北条出羽守氏重
(北条氏重画像 上厳寺所蔵 『掛川市史』より)
北条出羽守氏重は、正保元年(1644)3月18日、下総国関宿城から5,000石を加えられて田中城主(35,000石)となった。50歳であった。
54歳の慶安元年(1648)に、5000石加増されて掛川城に移った。
(再建された掛川城の天守閣)
それから10年間、城主を勤め、万治元年(1658)年、64歳で歿した。継嗣の男子がいなかったので城地は収公、家は絶えた。
氏重は、徳川譜代の保科の出、しかも将軍・秀忠の庶子で保科家で養われた正之の叔父である。母の(久松)松平家の多却(ちか)姫は、家康の異父妹。
正之については、2007年7月1日[田中城しのぶ草(12)]。
保科正直-正光-(養子)-正之
多劫
氏重(3男)
疑念は、64歳まで長生きしているのに、どうして養子を手当てしなかったかである。
室は杉原伯耆守長房(25,000石 常陸国新治郡小栗庄)の長女(彼女の甥の代に継嗣がいなくて絶えた)。娘は5人いて、すべて嫁がした。
長女=内藤出雲守忠清(5000石)の室
次女=土方杢助雄高(伊勢国菰野藩 15000石)の室
三女=近藤織部重信(4300石)の室
四女=大岡美濃守忠高(2700石)の室
五女=酒井和泉守忠時(7000石)の室
『掛川市史 中巻』(掛川市 1984.12.18)は、
氏重は万治元年11月朔日、66歳(?)で病死したと伝えられているが、一説には、正月の馬の初乗りで落馬したのが因であったといわれる。子供は男子がなく娘が5人あったが、娘に婿を取り嫡子として家ほ継がせることもねできたはずなのに総て他に嫁がせたのは幕府が一代限りと定めていたのであろうか、その辺は明らかでない(略)。
慶安4年(1651)12月幕府は末期養子の禁止を緩めて50歳以内の者に認めたが氏重は高齢のため適用されなかった。
(大猷院(家光)霊屋 竜華院 『掛川市史』より)
氏重は明暦2年(1651)に城内長松山臨泉寺中に竜華院を建立、慶安4年(1651)薨去した三代将軍家光の霊牌の下賜を願って霊屋を設け」
るほど、徳川家に忠節ぶりを示したが、家名の断絶は避けられなかった。
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コメント
北条出羽守氏重は後北条の末裔かと思いきや、松平容保の祖、名宰相保科正之とは以外でした。
投稿: 大島の章 | 2007.07.02 18:19
松平容保は保科正之の直系ではなく、高須松平家からの養子ですね。言葉足らずでした。
氏重は正之の孫と言うことですが、この北条は?
昨日はこのコーナーに掲載されている寛政重修諸家譜を時間がなく、しっかりみれませんでしたので。
投稿: 大島の章 | 2007.07.03 08:48
北条氏重の北条姓ですが----
遠江かな、高天神城主に福島上総介正成がいます。
その子・左衛門大夫(上総介)が相模に移って北条氏綱に仕え、娘婿となって北条綱成。
正成-綱成-氏繁-氏勝-氏重
投稿: ちゅうすけ | 2007.07.03 10:19
大島の章様
北条氏重の北条は御北条(小田原北条)の系統ですね
早雲庵宗瑞(北条早雲)のことを調べていたところなんです。
御北条の2代目の氏綱の娘婿になった福島正成の子綱成は北条姓に改姓します。
相模の国玉縄城主(鎌倉市内現在は清泉女学院)になりー氏繁ー氏勝と続き玉網城主でしたが、秀吉の小田原攻防の時家康に降伏し、後に家康の家臣になり、
下総国岩富藩(一万石)を与えられます。
氏勝死後に氏重が養子に入りそのまま岩富藩ー下野富田藩-遠江国久野藩ー下総国関宿藩から田中城へはいったのです。
調べていると複雑で掛川藩を最後に改易になったのも
色々想像できて興味深いですね。
投稿: みやこのお豊 | 2007.07.03 21:20