田中城しのぶ草(12)
明朝が駿州・田中城下への旅立ち---もう何回もすましているはずの携行品の調べを、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)は、もう一度やっている。
矢立(筆記具セット)、扇子、糸針、懐中鏡、日禄手控え、櫛と鬢(びん)付け油、髪結い紐、房楊枝、手ぬぐい
ぶら提灯、ろうそく、火打ち道具、懐中付け木、麻綱
かぎ形金具(麻綱にひっかける鉄製フック)
肌着類、脚絆、足袋---
(右図は八隅蘆菴著『旅行用心集』八坂書房 1972.2.20より)
父・宣雄から呼ばれた。非番なので登城していなかった。
「言わずにおこうか、と何度もためらったが、そのほうも、もう14歳ゆえ、話しておくべきだと決めた。
駿河大納言さまのことだ」
「はい」
めずらしく宣雄の眉間に、2本の浅い皺ができている。
子どものころ、母者から聞いたこと---と、2007年5月25日[平蔵と権太郎の分際(ぶんざい)]の話を再現した。
「つまり、竹千代さまがのちの大猷院(だいゆういん 家光)さまで、2歳下の国千代さまが駿河大納言さま、すなわち忠長(ただなが)さまである」
「元和4年(1618)に14歳で元服なされた忠長さまは、従四位下左近衛権(さこんえごんの)少将に任じられて甲斐一国を賜りになった。
大権現(家康)さまは、その2年前にお亡くなりであった。
6年(1620)、16歳で参議、その3年後(1623)には従三位(じゅさんみ)権中納言にのぼり、寛永元年(1624)荷は駿河・遠江(とおとうみ)の2国をくわえられて、20歳で55万石の太守となられた」
「これは、ご生母・浅井氏於江与(おえよ)の方の溺愛(できあい)の結果であったろう---が、
最大の庇護者であったそのご生母さまは、寛永3年(1626)9月15日に逝かれたこのことは、忠長公の不運の始まりでもあったろう。
ま、いまはそのことは置くとして、田中城は、忠長卿の領地にあった数年間があるのだ。
もちろん、城代が置かれたはず。
そなたが、慶長・元和・寛永---大権現さま、台徳院(秀忠 ひでただ)さま、大猷院さま3代におよぶ田中城の城代の聞き書きをはじめれば、かならず、忠長さまの驕慢だった人柄のことも耳にしよう。
このときの銕三郎の受けこたえによっては、本多伯耆守さまへ類がおよばないともかぎらない」
「はい」
「それゆえ、忠長さまのことはすべて聞き流せ。返事をしてもならぬ。ましてや問い返してもならぬ。どこの国の話かといった、そしらぬ表情をつくれ」
「かしこまりました。馬耳東風でいきます」
「ついには、忠長さまは、28歳でついに自裁に追い込まれた。徳川の公達(きんだち)で、信長公の高圧的ないいがかりによる岡崎三郎信康(のぶやす)公の切腹を別にすると、偏愛によって育った驕慢が屈折した奇行があったとはいえ、悲痛な結末で人生を中断なされたのは忠長公だけである。
忠直(ただなお)卿といえども、天寿をまっとうなされている。
そのために、忠長公に対するご公儀のなされようの見方には、両論がある。
銕三郎の年齢では、いずれに与(く)みしてもならぬ」
忠長が自裁したのは、高崎城のつくられた幽閉部屋においで、駿河・遠江はすでに収公されていたが、侍していた者の多くが追放された。それにまつわる不幸な噂もきっと出る、と宣雄は予想したのである。
「それからな、いつか話すとそのほうに約束した城代---北条出羽守氏重(うじしげ)侯のこと[田中城しのぶ草(3)] 、田中から帰ったら話してきかせよう」
「いまから、期待をふくらませております」
「今宵は早くやすむがよい。明日は六ッ(日の出どき)発ちであろう」
夕餉を終えて、宣雄の夜なべ仕事がはじまった。例の、田中城主だった人たちの子孫の名簿改めである。
今宵は、先刻、名前のでた北条出羽守氏重。
松平大膳亮忠告(ただつぐ)侯 18歳 4万石
水野織部中忠任(ただとう)侯 26歳 唐津6万石
北条出羽守氏重(うじしげ)侯 断家 3万石
西尾隠岐守忠尚(ただなを)侯 71歳 横須賀3万5千石
酒井河内守忠佳(ただよし)侯 74歳 5000石
土屋能登守篤直(あつなお)侯 33歳 土浦4万5千石
太田摂津守資次(すけつぐ)侯 45歳 大坂城代3万2千石
内藤紀伊守信興(のぶおき)侯 40歳 棚倉5万石
土岐美濃守定経(さだつね)侯 22歳 沼田3万5千石
(北条支流)
【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (13) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)
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