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2007年6月の記事

2007.06.30

田中城しのぶ草(12)

明朝が駿州・田中城下への旅立ち---もう何回もすましているはずの携行品の調べを、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)は、もう一度やっている。

_180矢立(筆記具セット)、扇子、糸針、懐中鏡、日禄手控え、櫛と鬢(びん)付け油、髪結い紐、房楊枝、手ぬぐい
ぶら提灯、ろうそく、火打ち道具、懐中付け木、麻綱
かぎ形金具(麻綱にひっかける鉄製フック)
肌着類、脚絆、足袋---

(右図は八隅蘆菴著『旅行用心集』八坂書房 1972.2.20より)

父・宣雄から呼ばれた。非番なので登城していなかった。

「言わずにおこうか、と何度もためらったが、そのほうも、もう14歳ゆえ、話しておくべきだと決めた。
駿河大納言さまのことだ」
「はい」
めずらしく宣雄の眉間に、2本の浅い皺ができている。

子どものころ、母者から聞いたこと---と、2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)]の話を再現した。
「つまり、竹千代さまがのちの大猷院(だいゆういん 家光)さまで、2歳下の国千代さまが駿河大納言さま、すなわち忠長(ただなが)さまである」

「元和4年(1618)に14歳で元服なされた忠長さまは、従四位下左近衛権(さこんえごんの)少将に任じられて甲斐一国を賜りになった。
大権現家康)さまは、その2年前にお亡くなりであった。
6年(1620)、16歳で参議、その3年後(1623)には従三位(じゅさんみ)権中納言にのぼり、寛永元年(1624)荷は駿河・遠江(とおとうみ)の2国をくわえられて、20歳で55万石の太守となられた」

「これは、ご生母・浅井氏於江与(おえよ)の方の溺愛(できあい)の結果であったろう---が、
最大の庇護者であったそのご生母さまは、寛永3年(1626)9月15日に逝かれたこのことは、忠長公の不運の始まりでもあったろう。
ま、いまはそのことは置くとして、田中城は、忠長卿の領地にあった数年間があるのだ。
もちろん、城代が置かれたはず。

そなたが、慶長・元和・寛永---大権現さま、台徳院(秀忠 ひでただ)さま、大猷院さま3代におよぶ田中城の城代の聞き書きをはじめれば、かならず、忠長さまの驕慢だった人柄のことも耳にしよう。
このときの銕三郎の受けこたえによっては、本多伯耆守さまへ類がおよばないともかぎらない」
「はい」
「それゆえ、忠長さまのことはすべて聞き流せ。返事をしてもならぬ。ましてや問い返してもならぬ。どこの国の話かといった、そしらぬ表情をつくれ」
「かしこまりました。馬耳東風でいきます」
「ついには、忠長さまは、28歳でついに自裁に追い込まれた。徳川の公達(きんだち)で、信長公の高圧的ないいがかりによる岡崎三郎信康(のぶやす)公の切腹を別にすると、偏愛によって育った驕慢が屈折した奇行があったとはいえ、悲痛な結末で人生を中断なされたのは忠長公だけである。
忠直(ただなお)卿といえども、天寿をまっとうなされている。
そのために、忠長公に対するご公儀のなされようの見方には、両論がある。
銕三郎の年齢では、いずれに与(く)みしてもならぬ」

忠長が自裁したのは、高崎城のつくられた幽閉部屋においで、駿河・遠江はすでに収公されていたが、侍していた者の多くが追放された。それにまつわる不幸な噂もきっと出る、と宣雄は予想したのである。

「それからな、いつか話すとそのほうに約束した城代---北条出羽守氏重(うじしげ)侯のこと[田中城しのぶ草(3)] 、田中から帰ったら話してきかせよう」
「いまから、期待をふくらませております」
「今宵は早くやすむがよい。明日は六ッ(日の出どき)発ちであろう」

夕餉を終えて、宣雄の夜なべ仕事がはじまった。例の、田中城主だった人たちの子孫の名簿改めである。
今宵は、先刻、名前のでた北条出羽守氏重

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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(北条支流)

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参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.29

田中城しのぶ草(11)

あと2日ほとで銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)が、駿州・田中城下へ旅立つという夕刻、父親・宣雄が書院へ銕三郎を呼んだ。

「きょう、営中で、一番町新道の小膳正直 まさなお。のちの太郎兵衛)どのから、そのほうが田中行きのあいさつに参ったときかされた」
「おうかがいいたしました。田中城は、ご本家の正直大伯父どのにとっても、ご先祖ゆかりの城ゆえ、お知らせしておくほうがよかろうと存じました」
ー番町新道に屋敷を賜っている長谷川小膳正直は、今川系長谷川一門の本家で、1450余石。2007年5月30日[本多紀品と曲渕景漸 ]をご参考に。

「一番町新道だけではあるまい。御納戸町の讃岐守正誠 まさざね)どののところへも参ったであろう」
ここは、長谷川一門中でもっとも家禄が高くて4000余石。そのことは、2007年6月1日[田中城の攻防]に紹介している。
「はい。過分なご餞別とともに、小川(こがわ)の信香院にある、祖・正長(まさなが)どのの墓への香華料もお預かりいたしました」
「ほかにどことどこを、回ったのじゃ」
「千駄ヶ谷の正珍(まさよし)叔父と、市ヶ谷御門内の正栄(まさよし)叔父---」
「なんだ、一族、すべてではないか」
長谷川熊之助正珍は、3代前が本家から500石を分与されて立った。住まいは千駄ヶ谷の塩硝蔵跡。
長谷川久大夫正栄は、先代が御納戸町から500石を分けられて別家となった。屋敷は市ヶ谷門の近く。

大久保甚太郎の例もございます。広く網を張ったほうが、魚がかかるとおもいました」
家康時代の田中城の城代だった幕臣たちの風聞が入るかも、というのだ。
風聞はいいわけで、本音は餞別集めにきまっている。
温厚な宣雄は苦笑するしかなかった。
「餞別への返礼は、帰路に箱根の細工ものでも手当てすることだな。施された額が多ければ、求める細工ものも大きくなる。手にあまるかもしれぬぞ」
銕三郎め、困ったといった顔をしたが、宣雄は見ぬふりをしていた。

その後、このたびのことは、田中藩の前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯の無聊をなぐさめるための遊びごとてあるから、あまり公けにしてはいけない。
また、遊びごとであるから、公務以上に礼儀正しく振舞わなければならない。
田中城へ登っても、城代家老・遠藤百右衛門はもちろん、藩士の面々、話をしてくれる名主のみなさんへも、きちんと礼をつくすようにさとした。

銕三郎をさがらせてから、宣雄はいつものように名簿を見つめている。今宵は、内藤紀伊守信興

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.28

田中城しのぶ草(10)

『旅行用心集』(八隅蘆菴著)は、文化7年(1810)刊だから、14歳の銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が駿州・田中_130_1
城へ旅した宝暦9年(1759)3月の、半世紀ほどあとに書かれている。

しかし、その自序(まえがき)は、銕三郎の両親・長谷川平蔵宣雄(のぶお)夫妻の気持ちを代弁しているとおもわれるので、一部を現代語訳して掲げる(これは、15歳の大治郎を山城国愛宕郡(あたぎこおり)大原に隠棲している辻平右衛門のもとへ送りだした秋山小兵衛の覚悟にも通じるであろう)。

さて、旅をする人は、旅立ちのときから心すべきは、たとえ従者がいる人といえども、股引、草鞋(わらじ)などまで身支度は自分でととのえ、朝夕の食事が口にあわなくても辛抱して食べるのも、修行と心得ること。

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(『旅行用心集』の東海道旅程図より。駿河あたり。富士川から、興津川、安部川、大井川、天竜川が一つ図に)

さらに、泊まる先々、その土地、所の風俗によって、気にくわないような違いがあるもの。このことを承知していないと、とんでもないトラブルが起きかねない。

風雨にあう日もあろうし、または旅程の都合で早朝から霧の深い山を越えるとか、夜は薄っぺらい夜具で我慢しなければならないときもあろう。また、道連れの仲間と仲たがいしたり、足弱の人が遅れたり、さらには辺地の寒暖のせいで持病が出て難儀することもあろう。

長旅の艱難、千辛、万苦は覚悟しておかないとね。

こういう次第だから、若者にとって旅は何ものにも代えがたいいい体験となり、ことわざでも、可愛い子には旅をさせることだといっている。ほんと、貴賎ともに旅をしない人は、述べたような艱難をしらないから、人情にうとく、人にたいして思いやりがなく、蔭で人から笑われ、指さされるのである。

---と、わが子を我慢強く、人の考えもよく察する人間通に育てようとおもったら、旅をさせなさい、と。
(本文には、旅にまつわるくさぐさの心得61ヶ条中、13ヶ条を現代語にして、ブログ[わたし彩(いろ)の大人の塗り絵]の [中山道六十九次広重・栄泉&延絵図(その一)]の浦和宿での第1泊のあとに掲げているので、興味のある方はどうぞ)。

宣雄は、古書店で巻物『東海道中案内絵巻』を購った。使い古しでところどころ染みがでているが1回きりの旅だからこれでよい。

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(懐中用・東海道中案内絵巻の部分)
(注:実物は和紙でじつに軽い。旅行携帯用品は重さがキメテ。いまの旅行案内本はそこを考えていないように思う)。

夕食を終えた宣雄は今夕も、例の田中城主の末裔のリストをにらんだ。きょうは、土屋能登守篤直

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.27

田中城しのぶ草(9)

長谷川銕三郎(てつさぶろう)は、一刻(2時間)も前から、駿河国の益頭郡(ましづこおり)と志太郡(したこおり)の絵図を、飽くことなく眺めている。

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心が西駿州へ飛んでしまっている。
絵図は、田中藩江戸藩邸・用人の高瀬なにがしが、領内通行手形とともに、父・平蔵宣雄(のぶお)に渡してくれたものだ。前藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)侯の手配はゆきとどいていた。

手渡したとき、宣雄は言った。
「田中城は、ここだ。城から、斜め下手(しもて)1寸(約3cm)のところ、川に面して小川(こがわ)という郷(さと)があろう」
「ございました」
「そこが、わが長谷川家が、大和の初瀬(はせ)から移り住み、今川どのの一武将として実力を蓄えていった土地である」
「訪ねてみます」
「うむ。地元の人たちに、法永長者といって尋ねてみるがよい。武士でありながら交易なども手びろく営んでおられた。長谷川を名乗る家も残っているはず。小川城の跡もあるやに聞いておる」

銕三郎さま。お母上が呼びでございます」
が部屋の外から声をかけた。銕三郎が少年からだんだんに男っぽくなり、声がわりもしてきているので、用心をしている。なにしろ、下女(しもめ)に手をつけたがる家風なのだ。
銕三郎の母・お(たえ 戒名から想定の名)も、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎村の名主の娘のときに、新田開発の監督に来ていた平蔵宣推に抱かれて、銕三郎を身ごもった。
お妙の父を、戸村五左衛門という。

野袴(のばかま)を縫っていたお妙は、手をとめて、
「申しておくことを思いついたので、お呼びしました。
わたしの父御(ててご)どのが、いつの入れ札(記名選挙)でも選ばれつづけている寺崎村の長(おさ)・戸村五左衛門どのであることは、日ごろから話していることなので、ご承知ですね。
名主として、村人たちから、たいそうな信頼と尊敬と親しさを受けているのは、ある口癖のせいなのです。
『ほう。おもしろそうな話だの』
これが、父御どのが、村人の言葉に身を乗りだしてお入れになる合いの手で、父御どのの口ぐせとわかっていても、つい乗せられて、村人はすっかり打ちあけてしまいます。
銕(てつ)どののこのたびの使命は、田中城のまわりの村長(むらおさ)から、100年も150年も昔(いにしえ)のことを聞きだすことと、7代(宣雄)さまからうかがいました。
私の父御どのは、そなたにとっては外祖父---受け継いでごらんなされ」
「きっと受け継ぎ、うんとおもしろがります」

その夜も宣雄は、名簿を見つめていた。目を注いでいるのは、水野織部中忠任であった。水野家も支流の多さでは、大久保家本多家にひけをとらない。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

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【つぶやき】
上の絵図で、藤枝の西を北から流れて海へ注いでいるのが瀬戸川。この川のほとりのどこかが、『鬼平犯科帳』文庫巻6[狐火]に登場する〔瀬戸川〕の源七爺っつぁんの出生地。
同じ藤枝宿の上あたりの五十海(いかるみ)という郷名が、文庫巻1〔座頭と猿〕に出てくる盗賊の凶悪な首領〔五十海〕の権平の故郷。
五十海郷の北の中ノ郷は、文庫巻7[雨乞いの庄右衛門]で、心の臓の病いを癒そうと、妾のお照とともに隠れ棲んだ山里。庄右衛門は安部川の源流・梅ヶ島へ湯治に行き、江戸へもどったお照は、一味の若い男と乳繰(ちちく)りあって---。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.26

田中城しのぶ草(8)

本多伯耆守正珍(まさよし)侯へ、田中城代のことは、平蔵宣雄(のぷお)息・銕三郎が同窓の大久保甚太郎から聞いたように告げた。甚太郎の祖父・荒之助忠与(ただとも)は目付(めつけ)をしている。

じつをいうと、銕三郎に花をもたせたのである。
いや、甚太郎が話したことは事実である。
宣雄は、本多平八郎がからんだ[田中城攻防]件で、加賀屋敷(現・新宿区市谷加賀町1丁目あたり)に三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)を訪ねたとき、武田方として田中城を守っていた将の一人・三枝虎吉(とらよし)の孫で、幕臣になっていた勘解由(かげゆ)守昌(もりまさ)が城代に任じていた因縁話も聞かされていたのである。
そのことを正珍侯へ言わなかったのは、銕三郎のおぼえを一つでもよくしておきたいとの気くばりであった。

銕三郎の旅支度がせわしなくはじまった。
実母・(たえ 戒名から推測の名)は、旅用の野袴(のばかま)を縫ったり、肌着をそろえたりで寧日もない。

宣雄は、小者・六助を先発させた。宿舎々々に路用金を預けておくためである。
少年とあなどった浪人から無法をふっかけられて持ち金を奪われても、旅籠代に困らないですむ。
もちろん、銕三郎は家禄400石、父親は1000石高格の小十人組頭である、一人旅をさせるはずがない。
老僕の太作が付き添う。

宣雄は、道中地図をととのえたり、田中藩本多家の上屋敷から藩内の通行手形を受け取ったりと、息子の初旅にあれこれ気をまわしている。

しかも、夜には、例の田中藩主だった主と、いまの当主の名簿を穴があくほど眺めては、ひとりでうなずいたりしている。本多侯の案は手じまいされたとはいえ、銕三郎がここまで調べた名簿である。おろそかにはできない---というより、後ろ楯になってくれる藩主がこの中にかくれているかもしれないのだ。いや、自分はいい、銕三郎が家督したあとのときにだ。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
大田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

こんやは、大田摂津守資次侯に目を凝らしている。もちろん、宣雄は、30数年後に、銕三郎改め平蔵宣以(のぶため)が、侯の一族で火盗改メ助役(すけやく)となった太田運八郎資同(すけあつ)に讒訴されることになるなどとは、夢にもおもっていない。

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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.25

田中城しのぶ草(7)

「きょうは、ご子息・銕三郎どのはいかがなされた?」
聞いたのは、本多伯耆守正珍(まさよし)侯で、聞かれたのは長谷川平蔵宣雄(のぶお)。
場所は、芝二葉町の田中藩中屋敷の書院の間。

「はい。その銕三郎の儀でおうかがいたしました」
「なにかの? なかなかの利発にみたが---」

宣雄は、銕三郎が武鑑lから拾い上げてきた、田中城主だったことのある大名家の、現在の当主の名簿の写しを正珍侯の前にひろげた。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯  22歳 沼田3万5千石

銕三郎が「殿」という尊称をつけていたのを、宣雄が「侯」と改めている。

「ふーむ。これだけのものを、ようも、ご子息が---」
「恐れ入ります。じつは、お歴々の中で、田中城でお育ちになったのは、土岐美濃侯、ただお一人でございます」
「なんと---」
「殿のご生地はいずれでございましょう?」
「赤坂・江戸見坂の沼田藩上屋敷じゃが? あいわかった。ここに名をつらねておいでの諸侯も、江戸生まれじゃと申したいのじゃな」
「ご賢察」
「田中城しのびのつどいに誘っても無駄と---」
「いえ。そのようには決して---。さりながら、お話がはずめばよろしいのですが---」
「あの案、引き下げよう。ところで、先刻、ご子息の儀と申されたは?」

銕三郎が通っている儒学の塾で、目付役の大久保荒之助(のち、土佐守)忠与(ただとも)の孫・甚太郎が、祖先が田中城の城代であったことを、自慢したのだという。
田中城は家康直轄の時期があり、城代がおかれたから、大久保甚太郎の話も虚言ではない。
「城代は、幾人も任じられておりましょう。その者どもは、忠与どののことからもわかりますごとくに旗本なので、その子孫ならば、殿のお招きに喜んで応じるかと」
「うむ。妙案におもえる」
「ついては、銕三郎を田中へつかわし、ご領内の草分け名主どもに、田中城の城代だった代々の方々のお名前を聞き取らせたいと愚考いたしました」
「おお。やってくれるか。さっそくに、城代・遠藤百右衛門あての手紙を書こう」
「それと、用人どのに、ご領内の通行手形のご下賜を---」

ついでなので、田中城主から信州・小諸藩を経て遠州・横須賀城主となった西尾家『寛政譜』を掲げておく。
最下段の隠岐蚊守忠移(ただゆき)の室が田沼意次の3女だった。
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【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.24

田中城しのぶ草(6)

その夜、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、息・鉄三郎が写してきた、田中城しのぶ講の招待予定者の名簿を眺めていた。
このところの毎夜の習慣のようになってしまっている。
記された人名を見すえていると、幕府の仕置き(政治)の歴史が透けてみえてくる。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)殿 18歳 4万石
水野織部中忠(ただとう)殿 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)殿 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)殿 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)殿 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)殿 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)殿  45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)殿 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)殿  22歳 沼田3万5千石

田中城しのぶ講を思い立った本多伯耆守正珍(まさよし)侯にしたところで、前年、らちもない言いがかりをきっかけに老中職を棒にふり、いまは中屋敷に蟄居の身である。
ということは、幕府内においての口きき力はほとんど望めないということだ。

そんな立場の前高官にすり寄ってくる大名・大身がいるだろうか。
それと、も一つ、自分はなったことも夢にみたこともないが、大名という人たちは、いまの自国が大事で、はるかな昔(いにしえ)に先祖が一時的に領していた土地に郷愁を覚えるものだろうか。
出自の地ではなく、幕府のつごうでくるくると移転させられ、やどかりのようにいっとき領した土地である。

土岐美濃守定経侯---本多正珍どのが申しておられた---沼田藩と田中藩が入れ替わったと。
もしやすると、定経侯は、田中城でお生まれになったのかも。つまりは、本腹でなくご内室のお子ということになるが---正室に嫡子がいないばあい、国元のご内室がお生みになった男子でも家する例は少なくない。

宣雄は、自分が厄介(次男以下)のさらなる厄介(未婚の子)だったことを思い出して苦笑した。そういえば銕三郎も未婚の子だ。

宣雄は、だんだんに気が滅入ってくる。
(こんなことではいけない。本多侯はともかく、銕三郎がせっかく調べてきたものなのだから、それなりに結果をださないことには---あれが初めて責任を感じてやった仕事なのだ)

気をとりなおして、もう一度、名簿に目を戻した。

いまの田中城主・本多家のすぐ前の城主だった土岐家の家譜。
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土岐家譜2 緑○=田沼藩主・定経

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田中城主でもあった土岐伊予守頼殷(よりたか)

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おなじく頼殷の嫡子として田中城主だった丹後守頼稔(よりとし)

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(土岐家の当主・定経)

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.23

田中城しのぶ草(5)

本多どの。下城を共に---」
熟慮の末、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は桧(ひのき)の間から下がりながら、本多采女紀品(のりただ 45歳。2000石 小十人組の6番組頭)に声をかけたのは、酒井河内守忠佳(ただよし 74歳。5000石)にこだわりはじめてから、数日後のことあった。

本多紀品の屋敷は、番町を東西に貫らぬいている表六番町(現・三番町7 九段小学校向かい)にある。
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(近江屋板 番町。赤○=表六番ぞい本多家)

幕臣の屋敷の塀ばかりが並んだ閑静な区域だが、下城の時刻には挟箱を小者にかつがせた裃(かみしも)姿が目につく。
宣雄は部屋を借りて、挟箱から出した羽織と仙台平袴の代わりに裃を入れ、小者に持たせて返した。

くつろいだところで、酒井日向守忠能(ただよし)侯の田中城収公のほんとうの理由をご存じであれば、お教えいただきたい、と切り出した。
長谷川どのは、酒井雅楽頭(うたのかみ)忠清(ただきよ 忠能の実父)大老が、厳有院殿家綱)さまの継嗣に京の有栖川(ありすがわ)宮家から親王をと唱え、常憲院殿綱吉)さまを推す堀田備中守(のち筑前守)正俊(まさとし)侯とあらそったという風評をご存じかな」
「いえ」
「単なる風評にすぎないが、その後の常憲院殿さまの忠清侯忌避のあしらいを見ると、まんざらでもないとおもえる。いや、事実は逆で、あしらいから生まれた風評だと存ずるが---」
「それと、忠能侯とは---」
忠清侯は、常憲院殿さまから大老を解職され、その5ヶ月後に卒せられた。在職中のよろしからざるくさぐさに司直の手がのびたと判断され、政敵の裁きを受けるのをこころよしと思われなかったのか---」
「まさか、自裁なされた---」
「その、まさか---だと、常憲院殿さまの派は疑い、いくども検屍を求めたが、酒井家は頑強にお拒みになった。その真っ先にお立ちになっていたのが、日向守忠能侯であったともいわれている」
「なんとも、お傷(いたわ)しいきわみ」
「取り潰しにあった諸侯と幕臣の数も多いが、理由は、規則に違反というのがほとんど。規則などというものは、解釈次第でどうにでもなるもの。それを言いだされたら人間全部が違反者でござろう」
「----」
「いまだからいえるが、常憲院殿さまのご気質には、なにか、偏執的なものをかんじないでもない」
「----」
「いや、口がすべり申した、お耳になされなかったことに」
「申されるまでもなく---」

「酒井河内守忠佳どのをしのぶ講からはずす件、承った」

宣雄は、帰りながら、暗い気持ちにひたっていた。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.22

田中城しのぶ草(4)

夕餉(ゆうげ)の酒をほどほどにきりあげた長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、書院へもどり、息・銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が書き出してきた名簿を、ふたたび、披(ひら)いた。

喉にひっかかった魚の小骨のように、食事中から気にかかっていた酒井河内守忠佳(ただよし)に視線をくぎづけにしている。
74歳。5000石。享保12年(1724)からずっと大番頭。35年にもおよぶ。それも偏屈のせいと聞いている。そのせいで、小さな波風が周囲に絶えない。
(この仁は、本多侯のためにならない)
宣雄は、そうきめた。

いまは5000石の大身幕臣だが、田中城主だった先代・日向守忠能(ただよし)侯は、4万石の身代を棒にふった---というより、政敵(将軍・綱吉の側近たち)にはめられた、といえよう。

日向守忠能侯は、徳川の重臣である酒井本家雅楽頭(うたのかみ)忠世(ただよ)の孫である。父は阿波守忠行(ただゆき)。

池波正太郎さんの直木賞受賞作[錯乱(さくにらん)]で、真田藩に潜入した隠密の密書を受け取った酒井忠清(ただきよ)は、忠能の兄である。

その忠能が4万石を棒にふらされた理由というのが、いま考えると、どうにも合点がいかない。陰謀としかいいようがない。あるいは、忠能の偏屈ぶりが、よほど周囲に煙ったがられていたか。

忠能には本家の甥にあたる忠挙(ただおき)が、承応2年(1653)から寛文6年(1666)の老中在任中の亡父・忠清に落ち度があったということで、16年後の天和元年(1681)12月にとがめられた。
結果は、忠清はその年の5月に故人となっており、忠挙自身はあずかりしらなかったとていうことで、なんのことはない、一件落着。

ところが、とばっちりを忠能がかぶった。
本家の忠挙が吟味を受けているのに、忠能は参府して進退をうかがうべきなのに、のうのうと在国していたのは不謹慎でけしからぬ---と、田中藩を収公の上、井伊家に預けられた。その後ゆされたが、身分は5000石の幕臣。

そういうことから、酒井家は、田中城にいい思い出を持っていまい。
当主の日向守忠佳は、中奥の小姓にえらばれるほどの美少年であったが、気性がよろしからずということで、早々に表の小姓番組へまわされたとのうわさも、宣雄は耳にしている。
74歳のいまは、さすがの美貌も皺に覆われ、せっかくの面高顔が、かえって冷酷な印象を与えている。
とにかく、偏屈では、近寄らないほうが無難である。

酒井忠能家『寛政譜』を掲げる。
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忠能は、田中藩主時代に収公され、井伊家へ10年近くお預け。
その後、5000石の幕臣に。

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忠能の継嗣・忠佳の譜。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.21

田中城しのぶ草(3)

下城して着替えた平蔵宣雄(のぶお)が書院で茶を喫していると、銕三郎(てつさぶろう 家督後、平蔵宣以 のぶため)が疲れきった顔でもどってきた。
きのうに引きつづき、麻布桜田の縁者・永倉家へ行き、武鑑を調べていたのだ。

「ただいま、もどりました。この調べ、一筋縄ではまいりません」
「苦労であった。が、また、そのような言葉を口にする」
「は?」
「一筋縄---じゃ。それは、その方が火付盗賊改メにでも任じられたとき、強情で白状しない盗賊に対して用いる言葉。きょう、その方がいたした、お歴々に対しては、失礼千万なもの言いになる」
「お教え、ありがとうございます」
「うむ」
宣雄の口は厳しいが、目は笑っている。なにしろ、銕三郎長谷川家のただ一人きりの嗣子である。

「父上。ただいま、火付盗賊改メと仰せられましたが、わが家にそのような役がふられましょうか?」
「本家の小膳(のちの太郎兵衛正直(まさなお)どのならともかく、小禄で、実績もないわが家には、まず、あるまいな」
「はあ---」
そのときの宣雄は、自分や銕三郎が火盗改メとして後世に名をのこすことになろうとは、露、思ってもいなかった。

「調べは、難儀であったらしいの」
「はい。申しわけございませんが、一日では終わりませんでした」
「そうであろう。明日も頼む」
「きょうは、ご一門が多い松平さま、酒井さま、内藤さま、水野さまをつめ、そのあとで、西尾さま、土屋さまへ向かいました。
明日にのこしましたのは、太田さま、さま、土岐さま、北条さまです」
「上乗、上乗」
「しかし、北条さまは断家なさったと、永倉の叔父上がおっしゃっていました」
「うむ。あれは、不思議な事件であったと聞きおよんでいる」
「どのような---?」
「いずれ、話して聞かすときがこよう。それまで待つことだ」

宣雄は、銕三郎が書き留めてきた奉書紙を受けとってから、いった。
「母者から教わったことがある。『論語』の、<慎んで其の余を言えば尤(とが)め寡(すく)なし>についての教訓であったがの。
男に、味方が100人いれば、敵も100人いると覚悟しておくことが肝要。しかし、その100人、味方にしないまでも、敵にまわさないことを考えるべきだ。それには、言葉を慎むこと。言葉が相手を傷つけること、太刀にもまさると。
先刻の<一筋縄ではいかない>も、聞きようによっては、太刀にまさるかもしれない」
「承りました」

宣雄は、銕三郎が去ってから、彼が書きとめてきた奉書紙を開いて、「よう、ここまで、やった」とつぶやき、微笑みをうかべた。

松平大膳亮忠告(ただつぐ)殿 18歳 4万石
酒井河内守忠佳(ただよし)殿 74歳 5000石
内藤紀伊守信興(のぶおき)殿 40歳 棚倉5万石
水野織部中忠任(ただとう)殿 26歳 唐津6万石
土屋能登守篤直(あつなお)殿 33歳 土浦4万5千石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)殿 71歳 横須賀3万5千石
北条出羽守氏重(うじしげ)殿 断家 3万石

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松平(桜井)家譜の一部

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田中城主となった松平大膳亮忠重(ただしげ)

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.20

田中城しのぶ草(2)

「父上。上首尾でございました」
平蔵宣雄(のぶお)が下城してくると、待ち構えていた銕三郎が、奉書紙をさしだした。
「おお、ご苦労であった。されど、銕三郎。いま申した上首尾と申す言葉は、自らの仕事につけるものではない。父が見て、その上で与える褒辞である。以後、注意するように」

銕三郎に命じたのは、縁者の永倉家へ行って、武鑑を見せてもらい、駿州・田中藩主・本多伯耆守正珍(まさよし)の項に併記されている、歴代の田中藩主を書き写してくることであった。

・駿河大納言忠長卿         寛永2年(1625) 持ち
松平大膳亮忠重(ただしげ)    寛永8年(1631) 3万石
水野監物忠善(ただよし)      寛永12年(1635) 4万5000石
松平伊賀守忠晴(ただはる)    寛永19年(1642) 2万5000石
北条出羽守氏重(うじしげ)     正保 1年(1644) 2万5000石
西尾丹後守忠昭(ただあきら)   慶安2年(1649) 2万5000石
  〃 隠岐守忠成(ただなり)    (世襲)
酒井日向守忠能(ただよし)    延宝7年(1679) 4万石
土屋相模守政直(まさなお)    天和2年(1682) 4万5000石
太田摂津守資直(すけなお)   貞享1年(1684)  5万石
・ 〃 熊次郎             宝永2年(1705) 6万5000石
内藤豊前守弌信(かずのぶ)   宝永2年(1705) 3万5000石
土岐伊予守頼殷(よりたか)    正徳2年(1712) 3万5000石
・ 〃 丹後守頼稔(よりとし)    正徳3年(1713) (世襲)
・本多伯耆守正(まさのり)    享保15年(1730) 4万石
・ 〃  〃   正珍(まさよし)     (世襲)

「うむ。これまでは上首尾---であった。したが、銕三郎。ご苦労だが、あす、も一度、桜田百姓町へ行ってもらはねばならぬ」
「なにか、不首尾が?」
「そうさな。銕三郎は、きのう、本多伯耆守侯のところに同席していたな」
「はい。この上もなく名誉に感じておりました」
「では、その時の、伯耆守侯のお言葉は覚えておろう」
「はい」
「田中城しのぶ講---と仰せられたはず」
「さように心得ております」
「なれば、必要とされているのは、すでに物故されている方々ではなく、そのご子孫の現存の方々の名簿だな」
「あっ」
「明日、調べてまいれ」

宣雄は、この念押しを、わざとはずしておいたのである。
銕三郎が、どこまで先まわりをして、こなすかを試した---というか、実地に教えた。

もし、先読みして、しのぶ講の招待者の名簿まで調べて差しだしたら、こう諭(さと)したはず。
「主人の意図を先読みするのはよい。しかし、それを誇ってはならぬ。招待予定者の名簿は、つくっていても、主人から催促されたあとに、さようでございましたか---と謝って、翌日、差しだすほどでちょうどよい」

知恵誇りは、いつの世の、どんな上司も、好まない。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.19

田中城しのぶ草

家康の伊賀越えのときの本多平八郎忠勝(ただかず)の機転と勇気をめぐる四方山を話し終わると、伯耆守正珍(まさよし)侯は、酒の用意をいいつけた。
「おお、銕三郎どのには、駿河国の銘茶を、な」
「お手数をわずらわせまする」
父親の平蔵宣雄(のぶお)が恐縮した。

「さてと。わが父・正矩(まさのり)が沼田から田中へ転封を命じられたのは、享保15年(1730)の7月で、予が21歳の、残暑のきびしい中の引越しであった。
わが藩と入れかわる形で、田中から沼田へ移られたのは土岐丹後守頼稔(よりとし 3万5000石)侯だが、いまの当主は田中生まれの息・美濃守定経(さだつね 32歳)侯じゃ。
侯の参府は12月じゃから、いまはご在府のはず。
先方のたしか寺田とか申した家老と、わが藩の家老・遠藤嘉兵衛が、転封のときにしばしばうちあわせておったゆえ、話が通じるのは早かろう」
「あ、亀(田中)城しのぶ講は、ほんとうにおすすめになられますか」
「とうぜんのこと。隠居蟄居の身にも、それぐらいの楽しみはあってしかるべきであろう」
「まさに」

「武田時代に守城なされておりました三枝(さいぐさ)右衛門尉(えもんのじょう)虎吉(とらよし)どののご子孫には、先日(2007年6月1日)ご面識をいただいておりますので、ご意向を伺います。
三枝どのから、守将であった依田右衛門佐(えもんのすけ)信蕃(のぶしげ)どののご子孫は、加藤とかに姓を変えて、どこやらの大家へお仕えとか聞いたような---。
これも、つぎまでに問い合わせておきます」

「うむ。こちらも、城代・遠藤百右衛門にいって、徳川の世になってからの、代々の城主を書き出してもらっておこう。
それはそれとして、長谷川どののご先祖が、小川(こがわ)城から徳一色(のち、田中と改称)城に入ることになったのは、織田右府どのの桶狭間急襲で、今川義元どのがお討たれになったとき、随陣していた徳一色城主・由井山城守どのもともに討たれたと承知しているが、そのご子孫は---」
「そこまでは、伝えきいてはおりませぬ。
したが、手前が西丸・書院番士を勤めておりました折り、別の組に由井治右衛門忠政(ただまさ 稟米300俵)と申される仁がおられました。お勤め中、若くて卒されましたが、相続なされたお方をさがしてみることにいたします」

銕三郎。明日、ふたたび、桜田百姓町の永倉の屋敷へ参り、武鑑lをたしかめて参れ」
茶で丸干しをかじっていた銕三郎は、あわてて丸干しを皿へ置き、隣の佐野与八郎政親(まさちか 27歳 西丸書院番士 1100石)へ向けて、かすかに笑った。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.06.18

本多平八郎忠勝の機転(6)

迯祠『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3] (承前その2)

「田中城ゆかりの家々が相つどうて、先祖話に興じるのもおもしろかろうな」
本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・前田中藩主 4万石)が、思いつきを口にだしたとき、まっ先に賛意をのべたのは、本多采女紀品(のりただ 45歳。2000石 小十人組頭)だった。
「ご隠居どの。某(それがし)は、田中城にはじかには関わりはございませぬが、書役(しょやく)ということで、一手かませていただきたく---」
「手前も、書役・本多さまの助役(すけやく)にて、ぜひぜひ」
佐野与八郎政親(まさちか 27歳 西丸書院番士 1100石)までが、膝をのりだした。

伯耆守さま。これは、もしかすると、田中党の結成ということで、お上のご禁制に触れるやも知れません」
長谷川平蔵宣雄(のぶお)が、冗談めかして、それとなく手綱を引いた。゜
「なにが徒党結成なものか。鯛のから揚げを食するために集まるのではない。出るのは丸干しじゃ」

伯耆守正珍がいった〔鯛のから揚げ〕とは、元和2年(1616)1月21日、駿府城で〔鯛のから揚げ〕を賞味して、近辺へ放鷹に来た家康が田中城に宿泊中に腹痛に苦しみ、その3か月後に75歳でみまかったことを皮肉っている。

いや、家康の鷹狩りから34年前、きょうの芝二葉町の中屋敷の集まりからは157年昔の、本筋へ戻そう。

家康の一行は、河内国交野郡の尊延寺村を真東へすすみ、山城国相楽(あいらくこおり)山田村へきている。

(さきに長谷川竹丸(のちの秀一)が使いを出して案内をこうておいた、大和の(豪族)十市(とおち 常陸介から)、あない(案内)にとて吉川といふ者を進(まい)らせ、三日には木津の渡りにおわしけるに舟なし。
忠勝鑓さしのべて柴舟二艘を引よせ、主従を渡して後、鑓の鐏(いしづき)をもて二艘の舟をばたたき割て捨て、今夜長尾村八幡山に泊り給ひ、四日石原村にかかり給へば、一揆起こり手道を遮る。

忠勝等力をつくしてこれを追払ひ、白江村、老中村、江野口を経て呉服明神の祠職服部がもとにやどり給ふ。

五日には服部山口(光広 郷ノ口・小川城主)などいへる地士ども御道しるべして、宇治の川上に至らせ給ひしに又舟なければ、御供の人々いかがせんと思ひなやみし所、川中に白幣の立たるをみて、天照大神の道びかせ給ふなりといひながら、榊原小平太康政馬をのりめば思ひの外浅瀬なり。
其時酒井忠次小舟一艘尋出し、君を渡し奉る。

やがて江州瀬田の山岡兄弟迎へ進(まい)らせ、此所より信楽までは山路嶮難にして山賊の窟なりといへども、山岡服部御供に候すれば、山賊一揆もをかす事なく信楽につかせたまふ。

ここの多羅尾何がしは、山口(の実家)、山岡等がゆかりなればこの所にやすらはせ給ひ、高見峠より十市が進(まい)らせたる御道しるべの吉川には暇給はり、音聞(御斎 おとぎ)峠より山岡兄弟も辞し奉る。

(「多羅尾何がし」は、ひどい表現だなあ。仮にも、家康一行が一宿一飯にあずかり、のちに幕臣にとりたて、『寛政譜』にも載っている家柄である。
_100_2これは、多羅尾家が甲賀忍者あがりであることを、 『実紀』をまとめた林家系の人たちが蔑視して書いたとしかおもえないのだが。
そういえば、多羅尾家の家紋---牡丹もめったに見ないもの。忍者説もまんざらではなさそう)。

去年(天正9年 1581)信長伊賀国を攻られし時、地士ども皆殺するべしと令せられしより、伊賀人多く三(河)遠(江)の御領に迯(にげ)来りしを、君(家康)あつくめぐませ給ひしかば、こたび其親族ども此恩にむくひ奉らんとて、柘植村の者二、三百人、江州甲賀の地士等百余人御道のあないの参り、上柘植より三里半鹿伏所(かぶき)とて、山賊の群居せる山中も難なくこえ給ひ、六日に伊勢の白子浜につかせ給ひ、其地の商人角屋といへるが舟もて、主従この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。

『実紀』は、いささか、急ぎすぎているようだ。『武野燭談』から現代語に直して、引く。

多羅尾郷へ向かわれた。
多羅尾の何某は大いに喜んで、「どうぞ、わが館でお休みくださいますよう」と申しあげた。
酒井直政などの重臣たちは多羅尾を疑い、「このあたりは敵国の範囲でもあり、人の心は見抜けないものです。いかがなものでありましょう?」といったとき、忠勝が進みでて、
「堺を出てから今日で3日目。すでにみんなの腰兵糧のほかに口にすもるものも尽きかけており、たいへんに難儀な状態です。
多羅尾にもし逆心があれば、この家に入り給わずとも、逃がしはしないでしょう、そうなりますと、われわれは、このように疲労困憊しており、思うようには立ち向かえませぬ。
しょせん、多羅尾の馳走を受け、人馬ともにお休みになってはいかがでしょう。
万一、多羅尾がなにかたくらんでいたら、この忠勝が彼を捉えてきちんと始末しますから、お気づかいなく、お休みください」
平八郎の言、もっともである」

家康多羅尾の館へお上がりになって、もてなしを諒とされ、みんなもここまでの疲労をいやした。
家康からは多羅尾(四郎右衛門光俊 みつとし)に短刀を下された。

多羅尾家の『寛政譜』を掲げておく。
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(赤○=伊賀越えを警護)

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(当主・光俊の3男。のち1500石を知行)

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2007.06.17

本多平八郎忠勝の機転(5)

『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3](承前)

天正10年 1582 6月
(飯盛山か枚方かで、信長への殉死を決意した家康を、本多平八郎 35歳が、三河へ帰ってから軍を率いて光秀を討ってこそ、信義が果たせると説得)。

其時、(信長の秘書役だった長谷川竹丸(のちの藤五郎秀一)怒れる眼に涙を浮べ、我等悔しくもこたび殿の御案内に参りて主君最期の供もせず、賊党一人も切り捨ず、此侭に腹切て死せば、冥土黄泉の下までも恨猶深かるべし。
あはれ、殿御帰国ありて光秀御誅伐あらん時、御先手に参り討死せんは尤以て本望たるべし。
ただし、御帰国の事を危く思召るべきか、此辺の国士ども、織田殿へ参謁せし時は、皆某(それがし)がとり申てる事なれば、某が申事よもそむくものは候まじ。
夫故にこそ今度の御道しるべにも参りしなりと申せば、酒井、石川等も、さては忠勝が申旨にしたがはれ、御道の事は長谷川にまかせられしかるべきにてと候といさめ進られて、御帰国には定まりぬ。
信長家康への馳走として上方見物をさせるにあたり、その案内役としてこの長谷川秀一をつけたのである。略。
「私が、案内しましょう」
と、たのもしげにいってくれたのは長谷川秀一であった。かれは故信長のもとで、
「申次(もうしつぎ)」
とよばれる仕事をしていた。地方々々の大名や豪族、寺社の者などが、信長に本領安堵(あんど)をしてもらいたいため、京に集まってくる。それら陳情者たちを長谷川秀一は応接した。かれらが持ちこんでくる用件を信長に取り次ぎ、場合によっては彼等の立場にもなってやって便宜をはからってやる。そういうことで、彼等のあいだで、長谷川秀一に対して恩に着ている者が多い。『覇王の家』)。

穴山梅雪もこれまで従ひ来りしかば、御かへさにも伴ひ給はんと仰ありしを、梅雪疑ひ思ふ所やありけん、しゐて辞退し引分れ、宇治田辺辺にいたり、一揆のために主従みな討たれぬ。
《これ光秀は、君(家康)を途中に於て討奉らんと謀にて土人に命じ置きしを、土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に光秀も、討ずしてかなはざる徳川殿をば討ちもらし、捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も、吾命の拙さよとて後悔せしといえり》

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(黄○=草内で梅雪一行が襲われる。緑○=家康一行が渡河した井手)

(---梅雪、多知ノ男ニテ。

と、この当時いわれていたように、故武田信玄の族党のなかでは知恵があり、むしろ知恵誇りして信玄の相続者の勝頼と事ごとに言いあらそいをし、ついにその知恵を勝頼を裏切ることに使い、家康を仲介者として織田方に寝返り、巨摩郡もらった---略。 『覇王の家』 )

『徳川実紀』がことさらに梅雪に言及しているのは、家康が土人に命じて梅雪を殺させたといううわさが消えないからであろうが、司馬さんは、家康は「年少のころから一度も人を謀殺したこと」はなく、「この時期よりあともそういう所行はない」と断定している)。

竹丸やがて大和の(豪族)十市(とおち 常陸介)がもとへ使立て案内をこふ。
忠勝は蜻蛉(とんぼ)切といふ鑓(やり)提て真先に立、土人をかり立かり立道案内させ、茶屋は土人に金を多くあたへて道しるべさせ、河内の尊延寺村より山城の相楽(あいらく)山田村につかせたまふ。

「本多平八郎忠勝どのが〔蜻蛉切〕の槍をお持ちだったということは、ほかの扈従(こじゅう)のお方々も武装なさっていらっしゃいましたでしょうに。それでも土匪(どひ)を怖れられたのでございますか?」
銕三郎(のちの平蔵宣以 のぶため)が不思議がった。

扈従していた天野三郎兵衛景能(かげよし 46歳。のち家康の諡字をもらって康景に)の『寛政譜』に、
「(天正)十年、織田右府生害のよし告来りければ、堺より伊賀路を経て岡崎に還らせ給ふ。この時御料の鎧をあづかりたてまつりて御あとより供奉し、慕ひ来る野伏(のぶせ)等を追散す」
もちろん、鎧櫃(よろいびつ)は従者が奉戴していたろう。

「いや、鎧など持っていることが知れれば、野伏らの好餌であったろうな」
「戦えばよろしいかと」
「相手は鉄砲なども持って襲ってくるぞ」
「はあ」

銕三郎のために、同じく扈従していた高力与左衛門清長(きよなが 53歳)の『寛政譜』
「十年、御上洛ありて和泉の堺にのましますの時、六月二日明智光秀京都において右府を弑(しい)せしこと告来るにより、帰御あらむとて伊賀路を越えさせたまふのとき、清長小荷駄奉行となりて殿(しんがり)す。このとき所々の一揆馳むらがりて御道をさへぎるにより、清長しばしば返し合せ賊兵を撃、鉄砲にあたりて疵(きず)をかうぶる」

「おお、そうじゃ。宣雄どのは、この高力与左衛門清長が、伊賀路から帰ってすぐの8月に、田中城を預かったことをご存じかな?」
「不肖にして---」
「うむ。先手の寄騎(よりき)25騎とともにの。伊賀路での小荷駄の天晴れなる指揮ぶりの褒章であったろう。もっとも、御神君が関東に移られた時、武蔵・岩槻城2万石へ移されたがの」
「お教え、かたじけのう存じます」
「そうじゃ。田中城ゆかりの家々が相つどうて、先祖話に興じるのもおもしろかろうな」
(この項、つづく)

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2007.06.16

本多平八郎忠勝の機転(4)

これまでの記述を、もうすこし客観的に見るために、< 『徳川実記』[東照宮御実紀 巻3]から引用してみる。

天正10年 1582)
五月 君(家康)、右府(信長)の居城・近江の安土にわたらせたまへば、穴山梅雪もしたがい奉る。
おもただしき設ありて、幸若の舞申楽も催し饗せられ、みずからの配膳にて、御供の人々にも手づからさかなをひかれたり。
家康とその主従に上方能を見せるために幸若、梅若の太夫たちをよんで舞わせたり(略)、右大臣みずから立って膳をはこび、まず家康の前に据え、ついで石川(数正)の膝前、酒井(忠次)の膝前などにつぎつぎとすえた。『覇王の家』)。

右府やがて京へのぼらるれば、君も京堺辺まで遊覧あるべしとて、長谷川竹丸(後に藤五郎秀一といふ)といへる扈従(こじゅう)を案内にそへられ、京にては茶屋といへる家(茶屋四郎次郎。本氏は中島といふ。世々豪富なり)を御旅館となさるべしとて、万に二となく沙汰せらるれば、君は先立て都へ上らせ給ひ、和泉の堺浦までおはしけるが、今は織田殿もはや上洛せらるるならむ、都へかへり、右府父子にも対面すべし、汝は先参て此のよし申せとて、御供にしたがいし茶屋をば先にかへさる。
((茶屋四郎次郎は)京における織田家御用の呉服商で、信長とその一族の宮廷服や衣装はこの茶屋が一手で調整し、巨利を得ていた。彼にとって信長の死は自分の事業の崩壊であろう。『覇王の家』)。

又、六月二日の早朝、かさねて本多平八郎忠勝を御使として、今日御帰洛あるべき旨を右府に告げさせ給ふ。
君も引つづき堺浦を打立給へば、忠勝馬をはせて都へのぼらんと、河内・交野(かたの)の枚方(ひらかた)辺まで至りし所に、都のかたより荷鞍しきたる馬に乗て、追かけかけ来る者を見れば、かの茶屋なりしが、忠勝が側に馬打よせて、世はこれまでにて候、今暁、明智日向が叛逆し、織田殿の御旅館にをしよせ、火を放て攻奉り、織田殿御腹めされ、中将殿も御生害と承りぬ。
この事告申さんため参候といへば、忠勝もおどろきながら茶屋を伴ひ、飯盛山の麓(地図=下の赤○)まで引き返したるを、君(家康)遥に御覧じ、そのさまいかにもいぶかしくおぼし召、御供の人々をば遠くさけしめ、井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の輩のみを具せられ、茶屋をめしてそのさまつぶらに聞給ひ---

Photo_387
(赤=上:橋本 下:飯盛山 緑=左:枚方 右;尊延寺 黄=草内)

『覇王の家』 は、2007年6月13日[本多平八郎忠勝の機転]に記したように、家康たちと合したのは、枚方の近くとしている。
そのために、京から淀川ぞいに下ってきた茶屋四郎次郎とは、忠勝は橋本あたりで行きあったことに。
多くの史料を校勘する司馬さんのこと、そうかも---とおもう。
飯盛山麓では、以後の逃避行の時間割がいささか苦しい。
もっとも、本稿は家康の伊賀越えそのものが主題ではなく、本多平八郎忠勝の機転と勇気を主眼としているのだから、合流点には深入りしない。

私事を書くと、河内長野の郊外にあった大阪陸軍幼年学校で、たしか終戦の日、大阪港に米軍が上陸したから---とのデマ情報を司令室が信じ、夜中に乾パンを靴下につめ、運動着のまま、京都へ向かったときも柏原まで旧国道170号を歩いた。
西の堺からの道が柏原で交わる。
この柏原から16キロほど北行すると飯盛山の下へ通じ、さらに10数キロで枚方である。

本多平八郎忠勝はある予感から、後発の家康一行の誰かと、たどる道筋を、たとえば、往路を戻るとでも、打ち合わせていたにちがいない。
そうでないと、飯盛山の麓であれ、枚方であれ、出会える確率はきわめて少なくなる)。

家康は)御道の案内に参りし竹丸を近くめし、我このとし頃織田殿とよしみを結ぶこと深し。
もし今少し人数を具したらんには、秀光を追かけ織田殿の仇を報ずべしといへども、此無勢にてはそれもかなふまじ。
なまなかの事し出して恥をとらんよりは、急ぎ都にのぼりて知恩院に入、腹きって織田殿と死をともにせんとのたまふ。
竹丸聞て、殿さへかく仰らる。まして某(それがし)は年来の主君なり。一番に腹切てこのほどのごとく御道しるべせんと申す。
さらば平八御先仕れと仰ければ、忠勝茶屋と二人馬をならべて御先をうつ。
御供の人々は何ゆえにかくいそがせ給ふかと、あやしみあやしみ行くほどに、廿町ばかりをへて、忠勝馬を引返し、石川数正にむかひ、我君の御大事けふにはまりぬれば、微弱の身をも顧みず思うところ申さざらんもいかがなり。
(うーん。本多平八郎の熱弁がはじまる山場だが、一言。
茶屋が信長の変事を家康に告げるとき、<御供の人々をば遠くさけしめ、井伊、榊原、酒井、石川、大久保等の輩のみを具せられ>と前に書いている。
さすれば、重臣たちは事情をわきまえているはず。
『実紀』の編纂者の思い込みが、ちと、激しすぎるのでは---)

年頃の信義を守り給ひ、織田殿と死を共になし給はんとの御事は、義のあたる所いかでか然るべからずとは申べき。
去りながら、織田殿の御ために年頃の芳志をも報はせ給はんとならば、いかにもして御本国へ御帰り有て軍勢を催され、光秀を追討し、彼が首切て手向給はば、織田殿の幽魂もさぞ祝着し給ふべけれと申。
(忠勝は、信長の死を聞いて1時間近くたっているから、善後策をあれこれ練る時間もあったろう。家康をはじめ、重臣たちは、咄嗟のことゆえ、動転している。情報を早くつかむことの大切さの教訓)。

石川、酒井等是をきき、年たけたる我々此所に心付ざりしこそ、かへすがへすも恥かしけれとて其よし聞え上しかば、君つくづくと聞めされ、我本国に帰り軍勢を催促し、光秀を誅戮(ちゅうりく)せんは固(もと)より望む所なり。
去りながら、主従共に此地に来るは始めてなり。
しらぬ野山にさまよひ、山賊一揆のためここかしこにて討れん事の口おしさに、都にて腹切べしとは定たれと仰らる。(この項、つづく)

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2007.06.15

本多平八郎忠勝の機転(3)

いまでは、、ほとんどの考察が[家康の伊賀越え]と総称しているが、随身した家臣たちが、もっとも危険を感じていたのは、枚方から多羅尾郷(地図=左端上・黄○)にいたる逃避行だったといえる。

Photo_385

多羅尾から御斎(おとぎ)峠(地図=左端下・黄○))を越して伊賀へは、多羅尾四郎右衛門光俊(みつとし)の手配による息子兄弟をはじめ、百数十名の甲賀者たちが護衛した。

多羅尾の小川城(地図=左端緑○)を発つ朝、織田信長の家臣から浪人となり、甲賀に住んでいた和田八郎定教(さだのり)もやってきて、守護についた。のち、幕臣に取り立てられた和田の『寛政譜』は、「東照宮、和泉の堺より甲賀の山路を渡御のとき忠節をつくせしかば、6月12日御感の誓状をたまふ」。岡崎まで随行したらしい。

峠から東の伊賀国へは、家康に扈従(こじゅう)していた服部半蔵正成(まさなり)が手をまわして集めた伊賀者たち200人弱が周辺を固めている。

本多平八郎忠勝(ただかつ)の『寛政譜』も、多羅尾以後は「これより伊賀路をこえさせたまひ、ゆえなく岡崎城に入御あり」と、ただの1行ですませる。

本能寺の変は天正10年(1582)6月2日未明。
明智光秀の軍が山崎において秀吉の軍に敗れたのは13日。
そのあいだの12日間、近畿一帯は明智軍の支配下にあったはず。
光秀は、近隣の各実力者たちに親書を届けまくって同盟を呼びかけるとともに、家康一行の探索も依頼していたろう。
というのも、安土城での家康接待役を変更された上での中国遠征命令であったため、光秀家康主従の堺遊覧も熟知していたからである。
土豪で、光秀の天下に賭けるものも少なくはなかったと見る。

近江国信楽の多羅尾光俊光秀へは、手がまだ届いていず、家康の命をねらわなかったのは、まったくの僥倖といえる。
ただ、甲賀超えをする一行に不審はもったろう。
それが殺意にまでいたらなかったのは、家康にしたがっていた100名を越す武士団との、彼我の力関係であったかもしれない。

家康扈従の重臣たちも、御斎峠をくだって伊賀国に入り、「虎口を、これで脱しえた」と安堵するまでの、駆けに駆けた2日間は、生きた心地もしなかったはずだが。

さて、服部半蔵『寛政譜』---。
「(天正)10年6月、和泉の堺より伊賀路を渡御の時従ひたてまつり、伊賀は正成が本国たるにより、仰をうけたまわりて郷導したてまつる」
功を誇らず、あっさりとまとめている。
もちろん、服部家が提出して『寛政譜』の基となっている[先祖書]は未見。
服部家が功自慢を抑えたのか、家譜の編纂者が削ったか、あるいは、三河生まれの半蔵に想像されているほどの影響力はなかったのか、判断は控えておく。

伊賀忍者の家元の一つ---柘植(つげ)三之丞清広(きよひろ)の『寛政譜』。
「天正10年、堺より伊賀路をすぎさせ給ひ、下柘植村(地図=右から4つ目緑○)に渡御のとき、清広仰をうけたまはりて同邑(むら)の者数人をひきゐ、伊勢国白子(地図=右端緑○)への御道しるべして、関(地図=右から2つ目の緑○)のこなた鹿伏兎(かぶき)にいたらんとす。

時に清広言上せるは、鹿伏兎の輩(やから)と柘植の者とは常に讐敵たり。我輩したがいたてまつらば還て御大事を引出さむもはかりがたければ、某等はこれよりいとまたまはるべし。
御供に列せしうち米地九右衛門政次は近郷の者にも面体しらせず隠し置きたる4,5人のうちにて、しかも近国方30里の間、鹿の通ひ路に至るまでつぶさに知るものなればとて、彼米地をして案内者にたてまつり、清広等は下柘植村にかへる」

これにより、本多平八郎忠勝たちも、忍者の周到さをかいま見て舌をまき、かつ、身に冷や汗をおぼえたろう。
米地家の名は『寛政譜』にはない。お目見以下の家柄の者にでもなったか、本多、酒井家にでも雇われたか。

「いや、本多家でそのような人物を雇い入れたという話は、たえて耳にしたことはない。どうじゃな、采女(うねめ)どの?」
「仰せのとおりです」
本多采女紀品(のりただ)が、本多侯(駿州・田中前藩主)へ答えた。

忍者集団話を、目を輝かせて聞いていた銕三郎は、いかにもがっかりしたような顔になった。

参考
[伊賀越えルート]
[神君伊賀越え考]

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2007.06.14

本多平八郎忠勝の機転(2)

2007年6月12日[本多平八郎忠勝の機転]に掲げた地図に勘ちがいがあった。謹んで訂正する。

『覇王の家』(新潮文庫)に「この地方の山田荘という字(あざ)に入って人家の灯を見たときは、深夜であった」とあり、山田をさがして、ずいぶん南寄りだな---と疑念をいだきながら、木津の西の山田に緑ドットを貼った。

『武野燭談』のつづきは、こんなふうに記されていた。

「清滝まで出でさせ給ふ。此所にて彼の者、是より先は存ぜず、と申すに付き、彼の者を免(ゆる)し遣はし、又其辺の長(おさ)を一人引立て来たりて、間道の御案内申せと下知し、忠勝御先に立ちて木津川(地図=水色)に到らせ給ふ。
此所にして薪船の只二艘見えけるを招きぬれど、喜ばぬ顔にて居たりしを、己れ船寄せずんば仕様こそあれ、と鉄砲を打たんとす。
船の者共大いに驚き、早速船を漕ぎつくれば、則ち金銀を与へて、薪をば悉く流して棄て、君を始め、御供の人々を残らず渡し、忠勝一人残りて、その船の帰るを待ちて、打乗って向ふの岸に着くと等しく、持ちたる槍の石突を以て船底を突破りてぞ行過ぎける。斯くして井出の里に懸り、玉水にして又、案内者を捉らへ来たりて宇治田原へ著かせ給ひ---」

つまり、山田などという郷(さと)は、いたるところにある。わざわざ南下するはずはない。
木津川の東岸に井出村と玉水村(地図=真ん中の緑○)はあった。尊延寺(地図=左端の緑○)から真東にあたる。
ところが、宇治田原が見つからない。

Photo_384
(明治19年の地図。右端=黄○は山中の多羅尾郷。
その上の緑○=小川村

木津川の舟の件を、酒井直政(なおまさ)の『寛政譜』は、「大和路より河内を経て、山城国相楽(あいらく)郡にいたらせたまふ。路に川あり。(酒井)忠次小舟一艘をもとめ来たりてのせたてまつり、をのれは小鴉といふ馬に乗りて川を渡り、供奉の人々をみな渡し得て、信楽の山中を越え---」と記す。

船底を破った槍は、忠勝愛用の〔蜻蛉(とんぼ)切り〕ででももあったろうか
本多侯にお伺いいたします。中務(なかづかさ)大輔忠勝の官位からの名)どのが愛用されていた〔蜻蛉切り〕は、いま、どちらの本多さまで御所蔵でございましょうか?」
訊いたのは、14歳の銕三郎であった。

「これ、はしたない」
あわてて、平蔵宣雄がたしなめる。
「いや、かまうな、かまうな。〔蜻蛉切り〕は、この年の正月に、古河から石見国浜田へ国替えになった、中務大輔忠敞(ただひさ 33歳 5万石)どのが家宝とされていた。侯はこの九月に卒され、いまは養子に入られて家督された忠盈(ただみつ)侯が手にある。見せてやりたいが、なにぶんにも浜田では、それもかなわぬわ。はっははは」

多羅尾という幕臣を『寛政譜』の中で見つけたのは、かなり最近である。ぼくたち戦後派は、片岡千恵蔵さんの映画『多羅尾伴内』シリーズでその名を覚えており、感慨をもって眺めた。

多羅尾四郎右衛門光俊(みつとし)の項に、こう書かれている。
「織田右府に属し、旧領近江国甲賀郡信楽の小川(おがわ)に住す。
天文10年(1541)東照宮、和泉国境(ママ)の地を御遊覧のとき、六月二日明智光秀叛逆して右府生害あるよしきこしめされ、ただちに京師に御馬をすすめられるるといへども、途中にして長臣等しゐてこれをいさめたてまつりしかば、すでに台駕を施したまふべきにいたる。
このときにあたり、海道筋はことごとく敵地となるにより、長谷川秀一を郷導として大和路より河内、山城等所々の山川をへて漸く近江路におもむかせた(ま)ふ。

ここに田原の住人山口藤左衛門光広(みつひろ)は光俊の五男にして、秀一も旧好あるにより、彼宅に入御ならしむるのところ、光広飛札を走てことのよしを父光俊が許につぐ。
光俊光太(注:長男)とともにすみやかにむかえたてまつり、山田村にをいてはじめて拝謁し、それより信楽の居宅にいらせたまふ。
光俊一族等とともに甲賀の士を率ゐてこれを警護し、その夜御膳をたてまつり、種々こころをつくして守護せしかば、御前にめされ、懇(ねんごろ)の仰をかうぶる」

本多平八郎忠勝『寛政譜』の記述は、
「すでにして近江国信楽におもむかせたもふにいたり、多等尾四郎右衛門光俊人をしてわが家へむかへたてまつらむことをこふ。衆みな光秀が与党ならむかとうたがひてこれをとどむ。
忠勝いふやう。我勢寡うして危難の間にあり。素より彼に敵しがたし。
彼もし二心あらむにはたとへ行かずともかならず兵を出して我をうたむ。
さらば行くも死し行ざるも死す。
行かずして死せむより、ゆきて死するにしかじと。
衆皆此言を然りとして、御馬を多羅尾が家によせらる」

「死に場所をえらぶのは、武士の心得ではあるが、いまの世に、死を恐れないのは農民のほうかも知れないの」
本多伯耆守正珍(まさよし)は、老職に駕籠訴(かごそ)をして死罪になった、郡上八幡の村々の一揆代表たちのことに思いをはせたのかも知れない。

中務大輔さまの智勇に加えるに信の血は、侯にも紀品(のりただ)どのにも受けつがれておるやに見うけます」
宣雄の言葉に、佐野与八郎政親(まさちか)もうなずいた。

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2007.06.13

本多平八郎忠勝(ただかつ)の機転

「幼少のころ、母者から『武野燭談』のいくつかを読み聞かされていました」

本多伯耆守正珍(まさよし)侯(駿州・田中藩の前藩主 4万石)の芝二葉町の中屋敷。正珍侯は隠居所同然に使っている。隠居といっても50歳。昨宝暦8年(1758)に老中を罷免させられた。

庭の樹々が自慢で、紅葉の宴に、長谷川平蔵宣雄、侯の縁者で宣雄の同僚・本多采女紀品(のりただ 45歳。2000石)、若い佐野与八郎政親(まさちか 27歳 西丸書院番士 1100石)、それに宣雄の嫡子・銕三郎(14歳)がきかん気げな顔を引きしめて、かしこまっている。

『武野燭談』は、戦国末期から徳川政権初期の、信玄、信長、秀吉、家康や麾下の武将たちの逸話を書き記した膨大な読物である。書き手の名は知られていない。

「それで、[本多中務(なかづかさ)大輔忠勝(ただかつ)]どの巻を読み返しまして、本多侯にお教えをいただきたく---」
「ほう」
右府(信長)さまが本能寺で光秀公に弑(しい)なされた天正10年6月のことでございます」

大神君(家康 41歳)は酒井左衛門尉(忠次 ただつぐ 46歳)と、植村右衛門佐(?)とばかり御供にて、堺を御見物あり、茶屋四郎三郎(注:次郎)御案内として供奉(ぐぶ)す。少人数にては早速に三州迄争(いか)で引き取らせたまうふべき。
一同御自害とこそ思召し候え、とありし時、忠勝(35歳)進出、仰せの如く、本道は皆敵の中なり。さればとて、名将の故なく御自害あるべきことにもあらず。間道を経させ給ひ、夫れより山越えに伊勢路へ御懸かりあらばも別儀候まじ、と申上ぐる」

ちょっと差し出口をはさむと、植村一門で『寛政譜』に、そのころ右衛門佐を称した仁はみあたらないし、堺に供した記述もない。
『寛政譜』によると、酒井忠次のほかに、井伊万千代直政(なおまさ 22歳)、榊原小平太康政(やすまさ 35歳)、石川助四郎数正(かずまさ、50歳)、大久保七郎右衛門忠世(ただよ 41歳)、そして本多平八郎穴山梅雪入道も供奉していた。
そうそう、服部半蔵正成(まさなり 40歳)を忘れては、伊賀越えの筋がとおらなくなるい。

この堺見物は、もともと、信長が返礼として家康とその功臣たちを慰労するために、秘書官の長谷川秀一を付して行かせたものである。

司馬遼太郎さん『覇王の家』(新潮文庫)によると、京都にいた茶屋四郎次郎は、信長の死を告げるために堺へ向かった。
帰京へ向かっていることを信長へ先触れする本多忠勝は、橋本(地図=赤○)で茶屋と出会い、信長の変事を知る。

Photo_383
(明治19年ごろの淀川ぞいと山城国相楽郡あたり)

思うに、忠勝も小者を数人従えていたであろうし、茶屋四郎次郎も手代・小僧に護衛させていたろう。同じことは、酒井忠次ほか、井伊直政榊原康政石川数正大久保忠世にもいいうる。数十人の集団であったろう。

忠勝・茶屋がその集団と出あったのは、枚方の手前(地図=左の緑○)と、『覇王の家』は推察する。

甲賀・伊賀の山越えをすすめたのは、長谷川秀一であった。家康は輿に乗り換え、間道を真東へそれた。

「上方(かみがた)初めての者共ばかりなれば、如何にして間道を知るべき、と宣ふ。
忠勝、其段は某(それがし)に御任せあるべし、と申しもあえず、其辺を走廻り、所の庄官(庄屋)一人を生捕り、己れ此殿を御案内申せ、悪しく導き奉れば忽ち打殺すべし、と言いて、其者を引立て案内させ、清滝まで出でさせ給ふ」

清滝は、『旧高旧領』で検索すると近江国坂田郡にあるが、明治19年の地図には見当たらない。
『覇王の家』は、山坂を駆けのぼり駆けくだりして、尊延寺(地図=中の緑○)を過ぎたときには日が暮れたとしている。
「あとは足さぐりで歩き、坂がどうやら東へくだっていると気がついたときは山城国相楽(そうらく)郡に入っていた。この地方の山田荘(?地図=右の緑○)という字(あざ)に入って人家の灯を見たときは、深夜であった」(『覇王の家』)

道案内をいいつけた村長(むらおさ)は、その家族を人質として連れられた。が、次の村までくると、金子を与えて帰した。その金子は茶屋四郎次郎が用立てた、と司馬さんは見ている。

「土地(ところ)の父老(おさ)を道案内になさったという機転、感銘いたしました」
「いや、それこそ戦国を生きのびるための知恵であったろう」
本多侯はそういって、
「用を終えた父老一族に渡す、しかるべき金子を、咄嗟の出発にもかかわらず、十分に用意してきていた茶屋四郎次郎をほめたい。さすがに心得のある大商人よ」
明智方が足跡をたどっても口を割らない金額とは、いかほどでありましたろう?」
「そうさな。倅どのはいくらとみるかの?」
とつぜんに本多侯から問いかけられた銕三郎は、ちょっと考えて、
「1人に20文ずつ。父老に50文」
「ほう。大神君の命もずいぶんに安く見立てられたものよのう」
「違います。そうではありません。渡しすぎると、大金を所持していることが噂となって、野伏(のぶせ)たちの知るところなり、襲われまする」
「利発、利発。本多忠勝とならんだぞ」

相楽郡では、長谷川秀一の顔がものをいい、かねて接触のあった土地の豪族たちが道案内や食事をふるまった。(つづく)

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2007.06.12

神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)

長谷川どの。一献さしあげたいのだが---」
下城すべく、中の口から中省門へ向かっていた平蔵宣雄に、同役で七番組頭・神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)に呼びかけられた。

神尾春由のことは、2007年5月29日[宣雄、小十人組頭を招待]で、屋敷が神田門外にあると紹介した。あの時、39歳だったから、宝暦9年の5月は40歳。みっしりと肉がついているが、背丈が6尺(約180cm)近いので、さほどには感じられない。
亡父・若狭守春央(はるひで)は、有徳院殿吉宗)に引き立てられ、勘定吟味役から勘定奉行にすすみ、貨幣の改鋳に腕をうるった仁。6年前に67歳で卒している。

1500石の家禄にしては狭い700坪ほどの屋敷の書院で神尾春由は、宣雄の盃に酒を注ぎながら、
長谷川どの邑地は、下総(しもうさ)の武射郡(むしゃこおり)寺崎でござったな」
それこそ、1500石の大身旗本とはおもえない、ざっくばらんな口調である。
「はい。寺崎に220石、おなじ山辺郡(やのまのべこおり)の片貝に180石、いただいております」
「そのようにおふざけを申される。寺崎の実質は300石を越えておりましょう?」
「湿地を干拓して新田に変えたのを加えれば、そうなりますが、知行している者が拓(ひら)いた新田は勝手次第と---」
「その勝手次第でござる。当家も、父・若狭守春央(はるひで)が、武射、山辺、長柄(ながら)の下総3郡に1000石余の知行地を賜ってござる。ついては、武射の地をいささかなりと拓きたいと存じてな---」

手をうって用人を呼びいれ、紹介した。
「川辺安兵衛と申します。お見取りおきを---」
「川辺に、開拓のコツなどをご教授いただければ重畳」

たしかに、寺崎新田は、宣雄が指揮して湿地を拓いた。厄介の厄介だった身分の時だから、24歳から27歳の3年間を要した。そのほとんどを、寺崎の名主・戸村五左衛門の離れに滞在し、指揮・監督した。
戸村の娘・お(たえ 仮名)が下女たちを使いながら食事や洗たくの世話をしているうちに、銕三郎を身ごもった。

Photo_380
(明治20年ごろの下総国武射郡の1部。青○=寺崎、
赤○=上は下吹入郷 下は八田。水色=沼、右端下=海)

「邑地は、武射郡のどちらで?」
下吹入郷八田でございますが、下吹入は山あいで、開墾の余地がございませぬ」
安兵衛が答えた。
「さよう。下吹入の郷名は聞いたことがあっても、実地を知りませぬ。八田寺崎に近いので現地の沼に釣りに行きました。あそこなら、100石ほどは干拓できましょう」

川辺安兵衛は45歳を過ぎていた。その年齢で干拓の初めての指揮はむずかしいと思ったが、宣雄はあえて言わなかった。神尾春由が費用の話題を出さなかった。だから、ことが現実味をおびてきてからいえばすむ。

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神尾が名を出した亡父・若狭守春央は、下嶋彦五郎為政(ためまさ 500石)の次男で、神尾家に養子に入った。春由下嶋家からの養子である。春央とは叔父・甥の間柄。
春央が出来者で、稟米400俵だった神尾家を1500石にまで大きくしたために、神尾一門でも発言権が強まった。
春央の妻女に子ができなかったので、実家の兄・政友の四男・17歳の五郎三郎春由の幼名)を養子にし、吉宗に初見参させた。
春央歿したのは67歳、春由34歳の宝暦3年(1753)のことである。

つい、神尾家に立ち入ったのは、徳川幕臣の養子縁組にも、いろいろの形があることを書きたかったためである。

ついでに書くと、春由は6人兄弟で、5人ともすべてうまく養子にはまっている。

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2007.06.11

平蔵宣雄のコスト意識

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が番方(武官系)の役付階段の第一歩である小十人組頭に栄進したのは、宝暦8年(1758)9月15日で、先任の同役たち全員を東両国・駒留橋ぎわの高級料亭[青柳〕に招いたのは、その年の10月であった。2007年5月29日[宣雄、小十人組頭を招待] 。

それから、最初の組頭の交替は、1番組の曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)が翌9年1月15日に西丸・目付に転じ、その後任に羽太(はぶと)求馬正尭(まさかみ)が2月4日の発令された。そのことは2007年6月10日[羽太求馬正尭]に記した。
役人の最大の関心事は、つねに、人事である。

新任の羽太正尭が、お教えをいただきたい儀がこれあり、と、鉄砲洲築地の長谷川邸へ訪ねてきた。

「昨年、長谷川どのがお催しになった新任ごあいさつの宴会がたいへんに好評で、月番・堀 甚五兵衛信明(のぶあき)どのが、長谷川どのにお教えを乞うては---と勧められましてな」
「お歴々には、口がおごっておられますのに、〔青柳〕の膳がお気に召したのはなにより」
「いや、お歴々が口をそろえてお褒めになったのは、お持ち帰りのものとか---」

家禄も年齢も上の羽太正尭にいわれて、宣雄は、「やはり---」と合点がいった。

宴席を頼むにあたり前もって、宣雄は自身で〔青柳〕安兵衛方へ出向き、予算を告げて出せる料理の品書きをあげてもらった。
その中から、「年配者が多いから、さほどの量には箸をつけまいから、夜寒の季節ゆえ」席へは、燗酒とともに温かい鉢もの、汁もの、刺身類を出し、食べ残しの形で折りで持ち帰る、日持ちのする料理のほうにむしろ念をいれてほしいと頼んだのだ。

包む風呂敷に、長谷川家家紋・左巴藤を染め抜こうかと聞かれ、無地の藤色でよい、家紋を染め抜くと、他家はあとで使いがたい---といった。幕臣らしからぬ気づかいに、 〔青柳〕女将がいたく共鳴してくれ、宴席で、持ち帰りの料理を皿のまま長老・佐野大学為成(ためなり)の前へ自らが運び、
「およろしければ、奥方さまへ、お包みいたしましてもよろしゅうございますが---」
と念を入れてくれた。
その一言で、全員が、われもわれも---と、宣雄のねらいどおりとなった。
長谷川どのの宴会がよかった」
との声は、組頭の奥方たちのものである。

そのことを羽太求馬へ話し、
「同じ金子を費やすにも、成果をいくらかでも高くねらうのが、金づかいの妙法と考えまして---」
と笑いにごまかした。

「あ、家紋の染め抜きの風呂敷を考えており申したが、さっそくに取り消して無地にいたそう」
こういった羽太に、宣雄が聞いた。
Photo_379「羽太どののご家紋は?」
「井桁の内花沢潟(はなさわがた)でござる」
「ほう、珍しいご家紋。それは、ご出自とお伺いしている三河国額田郡(ぬかたこおり)大門のものでござりますか?」
「いや、あのあたりには、当家の分流しか羽太を名のっている家はござりませぬ。陸奥国白河の近辺に羽太という村がござる。はっきりとは分かりかねますが、藤原氏の流れが関東からあちらへ土着、さらに一派が三河へ流れて羽太を称したのでは、と」

羽太求馬正尭は、役人らしくない平蔵宣雄のコスト意識に感心して、清水門通りの屋敷へ帰っていった。

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2007.06.10

羽太(はぶと)求馬正尭(まさかみ)

宝暦9年(1759)が明けた早々の1月15日、平蔵宣雄(のぶお)の同役の、小十人組・6番組頭の本多采女紀品(のりただ 2000石)が耳打ちしたように、1番組 曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)が西丸・目付に転じた。

1番組 曲渕勝次郎景漸 1650石 36歳
      宝暦7年7月1日→同9年1月15日西丸・目付
      (布衣)同年12月18日
     羽太求馬正尭(まさかみ) 700石 45歳
      宝暦9年2月4日→明和2年6月5日卒
      (布衣)宝暦10年7月18日

曲渕の家禄は、上のリストにあるように、1650石だから、1000石高格の小十人組頭や目付を勤めても、足(たし)高は1石も補填されない。
それでも勝次郎景漸が目付に執着したのは、将来に、町奉行(3000石高格)を見据えていたからとしか思えない。町奉行目付経験者という不文律のようなものが、当時、できていたのである。

景漸目付への執着は、発令の1月15日という日付にもあらわれている。
彼は、1月15日付で小普請奉行に転じた牧野織部成賢(しげかた 2000石 46歳)の後任である。
前任者の転出日に、即、発令というのは、いかに繁忙な職といえども、珍しい。事前の周到な根まわしをそこに見る。

逆に、後任の羽太正尭の発令が常識以上におくれているのも、曲渕景漸の人事がいかに急だったかをしのばせる。

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ところで、正尭「布衣(ほい)授爵が、翌10年7月にずれこんでいる。
宝暦元年(1751)から10年間の記録を調べたが、この年だけ、7月と恒例12月(ただし3人)の2回授勲があった。

で、考察してみた。
羽太正尭のような宝暦9年末の受爵予定者を、事務方が見落としたために、翌10年7月までの資格者と混ぜて、18日に「布衣」をゆるす発令をしたのであろうと。珍事である。

まったく異例の弥縫(びほう)処置と断じるには、7月18日の20人の叙爵資格取得日をあたってみないと、はっきりしたことはいえない。まあ、取りたてて騒ぐほどの事件でもないので、時間がある後日にゆずる。

【つぶやき】 
その1. 曲渕の目付への固執ついでにいうと、家禄500石以上も、町奉行への不文律の条件であったといわれている。
平蔵宣以(のぶため 小説の鬼平)が足かけ8年も火盗改メをつづけ、余人になしえないうな嚇々(かくかく)たる成果をあげ、世間では「次は町奉行」---との新聞辞令がもっぱらであったのに、火盗改メのまま終わったのは、家禄が400石で家格が100石不足していたのと、目付を経由していなかったために、幕閣たちが任命をがえんじなかったとも伝えられている。判官びいきの世論は「100石加増してやれ」との声をあげたが、松平定信派でかためていた幕閣は、もちろん、聞く耳をもたなかった。

その2.かねて念願の北町奉行となった曲渕甲斐守景漸は、月番にあたっていた天明7年5月に江戸で起きた、いわゆる米騒動の暴徒を鎮圧できなくて、長谷川平蔵宣以の先手組2番手など10組の出動を仰いだばかりか、「舂米(つきこめ)商人たちを詮索してみたが、米は秘匿していなかった。こうなったら、食えるものをなんでも口にして、秋の収穫まで我慢するしかないのう」などと、冗談にもならない暴言を吐いて罷免された。 

その3.こののち、牧野成賢大目付まで昇進していたが、天明4年(1784)3月24日、城中で、佐野善左衛門政言(まさこと)が若年寄・田沼山城守意知(おきとも)を刃傷におよんだ現場に居合わせながら、行動が適切でなかったと、25日間出仕をとめられた。成賢は71歳だった。

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2007.06.09

目あかしの使用の禁止

『徳川実紀』宝暦9年(1759)8月30日の項で発見した『憲教類典』からの記録(現代語訳。《 》補足)。

この月に令されたのは、火賊考察を奉ずる者は、今までさだかなる申し送り《の取り決め》もなく、先輩のはからいしさまを推察したり、あるいは自分なりの所存を加味するので、措置が一定しないとの報告がある。
向後は、仕来りのようになっていることでも、不適切と思えることは改更し、判断がつき難いことは奉行所での判例を問いあわせ、それでも決めがたいとは《評定所に》伺って規格をさだめること。

また、囚徒などが病気が篤いというので治療を手当てする時か、また、わけあって近くの非人の小屋へ預けおくこともあるよし。今後は伝馬町の獄屋、浅草溜のほかに、宿らしてはならない。

囚徒などが指口(さしぐち)したいと申し出に、蜀吏などを添えてその賊を捕らえ、指口した者で軽科なのは放免し、重科な者の場合はどのくらい刑を軽くしてやっていいかと伺いを立ているようだが、だいたい、目あかしなどというものがあってはならない。
しかし、指口した者と目あかしの類とは異なるといいわけをして処置しているようだが、吟味によって白状した仲間を逮捕することはあっても、囚徒が罪の代償として指口するのは、名目は異なっていても、実は目あかしと同じことである。
今後は、指口をした時、蜀吏とともに逮捕の場へ行かせることは停止すること。

以上の趣旨を心得て、火賊改メの職を奉ずる輩(やから)にも、きっと申し伝えること。

この令は、長谷川平蔵宣以(のぶため)---鬼平火盗改メ助役に就任する28年前に発せられている。
史実の平蔵政敵で、平蔵が病床にある時に火盗改メ本役臨時役、そして平蔵没後に後任者となった森山源五郎孝盛(300石と廩米100俵)が、エッセイ集『蜑(あま)の燒藻(たくも)』で、平蔵密偵を使って逮捕成績を上げたことを、口をきわめて弾劾した論拠である。

_120_4この令が、『御触書集成 宝暦編』 (岩波書店 1935.3.25)に収録されているかと思い、あたってみたがみつからなかった。
『憲教類典』は、機をみて所在を探す。

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2007.06.08

「布衣(ほい)」の格式

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、宝暦8年(1758)9月15日に小十人組の5番組組頭にすすんだ。
同家の『寛政譜』は、そのつづきに、同年12月18日に「布衣(ほい)を着する事をゆるさる」と記している。

小説の鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の『寛政譜』も、西丸・書院番士から、天明4年(1784)12月8日に西丸徒頭に転じ、つづいて、同年同月16日布衣を着する事をゆるさる」と書く。

辰蔵こと平蔵宣教(のぶのり)の『寛政譜』も、寛政8年(1796)5月23日に西丸小納戸に転じ、同年「12月23日布衣を着する事をゆるさる」と。

「布衣」「官位」なのだ。江戸幕府の幕臣は「官位」「家格」「家禄」「役職」を重んじていた。
正式の「官位」は、従五位下が最も低いが、「布衣」はその下---従六位に相当する。
ある人は、 「布衣」以上を、かつての勅任官扱いと見ている。
だから、この記述には重い意味がある。

小十人組 3番組頭・荒井十大夫高国(たかくに)の『寛政譜』を掲げるから、ご覧いただきたい。
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Img051「官位」の等級をあらわす代名詞のようになった「布衣」---じつは、公家(くげ)たちが狩のときに着用した「狩衣(かりぎぬ)」の柄のないものの呼称であった(右図:小学館『古語大辞典』「南紀徳川史」より)

喜多川守貞『守貞漫稿』は、図のような仕立てとしている。いま、神社の神職が正式の神事の時に「狩衣」のほうを着る。
Img053

宣雄が小十人組頭を発令された時の、同役たちが「布衣」を許された、その年月日を、2007年5月27日[宣雄、小十人頭の同僚]リストに付け加えてみる。

1番組 曲渕勝次郎景漸(かげつぐ) 1650石 35歳
      宝暦7年7月1日→同9年1月15日目付
      (布衣)宝暦7年12月18日   

2番組 佐野大学為成(ためなり) 540石 61歳
      享保10年(1725)12月1日小納戸
      (布衣)同年同月18日
      宝暦4年5月1日→明和1年9月28日先手組頭

3番組 荒井十大夫高国(たかくに) 250俵 49歳
      宝暦6年2月28日→明和3年11月12日先手組頭
      (布衣)同年12月18日

4番組 長崎半左衛門元亨(もととを) 1800石 44歳
      宝暦8年7月12日→同10年6月23日目付
      (布衣)同年12月18日

6番組 本多采女紀品(のりただ) 2000石 44歳
      宝暦3年12月28日→同12年11月7日先手組頭
     (布衣)同年同月18日

7番組 神尾五郎三郎春由(はるより) 1500石 39歳
      宝暦4年5月28日→同9年11月15日新番頭
      (布衣)同年12月18日

8番組 仙石監物政啓(まさひろ) 2700石 55歳
      延享4年(1747)8月12日西丸徒頭
      (布衣)同年1219日
      宝暦3年3月15日→同12年4月15日先手組頭

9番組 堀 甚五兵衛信明(のぶあき) 1500石 49歳
      宝暦2年4月1日→同10年1月11日差は先手組頭
      (布衣)同年12月19日

10番組 山本弥五右衛門正以(まさつぐ) 300俵 58歳
      元文4年(1739)9月22日田安家の館の用人
      (布衣)同年12月16日
      宝暦5年3月15日→明和1年9月25日卒

「官位」が授けられるのは、それに相応しい使番とか小納戸徒頭などが発令された年の12月の中・下旬といっていい。11月下旬という例外も時にあるが。

「布衣」の受勲は、赤飯を炊いて祝い、上役の家へお礼の挨拶に出向いたであろう。

長谷川家歴代で、平蔵宣雄以前に「布衣」へすすんだ仁は、一人もいなかった。宣以「布衣」宣教「従五位下」へ道をつけた宣雄功績は、自らの「従五位下」受勲とともに、いくら強調してもしつくすということはない。

下叙の最終決定者は若年寄として、実際に下審査をする部署は未詳。

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2007.06.07

佐野大学為成

(父上にいわれて、武鑑で、佐野どのの曾祖父さま、祖父さまの職歴を、手前が調べました)
銕三郎(のちの平蔵宣以=小説の鬼平)は、いくどもそういいかけて、父・宣雄(のぶお)と、他言はしないと約束したことを思い出し、口を結んだ。

それほど、佐野与八郎政親(まさちか)の人柄は、14歳になったばかりの銕三郎を安心させ、柔らかだった。

「過日、本多侯(伯耆守正珍 まさよし 駿州・田中藩の元藩主)の中屋敷で、小十人組頭の長老、佐野大学為成(ためなり)どのとは、遠くたどれば、どこかで交わる---と申されたが」
Photo_371「はい。出自はともに、下野(しもつけ)国の佐野であることは間違いないと存じます。なれど、わが家の家紋は丸に剣木瓜です。あちらは鎧蝶。永いあいだに、それぞれが土着、家紋も変えたとおもわれます」
「なるほど。剣と鎧では、同じ武具でも、まるで違いますな」
Photo_372「親戚づきあいも致してはおりませぬ」
「なぜに?」
「さあ。しいて申せば、あちらの先々代と先代に、やや、酒乱の気味があったのを、わが祖父・政春(まさはる)が避けたのかと。その酒癖を案じられた有徳院(八代将軍・吉宗)さまが、紀伊の家臣・長谷川半兵衛どの---あ、こちらさまとは?」
「いや。遠くたどっても、つながりませぬ。はっははは」
「それであれば---。その長谷川どのから養子に入られたのが、いまの為成どの。したがって、酒乱の血筋は断たれたはずです」
「そういえば、組頭新任の宴会でも、召し上がられなんだような。ひとえに、先手組頭を願っておられるとか」

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幕臣で両番(小姓組と書院番)の家柄はもちろん、小十人組、新番組、大番組といった番方(武官系)の者は、組頭の次に、先手組頭を期待するのは、番方としての出世双六の「上がり」に近いからである。
先手組頭は1500石高、小十人組頭は1000石高と、吉宗の時に明文化された。
有能な士を抜擢する目的であった。

佐野大学為成のように、540石の家禄のものが小十人組頭になると、1000石高となり、家禄540石との差額---460石が足(たし)高として補填される。
その意味は、1000石高にふさわしい武装・戦闘員の備えをせよ---というのは表向きの口実で、ありようは、実収増、やる気の拍車。

番方の最高役高は、1500石の先手組頭だった。
そのポストは、
・弓組頭---10人
・鉄砲(つつ)組頭---20人
・西丸・鉄砲組頭---4人

しかも高齢になってから発令されがちだった。
また、その先のポストがきわめて少なかった。
それゆえ、そうとうな老齢になっても辞職しなかった。
「先手組頭は、番方じじィの捨てどころ」と、幕臣間でいわれたほどである。

で、先手組頭をねらう旗本たちの噂は、何番組の組頭が危篤らしい---と、まるでその死を待っているかのように、非情なものだった。
組頭の死による空席を待っているうちに、自分が死の床についてしまいかねないあせりぶりは、はたから見ると滑稽というか、人間喜劇的でもあった。

紀州藩主出身の将軍・吉宗は、8年前の宝永元年(1751)、68歳で、前立腺肥大による尿毒症を患い、西丸で歿していた。
しかし、紀州出身組には、田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)、加納遠江(とおとうみの)守久通(ひさみち)・久堅(ひさかた)親子という希望の星がいた。

宝永9年(1759)で62歳に達した佐野大学為成は、希望をすててはいなかった。
5年後の明和元年9月に76歳の長寿をまっとうして没した、先手・鉄砲(つつ)組11番手の組頭・水野藤九郎忠鄰(ただちか 250俵)の後任に発令された。
為成は67歳になっていた。

そして、翌明和2年4月の卒した。胃の疾患であった。
あれほど願っていた先手組頭の在任は、半年で終わった。

葬儀は池上本門寺で執行された。養家先の宗派を無視、日蓮宗に改めたのである。表の飄々とた顔とは別に、胸の内には強情を秘めていたと思われる。

参列した平蔵宣雄と佐野与八郎政親は、肩を並べて帰りながら、
「念願の先手組頭を手にいれられたのだから、もって瞑すべしでしょうな」
「念願がかなわないあいだは、生を延(なが)びかせられるということかも」

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2007.06.06

佐野与八郎政信(2)

宝暦8年(1758)暮れ。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は再び、一門中の大身・讃岐守正誠(まさざね)を、御納戸町の敷地が3000余坪もある屋敷に訪ねていた。
伺いを立てたところ、「毎日が休日で退屈している隠居の身じゃ。話相手がきてくれると助かる」との返事を小者が持ちかえったのである。

佐野与八郎政信(まさのぶ)どのがことなあ。かすかに覚えているが、佐野どのがどうかしたか?」
田中藩の元藩主・本多因幡守正珍(まさよし)侯から、曾孫の与八郎政親(まさちか)の指南役を頼まれた経緯を打ちあけると、正誠は、
「うーむ」
うなったきり、しばらく、宣雄の顔を凝視していたが、部屋から立った。

樹々の多い庭で、気の早い鶯が、まだよくまわらぬ舌で、キキョ・ケキョと鳴いた。

戻ってき正誠老の手には、数冊の古い日録が乗っていた。

「50年前の宝永5年(1708)じゃから、それがしは、御目見(おめみえ)もまだの部屋住みの身であった。そうさな、前髪を落としたかどうかという年齢であった。祖父・正明(まさあきら)が致仕した年だから、覚えている。いや、違った---祖父の致仕は、宝永元年(1704)じゃった。まず、そのときのことから話そう」

宝永元年8月2日、5人の幕臣が〔奉職無状〕---職務を遂行していない、との理由で小普請へ落とされた。

普請奉行 奥田八郎右衛門忠信(ただのぶ) 
       60歳 3300石
先手組頭 中島孫兵衛盛忠(もりただ)
       49歳 500石
同      宮崎甚右衛門重広(しげひろ)
       年齢不詳 300石
同      津田三左衛門正氏(まさうじ)
       51歳 1200石
目付    多門伝八郎重共(しげとも)
       46歳 700石

このうち、罷免の内容がはっきりしているのは多門伝八郎重共で、目付に発令されたが就任を拒否したのである。幕臣の非理を探索するのに耐えられないと告げた。
先手組頭の3人は、推測するに、出仕もかなわないほどの病床にありながら、足(たし)高に未練があって辞表を提出しなかったために、同僚の組頭が上訴したと推測された。
普請奉行の奥田忠信は不適任であったのであろう。収賄だと、小普請落ちではすまない。 

〔奉職無状〕が、それから4年後の宝永5年6月23日に、またも発せられた。

普請奉行 甲斐庄喜右衛門正永(まさなが)
       48歳 4000石
大目付   安藤筑後守重玄(しげはる)
       60歳 1400石
小姓番頭 阿部壱岐守正員(まさかず)
       44歳 2000石
先手頭   大岡次右衛門忠久(ただひさ)
       66歳 700石
同      佐野与八郎正信(まさのぶ)
       64歳 1100石
山田奉行 長谷川周防守勝知(かつとも)
       62歳 3100余石

佐野どのの理由はなんだったと、先々代どのはおっしゃっていましたか?」
「いや。聞いてはいないが、やはり、辞職願いの出しそびれでは---。その後、佐野どのの致仕前に柳営でちらっとお姿を見かけたが、病身には見えない、武者らしい大柄の仁であったな」

宣雄は、佐野正信の年齢を先日会った与八郎正親に重ねてみたが、〔奉職無状〕の原因は推測できなかった。

翌宝暦9年(1759)の新年の行事がすっかり終わったころ、佐野与八郎政親が、築地鉄砲洲の長谷川家を訪ねてきた。そのころ佐野家の屋敷は二番町にあった。

数奇屋河岸の菓子舗〔林氏塩瀬〕の練菓子を差し出した。ここは、明国から渡来した菓子杜氏(とうじ)が、京菓子とは異なる逸品をつくっていた。

銕三郎は、男の兄弟に恵まれておりませぬ。兄者として、きびしくご指導いただきたい」
「わたくしも一人子同様なのです。弟がおりましたが、早くに逝きました。銕三郎どのを実の弟と思わせていただきます」
そういわれても銕三郎は、突然に現れた、年齢差の大きい兄を、どうあつかったものか、困惑して、かしこまっているのみだった。

四方山ばなしのついでのような形で、宣雄がさりげなく問うた。
「曾祖父・政信どのが、先手組頭を免じられたのは?」
与八郎はこだわっていなかった。
「祖父・政春から聞いておりますのは、犬公方(いぬくぼう・綱吉)さまに関係する不祥事だったそうです。先手組頭同役の大岡次右衛門忠久どのが、先手でよかった、中野の犬小屋の組頭へまわされた某はくさりきっている---といわれたのに、曾祖父が、なるほど、と合いづちをうったのを、告げ口されたらしいのです。奇妙な世には奇妙な仁が現われますようで---」
と笑った。
「犬公方さまがお逝きになる半年前とは、よりによってご不運な---」
宣雄が受ける。

【つぶやき】〔みやこのお豊〕さんから、2007年6月5日[佐野与八郎政親]の項に、駿河城番をやったという、与八郎政親の祖父・政春『寛政譜』も読みたい---とのコメントをいただいた。

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(享保11年の武鑑l)

長谷川家にかかわりができた与八郎政親に家督をゆずったのは祖父・政春だから、この際、掲示しておくのも何かの参考とおもったので、掲げた。

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ついでといってはなんだが、家督することも出仕することもなく42歳で逝った、政親の父・政隆(まさたか)の『寛政譜』もあわせて掲げておこう。
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2007.06.05

佐野与八郎政親

銕三郎が、2日目に持ち帰ったのは、次の1件のみであった。

佐野与八郎調べ
享保11年(1726)
駿河御城番 御役料七百俵
千百石 二番丁
佐野与八郎政春(まさはる)

「年代からいって、きのうの佐野与八郎政信(はるのぶ)どのご子息だな。それにしても、妙だな。駿河御城番の前の役職があるはずだが---」
「見落としたのでしょうか。ずいぶんと念入りに見たつもりですが---」
「いや。そのほうの見落としではあるまい。板元の手落ちであろう」
父親に言われて、銕三郎は安堵した。
(注:その後に編まれた『寛政譜』と引き比べると、『武鑑』では使番が脱落している)。

毎年刊行される『武鑑』lは、幕府の事業ではなく、江戸の出版元が出しているものであった。幕府は、なるべく民間でできる事業には手をださない。

「父上。伺ってもよろしゅうございますか?」
「む?」
「こたびのことは、何のためのお調べでございましょうか?」
銕三郎。他言しないか?」
「刀にかけまして」
「いや。さほどに大仰(おおぎょう)なものではない。じつはな、そのほうの手をわずらわせた、佐野与八郎どのが、近く、わが家に訪ねて見える」

「佐野与八郎政春どのは、享保17年(1732)の『武鑑』でも、まだ、駿河御城番をなされておられました。そういたしますと、80歳をはるかに越えたおん身で、また、何用で御座いましょうか」
「いや、私がぬかった。お訪ねあるのは与八郎政春どのはない。その孫御の与八郎政親(まさちか)どのといわれる、西丸の小姓組に召された、まだ、30歳には手のとどかぬ仁じゃ」
「その政親どのが何ゆえに?」
「そのほうの指南役をしてくださる」
「ありゃ---」
講読も剣術もさぼりたいさかりの銕三郎にしてみれば、家庭教師が来るように思ったのかもしれない。

ここで、佐野家の『寛政譜』を掲げる。
銕三郎が麻布百姓町の長倉家へ各年ごとの武鑑lを写しに通ったのは、『寛政譜』『徳川実紀』『柳営補任』もまだできていなかったからである。
また、できていたとしても、銕三郎ごときが目にできるものではなかった。

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銕三郎。このこと、よくよく心にとどめおくように。初めてのお方とお会いする前、お会いしたあとは、その方のことをでるかぎりしるようにすると、間違いがない」
「あ、それでこのたびの探索---」

「これ、探索などと、人聞きの悪い言葉をつかうでない。識(し)る---といいなさい。人の己をしらざるを患えず、人をしらざるを患うるなり---人が自分をしらないことは困ったことではない。自分が人をしらないことこそ困ったことなのだ。(宮崎一定『論語』(岩波現代文庫)による)」

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2007.06.04

佐野与八郎政信

鬼平(平蔵宣以 のぶため)の父の長谷川家7代目当主・平蔵宣雄(のぶお)は、歴代当主が両番(武官系 小姓組番士と書院番士)でもヒラのまま終わっていたのに、突然のように役付きに引き上げられた理由を推理している。

ところが、2007年6月3日の[田中城の攻防(3)]に、若き日の佐野与八郎政親を登場させたところ、熱心な鬼平ファンの〔みやこのお豊〕さんから、

>佐野与八郎は、2006年6月12日[現代語訳『江戸時代制度の>研究』火附盗賊改(1)]に登場した佐野与八郎政信と関係があ>りますか?

質問のコメントをいただいた。
『江戸時代制度の研究』は、幕府最後の陸軍総監だった松平太郎の息で同名の松平太郎氏の一大労作であり、池波さんも『鬼平犯科帳』文庫巻3に引用して、愛読書の一つであることを、期せずしてもらしている。

1年前に掲載した『江戸時代制度の研究』の[現代語訳]は、上記のリンクずみを意味するオレンジ色のタイトルをクリックしてご再読願うとして、佐野政信に触れられた数行を転記すると、

3年後の元禄15年(1702)4月、ふたたび、盗賊改メを置き、先手頭の徳山五兵衛重俊を任じた。
ついで翌16年11月、佐野与八郎政信に火附改メを命じた。

このブログは、いまのところ、エンドレスの予定である。

ニフティ・ココログからは2GBのスペースを与えられているが、2004年12月20日に立ち上げてから、2年半、ほとんど1日も休まずに書きつづけてやっと88.1445MB(4.41%)を消化したにすぎない。
1日に原稿用紙3枚分として、3,000枚超。

聖典『鬼平『犯科帳』は文庫24巻。1巻280ページ平均として、旧版の1ページは42字18行で756マス目。
1巻あたり約300枚。その24倍で7200枚とみなすと、なんと、このブログ、聖典の40%強も考究(?)。 

ということは、『鬼平『犯科帳』および長谷川平蔵宣以に関する、世界一長大な探索記録といえそう。

ま、きょうから2,3日、脇道にそれても、許していただけようか。

上記、〔みやこのお豊〕さんへのレスは、

》すごい検索バワー!
佐野与八郎政信の曾孫が佐野与八郎政親)です。
》ぼく自身、そのことに気づきませんでした。

翌朝、宣雄は出仕前に息・銕三郎を呼び、仕事をいいつけた。
「祖父どのに一筆したためていただき、麻布百姓町の長倉どのの屋敷へ参上して、武鑑を写して参れ」

祖父どのとは、病気がちで、いまは宣雄が養生させている、宣雄の実父・宣有(のぶあり)のことである。銕三郎には祖父にあたる。
宣有の次兄・正重(まさしげ)の実母は永倉家(稟米300俵)の女で、正重が末期養子に入った。もっとも、正重もその嫡子の正安(まさやす)もいまは亡く、これまた末期養子の23歳の正尚(まさなお)が出仕の命がおりるのを待っている。

宣雄永倉家の武鑑lに目をつけたのは、この家は同朋(どうぼう 営内の茶坊主)頭の家柄ゆえである。柳営に登城している大名・幕臣の家格・家筋を暗記していないと、同朋頭は勤まらない。

「元禄のころからでよい。目当ては、佐野という1100石の旗本。佐野家は少なくはない。写すのは、名が政治の〔政〕ではじまっている仁だけでよい」

その夕、宣雄が下城して着替えをしていると、さっそくに銕三郎があらわれ、
「父上。みごと、写して参りました」
奉書紙1枚をさしだした。

Photo_369佐野与八郎調べ
延宝元年(1672)
大御番頭
 五千こく
田中大隅守殿
 とら御門之外
   佐野与八郎殿
(注:これは、佐野与八郎が番頭・田中大隅守の大番組の組(与)頭ということであろう。田中組は12番組)。

15_1元禄16年(1703)
惣御鉄砲頭
父与八郎 佐野与八郎
 与力十キ 同心五十人
 千百石
 △二番丁

とだけ、13歳の男の子らしく稚拙さがまだ残っている運筆で写されていた。

「なんだ、これだけか。ほかにはなかったのか」
「いいえ、御座いました。ただ、ここまで写しましたら、八ツ半(午後3時)になりましたので、お父上のご帰宅に間にあうよう、いそぎ戻って参りました。麻布は坂が多く、永倉どのからわが家までは、1里半(6km)ほども御座いますれば、片道1刻(2時間)ほど要します」
「明日、もう一度、行ってまいれ」
「承知。明日は、六ツ半(午前7時)に出発いたしますから、じゅうぶんに写せましょう」
宣雄は苦笑しながら、
「運筆も、だいぶんに上達したようだの」

注:図版は『大武鑑l』から。

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2007.06.03

田中城の攻防(3)

町を、すす払いの笹竹やら、荒神の松売りが流している。
宝暦8年(1758)の暮れもまもない。

「暇などござるまいが、そこを枉(ま)げて---」
と、小十人の6番組頭・本多采女紀品(のりただ 2000石)から、
「---お立ち寄りねがいたい」
平蔵宣雄(のぶお)に伝文がきた。こんどは表六番町の本多邸ではなかった。
駿州・田中藩4万石の藩主で老中職も勤めたことのある本多伯耆守正珍(まさよし)が、隠居所同然にしている芝二葉町の藩の中屋敷へだった。

そこを指定したからには、1番組頭の曲渕(まがりふち)勝次郎景漸(かげつぐ)が誘いをかけてきた、30代の小十人組頭の講への参加の返答をどうしたかの確認ではあるまい、と気は軽かった。

さいわいは、営中で顔が会っても、曲渕景漸は、誘いをかけたことをまるで忘れたように口にしなかった。

本多正珍侯の客間には、すでに采女紀品ともう一人、20代後半とおぼしい、やや大柄の青年が着座していた。

佐野与八郎と申します」
青年があいさつした。
佐野どのと申されると、小十人組の長老、2番組頭の佐野大学どのとは?」
「遠くたどれは、どこかでまじわるでしょうが、あちらは伊勢のご出自。私のところは三河です」
声がなんともやさしい。宣雄は好意を感じた。

本多侯が言葉を添えた。
「今年9月、西丸・小姓組・二番の番頭に、横山内記清章(きよあきら 4500石)どのが就かれた」
横山内記清章定火消を勤めていたときに、田中藩士ががえん(火消し人夫)ともめごとをおこしたのを、横山がみごとに消してくれたのだという。それ以来の私友だが、その横山清章から、見所のある若者ゆえ、いい指導役を紹介してやってほしいといってきたのだと。
 
「手前は、番方(小姓組と書院番組)の経験がないのでな。それでご隠居どのに長谷川どのを推薦した次第」
紀品がにこやかにいった。

宣雄は断れなかった。
「ま、なにほどのこともできませぬが、非番の日になと、拙宅へ遊びおいでなされ。もうすぐ14歳になるのが一人おりますゆえ、これなどを仕込んでいただければ重畳」
14歳になるのは、息・鉄三郎(平蔵宣以の家督前の名。小説の鬼平)がことである。

酒と、いつものごとく、丸干しを焼いたのがで出た。

ふと思い出したように、紀品がいった。
「來春早々に曲渕どのが目付に昇進なさることは、すでにお聞きおよびでござろうな」
「いえ。初めて耳にいたしました」
「口がすべったか。それでは、聞かなかったことにしてくだされ」
そういったあと、紀品は、
「あの仁は、あちこちの団(グルーブ)に首をつっこんでござってな。いや、こんどの目付も、団の功徳のひとつかも」

目付の役高は、小十人組頭と同じ1000石。しかも曲渕勝次郎景漸の家禄は1650石だから、目付になっても足(たし)高がつくわけではない。が、ずっと先に町奉行(3000石高格)をねらっているとすると、目付は必須のコースである。

宣雄は、話題を変える必要をとっさに感じた。
「武田方の将として、田中城を守備した依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ)というお方について、何かご存じのことはないでしょうか」
話題を伯耆守正珍へふった。

正珍がしっかりうけとめた。
「田中城のときだったか、天竜の二股城のときだったか、糧食がだんだんに少なくなり、兵たちが、こそこそと話しはじめた。と、依田信蕃どのは、夜中、ひそかに空俵に土をつめさせ、それを高く積み上げたという。兵たちの士気は、たちまち高まった。そればかりか、包囲しているわが軍の物見たちも、だまされた」
「どこからも支援がくるはずはございませぬのに---」
「たいした武将よ。さらに依田信蕃どのは、甲州・信州の土地侍たちを権現さま方につかせるためにも奮迅のはたらきをしながら、36歳の若さで土豪の鉄砲玉にあたって戦死なされた。権現さまも、さぞや、お嘆きになったことであったろう」

佐野与八郎政親(まさちか)は、本多采女紀品の隣に座したまま、口を閉ざして、3人の座談に聞き入っていた。
その謙虚な控えぶりにも、宣雄は好感を持った。

つぶやき】この日に会った佐野青年が、40数年後に、銕三郎---その時は長谷川平蔵宣以(のぶため)で、火盗改メの本役---を助けることになるとは、宣雄は知るよしもなかった。 

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2007.06.02

田中城の攻防(2)

2007年6月1日駿州・[田中城の攻防]に、武田方の守将・依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ)と書いた。

間違いではない。が、じつは、武田系の徳川幕臣・三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)は、蘆田右衛門佐信蕃(のぶしげ)といっていた。

『寛政譜』に、蘆田という家はない。それで、文献を探して、仲田義正さん『現代語訳 田中藩史譚』(共立印刷 1994.9.1)に行きあたたった。田中城関連の史料ということで、静岡県立中央図書館でコピーしておいたものである。同書の訳者注に、武田方の田中城落城について、

注2.(大久保彦左衛門の)三河物語によると、(天正10年 1582)徳川方は、本多平八郎(忠勝)、榊原小平太(康政)等がこの城を攻撃し、降伏した城将朝比奈又太郎の命は助けてやった---という。

地元・駿州の朝比奈川流域の岡部などを領していて、今川家滅亡後に武田方に従った朝比奈又三郎真直(さねなお)が田中城に入っていたのは、元亀年間(1570-73)のことらしい。『寛政譜』にはその記述はない。

注3.依田信蕃(のぶしげ)の降伏とその後 彼の名誉のために、若干捕捉する。織田信長の武田勝頼討伐作戦の一環として徳川家康は(天正10年2月)駿河の武田方の諸城を攻略しつつ甲斐に進撃することにした。即ち先ず田中城を攻め、用宗・久能両城を占領し、その先鋒部隊が江尻城に迫った頃、その守将穴山信君(勝頼の姉の夫)は家康に内通した。家康は甲府へ発向するに当り、使者を田中へ遣わし、信蕃に「勝頼の滅亡はもはや決まったも同然であるから」と開城を勧め、また「これまでの貴殿のたびたびの軍功といい、今次の田中城における防御といい、何れも敵ながら天晴れであるので、ぜひ我が家中に加えたい」と言った。

注は、さらに長くつつぐが、このあたりからの記述は『寛政譜』の依田右衛門佐信蕃に典拠しているらしいとわかったので、そちらから引く。

天正8年(1580)、勝頼の命令で駿河国の田中城を守ることになった。
東照宮は諸将を城攻めにあてられた。信蕃は勇をふるって防戦したから、寄せ手に戦死するものが多く出たために、この城の押さえとして酒井左衛門尉忠次をのこされて、兵を浜松へ収められた。

同10年2月。田中城攻撃にご進発され、諸将をして城を幾十重にも包囲せしめられた。しかしながら、城兵はいささかも屈しないで、すすんで防戦に努めた。
そこで東照宮は、かねてから信蕃と面識のある大久保七郎右衛門忠世(ただよ)を使者としてさしむけられていわしめた。

「近来、武田家の武威はとみに衰え、木曾の穴山信君(梅雪)は江尻城において謀反して徳川方へ就き、駿河における諸城はみな降っています。
しかるに貴殿ひとりがこの城を守っておられるのは、いかなる展望があってのことですか。たとえ持ちこたええとしても、城兵にどんな益がありましょうや。
早く城をお開けなさって、将兵の命を救ってやられてはいかが?」

じつは、大久保忠世を使者に立てたところが、いかにも家康らしい深慮遠謀というようか。
大久保忠世依田信蕃との面識は、7年前に、戦いの中でできたものである。

そのころ、信蕃は父・下野守信守(のぶもり)とともに天竜川畔の二股城を守護していた。二股城は3年前の元亀3年(1572)i徳川方から武田方が奪取したものである。その城中で信守は卒した。
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(天竜川ぞいの丘上の二股城跡。浜松市の最北部)

が、26歳の信蕃は屈しなかった。
家康は、大久保忠世に二股城を囲む五個の砦をまかせて浜松へ帰陣した。
やがて、勝頼が老臣を派遣し、甲府へ帰るように告げしめた。
信蕃忠世と談合、双方、人質を交換しあい、籠城兵士は粛然と撤退しえたのである。

家康の配慮は、さらに信蕃の上におよび、織田信長の武田の諸将殲滅から彼の命を救い、依田一門を甲信2国の帰属に功あらしめるのだが、それは、田中城の攻防とは別の物語であろう。

敵味方であっても、信がおければ、意志を通じあっておくことをいとわない日本的な心情を、信蕃忠世に見る。

【つぶやき】[上記とは無関係だが、『鬼平犯科帳』文庫巻3に所載[駿州・宇津谷峠]に出ている盗賊〔二俣(ふたまた)〕の音五郎の〔二股〕を池波さんはこの二股城から取っている。そういいきれるのは、二股城の川上の地名〔船明〕が文庫巻11の冒頭の[男色一本饂飩]の〔船明(ふなぎら)〕の鳥平に、もっと川上の地名〔伊砂〕が文庫巻3[盗法秘伝]の主人公〔伊砂(いすが)〕の善八に使われ、池波さんにまぎれもなく土地勘があることを物語っているからでである。

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2007.06.01

田中城の攻防

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、牛込加賀屋敷三枝(さいぐさ)備中守守緜(もりやす 6500石)邸を訪ねていた。

宝暦8年(1758)11月某日。

過日、小十人頭先任の同役・6番組頭・本多采女(うねめ)紀品(のりただ 2000石)から、三枝家の祖・右衛門尉虎吉(とらよし)、息・土佐守昌吉(まさよし)が、武田方の守将として駿州・田中城にこもり、家康軍の猛攻にもよく耐えていた史実を聞かされた。
宣雄今川だった長谷川紀伊(きの)守正長(まさなが)も、田中城にこもって武田信玄に攻められ、善戦したがもちこたえられず、城をでて徳川家康の陣営に走っていた。

それで、大久保99家、本多100家といわれる中の本多伯耆守正珍(まさよし)が田中藩(4万石)の前藩主なので、同流の采女紀品が、宣雄に徳川・武田の田中城攻防譚を持ち出したのだ。
采女紀品とすれば、西丸・書院番士時代の宣雄の番頭・伯耆守正珍田中城史実を結びつけることで、宣雄を自分の派へ引きつけようとしたのであろう。

田中城史実に興味を感じた宣雄は伯父で本家の当主・長谷川小膳正直(まさなお)に、三枝家への伝手(つで)の有無をたしかめた。

「平蔵ともあろうお人が、とぼけたことを---」
正直は笑って、
〔御納戸町の〕隣家が、三枝どのの本家だよ」
〔御納戸町の〕とは、長谷川一門でも4000余石の大身・長谷川久三郎正脩(まさむろ)の屋敷をさす。

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(赤○=長谷川正脩邸。緑○=加賀屋敷の三枝家 尾張屋板)

元亀3年(1572)の三方ヶ原における武田信玄軍と家康軍の合戦で戦死した長谷川紀伊守正長の3人の遺児が浜松に残された。

家康は、その遺児たちを家臣として取り立てる。
藤九郎の相続名を継いだ長男・正吉(まさよし)が、本家・小膳正直の祖。
次男・宣次(のぶつぐ)の末が、宣雄
三男・正吉(まさよし)は、将軍・家光の寵をえて4000余石を給され、屋敷も御納戸町に3000余坪を賜った。
その末が久三郎正脩である。

B_3
(長谷川一門の系図)

正脩は七代目当主なので、本家の正直、第一支家の宣雄とは従兄弟同士。
養子にきて、前年---宝暦7年暮れに41歳で家督したばかりで、寄合に入れられているが、出仕はしていない。

〔御納戸町〕ご隠居なら、田中城の史実にも詳しく、隣家とも親しかろうよ」

〔御納戸町のご隠居〕とは、西丸・持弓頭を最後に50歳で致仕した讃岐守正誠(まさざね)がことである。
眺山と号して、漢詩づくりと鉢植えの世話に精をつくしている。

宣雄は、その讃岐守正誠の口ききで、こうして備中守守緜を訪ねている。
50歳の守やすは奥の小姓をしているので、宣雄の非番の日が重なるのに手間どった。

田中城の攻防の史実を、こんなふうに話してくれた。

元亀元年(1570)、信玄は、長谷川紀伊守正長から奪った一色城(のち信玄により田中城と改称)に馬場美濃守信房(のぶふさ)に命じ、三日月堀などを増築させた。
長谷川どのの抵抗もはげしく、城の諸施設はかなり荒れていましたそうな」
備中守守緜は、宣雄を立てるように、付け加えた。

城のその後の守将は、山県右三郎兵衛昌景(まさかげ)、板垣左京亮信安(のぶやす)、そして地元出身の朝比奈又三郎真直(さねなお)が光明城(現・浜松市の天竜地区山東光明山)から移ったときに、家康が攻めたが陥ちなかった。
天正8年(1580)、家康は三度目の城攻めをかけたが、このときも陥ちなかった。

「天正10年(1582)2月、大権現さまが甲州へ侵攻なされたとき、堀が埋められたのちに、酒井佐衛門尉忠次(ただつぐ)どの、本多平八郎忠勝(ただかつ)どの、榊原小平太康政(やすまさ)どのら1万余に攻めたてられ申した。
武田方の守将は依田(よだ)右衛門佐信蕃(のぶしげ)どのとわが三枝の兵でありました」

徳川方の記録は、信蕃が降伏を乞い、大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に城を開けわたしたとなってい、勝頼の死うんぬんは省かれている。

聞き終わって礼を述べ、あいさつをしておくために、隣の〔御納戸町〕長谷川家へ立ち寄りがてら、
(戦記というものは、自分方に都合のよいように書かれるとの、母御の教えのとおりじゃ)
とひとりごちていた。

いや、戦記にかぎるまい。史料の多くは、そういうものなのだ。

【つぶやき】4000余石の長谷川正脩の嫡子・正満(まさみつ)には男の子がなかつたので、鬼平こと平蔵宣以(のぶため)の次男・正以が養子に入った。鬼平のすご腕ともいえる。

また、上記とは無関係だが、『鬼平犯科帳』文庫巻1[座頭と猿]に登場する凶悪な〔五十海(いかるみ)〕の権平と巻8[狐火]に出ている〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七は田中城のある藤枝市の地名、巻4[五年目の客]に登場する盗賊---〔羽佐間(はざま)〕の文蔵は隣の岡部町の地名。

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