石谷備後守清昌(3)
なぜ、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)にこだわるかというと、観点は二つある。
その1. これまでも書いてきたように、田沼主殿頭意次(おきつぐ)は、幕府財政再建の実務面を石谷清昌にまかせることにより、実効をあげた。
その田沼は、長谷川平蔵宣雄(のぶお)の人柄と実力を買っていた。
その2. 宣雄の人柄---と書いたが、その実直、勤勉、理想主義に傾かずに実態をしっかり把握して対策を練っていくところは、小清昌ともいえるほどであるから。
田沼は、そこを実務家・長谷川平蔵として買ったのだとおもう。
つけ加えると、宣雄が出入りしている田中藩の前藩主・本多伯耆守正珍(ただよし)の、飛騨国・郡上八幡の一揆事件による老中罷免にも、間接的には石谷清昌がからんでくる。というのは、農民からの年貢の取り方に対する考え方の違いという点で。
さて、田沼は、宝暦9年(1759)10月4日付で、45歳の石谷清昌を勘定奉行に引きあげ、幕府財政の再建に流通税をくわえる案の実行をまかせた。(石谷家紋の石持九曜)
もちろん、同役はいた。
一色周防守政沅(まさひろ) 63歳 600石
稲生下野守正英(まさふさ) 45歳 2000石
小幡山城守景利(かげとし) 51歳 1500石
うち、下の2人は公事(くじ)方だから財政面には関係ない。
学友 I氏の文章を引用する。
石谷清昌は宝暦9年(1759)に45歳で勘定奉行に就任した。
この当時、幕府の金蔵の貯金額は最悪だった(吉宗よる)享保改革直前の状態から一応回復し、(享保7年 1722 に28万両余だったのが、宝暦3年 1753 には252万両 )と、ゆとりのある状態にはなっていたようだ。
しかし、米価は下がり続け、(米で給与を受ける)武士階級全体の生活に打撃を与え、地方諸藩の財政も深刻な赤字に見舞われていた。
こうした状況を克服ーするための、流通経済の幕府による統制と、流通過程からの徴税と資金の引き出しの政策が、田沼=石谷グループの中心政策の一部として打ち出された。
宝暦11年(1761) 大名財政救済を名目とする大坂商人への御
用金170万両余(翌年撤回)
12年(1762) 大坂金蔵銀為替廃止
(江戸へ幕府の銀収入を集中し、大坂で必要
な公金を江戸から為替で送ることにより、
上方の銀通用量を減らす)
明和 4年(1767) 上記江戸為替廃止(大坂経済の低落をもたら
す現実無視の政策)
これらに石谷の直接の関与があったかどうかはわからないが、試行錯誤の例として見ることができる。
石谷の主導のもとに行われた流通業の再編成と統制は、幕府の収入確保のためばかりでなく、生活必需物資の安定供給と物価の高騰防止の意味があった。
明和 7年(1770) 菜種絞油仲間
安永 元年(1772) 大坂三所綿問屋
2年(1773) 菱垣回船問屋
そのほか大坂だけで80業種に達する株仲間の結成と冥加金・運上の徴収。
ところで、米価下落による武士階級の家計の逼迫に、長谷川家はどう対応したかだが、もちろん人並みに倹約はしていたろうが、宣雄が厄介時代に知行地の上総国武射郡・寺崎の知行地220石を、干拓・開墾によって実質330石に増やしていたことは、以前に記した。
そのためにほかの幕臣たちよりも余裕があり、かつ、余剰金で、明和元年(1764)10月に、築地・鉄砲洲の479坪から、南本所三ッ目通りに1238坪の屋敷を購うことができている。
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