりぶち)どのから、何かたのまれ申したかの」
本多紀品からそう訊かれたとき、宣雄は、正直に答えたものか、一瞬、迷った。
しかし、口をついて出たのは、
「左様なことは---」
であった。頼まれたとも、頼まれなかったともとれる。
「まあ、よろしい」
おだやかに微笑した紀品は、わかっているといった目つきでうなづいた。
つづいて、
「長谷川どのが田中藩のご隠居どの(本多伯耆守正珍 まさよし)の組下だったころ、同じ書院番士で、三枝(さいぐさ)平三郎守雄(もりお)という仁が、番頭・花房近江守職朝(もととも)どのの組にいたのをご存じか?」
「はい。お名前だけは。されど、ご年配でおわしたのと、組も違いましたので---」
「いや。あの仁の父御・平三郎守令(もりよし)どののことを申しあげたかったのです」
そのあと、本多采女紀品が独り言のように話しはじめたことによると---。
三枝家は、、武田家のほうから縁を求めたほどの、甲斐国のもともと名家で、家康が家臣団を取りこんだときも、扱いは武田親類衆として重んじた。
三枝の分流である平三郎守令(500石)は、本丸の小姓・三番組の伊沢播磨守方貞(まささだ 3250余石)の組下から、宝暦3年(1753)7月に小十人の1番組頭へ栄転した。すでに51歳であったから、早い出世とは決していえない。
55歳のときに難病にかかり、そのことを理由に、上のほうから辞職が薦められた。ふつうなら、死後辞表を出す。
この辞意の早期願い出を工作したのが、後任として発令された曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)の疑いがある。
曲渕家も武田家臣団の出だが、祖は、山県衆の一員だから、家格はそれほど高くはなかった。が、分流が、四代将軍・家綱の寵愛をうけて1650石と、本家を上まわる家禄を拝した。
3代目・景漸の末妹が大奥に仕えたために、兄の政治力がさらに増した。
「いや、美形の家すじでござるよ」
「はい。男の目から見ましても、曲渕どのは凛々しく感じられます」
「長谷川どのまで、さような---」
「失礼つかまつりました。お忘れください」
それだけで、この話を打ち切った紀品は、
「さきほど話題にした三枝どのの祖・右衛門尉虎吉(とらよし)、息・土佐守昌吉(まさよし)は、武田方の守将として駿州・田中城にこもり、大御所軍の猛攻にもよく耐えていたと。勝頼どの戦死の報を、徳川方へ降ったいた穴山梅雪どのの矢文を見てのち、ようやく城を開けて近くの寺へ蟄居したと聞いており申す。さすれば、長谷川どのにも、あながち、かかわりのないこともない」
退出しながら、平蔵宣雄は、
(かなわないお人だ)
とつぶやいていた。
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