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2007.06.12

神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)

長谷川どの。一献さしあげたいのだが---」
下城すべく、中の口から中省門へ向かっていた平蔵宣雄に、同役で七番組頭・神尾(かんお)五郎三郎春由(はるより)に呼びかけられた。

神尾春由のことは、2007年5月29日[宣雄、小十人組頭を招待]で、屋敷が神田門外にあると紹介した。あの時、39歳だったから、宝暦9年の5月は40歳。みっしりと肉がついているが、背丈が6尺(約180cm)近いので、さほどには感じられない。
亡父・若狭守春央(はるひで)は、有徳院殿吉宗)に引き立てられ、勘定吟味役から勘定奉行にすすみ、貨幣の改鋳に腕をうるった仁。6年前に67歳で卒している。

1500石の家禄にしては狭い700坪ほどの屋敷の書院で神尾春由は、宣雄の盃に酒を注ぎながら、
長谷川どの邑地は、下総(しもうさ)の武射郡(むしゃこおり)寺崎でござったな」
それこそ、1500石の大身旗本とはおもえない、ざっくばらんな口調である。
「はい。寺崎に220石、おなじ山辺郡(やのまのべこおり)の片貝に180石、いただいております」
「そのようにおふざけを申される。寺崎の実質は300石を越えておりましょう?」
「湿地を干拓して新田に変えたのを加えれば、そうなりますが、知行している者が拓(ひら)いた新田は勝手次第と---」
「その勝手次第でござる。当家も、父・若狭守春央(はるひで)が、武射、山辺、長柄(ながら)の下総3郡に1000石余の知行地を賜ってござる。ついては、武射の地をいささかなりと拓きたいと存じてな---」

手をうって用人を呼びいれ、紹介した。
「川辺安兵衛と申します。お見取りおきを---」
「川辺に、開拓のコツなどをご教授いただければ重畳」

たしかに、寺崎新田は、宣雄が指揮して湿地を拓いた。厄介の厄介だった身分の時だから、24歳から27歳の3年間を要した。そのほとんどを、寺崎の名主・戸村五左衛門の離れに滞在し、指揮・監督した。
戸村の娘・お(たえ 仮名)が下女たちを使いながら食事や洗たくの世話をしているうちに、銕三郎を身ごもった。

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(明治20年ごろの下総国武射郡の1部。青○=寺崎、
赤○=上は下吹入郷 下は八田。水色=沼、右端下=海)

「邑地は、武射郡のどちらで?」
下吹入郷八田でございますが、下吹入は山あいで、開墾の余地がございませぬ」
安兵衛が答えた。
「さよう。下吹入の郷名は聞いたことがあっても、実地を知りませぬ。八田寺崎に近いので現地の沼に釣りに行きました。あそこなら、100石ほどは干拓できましょう」

川辺安兵衛は45歳を過ぎていた。その年齢で干拓の初めての指揮はむずかしいと思ったが、宣雄はあえて言わなかった。神尾春由が費用の話題を出さなかった。だから、ことが現実味をおびてきてからいえばすむ。

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神尾が名を出した亡父・若狭守春央は、下嶋彦五郎為政(ためまさ 500石)の次男で、神尾家に養子に入った。春由下嶋家からの養子である。春央とは叔父・甥の間柄。
春央が出来者で、稟米400俵だった神尾家を1500石にまで大きくしたために、神尾一門でも発言権が強まった。
春央の妻女に子ができなかったので、実家の兄・政友の四男・17歳の五郎三郎春由の幼名)を養子にし、吉宗に初見参させた。
春央歿したのは67歳、春由34歳の宝暦3年(1753)のことである。

つい、神尾家に立ち入ったのは、徳川幕臣の養子縁組にも、いろいろの形があることを書きたかったためである。

ついでに書くと、春由は6人兄弟で、5人ともすべてうまく養子にはまっている。

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