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2007.07.08

本多上野介正純

本多上野介正純(まさずみ)は、駿府で大御所・家康に仕えて、江戸政府に家康の指示を伝えていた。
元和2年(1616)、家康と父・佐渡守正信(まさのぶ)があいついで歿すると、江戸へ移って幕閣入りし、辣腕を振るった。
芸州・広島藩49万8000石の福島正則(まさのり)を無届けの城改築を口実に改易するとか、政敵とみなされていた大久保相模守忠隣(ただちか)を失脚・蟄居へ追い込むなど、その策謀はみごとなほどであった。
しかし、宇都宮藩15万5000石の増封を受けたことで逆に政敵たちの陥穽(かんせい)にはまった形となり、断家の憂き目をみた。
政敵の嫉妬を警戒して、増俸をいましめていた父・正信の遺訓にそむいた結果という歴史家もいる。
(もっとも、見方を変えると、ダーティな陰謀は実務政治家・正純へ---と振られたともいえないことはない)。

『寛永諸家系図伝』から、正純を引用する。

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コメント

『武野燭談』にこんな話が載っています。

家康、正信の歿)後、上野介江戸へ召還され、(秀忠の)御旨に叶い、だんだんに御加恩を給わり、根来(ねごろ)法師百人、伊賀組百人をも正純に預けられ、野州
宇都宮り城主となった。
しかるに、将軍家、日光御社参のみぎり、宇都宮は御成道(おなりみち)だからと、修覆丁寧に申し付けられた。
この普請役を根来どもに申し付けたのに、われわれは鉄砲衆で普請役はやつたことがないと下知を拒否した。
正純は怒って、根来の百人を残らず成敗していしまった。これは正純の驕りの第一である。

天和8年(1622)、日光御社参の節、宇都宮へおもむき、御設の事品々を用意したのに、御旨に叶わないことが多かったのか、上野介を奥州由利へ永く左遷された。
されば伊賀組の与力(20人)同心(百人)も、このときに縁座にかかわって、稲毛の領地から召し放たれ、数年浪人していたが、その後召還され、御先手になったと。

この人数が先手へとなると、3,4組にばらまかれたろう。弓の第2組---その後、長谷川平蔵が組頭になった組にも、伊賀者がまじっていたろうか。

投稿: ちゅうすけ | 2007.07.09 07:07

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