平蔵宣雄のコスト意識
長谷川平蔵宣雄(のぶお)が番方(武官系)の役付階段の第一歩である小十人組頭に栄進したのは、宝暦8年(1758)9月15日で、先任の同役たち全員を東両国・駒留橋ぎわの高級料亭[青柳〕に招いたのは、その年の10月であった。2007年5月29日[宣雄、小十人組頭を招待] 。
それから、最初の組頭の交替は、1番組の曲渕勝次郎景漸(かげつぐ)が翌9年1月15日に西丸・目付に転じ、その後任に羽太(はぶと)求馬正尭(まさかみ)が2月4日の発令された。そのことは2007年6月10日[羽太求馬正尭]に記した。
役人の最大の関心事は、つねに、人事である。
新任の羽太正尭が、お教えをいただきたい儀がこれあり、と、鉄砲洲築地の長谷川邸へ訪ねてきた。
「昨年、長谷川どのがお催しになった新任ごあいさつの宴会がたいへんに好評で、月番・堀 甚五兵衛信明(のぶあき)どのが、長谷川どのにお教えを乞うては---と勧められましてな」
「お歴々には、口がおごっておられますのに、〔青柳〕の膳がお気に召したのはなにより」
「いや、お歴々が口をそろえてお褒めになったのは、お持ち帰りのものとか---」
家禄も年齢も上の羽太正尭にいわれて、宣雄は、「やはり---」と合点がいった。
宴席を頼むにあたり前もって、宣雄は自身で〔青柳〕安兵衛方へ出向き、予算を告げて出せる料理の品書きをあげてもらった。
その中から、「年配者が多いから、さほどの量には箸をつけまいから、夜寒の季節ゆえ」席へは、燗酒とともに温かい鉢もの、汁もの、刺身類を出し、食べ残しの形で折りで持ち帰る、日持ちのする料理のほうにむしろ念をいれてほしいと頼んだのだ。
包む風呂敷に、長谷川家の家紋・左巴藤を染め抜こうかと聞かれ、無地の藤色でよい、家紋を染め抜くと、他家はあとで使いがたい---といった。幕臣らしからぬ気づかいに、 〔青柳〕の女将がいたく共鳴してくれ、宴席で、持ち帰りの料理を皿のまま長老・佐野大学為成(ためなり)の前へ自らが運び、
「およろしければ、奥方さまへ、お包みいたしましてもよろしゅうございますが---」
と念を入れてくれた。
その一言で、全員が、われもわれも---と、宣雄のねらいどおりとなった。
「長谷川どのの宴会がよかった」
との声は、組頭の奥方たちのものである。
そのことを羽太求馬へ話し、
「同じ金子を費やすにも、成果をいくらかでも高くねらうのが、金づかいの妙法と考えまして---」
と笑いにごまかした。
「あ、家紋の染め抜きの風呂敷を考えており申したが、さっそくに取り消して無地にいたそう」
こういった羽太に、宣雄が聞いた。
「羽太どののご家紋は?」
「井桁の内花沢潟(はなさわがた)でござる」
「ほう、珍しいご家紋。それは、ご出自とお伺いしている三河国額田郡(ぬかたこおり)大門のものでござりますか?」
「いや、あのあたりには、当家の分流しか羽太を名のっている家はござりませぬ。陸奥国白河の近辺に羽太という村がござる。はっきりとは分かりかねますが、藤原氏の流れが関東からあちらへ土着、さらに一派が三河へ流れて羽太を称したのでは、と」
羽太求馬正尭は、役人らしくない平蔵宣雄のコスト意識に感心して、清水門通りの屋敷へ帰っていった。
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コメント
沢潟(おもだか)紋は「勝ち草』といって武将に好まれ立沢潟、花沢潟,達磨沢潟、抱沢潟・・・・・種類が多いですが、福島正則の立沢潟はよく資料にでてきます。
井桁に花沢潟は珍しいですね。
余談ですが我が家の紋は抱沢潟なんです。
投稿: みやこのお豊 | 2007.06.11 19:11
井桁の内花沢潟(はなさわがた)は、ふつうの家紋の本では見つけるのがむつかしいかも。
手元の『江戸幕府旗本人名事典 全5巻』(原書房 1986.6.30)の羽太清左衛門正忠(求馬正尭の嫡男)のところにありました。
投稿: ちゅうすけ | 2007.06.15 16:18