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2007.07.06

田中城しのぶ草(17)

長谷川平蔵宣雄(のぶお)は、昨日から暇ができると、懐中にした紙を取りだしては眺めていた。
書物奉行の中根伝左衛門に乞うて、写してもらった本多佐渡守正信(まさのぶ)・上野介正純(まさずみ)の父子の『寛永諸家系図伝』の家譜である。

徳川幕府に、大御所政治(駿府・家康)と将軍政治(江戸・秀忠)と呼ばれる時期があった。
家康側の有力側近が正信・正純、国師・崇伝であった。
秀忠側の江戸年寄(のちの老中)の大久保相模守忠隣(ただちか)、酒井雅楽頭忠世(ただよ)、土井大炊頭利勝(としかつ)らは、家康の名で頭ごなしに命じてくる正信・正純のやり方に不満をつのらせていただろうことは、容易に想像ができる。

加えて譜代たちには、本多父子に対して出戻りとの意識がある。
もっとも大久保忠隣や酒井忠世も、徳川体制を強固にするためには、時代が武功派から吏僚派に移りつつあることは十分にわきまえていた。
その上での権力闘争であった。

慶長19年(1614)12月、キリシタン禁圧のために京へ上っていた大久保忠隣へ、京都所司代・板倉伊賀守勝重(かつしげ)が豊臣側への内通を理由に改易を告げ、近江国栗本郡(くりもとのこおり)中村郷への蟄居(ちっきょ)を命じた。
この通告の奉書をたずさえた板倉勝重が宿舎へきたとき、将棋をさしていた忠隣は、そのままゆうゆうとさし終えてから沐浴、衣服を改めて下命をうけたと伝わっている。忠隣への同情者たちの心情がつくった伝説かもしれない。
内通の直訴状は、本多正純が80歳の馬場八左衛門に書かせたとのうわさも消えなかった。
ときに忠隣、62歳。
2年後に家康の逝去を聞いて剃頭した。

その正純への掣肘は、家康正信の死後6年を出ずしてくだされた。すなわち、世に宇都宮城の吊り天井事件として膾炙しているが、このことよりも、宣雄の心を捉えたのは正信が戻り新参となったときに配された配下が、伊賀者たちであったという事実。

彼らの探索・調略・謀策の能力を、有効に駆使したのが正信・正純ではなかったかと。
さらに、宇都宮藩改易のときに放免された伊賀者の多くが、その後、ふたたび雇用されたという。『寛永系図伝』には、だれが雇用したとは記されてない。

宣雄は、背筋に冷たいものを感じて、行灯の穂芯を見つめた。

参照】2007年6月19日~[田中城しのぶ草] (1) (2) (3) (4) (5) (6) (7) (8) (9) (10) (11) (12) (13) (14) (15) (16) (18) (19) (20) (21) (22) (23) (24) (25)

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