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2007年7月の記事

2007.07.31

石谷備後守清昌(3)

なぜ、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)にこだわるかというと、観点は二つある。

その1. これまでも書いてきたように、田沼主殿頭意次(おきつぐ)は、幕府財政再建の実務面を石谷清昌にまかせることにより、実効をあげた。
その田沼は、長谷川平蔵宣雄(のぶお)の人柄と実力を買っていた。

その2. 宣雄の人柄---と書いたが、その実直、勤勉、理想主義に傾かずに実態をしっかり把握して対策を練っていくところは、小清昌ともいえるほどであるから。
田沼は、そこを実務家・長谷川平蔵として買ったのだとおもう。

つけ加えると、宣雄が出入りしている田中藩の前藩主・本多伯耆守正珍(ただよし)の、飛騨国・郡上八幡の一揆事件による老中罷免にも、間接的には石谷清昌がからんでくる。というのは、農民からの年貢の取り方に対する考え方の違いという点で。

Photoさて、田沼は、宝暦9年(1759)10月4日付で、45歳の石谷清昌を勘定奉行に引きあげ、幕府財政の再建に流通税をくわえる案の実行をまかせた。(石谷家紋の石持九曜)

もちろん、同役はいた。
一色周防守政沅(まさひろ) 63歳 600石
稲生下野守正英(まさふさ) 45歳 2000石
小幡山城守景利(かげとし) 51歳 1500石
うち、下の2人は公事(くじ)方だから財政面には関係ない。

学友 氏の文章を引用する。

石谷清昌は宝暦9年(1759)に45歳で勘定奉行に就任した。
この当時、幕府の金蔵の貯金額は最悪だった(吉宗よる)享保改革直前の状態から一応回復し、(享保7年 1722 に28万両余だったのが、宝暦3年 1753 には252万両 )と、ゆとりのある状態にはなっていたようだ。

しかし、米価は下がり続け、(米で給与を受ける)武士階級全体の生活に打撃を与え、地方諸藩の財政も深刻な赤字に見舞われていた。
こうした状況を克服ーするための、流通経済の幕府による統制と、流通過程からの徴税と資金の引き出しの政策が、田沼=石谷グループの中心政策の一部として打ち出された。
  宝暦11年(1761) 大名財政救済を名目とする大坂商人への御
               用金170万両余(翌年撤回)
     12年(1762) 大坂金蔵銀為替廃止
              (江戸へ幕府の銀収入を集中し、大坂で必要
               な公金を江戸から為替で送ることにより、
               上方の銀通用量を減らす)
  明和 4年(1767) 上記江戸為替廃止(大坂経済の低落をもたら
               す現実無視の政策)
これらに石谷の直接の関与があったかどうかはわからないが、試行錯誤の例として見ることができる。
石谷の主導のもとに行われた流通業の再編成と統制は、幕府の収入確保のためばかりでなく、生活必需物資の安定供給と物価の高騰防止の意味があった。
  明和 7年(1770) 菜種絞油仲間
  安永 元年(1772) 大坂三所綿問屋
      2年(1773) 菱垣回船問屋
  そのほか大坂だけで80業種に達する株仲間の結成と冥加金・運上の徴収。

ところで、米価下落による武士階級の家計の逼迫に、長谷川家はどう対応したかだが、もちろん人並みに倹約はしていたろうが、宣雄が厄介時代に知行地の上総国武射郡・寺崎の知行地220石を、干拓・開墾によって実質330石に増やしていたことは、以前に記した。
そのためにほかの幕臣たちよりも余裕があり、かつ、余剰金で、明和元年(1764)10月に、築地・鉄砲洲の479坪から、南本所三ッ目通りに1238坪の屋敷を購うことができている。

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2007.07.30

石谷備後守清昌(2)

学友の一人---氏は、大学を定年後、住まいのある愛知県の『年金者大学』で、受け持っている江戸史の講座の講義録を送ってくれた。
石谷備前守清昌(きよまさ)の発見は、氏の講義録によるところが大きい。

ついては、氏の了解のもとに、講義録の一部を引用させていただく。

_100氏は、田沼の積極的経済政策として、大石慎三郎さんの『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)からとして、つぎ4点をあげる。
1.年貢増徴でなく流通課税による財政再建
2.通貨の一元化
3.蝦夷地の調査と開発
4.印旛沼の干拓

このうち、1.は、ほとんど石谷清昌の企画・立案、施行によると、氏はいう。

田沼の経済政策の実質的な担当者は誰だったか。
彼(田沼)が老中に昇進してからは、松本秀持と赤井忠晶を勘定奉行にして、印旛沼干拓とか蝦夷地(北海道)開発などの派手なプロジェクトを推進させようとしたから、この2人が腹心の部下だったことはまちがいないが、これは田沼政権の末期に近く、上記の1.と2.の政策を進めた時期には、まだ下役の一人にすぎなかったし、財政負担の多いプロジェクトで、失敗や挫折をくり返して田沼政治を沈没させてしまう結果になったのだから、彼らを過大評価することばできない。
大石氏をはじめ、近世史家の多くが、そうした間違った評価をしているのは解せないことである。
この頃の幕府政治の実務を担当する官僚たちは、勘定方を中心に、頭も切れ、実行力にも富んだ優秀な人物が少なくなかった。
田沼自身は、小姓から御側御用取次・側用人・老中と、いわゆる側近のコースを歩んで昇進してきたから、勘定方の経験はなく、個々の具体的な政策面で案を立てたり、細かい処置を考えたりするためのに、実務知識や手腕を持っていたわけではない。
彼の役割は、総合的な方向をきめ、とりわけそれに必要な人事を行うという、総括者としてのものであったから、上記のような革新的な政策を企画し、調査と実行に当るための、優秀なスタッフがいなければ、とても実現できなかったはずである。
むしろも田沼自身の直接の提案や指示に出たと思われる政策では、思いつきの危うさと計画の粗さが目立つケースがおおい。

役割分担に関しての氏の指摘は全面的に的を射ているとおもう。
田沼の器量の大きさは、人材の登用と、将軍・大奥をはじめとする関係箇所への根まわしも周到に行ったことからも推察できる。
また、石谷清昌は紀州閥の一人とはいえ、吉宗没後に、彼を引き立てて経済諸政策を実行させた田沼の功績は、いささかもゆらぐものではない。遠い閨縁という関係ももちろんあることはあったが。
ことに、人事については、老中首座・松平左近将監武元(たけちか)の生存中は、田沼の独断は許されなかったろう。仮に独断を通したとしても、引き立てられた仁は、赴任先で陰湿にいじめぬかれて挫折しよう。
それを避けるための手くばりが、年を経た幕府官僚社会ではとりわけ必要だったのではなかろうか。
史家は、そういう些事ともおもえる陰湿な部分は、概して素通りしがちである。まあ、人間感情にこだわると小説にするしかないが。

石谷清昌は、勤勉・精勤、しかも、担当者の話をよくきき、問題の本質を見抜き、意見をよくとりあげたと、氏はいう。
ということは、田沼が、清昌の使い方を十分に心得、先、さきと手をまわしていたことをも暗示しているようである。

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2007.07.29

石谷備後守清昌

平賀源内(げんない)が、田沼主殿頭意次(おきつぐ)になにやら相談ごとがありげだったので、本多采女紀品(のりただ)、長谷川平蔵宣雄(のぶお)、佐野与八郎政親(まさちか)の初席組は、はやばやと退出した。

本多紀品の屋敷は表六番町、佐野政親は永田町馬場なので、築地・鉄砲洲の宣雄とは、まるで方角が違う。
そのことを承知しているが、田沼邸の角で、宣雄にいった。
「先刻の石谷どのだが、稀にみる能吏と、田中(藩)のご隠居から聞いていた。精錬所を一つにまとめたのも、諸掛りが半減するからと田沼侯はいわれたが、ありようは、〔かなこ(坑夫監督)〕と〔買石(精錬請負業者)〕とのつるみを断ち切るのがねらいと、これもご隠居からの話でござる。老中方は、たいそうなご評価のよう---」
「はて。本多どのは、はやくも目付のご気分---」
宣雄が顔を寄せて、冷やかすように小声でいったのは、どこに耳があるかしれないからでもあった。
それをしおに、本多佐野は三十間堀に架かる新シ橋のほうへ歩み、別れた宣雄は、大名屋敷の塀がつづく暗い道を築地川へ向かった。

ここで、宣雄に代わり、石谷備後守清昌について若干解説しておく。
石谷家が紀州藩の出であることは、先刻の田沼意次の『わが家とちがい、初代さま(頼宣)につけられて紀州へ下られたお家柄』との言ですでにお分かりのはず。

吉宗との関連でいうと、20歳の享保18年(1733)--というから、吉宗が将軍在位18年目から7年間、小納戸をつとめた。小納戸とは、将軍の側近くで私用を果たす役である。
そのときの気くばりと器用と勤勉ぶりが気にいられたかして、27歳の元文5年(1740)から37歳の宝暦元年(1751)まで、小姓(側衆)として、吉宗の後半期の政策実施---とりわけ、財政の改革をじっくりと勉強する。
つまり、延享2年(1745)9月、吉宗が将軍職を嫡子・家重に譲り、大御所として西丸へ移るとともに、清昌も西丸の小姓として勤務したわけである。
宝暦元年6月20日、吉宗の病死によって、勤務を解かれるが、翌2年には西丸の小十人頭となり、目付を経て、宝暦6年(1756 42歳)には佐渡奉行に栄進。
この人事には、田沼意次の後ろ盾が大きく働いていたという。
清昌の妻は意次の同母妹の義姉にあたる。また、嫡子・清定(きよただ)の妻は意次の姪で、その直ぐの姉は田沼の養女という姻戚関係である。
ついでに記すと、佐渡奉行の役料1000俵。

ここで、前任者たちが重い年貢を課して、農民が疲弊つくしていることを老中へ訴えるともに、吉宗時代に神尾(かんお)若狭守春央 (はるひで)が行った年貢増徴に疑問を投げかけ、のちに、物流への課税を意次に進言している。
春央の嫡子・五郎三郎春由(はるより)が、宣雄の小十人頭就任お披露目の宴会のあと、誘いをかけてきた、かの仁である。

勘定奉行、長崎奉行以降については、『寛政譜』をご覧いただきたい。

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2007.07.28

田沼邸(4)

源内(げんない)どの。よい機会だから、お引き合わせしておこう。こちらは、佐渡奉行の石谷(いしがや)備後守どのじゃ。佐渡の薬草探しを見てあげてくれ---と申したいところなれど、石谷どののご在任はそう長くはない。石谷どののご出府中に、相番の荒川助九郎匡富(まさよし 1000石)どのに顔つなぎをお願いしておくがよろしかろう。佐渡は〔くまのい〕などがよく育とうよ。なにしろ、対岸は朝鮮じゃによって---」
田沼意次(おきつぐ)は冗談めかしたが、平賀源内はそうはとらなかった。
「〔くまのい〕は、新しい土でないと、うまくないですからな」

佐野与八郎石谷清昌(きよまさ)にそっと訊いた。
「佐渡にも、熊がおりますか?」
それを耳ざとい源内が聞きつけ、
「くまのい〕と申しても、山に住む熊のことではありませぬ。人参でござる。朝鮮人参からつくった丸薬」
「迂闊(うかつ)でした」
主殿頭(とのものかみ 意次)どのが仰せられたのは、佐渡は気候が朝鮮のそれとよく似ていようから、朝鮮人参の栽培にも適していよう---と」
長崎における清国からの大きな輸入ものの一つに朝鮮人参などの医薬用の薬草があった。それを、国中で探して、いささかなりとも金銀の支払いを少なくするというのが、有徳院(吉宗)の時代からの公儀の方針でもあった。
その薬草探しに長(た)けているのが、平賀源内の特技の一つだった。

吉宗が命じた輸入減らしの品目には薬草のほかに、絹呉服、鹿皮、木綿などもあった。養蚕の振興と木綿の栽培はけっこう根づき、ひろまっていた。砂糖黍(きび)も試植された。

源内どの。石谷どのは、いずれ、長崎奉行にもと嘱目されているご仁。よくよくおん覚えをよくしておくようにな」
「それは重畳(ちょうじょう)。石谷どの。よしなにお願いつかまつりましょう」
「かしこまりました」
朴訥な石谷備後守は、素直にうけとっている。が、じつは、その後、石谷は長崎奉行となり、現地で源内の世話をみることになろうとは、この時はだれも予想していなかった。

「それから、源内どの。こちらの本多紀品(のりただ)どのは、まもなく目付におなりになる方じゃ。おことのような、無頼非常の徒は、一番にお世話になりかねないゆえ、いまから親しくなさっておかれい」
意次は、源内をつぎつぎとたくみに引き合わせていく。
これでは、いちど交誼を得た者は、みごとに田沼派にくみこまれる。
(よき人ばかりなら申すことはないが---)
宣雄は、事前に慎重に人選びをしている意次を思った。

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2007.07.27

田沼邸(3)

佐渡奉行の石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)が田沼意次にいった。
「侯へは手紙で申しあげておりますが、佐渡・相川金銀山の採掘の割合は、銀20に対して金1でございます。この点から申して、山の呼称は、銀金山としたほうが理にかなっていると、山奉行とも笑って話しあっておりますが、ありようは、銀の値打ちにもっと目をむけてほしいからでございます」

「ほれ、いつもの石谷どのの持論がでましたな」
と受け流す意次に、田夫士然としている石谷がわざと憮然とした表情をつくり、
田沼侯には幾度上申しても、時期尚早---とばかりで。銀をいまのように低く見ておりますと、そのうち、この国中から銀が逃げてしまいます。銀も立派な通貨でございますれば---」
意次が引き取って、
「金と銀との両替えの按配を、金1両につき銀20匁(もんめ)に引き上げよ---というのが石谷どのの献策なのじゃ。相川金銀山の採掘の実績からきているのではなく、異国での値打ちなどから導き出された献策での。したが、拙は、勝手掛(かってがかり)はおろか、いまだ老職ではないのでの」
「金1両に対して銀50~60匁という、いまの両替え率は、この国に銀がどっさり産出していた300年も昔にきまったことでございます。ひとつことが300年も変わらないというのは、あまりにも浮世ばれしております」

そこへ、召使いの女性が廊下で、取り次いだ。
源内さまが、来駕なされましたが---」
「おお。天竺浪人め、何用でまいったか---」
意次がわらっているうちに、勝手に入ってきたのは、顔も目も髷(まげ)も細づくりの、武士とも儒者ともつかぬ、30歳なかばの男であった。

_120「平賀源内どのと申されての。元讃岐・高松藩の本草学者であったが、いまは自由気ままな、うらやましいようなご身分の仁じゃ。いずれからの帰りかの」
源内は、けろりとした顔で、一同に軽く会釈し、
「越後の佐竹侯のところで、金山の指導をしておりました」
「ほう。で、いかがかな」
田沼侯がいかがと仰せられるは、幕府の天領にならないかとの意味でしょうな。これはむつかしい」
「人聞きの悪いことをぬけぬけと申す。お上は、そこまで、逼迫してはおらぬは。いかがと申したのは、陸奥の各藩の飢饉のあとの回復加減じゃ」
「天竺浪人は幕府隠密を勤めるほど、落ちぶれてはおりませぬ」
あいかわらず、けろりとしたものである。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、
田沼侯の底の知れないほど大きな器量)
を、またも見せつけられた気がしてきて、ただ、驚くばかりであった。

源内焼
相良の平賀源内墓碑
平賀源内と相良凧
平賀源内と田沼意次(つづき)
平賀源内と田沼意次

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2007.07.26

田沼邸(2)

ひととおりの紹介が終わったところで、石谷(いしがや)備後守清昌(きよまさ)が、
「では---」
と姿勢をあらためると、田沼意次(おきつぐ)がさえぎった。
石谷どの。無礼講でござる。まずは、お気楽に---」
酒も出た。肴もくばられた。

素朴で田夫子のような風貌の石谷清昌が、佐渡の相川金銀山がむつかしくなってきているというと、意次が、
石谷どのが着任されてより、長崎へ送る煎海鼠(いりこ)や鮑(あわび)の量がふえましてな」
と水をむける。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、
(あっ)
と感じ入った。
国中の幕府直轄の金銀山が痩せてきていることは、幕臣であればほとんどの者が知っている。長崎の交易での流出が激しかった。
清(しん)国との交易に、金銀の代わりに俵物とよばれる煎海鼠や鮑が使われていると聞いたことがあったが、産地は松前藩とばかり思っていたが、じつは佐渡だったのか。
見ると、本多采女紀品(のりただ)も佐野与八郎政親(まさちか)も瞳を輝かせて聞き入っている。

「佐渡の金銀山が、島の西北側の朝鮮に対面している相川の裏山にあることはご存じでございましょうか。

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(佐渡島 赤○=奉行所のある相川 緑○=金銀を産する青盤鉱山)

その相川に、新海士町(あままち)を設けて、海士村にいた働き手たちを移住させましたら、監視の手がうんと少なくてすむようになりました。長崎奉行所へなるべく多くの煎海鼠と鮑を届けるために、佐渡島内での売買を禁じましたので、その監視がたいそうな手間だったのです」
石谷どののお手柄は、それだけではありませぬぞ。鉱山の精錬所を一つところへまとめて、諸掛かりを半減された。役人にはきわめて稀な、掛かり経費というものがお分かりになっているご仁なのじゃ」
意次の目は、見るべきところをきちんと見ている。

宣雄が問うた。
「佐渡奉行所の人手は、いかほどでございますか」
「与力30人、同心70人です。これで、相川、小木、赤沼、夷(えびす)の4ヶ所の代官所をまかなっております」
佐野与八郎も訊く。
「金銀、煎海鼠と鮑のほかに採れますものは?」
「冬の豪雪を除くと、米が3万石をきるほど。山ばかりの島で、田畑になる土地がすくないのです。それで、松前藩との交易もすすめております。こちらからは、竹細工もの、藁細工もの、籐細工もの、味噌、醤油、串柿などを細々と。越後の米も買いこんで送っております」
石谷どのは、みごとな経綸家での。それでこたび、勘定奉行をお願いしようと、な。そうそう。石谷どのは、大きな夢をお持ちなのじゃ。ご披露くださらぬか」
またも意次のすすめ上手。
石谷清昌も、あまり変化のでない顔に、まんざらでもなげな微笑をうかべ、
田沼侯の、せっかくのおすすめなので。じつは、年来、国内の通貨の一元化を考えております。上方から西の銀単位、名古屋からこちらの金量目、これを一つにする方策でございます」

川井次郎兵衛久敬(ひさたか)が、膝をのりだした。
石谷さまのご計画、拙も大賛成で、あれこれ、案を練っておりますが、大坂商人たちの反発もありましょう、一筋縄ではなりがたく---」
意次が大きくうなづいた。
どうやら、通貨の東西一元化は、今宵始めて出た議題ではないらしい。

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2007.07.25

田沼邸

石谷(いしがや)備後守どの(清昌 きよまさ)が佐渡から公用でお戻りになっての。くさぐさのお話をみなみなで拝聴しようと---」
田沼主殿頭意次(おきつぐ)の木挽町の屋敷である。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)のほかに、本多采女紀品(のりただ)、佐野与八郎政親(まさちか)の3人、ほかには、横田和泉守松房(としふさ 1000石)、川井次郎兵衛久敬(ひさたか 530石)が招かれている。

_100備後守どのは、わが田沼家とおなじく紀州からの出頭じゃが、わが家とちがい、初代さま(頼宣)につけられて紀州へ下られたお家柄での」
「なにを仰せられますか、主殿頭さま」
いまは、1万石、評定所出座の意次である。
「いや。失礼つかまつった。備後守どのの公用というは、勘定奉行をお引き受けくださるかとの下相談のためだが、このこと、10ヶ日もしないでご内示がでようほどに、人事につき、おのおの、ご内密にな」
石谷家は500石(のち800石)。清昌はこの年、45歳。佐渡奉行として赴任したのが3年前。屋敷は小川町(おがわまち)。

「こちらは、川井久敬どの。いまは小普請組の与(くみ)頭をしておいでだが、なかなか。遠江の川井村の出でござったな。つまりは今川どのの旧家臣であり、早くからの大権現さま(家康)のご直参でもある。そうじゃった、長谷川どののご先祖も今川どのから徳川へお移りになったのでしたな。姉川、三方ヶ原でともに相手方とお戦いになったわけじゃ」
川井です。お初にお目にかかります」
川井家は530石。この年、35歳。屋敷は表六番町。のちに意次に引きたてられて勘定奉行として腕をふるったのは10数年後。
「ああ、長谷川どのとは、今川どののご縁でしたか」
「遠江の小川(こがわ)の出でございます。よろしゅう、お願いいたします」
宣雄が挨拶を交わすのが終わるのを待って、意次が、
本多どのも表六番町でござったのでは---」
「はい。同じ町内なので、本多さまのご門前はよく通っております」
「よく、お見かけしますな」
本多采女がそつなく応じる。

「こちらは、横田和泉守どの。西の丸のお小姓組におられるから、佐野与八郎どのとは、もう、お顔なじみでござろう」
「組は異なっておりますが、年齢も近く、年少組など称してお近づきさせていただいており、なにかと---」
佐野与八郎が答えた。年齢は近いとはいえ、横田家は5000石。佐野家は1100石。
「いや、教えられているのは当方でして---」
横田準松が受けたところで、
「そうそう---」
思い出したとでもいった風情で意次が、
横田どのも屋敷は築地でござったな」
これを引き取って、宣雄が、
「はい。横田どのは本願寺の脇に構えておいでですが、陋屋は大川の川辺近くでございます」

それにしても、田沼意次の記憶力と調べには、本多紀品長谷川宣雄も恐れ入った。
いったい、どういう頭の仕組みになっているのか。
この調子でやられたら、たいていの人間は、意次を好きになってしまうだろう。

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2007.07.24

仮(かりそめ)の母・お芙沙(2)

それから5日後の昼すぎ、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)と供の太作は、東海道・三島宿の本陣・樋口伝左衛門方に着いた。
予定よりも2刻(約4時間)も早く投宿したのは、江尻宿をまだ薄暗いうちに出立したからである。
銕三郎は、明日はお芙沙(ふさ)に会えるとおもうと、興奮してほとんど眠れなかった。
夜中をかけても、三島へ走りたかった。

ああしてみよう、こうも愛撫しよう---あの夜、お芙沙 がやってみせてくれた仕儀(わざ)に、自分なりの工夫を加えた架空の性技を、頭の中でくりかえしひねくりまわしてみる。
空想の基(もと)はといえば、誰かが密かに儒塾へ持ちこんで回覧した秘画の男女の姿態からほとんど出ていない。

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(国芳『華古与見』部分 イメージ)

(いや。仮(かりそめ)の母上にまかしきったほうが、お芙沙どのの満足もより深まるのではなかろうか)
(なに、14歳とはいえ、銕三郎は男なのだ。男として、さすがといわれるほどのところを見せてこそ、女性(にょしょう)の尊敬がえられるというもの)
(秘画では、どの女性も着たままで行なっていたが、あれは、無理やりに裾を割られることに一層の刺激を感じているのであろうか。ならば、お芙沙どのにも、こんどは着たままで、いてもらおう)

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(歌麿『若後家の睦』部分 芸術新潮2003年1月号)

いやはや、とめどもなく空転していく。それほど、銕三郎にとっての先夜の初体験は戦慄的な刺激であった。
これからの長い性生活の最初の炎としては、あまりにも燃えあがりすぎた。

旅籠を発ってからも、足が自然と速くなった。
「若さま。もうすこしゆっくりお歩(あゆ)みくださいませんと、太作がついてゆけません」
しばらくはゆるむが、太作の悲鳴は、三島まで何度もつづいた。

伝左衛門が呼ばれた。
「ご亭主どの。今夜もご案内、よろしくお頼み申します」
「それが---」
「母上も、一日早い到着を心得ておいでのはず」
「それが---お役に立てませんのですよ」
「---なんといわれました?」
「あのお女(ひと)は、もう、この土地にはおいでにはならないのです」
「なんと!」
「はい。お亡くなりになったご亭主の百ヶ日が3日前に開けまして、ご縁が結ばれた方のところへ片付かれたのでございます」
「そんなこと信じられない。虚言でしょう?」
「なんで虚言など申しましょう」
「いい。行ってみる」

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銕三郎は、飛ぶようにして、三島神社の裏の路地へ行った。

Photo_2
(本陣〔樋口〕=左下赤○とお芙佐の家右=上赤○
三島市観光協会小冊子より)

思い出の家の戸はしまり、なんど敲いても静まりかえって、人の気配はなかった。

銕三郎の落胆は大きく、大切なものが目の前からばっさりと消えたようだった。
胸の中に大きな空洞ができた。

宿に戻ると、太作がいたわるように、
「若。いい思い出は、大切にしまっておおきになることです」
銕三郎は、太作にむしゃぶりつき、声をあげて泣いた。
その背中を、やさしくなでてやり、
「お泣きなさいませ。うんと泣けば、涙が胸の空洞に満ちて泉になりましょう。男のほんとうのやさしさがその泉から湧きでます」

三島神社の裏の家でも、お芙沙が涙を流しながら、耐えていた。
初物の、青く硬い果実を、こちらの躰で、夜ごとに熟(う)らしていく味わいを 経験したかった。
高齢の亡夫からはえられなかった、若い男だけが発する獣のような匂い---。
銕三郎の声がした時、おもわず、戸閉まりをあけに立ちそうになったが、ふみとどまった。
伝左衛門から強くいわれたのである。
長谷川さまは、旗本のご嫡子として将来のあるお方。それを三島などで朽ちはてさせてはなりませぬ」

先夜、伝左衛に頼みこんだのは、太作であった。
その太作も、お芙沙が伝左衛門の実の娘であることは知らなかった。

翌朝。
銕三郎太作は、はやばやと三島を発っていった。


参照】2007年7月16日[仮(かりそめ)の母・お芙佐(ふさ)]

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2007.07.23

青山八幡神社

長谷川銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)と供の太作は、藤枝宿の下伝馬町の本陣・青嶋治左衛門方で旅装を解いた。
駿府の西の丸子で、昼、名物のとろろ飯をとったとき、太助が気をきかせて、早飛脚を田中の城代家老・遠藤百右衛門へ走らせたので、宿に落ち着くと、百右衛門のほうから訪ねてきた。
40代半ばの遠藤家老は、前藩主・本多紀伊守正珍(まさよし)からの書簡により、14歳の銕三郎正珍の使番のように、丁重にあつかった。

「幕府領と駿河大納言忠長)さまのころの田中城代の銘々をお求めでございましたな」
「はい。旧家の長(おさ)どのや、ご藩主の華香寺などでお教えいただければ忝(かたじけ)のうございます」

ゆっくりと、確認するように話す遠藤家老の話を要約すると、先代(正珍)からの指示もあったから、前もって、田中藩主の菩提寺・蓮生寺の住職や村の名主などにあたってみたが、150年ほども昔のことゆえ、書付などもすぐには探せない。その者たちが口をそろえていうには、青山八幡宮の宮司・青山家ならば、大権現さま(家康)をはじめ、歴代の藩主・城代の献供をえているので、早く調べがつくのではなかろうか。

長谷川どのが、ご先代のご名代として、明日にも訪問なされることは、宮司の青山主馬(しゅめ)どのへ伝えてあります」
「それは、なにより。これからでも参上いたしたいとぞんじます」
「使いを出しましょう。して、田中城へは?」
「明朝、一番に見上させていただき、その足で小川(こがわ)村へ廻りたいと---」
「一日お使いになる馬を、明朝、こちらへとどけておきましょう」

銕三郎は、用件を明日中にすまし、三島への帰りを1日早めることに集中している。
遠藤家老は、銕三郎のおもわくは知らないから、
「それはずいぶんとおいそがしいことでございますな。もちっと、西駿河の風情をお楽しみになればよろしいのに」
などと、世間並みのお世辞をいっている。
芙沙に再会したい一心の銕三郎は、聞く耳をもたない。

「では、早速に---」
青山八幡宮は、八幡山の麓にある。本陣から4町と離れてはいない。
本陣からの使いは、すでに先発している。
遠藤家老の若い従者・鳥山五郎右衛門が付き添ってくれることになった。
岡部宿から藤枝宿への東海道の入り口にあたるあたりの右手に、青山八幡宮の一の鳥居が立っていたのを、往路に目におさめている。

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(赤○=青山八幡宮 東海道すじ)

鳥居から山への石段にむかって、太作が丁寧に頭をさげたのも覚えている。石段は50段ほどに見えた。

その石段をのぼりきった広い台地に、拝殿と社務所があった。青山宮司の下の権禰宜(ごんのねぎ)が、書付を用意して待っていてくれた。

慶長14年(1609)12月- 頼宣
元和5年(1520)7月-  幕領 
           城代 大久保忠直・忠当、酒井正次どの
寛永元年(1624)8月-  忠長領 
           城代 三枝伊豆守守昌、興津河内守直正どの
寛永8年(1631)6月   幕領 
           城代 松下大膳亮忠重、北条出羽守氏重どの

用は一瞬にしてすんだ。書付は2通つくってあり、1通は鳥山五郎右衛門が受け取った。正珍侯へ急送されるのであろう。

(そういうことなら、清水をもう一泊ふやしてもよさそうな)
銕三郎は、お芙沙との3夜をおもっただけで、躰がとたんに熱くなったが、気配には出さず、権禰宜に礼をいって、石段をくだった。
笑みが自然にもれる。
鳥山五郎右衛門が、
(---?)
といった目つきで銕三郎を見た。
銕三郎は、さりげなくとぼけた。
「神社というところは、古い文書(もんじょ)の宝庫でございますね」

【つぶやき】
岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房)では、藤枝の本陣・青嶋家は治右衛門となっているが、『藤枝市史 上』治左衛門をのほうを採った。

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2007.07.22

幕閣

長谷川どの。行く末、田沼侯への門閥の老職衆からの反発が---といわれたが---」
藩の江戸中屋敷の主ともいえる本多紀伊守正珍(まさよし)の誘いに、
「はい。私、お仕置き(政治)の根本は、裁き(裁判)の公平と、貢租(税)の適当と愚考しております。しかし、ご公儀の収税は、大権現さま(家康)の時代からほとんど変わっていないやに思われます。もちろん、いつのご老職も税の源をあれこれお探しとはおもいますが、どなたも、新しい税源にはお手をおつけになさろうとはなさいませぬ」
長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、ここまで言っては言いすぎになると思ったが、田沼意次(おきつぐ)に声をかけられたことが興奮の引き金になってしまったのであろうか、 安全地帯から、つい、一歩踏みだしてしまった。

「新しい税の源とは、商人かな?」
本多侯は、飛騨・郡上八幡の農民一揆の経緯にからめて老職を罷免、蟄居を命じられているが、つい半年前まで、13年間も老中職を勤めていたから、幕閣としての仕置きにも経験が深い。

「商行為も、もちろんでございます。そのほか、このごろの農家は、米よりも高値(こうじき)でさばけるものにあれこれと心をくだいております。たとえば、繭。たとえば、木綿。たとえば、水物(果物)、たとえば、青物(野菜)」
「ふむ、ふむ」
「農民たちは、大権現さまの時代同様に地方(じかた 農村)に住んではおりますが、意識は同じ農民ではございませぬ。ご公儀に対しても、言うべきは言って、自分たちの権利と利益を守ろうとしております。それが、このところの農民一揆でございましょう」
「まことに、のう」
「商業者や、農民たちから新しい税を、納得づくで収めさせる筋立て、田沼さまならおできになりましょう」
「なるほど」
「ことは、そのあとでございます。筋立ては田沼さま、そのあがりは門閥のお歴々---失言でございました。平にご容赦を---」

長谷川どのは、いま口になさったお仕置きのやりようを、どなたかにお話しなされたか?」
宣雄と同職の小十人組頭だが、家柄は上の2000石の本多采女紀品(のりただ)が口をはさむ。
「滅相(めっそう)もございませぬ。ただいまが初めてでございます。どうか、お忘れくださいますよう---」
「それであれば、他言はしませぬから、ご安堵めされよ。いや、田沼どのが遊びに参れといわれたのは、長谷川どの説をお耳になされたゆえかと推しはかったまで」

長谷川どのが、田沼侯を末おそろしい方と見立てたのは、田沼侯の身を案じてのことであったのじゃな---」
本多侯は、じっと考えこんだ。

(言い述べる順序を、我れにもなく、誤ったようだ)
宣雄は、冷や汗が背中や脇の下から流れるのを感じている。
(時代が移っているということを、知行地の上総(かずさ)・寺崎の農民たちのいまのありようから話し始めるべきであった)

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2007.07.21

田沼主殿頭意次(おきつぐ)(続)

田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)が立ち上がったとき、本多采女(うねめ)紀品(のりただ)、佐野与八郎政親(まさちか)も見送りのために廊下で待つ。
もちろん、長谷川平蔵宣雄(のぶお)も従った。

本多紀伊守正珍(まさよし)は座についたままである。蟄居(ちっきょ)中といえども、半年前まで老職を13年間勤めた4万石の前田中藩主である。年齢も10歳ほど上。
意次は将軍のお側取次ぎで、評定所に連なって仕置を学んではいるが、まだ1万石、格がちがう。

駕籠に乗るとき、さも、いま思い出したように、さりげなく、
「そうそう。木挽町の拙宅には、さまざまの人が寄っています。蘭学者もくれば、山師も、商人も、絵師もきます。お三方、もし、興がそそられたら、参られませんか。お三方とも番方(ばんかた 武官系)とお聞きしたが、いずれは役方(やくかた)へお転じになるはずの方々。後学のためにもなろうかとぞんじて---」
「は。ありがたく---」
あまりの突然の誘いに、3人ともただ、頭をさげる。
意次は、その様子に笑いながら、家士をうながして、駕籠を出させた。

駕籠を見送った3人は、あまりにあざやかすぎる人あしらいに、お辞儀もわすれてため息をつくばかり。
(人を寄せるということは、あのようなお人柄あってのこと)
宣雄は、意次の躰がたくまずして発する魅力に、しばらく酔わされたように、放心していた。
(天性の人たらしの才としか、いいようがないな)

書院へ戻ると、酒の用意ができていた。
3人に酒をすすめてから、本多侯が訊く。
「どうやら、3人とも、主殿頭どのの魅力にあてられたらしいの?」
「いや、たいへんなお人でございますな」
感にたえた声で、本多采女紀品が口火をきった。
「近時の本多一門には、あれほどの器量の士は見あたらないのでは---」
紀品は、自分よりも4歳も若い意次に、軽い嫉妬さえ感じている口ぶりである。 
紀品どのは、また、深く傾倒されたことよ。長谷川どのはいかが?」
「はい。末恐ろしいお方と拝察いたしました」
「末恐ろしい?」
「さまざまな階層の人びとの声をお聞きのようでございます。これまでの上っ方にはおいでにならなかった向きの方かと。それだけに、お仕置きは広く目くばりが届きましようが---」
「ふむ?」
「門閥の方々からの反発もはげしかろうかと---」
そう所信をのべた宣雄を、若い佐野与八郎が黙って見つめている。

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2007.07.20

田沼主殿頭意次(おきつぐ)

≪明宵六ツ(午後6時)、寓居に珍客が見えるので、おさしつかえなければ、ご来駕ありたく。息・銕三郎どのもご同道、よろしく。(本多采女紀品(のりただ)どの、(佐野与八郎政親(まさちか)どのもお招きしており---≫
駿州・田中藩の前藩主・本多紀伊守正珍(まさよし)侯からの文面である。
宝暦9年4月某日のこと。寓居とは、侯が隠居所同様に暮らしている芝二葉町の中屋敷である。
 本多紀伊守正珍、本多采紀品→本多家
 佐野与八郎政親

おとなうと、すでに珍客の塗り駕籠が門の内側にあった。駕籠に金箔で描かれている七曜の紋所から、田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)とわかった。
 田沼主殿頭意次
(評定所への列座を命じられたばかりのお方が、ようも---)
不審をはらいのけながら、書院へ通った。本多采女紀品も佐野与八郎政親もすでに控えている。

「遅れまして、申し訳ございませぬ」
「なんのなんの。主殿頭どのとは、半刻も前から相談ごとをしておっての。主殿頭どの。これなるが、先刻もお耳にいれた、今川どののときの田中城主・長谷川紀伊守正長どののご子孫にて---」
「田沼です。よろしゅう」
40歳をこしているというのに、秀麗でおだやかな面(おも)ざしが、鋭利さをつつみ隠している。大髱(おおたぼ)を結った大奥の女どもが色めいているとの噂も、どうやら、
(もっとものこと)
平蔵宣雄は納得した。
長谷川平蔵と申す、ふつつか者でございます。お初にお目にかかり、光栄にぞんじます」
「さ、さ。堅苦しいことはこれまでじゃ。長谷川どの。自慢の息・銕三郎どのは連れなんだかの?」
「はい。運あしく、ただいま、遠出をしておりまして」
「遠出とな?」
「いささか西へ」
「それは残念。主殿頭どの。長谷川どのは、番方(ばんかた 武官系)にしておくのは惜しいほどの仁でしてな。いずれ、役方(やくかた 行政官)の上つ方をこなさせてみたいもので---」
正珍侯の推薦の弁に微笑みながら、宣雄に視線をすえた。目は笑っていない。相手の心の底まで見通すような眼の光である。
「とんでもございませぬ」
平伏する宣雄から視線をそらした意次は、
「ご一族の本多長門守忠央(ただなか)侯のご赦免のこと、せっかくの本多侯のご配慮なれど、館林侯があのようなご性格で、農民一揆にはことのほかきびしく、一罰百戒の意気ごみであたられておられますゆえ、努めてはみますが、なかなかにむつかしいかとおもいます」
館林侯とは、老中首座・松平右近将監武元(たけちか)のことである。

なるほど、平蔵宣雄が着到するまでの話題は、美濃・郡上八幡の農民一揆の処理で、職は解任、封地は召し上げの若年寄・本多長門守忠央の救済に、本多一族がそれぞれ幕閣にあたっているということであろう。

「では、拙はこれにて---」
潮時とみた意次がいう。
「おお。いま、酒の用意をしているというに---」
「いや。ほかに所要もありますれば---」
「それは残念。瀬戸川下で採れる丸干しを献じようとおもいましたのに---」
「いずれ、また、参じますこともありましょうほどに、それまでお預け---あ、失礼つかまつった。ご容赦」
本多長門守忠央松平越後守長孝(ながたか)に預けられていることを詫びたのである。

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2007.07.19

女密偵おまさの手紙

【つぶやき】
〔荒神(こうじん)〕の助太郎銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以)を、東海道の三島宿でからませた。

文庫巻24、未完の[誘拐]の顛末をも、自分なりに空想してみたかったためである。
文庫巻23[炎の色]のヒロインの一人---〔荒神(こうじん)〕のお夏、[誘拐]にはまだ姿を見せていないが、おまさは、彼女の出現を予感している。
 ---〔荒神〕のお夏←Who' s Who
25歳でレスビアンのおが、10歳以上も歳上のおまさに魅力をかんじていること、[炎の色]では愛し合えなかった不満を遂げたいとおもっていることを、おまさは承知しているからである。

おまさも、おに触れられて、これまでにない性的刺激を受けている。
この2人の関係の顛末は、鬼平ファンならずとも、興味をそそられる。想像をたくましくしてみたくなる。

 ---密偵おまさのWho' s Who
     ↓
   [女密偵おまさ] (2005年3月3日)
   [女密偵おまさの年譜]
(2006年1月1日) 
   [密偵おまさが事件の発端] (2005年3月3日?)
   [テレビ化で生まれておまさと密偵](2005年3月3日?)
   
さて、[炎の色]。湯島天神の境内で〔峰山(みねやま)〕初蔵お頭に声をかけられたことから、おまさと〔荒神〕のおとの縁(えにし)が始まるのだが、そのことはおいて、おばあさんの〔笹や〕に寄宿しているといってしまったため、転がり込むおまさ。

おまさが〔笹や〕へ入って行き、
「お熊さん。たのみますよ」
いうや、お熊は万事心得て、奥の方へ顎をしゃくった。

このあたりの、2人の阿吽(あうん)の呼吸には、老獪な〔峰山〕の初蔵もみごとに騙されれるのだが、それも、いまはどうでもいい。

おまさは、奥へ入り簡単な手紙をしたためる。

したためたのはことの経緯で、その手紙で鬼平へ知らせる。
手紙を役宅へ運んだのは、〔笹や〕の真ん前の弥勒寺の小僧である。

おまさは、少女時代から、すでに母親がいない。父親〔鶴(たずがね)〕忠助の店を手伝っていたので、手習い所へ通いそこねた。
口は達者でも、字はひらがなしか書けない。

おまさは、文庫巻12[密偵たちの宴]の終末で、みごとな啖呵(たんか)をきって、 〔大滝(おおたき)〕五郎蔵ほかのレギュラー密偵たちを辟易(へきえき)させる。

しかし、手紙といえば、巻4、おまさ初登場の[血闘]では、独り住まいをしていた下谷の坂本裏町の与助長屋の畳の下に、

(しぶ江村、西こう寺うらのばけものやしき)

と書き残したぐらいか。

Photo_405
(おまさのが独り住まいしていた日光街道ぞい、坂本裏町)

幾人もの大物のお頭に信用されて、その盗(おつと)めのための引き込みをやっていても、連絡(つなぎ)は、手紙でなく、口頭だったのだろうと類推する。

ところが、[炎の色]では、鬼平あての手紙を書いている。
手紙の文面は示されない。
池波さんも、ついうっかりして、おまさに手紙を書かしてしまったのであろう。

だから、巻24[誘拐]でも、誘拐されたおまさからの連絡(つなぎ)の文は、あまり期待しないほうがいいかも。

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2007.07.18

〔荒神(こうじん)〕の助太郎(4)

銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)とお供の太作は、道中記が目的ではない。
しかし、銕三郎にとっては、生まれて初めての遠旅である。土地々々の風物人情を、写真に撮るように記憶にとどめてきた。

ところが、今朝からは、電池が切れたカメラみたいに、風景は目に入っても残らない。
昨夜のお芙沙の、張りのある白い姿態の一つひとつが、頭の中というより、14歳の銕三郎の躰のすみずみをかけ巡(めぐ)っている。
あちこちを不意打ちでもするように這いずりまわった形のいい唇。
首にからんだ双腕のつけ根の茂みが発する気をそそる香り。
押し上げてくる腰。
胴をしめつけていながら、その瞬間に突きあげて痙攣した太腿。
躰をいれかえたときに胸をくすぐってきた乳頭。
余韻に、目じりから涙滴が一筋ながれ落ちた横顔。
着物をまとうときの、だるそうな動きと、満ちたりた笑みをうかべている浅いえくぽ。
空想していた秘画よりはるかに艶っぽく、謎めいていて、この世のものとはおもえない甘美さであった。
無理もない。男が人生でいくつがとおる関門の一つ---それも、もっとも男の本能にしたがった関門を通過したのである。
さまざまにおもいめぐらして当たり前であろう。それでこそ、相手へ儀礼を十分につくしたことになるというものだ。

が、その分、太助への言葉も少なくなってしまうし、千本松原もうわの空だった。

原に近づくにつれ、今朝の銕三郎も、さすがに正気にもどった。
正気にもどしたのは、愛鷹山(あしたかやま)の陰から、ぬっと全容をあらわし、見る者にのしかかるように迫ってくる富士だった。

14_360
(広重 朝の富士 『東海道五十三次』)

4月初旬だから、5分ほども残っている雪が、白衣装をまとっているかのように気高い。

原の茶店で一休みして、よもぎ団子をとった。
太作。沼津宿で別れた、あの助太郎という男、何者とおもう?」
「若さまは、どうおおもいでございます?」
「商店の絵をくれたから、大工かなにか。そんなふうには見えなかった---」
「人は、見かけどうりとはかぎらないことが多うございますれば---」
「なぜ、大店(おおだな)の姿を写しているのであろう?」
「絵図面師かも」
「絵図面師?」
「いろんな家の絵を写してきて、大工の棟梁に売る商売があるときいています。棟梁が示して、施主の考えを導くためのものだそうでございます」
「しかし、京の荒神口では、女房と太物の店をだしているとかいっていた。屋号も〔荒神屋〕とかで、変わっていた」
「どこか、変わってはいましたが、あれは、大勢の人を束ねている仁でございますね。並みの太物屋の亭主ではありますまい。気くばりが尋常ではございませなんだ」
「どうして、絵図などを呉れたのであろう?」
「若さまに、謎を置いていったのではございませんか」
「なんの謎を?」
「ま、もう二度と会わない人のことです。忘れましょう。覚えておくことは、ほかにありすぎますゆえ」
「そうだな」
「それより、若さま。お話しになりたかったのは、助太郎どんのことではございますまい」

「いいそびれていた。太助。ありがとう」
「なんでございますか、水くさい」
銕三郎に、3人目の母者ができた---江戸の家で待っているくれている実の母者、父上の形ばかりの奥方で9年前に亡くなった義理の母者、そして、ゆうべ、縁(えにし)を結んだ仮(かりそめ)の母者」
「若さま。もう、おっしゃってはなりませぬ。さようなことは、一切、若さまの胸の中であたためておおきなさいませ」
太作。戻りにも、3人目の母者に会いたい。いや、会わせてほしい」
「万事、太作めに、おまかせおきを。それより、お役目を早くはたさねば---」

【ひとりごと】
もちろん、荒神の助太郎とは、この後、銕三郎は会うことはないかもしれない。
しかし、長谷川平蔵宣以となり、火盗改メの長官となって、おまさを通して、〔荒神〕のお夏という女賊を知った。
は、助太郎が妾に産ませた娘だった。
が12歳の時、助太郎は病死した。平蔵が火盗改メの長官となる6年前のことだ。
助太郎が束ねていた〔荒神〕一派は、おを頭にいただいて上方で盗(おつと)めを働いていたという。
もちろん、12,3歳の娘に盗賊一味の実際の首領として采配がふるえるわけはない。しかるぺき副将がいたのだろう。

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2007.07.17

〔荒神(こうじん)の助太郎(3)

爽快な目覚めだった。
頭の中に靄(もや)っていたものが吹き飛んだといおうか、ほどけない糸のもつれがするすると解けたといおうか、
(そうだったのだ)
ひとりごちるほどに、銕三郎(てつさぶろう)は爽快、そのものだった。

朝飯のときも、太作はいつもと変わらない表情で、銕三郎の2膳目の飯をよそってくれた。

ゆうべ、お芙沙のところから帰ってくると、〔樋口屋〕の大戸はおりていたが、潜り戸をたたくと、伝左衛門にいわれて待っていてくれたのだろう、昼間の着物のままの年配の女中が開けてくれ、提灯をうけとった。

隣部屋の太作の軽いいびきも気にならず、銕三郎は、芙沙の躰の、精緻で、鋭敏で、甘美で、多様で、奥深い反応を思いだし、このまま眠ってしまうのがもったいない思いにひたっていたのに、すとんと熟睡していたのだ。

旅籠をでるときも、伝左衛門は顔を見せなかった。

「戻りは、一日早まるかもしれない」
と番頭に告げ、伝左衛門どのにそのように伝えておいてくれるよう、頼んだ。
いいながら、顔は赤らまなかった。
(大人の領分に、一歩、入ったのだ)
そう納得した。

〔樋口屋〕を発(た)ち、1丁半ほど箱根川へ引き返して、三島神社の前で、太作とならんで、参道の奥にむかって礼拝をした。

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(三島神社 『東海道名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

もっとも、銕三郎は、本殿のその先の、お芙沙の家へ挨拶を送ったつもりだった。
耳元で、お芙沙の、
(あっ、あっ、てつ---さ )
悲鳴にも似たうめきがしたような気がした。

と、参道から、京の荒神口に住んでいるといった助太郎があらわれた。
「おや。長谷川さまの若さま。またお会いいたしましたな。それでは、次の宿(しゅく)まで、お供をさせていただきましょう」
太助が、丁寧に応じている。

助太郎は、道中の川や山の解説をこまめにしてくれたが、昨夜の銕三郎の寝るまでの時間をどうしたかは、訊かなかった。訊かれたら、どう答えようと、あれこれ、こしらえごとを考えていたのだが。

沼津宿につくと、助太郎は、
「三枚橋から、舟で江尻へ渡らせていただきます。なにしろ、この街道は何回となく往来しておりますため、景色に変わり映えを感じられません。どうぞ、この先、お気をつけておつづけくださいませ」
銕三郎をはずれに招いて、一枚の紙をわたした。
どこやらの大店らしい構えの家が描かれていた。
「若さま。変哲もない絵で申しわけございません。手前の画帳は、景色のほかは、こんな絵ばかりが描かれております。ご想像になった、秘図絵があればよろしいのですが、こんなものでも、お近づきのしるしにお受けくださいまし」
(なんという、勘の鋭さ)
「どうして、わたしが、秘画を想像したと考えたのですか?」

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(三島宿 女郎宿 『東海道名所図会』部分)

「三島の女郎たちが客寄せの支度をしているのをごらんになったときの、若の目の色です。でも、きょうの目は、涼やかに澄んでおいでです。ゆうべ、精進落しをなさったかのように---」
助太郎は、いいおいて、さっと船着きのほうへ去っていった。

(あの男に見抜かれるようでは、修行がまだまだだ。江戸へ戻ったら、峰山道場でもっと稽古をつまねば、な)

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2007.07.16

仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)

銕三郎(てつさぶろう 14歳 のちの平蔵宣以)が夜の街へ出ようとすると、本陣の主人・伝左衛門に呼びとめられた。
伝左衛門は、銕三郎を帳場の奥の部屋へみちびいた。

長谷川さま。今宵のところは、黙って伝左衛門におまかせください」
「なんと---?」
「お遊びにお出かけでございましょう? なりませぬ。悪い病気でも感染(うつ)され遊ばしたら、お父上に申しわけがたちませぬ」
「----」
「私めが、ご案内いたします」
50すぎの伝左衛門は、太作とどっこいどっこいの年齢だが、本陣の主人らしく貫禄があり、衣服もいいものを着ている。

案内されたのは、〔樋口〕からさほど遠くはない、三島神社の裏の路地奥のしもたやであった。

Photo
(左下の赤○=旧東海道ぞいの本陣〔樋口屋〕
右上の赤○=三島大社裏、銕三郎の記憶のお芙沙の家)

出てきた小女に銕三郎を渡すと、伝左衛門はそのまま引き返した。

瀟洒な、かぐわしい香りのする部屋に案内された。
香りには線香の匂いもかすかに混じっているような気がする。

女が入ってきた。
眉を落としているから、ちょっと老けてみえるが、肌の張りから、25,6の年増と銕三郎は見た。

芙沙(ふさ)と申します」
細めた目でわらうと、左の頬に浅いえくぼができた。
銕三郎です。は、金偏に夷(えびす)と書く、です」
銕三(てっさ)さまと呼ばせてくださいませ。そのほうが、母親らしい気持ちになれます」
「----母御(ははご)?」
「はい。仮(かりそめ)の母」

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(歌麿『歌まくら』[若後家の睦み」部分 「芸術新潮]2003年1月号)

夕餉はすましたというと、小女が点茶を捧げてきた。
芙沙は小女に、もう帰ってよい、と告げた。
そして、風呂場へ案内し、灯火を細くしてから、自分も衣服を脱いで入ってきて、銕三郎の背中をながしながら、話した。
亡夫は、樋口伝左衛門とは幼なじみだったが、1ヶ月前に病死したこと。
17歳のときに後妻に入ったこと。
男の子を生んだが、育たなかったこと。
「だから、銕三さまが、赤ん坊のときに逝った子のように思えるのです。いえ、銕三さまのように育っていてくれたらと---」

突然、芙沙は、脇の下から腕をまわし、後ろから抱きしめてきた。重くはずみのある乳房が背中を押す。
銕三郎の躰の芯から熱くなった。
女の唇が首筋をはう。
息をおくれ毛に感じる。
秘画がよみがえり、股間が膨張しきる。

「さ、お湯へおつかりくださいませ」
芙沙の声に、銕三郎はすくわれたように湯に入った。

湯を出ると、芙沙は裸躰のまま、新しい浴衣で銕三郎をつつみ、さっきの隣部屋へみちびいた。

蚊帳が吊ってあった。
「もう、お婆(ばば)ですから、明るすぎると、銕三さまに嫌われますゆえ」
そういって、風呂場へ去った。

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(歌麿『美人入浴図』)

蚊帳の中で横たわりながら、銕三郎は、太作の周到な手くばりを感じていた。
太作が、伝左衛門に頼みこんだに違いない。

芙沙が入ってきて、左に寝た。
湯上りのはずなのに肌はひんやり、しっとりとしている。
銕三郎が動けないでいると、左の薬指をつかんで自分の茂みの中へ誘い、
「そのお指を、ゆっくり、やさしく、軽やかに、ゆっくり、動かしてくださいませ」
銕三郎は、いわれたとおりにする。
掌に茂みがこころよくあたっている。
その左手をまたいだ芙沙の右手に、挙立(きょりつ)しているものを、そっと握られたとき、銕三郎の全身がぴくっとふるえた。
芙沙は小さく笑って、
「そのままま、おつづけになっていて---お初めてとうかがいました」
「----」
「わたくし、後妻だったものですから、初めての殿方、わたくしも初めて。こうして安らかに睦みあっていますと、母子の添い寝のようです」

もちろん、添い寝でおさまる2人ではなかった。
銕三さまは、いつのまにやら、「---てつ---ああ、てつ」に変わっていた。
そのときも、片頬に浅いえくぼができていた。

着物を着た銕三郎が、
「ご教授、かじけなかった。ついては束脩(そくしゅう)ですが---」
銕三。母親に小遣いをわたそうとする子がどこの世界にいますか。息子というものは、いくつになっても母に甘えて、気苦労をかけてこそ、母孝行なのですよ」

芙沙は玄関でぶら提灯を渡してくれながら訊いた。
「お戻りは、いつでございますか?」
「行きが2宿、田中城下に2泊---いや、1泊になるやも。帰路に2泊」
5日目でございますね。こんども、母孝行をしてくださいますか」
「お母上。よろしゅうに」

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提灯に〔樋口〕の屋標「二引き両」が描かれていたが、銕三郎は、もう気にしなかった。


参照】2007年7月24日[仮(かりそめ)の母・お芙沙(ふさ)] (

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2007.07.15

〔荒神(こうじん)の助太郎(2)

「田中へは、ある調べごとがあって---」
といってしまってから、銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)は、父・宣雄(のぶお)に念をおされた注意を思い出した。
本多伯耆守正珍(まさよし)侯に迷惑がかかってはいけないから、田中城しのぶ集いのことは、口外してはならない---ということであった。
しかし、旅の絵師というふれこみの助太郎は、それ以上、銕三郎の田中城下行きの目的を聞こうとはしなかった。

照れかくしに、銕三郎は、画帳を拝見できないか、と持ちかけた。
助太郎の関心を、田中城からそらせられると思ったのだ。
ところが、助太郎は、あさぐろい顔にやさしげな微笑をうかべて、しごく念入りに断ったではないか。
「いえ。人さまにお目にかけられるような腕でも代物でもございませんので。ほんの心覚えでこございますゆえ、どうぞ、ご勘弁くださいませ」
「さようなれば---」
といいながら、銕三郎は、
(妙な仁だな)
ふつう、自分の腕のほどをみせたがるのが人情であろう。
(なにか、見られては困るものが描かれているのやも知れない。男と女の咬合の秘画とか---)
銕三郎は次の言葉をうしなった。

茶店への心づけをすましたところで、助太郎が聞いてきた。
「今夕は、三島宿(しゅく)でございますか?」
「そのつもりでございます」
太作が応じた。
「ここから1刻(とき 2時間)も下れば宿場(しゅくば)ですが、お宿は、もう、おきまりでございますか?」
「はい」
「ご迷惑でなければ、宿(しゅく)まで、ご一緒いたしましょう」

下りながら、あれが初音(はつね)の御座松だと解説しながら、
「松にうぐいすというのは、どんなものでしょう」
とか茶化して、自分から笑った。
(やっぱり、さっきの画帳のことにこだわっているのだ。いよいよ秘画にまちがいなし)

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(磯田湖龍斎)

14歳の銕三郎は、描かれているとおもえる姿態を空想して、体をほてらせた。
父母には打ち明けていないが、このごろ、夜、寝床へ入ると、このような妄想がしばらくやまない。
儒塾へ誰かが持ち込んだのを回覧して以来なのだ。

三島では、三島神宮に近い本陣・樋口伝左衛門方の前で、別の宿へ行く助太郎と別れたが、遊女たちが支度をしている家の前を過ぎたとき、助太郎がちらりと銕三郎を盗み見た。

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(『東海道名所図会』 三島宿・遊女 塗り絵師:ちゅうすけ)

気づかぬふりをしていたが、銕三郎の顔がすこしほてったのを、見破られたかもしれない。

食事がおわって、
太作。遊女屋でもひやかしてこないか」
「とんでもないことでございます。若さま。太作をいくつだとお考えですか。そういう年齢はとっくにすぎましてございますよ」
「そうか」
「あ。若さまがいらっしゃるのでしたら、殿さまからそのためのお宝(たから)をお預かりしております。奥方さまには内緒とおっしゃいました。どうぞ、これを」

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2007.07.14

〔荒神(こうじん)〕の助太郎

さて。こちらは東海道を上っている長谷川銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)と太作である。

箱根の山道を登っている。
昨夜は、小田原城下の宮の前、本陣・保田利左衛門方へ宿泊した。
案内された部屋からは、北西のほうに樹々の間から小田原城の天守閣が望めた。
手前の松の巨樹は総鎮守・松原神社のものだ。

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(宮の前の町名になっている総鎮守=松原神社)

太作に断っておいて、参詣に行ってみた。
東向している拝殿までの参道を、松の巨樹が囲んでいる。
拝殿の前にかがみこんで、いっしんに祈念している男がいた。
並んで鈴綱を振りながら横目でうかがうと、痩身、40歳を出たばかりと見えた。
宗匠頭巾(そうしょうずきん)の下の顔はあさぐろい。旅が長いらしい。

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(小田原名物=ういろう 『東海道名所図会』 塗り絵師・松下 享)

名物の薬〔ういろう〕は、帰路に求めることにして宿へ帰ると、一番番頭の嘉兵衛が宿帳をもってうかがいにきた。
一番番頭がやってくるぐらいだから、いまは、それほど忙しい時期ではないらしい。ほかの部屋も静まりかえっている。
「わざわざにご予約金をいただきまして、恐縮でございます。残りましたら、お帰りの分におあてするようにうかがっておりますが---」
本陣なので、公用の宿泊客がほとんどだが、予約金などを先払いする客は、まず、ないらしい。ここにも父・宣雄(のぶお)の配慮が効いている。

「帰路もお世話になれますか?」
「いつごろになりましょう?」
「駿府まであと3宿泊まりとして、先方で2泊。帰りにこちらまでまた3宿。8日先かと」
嘉兵衛は暗算でもするように考えていたが、
「ことしの3月は、尾州さまのご帰国と、紀州さまのご参府の年に当たっております。ほかのお大名さまのご参勤交替は、4月と6月が多うございます。8日先でございますと、幸い、尾・紀さまともあたっておりません。
ただ、もう2日先ということになりますと、尾州さまと重なりますので、一つ先の大磯あたりの旅籠をご紹介させていただくことになるかと---」
「いや、なるべく8日先に、また、お世話になるように心がけましょう」
「大磯泊まりとなりましたら、お預かりしておりますご予約金は、あちらの旅籠へ申しおくることもできます。また、お立ち寄りいただければ、間違いなくお返しいたします」
「お手数をおかけして、かたじけない」

夕飯には、これまでどおりに、太作のために1本、注文することを忘れなかった。
銕三郎は、幼いころに背負われた、太作の背中の感触を、いまでも覚えている。

あくる日。
箱根の峰々を越えて、芦ノ湖畔に出たのは、昼をだいぶんにまわっていた。強がりをいってはいるが、箱根越えは、50歳を出た太作には、やはり、きつかったらしい。
茶店で、〔保田屋〕が持たせてくれた弁当をつかっていて銕三郎は、湖畔で絵筆を動かしている男に気づいた。

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(芦ノ湖 『東海道分間延絵図』より)

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(広重[箱根・湖水図])

寄っていって、描いている絵を眺めていると、男は顔を水面にむけたままで、
「若いお武家さま。絵はお好きでございますか」
「うむ。いささか修行したが、そなたのようには、とても描けません」
「ほう。どのご流儀を?」
男は、銕三郎を見た。
やはり、きのう、松原神社の社前で念じていた絵描きふうの男だった。
よほど早発(はやだ)ちしたか、細い躰に似合わず脚が速いか。
「いや、流儀というのではく、父上におそわりました。一瞬に見たものをできるかぎり正確に写しとるという画法です」
「いかにも実戦に役立ちそうな---して、どちらまで?」
「駿州・田中です」

男は、絵筆をしまいながら、京の東はずれ、近衛河原の荒神口に住む助太郎といい、暇と金ができると、貧乏旅をしながら、各地の景色を描くのを趣味にしているのだといった。
(ずいぶんとおしゃべりな男だな)
と思ったが、町人なんだし、銕三郎は気にしないことにした。
太作も、2人の話しぶりをこのましげに目を細めてながめている。

「駿州・田中がお住まいでございますか?」
「そうではなく、住まいはご府内の築地です。田中へは、ある調べごとがあって---」

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2007.07.13

依田右衛門佐信蕃

察しのいい中根伝左衛門(書物奉行)は、三枝右衛門虎吉(とらよし)の将として田中城を守った武田方の蘆田右衛門佐信蕃(のぶしげ)「先祖書」も添えてくれていた。
もちろん信蕃は、家康の麾下に入ってから、信州の豪族たちを徳川方につけるために大いには働き、小諸岩尾城攻めのときに鉄砲玉2弾をうけて没している。36歳であった。

Photo_402家康は、信蕃の労を多として、一族ほかの面倒をよく見た。
たとえば、信蕃の弟・源八郎信幸(のぶゆき)の次男・依田(よだ)平左衛門信守(のぶもり 500石)が立てた家では、豊前守政次(まさつぐ 800石)が、この6年來、北町奉行を勤めている。宝暦9年(1759)で51歳。     (依田一門の家門=丸三蝶)

信蕃の「先祖書」に、こんな記述があった。
田中城を大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に引き渡して一旦は春日城へ帰った。
そして、小諸城に武田方諸将の人質をとっていた織田方の森勝蔵長一(ながかつ)に会う。
長一は、織田方にしたがうことを提案。しかし、信蕃は、人質を捨てても家康との約束をまっとうしたいと告げて去った。
このこと聞いた信長は怒りくるい、信蕃を殺せと命ずる。
家康に、しばらく身を隠して時節を待つようにとさとされ、かつて守ったことのある遠江国二股城の川上の小川にひそんていると、本能寺の変がおきた。

家康一行が、本多平八郎忠勝(ただかつ)の知勇ーなどで、やっと伊賀越えをしたことは、2007年6月13日[本多平八郎忠勝の機転]に6日にわたって詳報した。このとき、家康は、苦難の道中にもかかわらず、伊賀者を信蕃の隠れ家へ先行させ、信長が歿したゆえ、もはや生命の心配はなく、岡崎城で会おうと伝言。

岡崎城で待っていた信蕃は、家康の意を受、すぐさま甲信の国境に旗をあげ、たちまちに3000余の人数を擁して、反抗する10数の城を陥した、と。

この挿話からも、長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、信長家康の資質の差、人を信服させる徳の違いを読み取った。
このことも、息・銕三郎(てつさぶろ のちの平蔵宣以 のぶため)へ引き継ぐことにした。 

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2007.07.12

田中城しのぶ草(18)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、書物奉行の中根伝左衛門が好意でとどけてくれた、三枝家(さいぐさ)が呈した「先祖書」の写しを眺めている。

銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)を、駿州・田中城下へ旅立たせてから3日目の夜である。
第1夜は、江戸から8里(32km)、保土ヶ谷宿の本陣・刈谷清兵衛方へ宿泊したはず。旅籠代は、先発した小者の六助が預けているから、そっちの心配はない。
私用の旅にわざわざ本陣を選んだのは、こういう際に格式というものを学ばせるためである。
旅に旅籠代をけちっては、こちらの品格を低くふまれる。

第2夜は、江戸から20里の小田原宿で、宮の前の本陣・保田利左衛門方で草鞋を脱いだはず。

このところ、江戸は雨の気配がない。東海道もそうであろう。今日は、箱根を無事に越えて、三島で、本陣・樋口伝左衛門方でくつろいでいるであろう。
もし、雨の気配があったら、無理をしないで、小田原でもう一泊するようにいってある。

宣雄は、銕三郎のことを頭からはらって、三枝家「先祖書」に集中した。
織田方の将・蘆田右衛門左信蕃(のぶしげ)の下で、田中城を守備していた三枝右衛門寅吉(とらよし)とその息・平右衛門昌吉(まさよし)は、けっきょく、家康の勧めでら説得にきた大久保七郎右衛門忠世(ただよ)に開城した。

問題はその後である。
織田信長は、武田の武将たちを生かしておくなとの令を下した。
虎吉は、昌吉とともに、大久保忠世が手配した、駿州・藤枝の東雲寺に身をひそめたが、それでも危ないというので、伊勢国へ隠れた。

天正10年(1582)6月、信長の本能寺での自刃という急変があり、本多弥八郎正信(まさのぶ)と大久保新十郎忠隣(ただちか)から奉書が届けられ、相良で家康に会って、ようやくその麾下となることをえた。

宣雄は、駿州・益津郡小川(こがわ)の住していた一族で、武田方に従った者が、織田方の将にだまされて殺されていなければいいがと案じたものの、その結果は、本家から聞かされてはいない。

とにかく、信長という武将のはげしい性格と、家康の人を殺したがらない不思議な考え方を学んだ。

昌吉の息・勘解由守昌(もりまさ)は、松平大納言忠長(ただなが)卿に配された。
忠長が駿河国を領していたとき、田中城の城代をつとめたと「先祖書」にある。
卿の自裁後は陸奥国棚倉で蟄居していたが、召されて1万石をたまわり、与力10騎、同心50人を預かった。

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その末裔は、長谷川一門ではもっとも大身の久三郎正脩(まさひろ 4070余石)の納戸町の隣家・備中守守緜(もりやす)である。42歳。果たして、しのぶ集いに参加するであろうか。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (17) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.11

酒井日向守忠能(2)

2007年6月22日[田中城しのぶ草(4)]に、

いまは5000石の大身幕臣だが、田中城主だった先代・日向守忠能(ただよし)侯は、4万石の身代を棒にふった---というより、政敵(将軍・綱吉の側近たち)にはめられた、といえよう。

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寛文9年(1669)の武鑑 『大武鑑』(名著刊行会 965.5.10)

その忠能が4万石を棒にふらされた理由というのが、いま考えると、どうにも合点がいかない。陰謀としかいいようがない。あるいは、忠能の偏屈ぶりが、よほど周囲に煙ったがられていたか。

忠能には本家の甥にあたる忠挙(ただおき)が、承応2年(1653)から寛文6年(1666)の老中在任中の亡父・忠清(ただきよ)に落ち度があったということで、16年後の天和元年(1681)12月にとがめられた。

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寛文9年(1669)の武鑑 『大武鑑』(名著刊行会 965.5.10)

結果は、忠清はその年の5月に故人となっており、忠挙自身はあずかりしらなかったとていうことで、なんのことはない、一件落着。

ところが、とばっちりを忠能がかぶった。
本家の忠挙が吟味を受けているのに、忠能は参府して進退をうかがうべきなのに、のうのうと在国していたのは不謹慎でけしからぬ---と、田中藩を収公の上、井伊家に預けられた。その後ゆされたが、身分は5000石の幕臣。

福田千鶴さん『酒井忠清』(人物叢書 吉川弘文館 2000.9.20)も、延宝2年(1674)の越後・高田藩主の松平光長(みつなが)の嫡子・綱賢(つなかた)の死が発端となっておきた、いわゆる越後騒動が、綱吉が将軍となってから再審され、
忠清の弟酒井忠能は、(忠清の継嗣の)忠明(ただあきら のち忠挙)が逼塞を命じられた際に参府して出仕を憚るべきであるのに、在国のまま逼塞したのは不敬(ふけい)とされ、天和元年(1681)12月10日に駿河国田中城を没収され、井伊直興(近江彦根)に預けられた。しかし、酒井家側では忠能が逼塞の身で何も伺いせず参府したことが不敬とされたが、実は稲葉正則(ただのり)に頼んで老中の内意を得たうえでの参府であったと主張しており(「重明日記抜粋」)、真相は不明である」と。

越後騒動は、養子候補として、光長の甥・綱国(つなくに)、異母弟・永見大蔵長良(ながよし)、甥・掃部(かもん)大六(だいろく)の3人の候補の家臣団が争い、けっきょく、家老・小栗美作(みまさか)の推す綱国に決まったが、歿した嫡子・綱賢の家臣団が傍流に押しやられたことから不満が生じて、反美作派が形成されるという、おきまりのお家騒動に発展したものである。

福田千鶴さんの長年の越後騒動研究によると、松平結城系)一門である播磨・姫路藩主の松平直矩(なおのり)が当初、事を一門内で治めるべく調停役として奔走、その過程で大老・酒井忠清に依頼することがあったと。しかし、家臣団の対立がはげしく、けつきょく、将軍の採決をあおぐにいたった。

再審は、またも家臣団の上訴によったが、綱吉の決定は、関係者の切腹、流罪、預け、追放など。そして老藩主・光長と継子・綱国は預け、領地は収公というきびしいものであった。

それとともに、綱吉による人事一新のとばっちりが、酒井忠一族---とりわけ実弟・忠能へのいいがかりとなって現れたといえる。
権力者の交替時には、前の権力に近かった者は、よほどに警戒を要する。

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2007.07.10

酒井日向守忠能

2007年6月22日[田中城しのぶ草(4)]、同月23日[田中城しのぶ草(5)]に、田中城主のときに改易された酒井日向守忠能(ただよし)侯を紹介した。
この記述に関連して、〔みやこのお豊〕さんから、改易の原因を訊かれた。

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たまたま、福田千鶴さん『酒井忠清』(人物叢書 吉川弘文館 2000.9.20)を借り出すことができた。著者の福田さんは上梓当時、東京都立大人文学部助教授をしていらして、ずっと伊達騒動と越後騒動にかかわった譜代名門・酒井雅楽頭忠清(ただきよ)関連の史料をあつめておられた。

それも、同著[まえがきiに、
「近年の歴史研究では一次史料の発掘が進められ、幕末に編纂された二次的な文献資料である『徳川実紀』などによって組みたてられ、通説化した史実の見直し作業が進められている。「下馬将軍」に象徴される酒井忠清像、常に彼の専制政治の引き合いにされる伊達騒動、越後騒動、宮将軍擁立説など、酒井忠清にまつわる話は、ほとんど二次的な文献史料に基づいて描かれたものである。真っ正面から酒井忠清にむきあうにつれても彼ほど実証的な検討を経ぬまま、ステレオタイプな専制政治家として描かれた人物はいない」
とある。

いや、一次史料から再検討を要する近世史上の人物は、酒井忠清にかぎるまい。田沼意次の再評価ははじまったばかりだし、松平定信も大きく見直さなければなるまいが、学界は、各種の事情から、定説の変更をしぶるかもしれない。

とにかく、いい史料がみつかったと、酒井忠清の実弟である日向守忠能の改易の原因となりそうなページを探したが、見つからなかった。

こんなふうに『寛政譜』を書きくだしたような文章であった。

忠清の弟忠能は、寛永五年(1628)に生まれ、同九年十二月一日に将軍家光に五歳で初目見えをすませ、同十四年一月四日に父忠行(ただゆき)の遺領のうち上野国那波・佐位、武蔵国榛沢の三郡の内において二万二千五百石の分知をうけた。同十八年八月、家綱の誕生の時には、矢取の役をつとめ、十二月晦日に従五位下・日向守に叙任された。同二十年に家綱付きとなり、三の丸の奏者番つとめた。正保二年(1645)八月八日に家綱の名代として日光山へ赴き、十二月十三日にも日光山代参をおこなった。慶安二年(1649)年四月、家綱の日光社参では前駆(さきがけ)役をつとめた(略)。

延宝七年(1679) 九月六日に小諸を改め、駿河国田中城に移され、駿河国志太(しだ)・益津(ましづ)両郡、および遠江国榛原郡などの郡内に一万石を加増されて、都合四万石となった。天和元年(1681)十二月十日所領没収となり、井伊直興(なおおき 近江彦根)へ預けられた。元禄元年四月十九日に赦され、同年八月十五日に廩米二千俵を与えられ寄合に列し(以下略)

---と『寛政譜』に新味も感情も考察もなにも加えない記述がつづく。これでは、『寛政譜』をじかに読むのと大差ない。

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忠能の改易までには探索の手がおよばなかったということであろうか。

忠清の役儀罷免は延宝8年(1680)12月9日である。隠居願いは翌年2月19日、病死は5月19日。
その7ヶ月後の忠能の除封である。
忠清が失敗した越後騒動が関係していたのではなかろうか。 『酒井忠清』ではそのことへは筆が及んでいない。

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2007.07.09

大久保相模守忠隣

大久保相模守忠隣(ただちか)は、譜代の名門・七郎右衛門忠世(ただよ)の嫡男として生まれ、優れた武将であるとともに、行政能力も確かであった。
しかし、家康(いえやす)歿後、江戸の内閣へ移ってきた本多上野介正純(まさずみ)と権力争いをすることになってしまった。
忠隣は、与力として重用していた、武田からの取立て組の地方巧者・大久保長安(ながやす)の不正があばかれ、正純はそれを口実に忠隣まで類をおよぼして失脚させた。
そのやり方は、忠隣を京都へ出張させておいて、そこで告示するという姑息なやりかたであったために、忠隣への同情が残るとともに、正純への反発も強まった。

大久保忠隣の譜を『寛永諸家系図伝』から引用する。事件にもっとも近い時代の2次史料として目をとおしておきたい。

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2007.07.08

本多上野介正純

本多上野介正純(まさずみ)は、駿府で大御所・家康に仕えて、江戸政府に家康の指示を伝えていた。
元和2年(1616)、家康と父・佐渡守正信(まさのぶ)があいついで歿すると、江戸へ移って幕閣入りし、辣腕を振るった。
芸州・広島藩49万8000石の福島正則(まさのり)を無届けの城改築を口実に改易するとか、政敵とみなされていた大久保相模守忠隣(ただちか)を失脚・蟄居へ追い込むなど、その策謀はみごとなほどであった。
しかし、宇都宮藩15万5000石の増封を受けたことで逆に政敵たちの陥穽(かんせい)にはまった形となり、断家の憂き目をみた。
政敵の嫉妬を警戒して、増俸をいましめていた父・正信の遺訓にそむいた結果という歴史家もいる。
(もっとも、見方を変えると、ダーティな陰謀は実務政治家・正純へ---と振られたともいえないことはない)。

『寛永諸家系図伝』から、正純を引用する。

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2007.07.07

本多佐渡守正信

本多佐渡守正信(まさのぶ)という、家康の側近で策謀をめぐらせ、その息・正純(まさずみ)の代で断家された仁の、『寛永諸家系図伝』の全文を掲げる。
家康の死は元和2年(1616)4月17日、75歳。正信はそのあとを追うように6月7日、79歳で卒した。Photo_392
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真田昌幸を高野山へ送ったのも、島津家に誓書を差しださせたのも、正信の手配によると。


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2007.07.06

田中城しのぶ草(17)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、昨日から暇ができると、懐中にした紙を取りだしては眺めていた。
書物奉行の中根伝左衛門に乞うて、写してもらった本多佐渡守正信(まさのぶ)・上野介正純(まさずみ)の父子の『寛永諸家系図伝』の家譜である。

徳川幕府に、大御所政治(駿府・家康)と将軍政治(江戸・秀忠)と呼ばれる時期があった。
家康側の有力側近が正信・正純、国師・崇伝であった。
秀忠側の江戸年寄(のちの老中)の大久保相模守忠隣(ただちか)、酒井雅楽頭忠世(ただよ)、土井大炊頭利勝(としかつ)らは、家康の名で頭ごなしに命じてくる正信・正純のやり方に不満をつのらせていただろうことは、容易に想像ができる。

加えて譜代たちには、本多父子に対して出戻りとの意識がある。
もっとも大久保忠隣や酒井忠世も、徳川体制を強固にするためには、時代が武功派から吏僚派に移りつつあることは十分にわきまえていた。
その上での権力闘争であった。

慶長19年(1614)12月、キリシタン禁圧のために京へ上っていた大久保忠隣へ、京都所司代・板倉伊賀守勝重(かつしげ)が豊臣側への内通を理由に改易を告げ、近江国栗本郡(くりもとのこおり)中村郷への蟄居(ちっきょ)を命じた。
この通告の奉書をたずさえた板倉勝重が宿舎へきたとき、将棋をさしていた忠隣は、そのままゆうゆうとさし終えてから沐浴、衣服を改めて下命をうけたと伝わっている。忠隣への同情者たちの心情がつくった伝説かもしれない。
内通の直訴状は、本多正純が80歳の馬場八左衛門に書かせたとのうわさも消えなかった。
ときに忠隣、62歳。
2年後に家康の逝去を聞いて剃頭した。

その正純への掣肘は、家康正信の死後6年を出ずしてくだされた。すなわち、世に宇都宮城の吊り天井事件として膾炙しているが、このことよりも、宣雄の心を捉えたのは正信が戻り新参となったときに配された配下が、伊賀者たちであったという事実。

彼らの探索・調略・謀策の能力を、有効に駆使したのが正信・正純ではなかったかと。
さらに、宇都宮藩改易のときに放免された伊賀者の多くが、その後、ふたたび雇用されたという。『寛永系図伝』には、だれが雇用したとは記されてない。

宣雄は、背筋に冷たいものを感じて、行灯の穂芯を見つめた。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.05

田中城しのぶ草(16)

大久保99家、本多100家と一口にいう。
そうはいっても、歴史に顔をだす大久保家は、宇左衛門忠茂(ただしげ)の次男・五郎右衛門忠俊(ただとし)系と、3男・平右衛門忠員(ただかず)系と、大雑把にみておけばよかろうか。

長谷川平蔵宣雄(のぶお)が手紙を書いたのは、忠俊(ただとし)から別家した荒之助忠与(ただとも)へあててだった。

_100_3忠員系では、武将としても幕閣としても名をなした七郎右衛門忠世(ただよ)と4弟で『三河物語』を書いた彦左衛門忠教(ただたか)、そして忠世の嫡子・相模守忠隣(ただちか)がいる。
本多佐渡守正信(まさのぶ)の策謀によって失脚したのが忠隣である。
(大久保家の家紋=揚藤の内の大文字)

もちろん、正信本多家は、上野介正純(まさずみ)の代に絶えているし、田中城の前城主・因幡守正珍(まさよし)の本多家とは直接にはつながらない。

宣雄は、そこのところを意識しながら、田中城ゆかりの末裔の方々を、因幡守正珍侯が個人的に招いて一夕を語りあいたいと考えておられるが、ご参席いただけるかと問い合わせ、趣旨をさらにお確かめになりたいということであれば参上するにやぶさかではない、とつけ加えた。
この宝暦9年(1759)、大久保荒之助は48歳。

忠与からは、しばらく返書がこなかった。大久保一門のあちらこちらに相談しているのだろうと、宣雄は推察した。
じっと待った。
むしろ、忠与がより多くの大久保家に意見を求めてくれれば、それだけ、長谷川の名前がひろまるというもの。
結果、参席しないといってきても、どうということはない。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.04

田中城しのぶ草(15)

書物奉行・中根伝左衛門がとどけてくれた、家康・秀忠時代の旗下(はたもと)・大久保甚左衛門忠直(ただなお)と息・荒之助忠当(ただまさ)の『寛永諸家系図集』の写しには、大久保家の概略も添えられていた。

それによると、大久保99家といわれるほど根をはっている一門の祖は宇都宮と名乗ったというから、東国武士の出だったのだろうか。
いつのころからか、三河へ移り住んで宇津を称していたという。
松平信光に奇縁で召しかかえられた。
それから4代を経て、五郎右衛門忠俊(ただとし)が大久保と改め、清康、広忠に任えた。
この忠俊の6番目の男子が忠直で、家康の麾下の武将。
田中城の定番(じょうばん)をまかされたのは69歳の老齢だったから、息・荒之助が副定番の格で助(す)けた。

その譜を目にしながら、長谷川平蔵宣雄は、じっと考えこんだ。

田中城は、その名のごとくに、田の中に川に囲まれて、ぽつんとある平城である。
平蔵の祖・紀伊守正長(まさなが)が、今川方の武将として、同族21名と配下300人を率いて守りについたときには、それほど強固な備えではなかった。
戦国末期には珍しい平城だったから、2万をこえる武田勢の城攻めを支えきれず、城を抜けて浜松の家康を頼った。
軍事に長(た)けた武田信玄は、田中城の地の利を一瞥で見てとり、三日月形の防衛堀と土塁を四方に築かせた。そのため、徳川方の幾度もの攻撃を耐えることができた。

Photo_391

この防御効果は、守将・蘆田(依田)右衛門佐(えもんのすけ)信蕃(のぶしげ)と三枝(さいぐさ)右衛門尉(えもんのじょう)虎吉(とらよし)の防戦ぶりにみうる。

信玄は、平城である田中城に、戦乱が終わったあとの城のあるべき姿を予見していたのかもしれない。
この国から戦(いく)さが熄(や)んですでに150年が経っていることを、宣雄は実感した。
終焉させたのは、もちろん、信玄ではない。
信玄軍には、祖先・紀伊守正長を三方ヶ原で討たれてもいる。

信玄が重くみた田中城に、家康歿後の徳川方は定番として、息を副えたとはいえ、69歳の老将をあてた。もはや、戦いはないとみたのであろう。

「うむ。上つ方のお許しがでたら、ぜひにも、この目で確かめたいものだ」
機会は、13年後の安永元年(1772)の晩秋に訪れた。
京都西町奉行として赴任する途次、東海道の藤枝から枝道して観察することができたのだが、これは先の先の話。本多伯耆守正珍(ただよし)侯は存命であった。

宣雄は、大久保甚左衛門忠直の後裔である荒之助忠与(ただとも)へ手紙をしたためて、下僕に持たせた。
大久保忠与(1200石)の屋敷は、鉄砲洲築地の長谷川家から、それほど離れてはいない浜町蛎殻町にあった。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.03

田中城しのぶ草(14)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、嫡子・銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぶため)が駿州・田中城下へ定番(じょうばん)調べに行っているあいだに、すでに判明している分だけでも進めておこうと考えた。

まず、銕三郎が学塾仲間の大久保甚太郎(じんたろう)からその史実を聞いたという、祖・大久保甚左衛門忠直(ただなお)のことをあたってみることにした。

書物奉行のところで調べることをおもいつき、知り合いを反芻して、中根伝左衛門へ行きついた。伝左衛門は、昨宝暦8年(11757)正月まで西丸の新番組の番士だったので、書院番士だった宣雄は、行きあうと目礼を交わしていた。
というより、家禄は稟米200俵と微禄だったが、年齢が20ほども伝左衛門が上だったので、宣雄のほうから先に礼をしたことから、目礼の交換がはじまったのである。

紅葉山の書物奉行所を訪ねると、伝左衛門は、黒い小さな顔いっぱいの笑顔で迎えてくれた。
長谷川どののご来訪とは、存外々々」
中根どのお力をお借りしなければ、考えが進まなくなりまして、参上いたしました」
「ほう、何事でござるかな」
「もし、お役目にさしさわりがなければ、駿州・田中城に定番がおかれた期間をお教えねがえれば---」
「お安いこと。ほかにも何か?」
「できれば、寛永諸家系図伝の、あるご仁の分を拝観させていただければ、ありがたき幸せ」

ここは、江戸城の中でも、本城からすこし距離をおいた紅葉山の一郭にある。火事による類焼を避けているのだ。
もちろん、火の気は禁物。
だから、煙草をたしなむ者は勤まらない。
中食のときのお茶も、本城から薬缶で運んでくる。

中根伝左衛門が奥へ入って同心に調べさせてくれたところによると、田中城は、
家康が府中に在城したあと、
紀伊へ移封された徳川頼宣が駿河を領していた慶長14年(1609)からと、
元和5年(1617)から幕領、
駿河大納言忠長が領した寛永2年(1625)から、
忠長が高崎へ幽閉されたあと、寛永8年(1633)から寛永10年まで。

「で、寛永諸家系図伝の、あるご仁とは?」
「元和5年から定番をなされた、大久保どのでござるが---」
「後日、写しをお手元へおとどけするということでは、いかがでござるかな」
「かたじけなく---」

翌日にとどけられた寛永諸家系図伝の大久保忠直と、その息・荒之助忠当(ただまさ)の家譜は、『寛政譜』とほとんど差がないので、ここでは後者を掲げる。
『寛政譜』にあって『寛永譜』にないのは、忠直家康から疵薬を下賜された件のみといってよい。

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ちなみに、忠直が田中城攻めで疵を負ったのは23歳のとき。
田中城の定番を発令されたのは69歳のとき。

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忠当が父の定番を助(す)けたのは29歳のとき。

ついでなので、当代の大久保荒之助(のち土佐守忠与(ただとも)の分も掲げておく。

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宣雄とこの仁との交渉の顛末はのちほど。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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2007.07.02

北条出羽守氏重

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(北条氏重画像 上厳寺所蔵 『掛川市史』より)

北条出羽守氏重は、正保元年(1644)3月18日、下総国関宿城から5,000石を加えられて田中城主(35,000石)となった。50歳であった。
54歳の慶安元年(1648)に、5000石加増されて掛川城に移った。

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(再建された掛川城の天守閣)

それから10年間、城主を勤め、万治元年(1658)年、64歳で歿した。継嗣の男子がいなかったので城地は収公、家は絶えた。

氏重は、徳川譜代の保科の出、しかも将軍・秀忠の庶子で保科家で養われた正之の叔父である。母の(久松)松平家の多却(ちか)姫は、家康の異父妹。
正之については、2007年7月1日[田中城しのぶ草(12)]

保科正直-正光-(養子)-正之
   多劫
       氏重(3男)

疑念は、64歳まで長生きしているのに、どうして養子を手当てしなかったかである。

室は杉原伯耆守長房(25,000石 常陸国新治郡小栗庄)の長女(彼女の甥の代に継嗣がいなくて絶えた)。娘は5人いて、すべて嫁がした。

長女=内藤出雲守忠清(5000石)の室
次女=土方杢助雄高(伊勢国菰野藩 15000石)の室
三女=近藤織部重信(4300石)の室
四女=大岡美濃守忠高(2700石)の室
五女=酒井和泉守忠時(7000石)の室

『掛川市史 中巻』(掛川市 1984.12.18)は、
氏重は万治元年11月朔日、66歳(?)で病死したと伝えられているが、一説には、正月の馬の初乗りで落馬したのが因であったといわれる。子供は男子がなく娘が5人あったが、娘に婿を取り嫡子として家ほ継がせることもねできたはずなのに総て他に嫁がせたのは幕府が一代限りと定めていたのであろうか、その辺は明らかでない(略)。
慶安4年(1651)12月幕府は末期養子の禁止を緩めて50歳以内の者に認めたが氏重は高齢のため適用されなかった。

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(大猷院(家光)霊屋 竜華院 『掛川市史』より)

氏重は明暦2年(1651)に城内長松山臨泉寺中に竜華院を建立、慶安4年(1651)薨去した三代将軍家光の霊牌の下賜を願って霊屋を設け」
るほど、徳川家に忠節ぶりを示したが、家名の断絶は避けられなかった。

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2007.07.01

田中城しのぶ草(13)

ようやく、日の出がはじまるらしい。
それまでの暁闇に黒ずんでいた大川(隅田川)の川面に、色がついてきた。
対岸の石川島の樹々も目覚たように、梢からそよぎはじめている。
用人や若党、家僕・家婢の幾人かが門の外まで見送りにでている。
長谷川平蔵宣雄(のぶお)と妻同然のお妙は、旅立つ銕三郎(てつさぶろう のちの平蔵宣以 のぷため)と老僕の太作に、鉄砲洲ぞいに明石橋(寒さ橋)までつき添った。

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明石橋(別名・寒さ橋 『江戸名所図会』 塗り絵師・ちゅうすけ)

「なに、田中城下まで48里(192km)じゃ。寺崎までを往還したとおもえばよい」
涙ぐみはじめているお妙にいいきかすように宣雄がいう。お妙は、上総(かずさ)国武射郡(むしゃこおり)寺崎郷の名主の娘である。太助も知行地・寺崎の農家から奉公に来て数十年になる。

宣雄はさらに、銕三郎を引き寄せて、そっとささやいた。
「太作はもう50をこえている。万事、太作のあゆみにあわせるようにな」
「ご安心ください、心得ております」

(銕三郎たちの旅程は、とりあえず、↓を参考にしていただこうか)。
東海道五十三次---広重&分間延絵図(1) 日本橋→江尻宿

書院へもどった宣雄は、きのう、銕三郎にいった駿河大納言(忠長)のことを考えた。

家康の次男・結城秀康(ひでやす)と忠直(ただなお)、第6子の上総介(かずさのすけ)忠輝(ただてる)、そして駿河大納言忠長(ただなが)などを指して、徳川氏の血液には、狂的要素が混入していたなどというのは、後世の研究家の指摘で、宣雄には関係ない。

忠輝にしても、忠長にしても、うまくすれば将軍になれたという不満が高じた狂気といえないこともない。

忠長は、甲府に幽閉されていたとき、金地院崇伝(すうでん)や南光坊天海を頼って、老職たちに俊悔の情を披瀝しているにもかかわらず、高崎で自裁に追いつめられた。
老職たち---酒井雅楽頭忠世(ただよ)、土井大炊頭利勝(としかつ)、青山大蔵大輔幸成(ゆきなり)たちは、家光を危険にさらす種は、どんなことがあっても除くという決意を変えなかった。
つまり、徳川の永続を期しているのだ。この方針は、いまの老中も変えていまい。
いってみれば、幕府の戦略である。

この戦略を心得た上で戦術を立てることが、長谷川家の安泰をはかることにつながる。

忠長公の駿府城時代の逸話で、こんなことが伝わっている。
忠直の実弟にあたる幸松丸は、秀忠が脇腹に生ませた子で、正室の怒りを恐れた秀忠は、譜代の下総・多胡の藩主・保科弾正忠正光に押しつけた。
信州・高遠(3万石)に転封になった翌寛永6年(1601)、19歳になっていた幸松丸は正之(まさゆき)として、秀忠に認知してもらうことを忠長に頼みにきた。
そのとき忠長は番士たちをすべて遠ざけて一人で会った。
ところが、正之が帰るときには、番士たち全員に見送らせた。
その処置を不思議がった近習が、忠長にわけを質(ただ)したところ、下総の田舎育ちゆえ不調法なところを家臣たちには見せたくなかったのだが、会ってみると、どうしてどうして、利発で礼にかなっていたので安堵し、皆に見送らせたのだと。

つまり、そこまで気くばりができる忠長が、狂気のふるまいをどのていど実際にやったのか、記録はすべて権力者側のものだ。疑念がわく。

ちなみにいうと、慶長13年(168)、保科正之は高遠から山形20万石へ移っている。

忠長の悲劇を頭からふりはらった宣雄は、登城の衣服に着替えはじめた。
陽はすっかり上っている。
銕三郎たちは、もう、品川宿を越えたろうか。

【参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (14) (15) (16) (17) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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