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2007.05.12

細川越中守宗孝(むねたか)の刃傷事件

2007年5月11日[本多伯耆守正珍のエピソード]に、江戸城内での本多伯耆守正珍(まさよし)のエピソードを、  『現代語訳 田中藩史譚』 から引いた。

延享4年(1747)8月15日のこの事件は、 『徳川実紀』にもうすこし詳しく記載されており、『現代語訳 田中藩史譚』といささかニュアンスが異なる。
本多伯耆守正珍の性格にもかかわることなので、長めだが、引用してみる。

【○十五日 月なみの拝賀なれば群臣出仕す。然るに細川越中守宗孝もおなじくまうのぼりしが、辰のときばかりに、大広間のかはやのもとにいたりしに、うしろよりなにものともしれず、差添もてきりつけたり。】

Photo_355将軍(家重)への定例のご拝賀の日にあたっていたので、諸大名や重臣たちが登城していた。
午前8時すぎであったろうか、細川越中守宗孝(むねたか 熊本藩主 32歳 54万石)もそのなかの一人として、大広間・北の落縁にある厠(かわや)のあたりを歩いていると、何者かが背後から差添で斬りかかって、何箇所も傷をおわせた(左は細川家の九曜紋)。

【朝会の輩擾騒してその事聞えしかば、上直のくすしをはじめ、朝参せし医どもまでめしあつめられ、療治せしめらる。】

朝会に参列の諸侯が「医師ッ 医師ッはおらぬか」と騒ぎたてので、宿直の医師をはすじめ、登城してきていた医師たちが治療に当たった。

【さて、宗孝をあやめし者をたづね出さんとて、目付等ここかしこもとめしに、さらにたづね得ず。よて、玄関のまゐら戸をとざし、諸門を打たせて出入りを禁ず】

宗孝に傷をおわせた犯人を、目付があちこち探がしたが、見つからない。そこで、玄関への戸を閉ざし諸門も扉をと閉めさせた。

【かかる内に宗孝いたてゆえ、元気よはりければ、ことに奥医武田叔庵信郷、おなじく外科西玄哲規弘に療治の事仰下りて、葠湯をたまひ、、湯漬の飯を下され、かれが家人二人を殿中にめして看侍せしめらる。】

数箇所におよぶ宗孝の傷はかなり重傷でだいぶんに弱ってきた。奥医・武田叔庵信郷と外科医・西玄哲規弘に手当てを仰せられ、葠湯と湯飯を下された。御殿の外に控えていた藩中の供の者のなかから、2人を特別に殿中に呼んで看護させた。

【やがて、大広間の厠の中に、何ものともしれず、ひそみ居けるものありしかば、尋よりてこれを見るに、寄合板倉修理勝該なり。目付等事のさまとひきはめしに宗孝をあやめしよしをこたちへたれど、そぞろごといひて、失心のさまなれば、蘇鉄の間のかたにとらへ置、網をかけたる轎にのせて水野大監物忠辰にめしあずけらる・】

そうこうしているうちに、大広間の厠にひそんでいた寄合・板倉修理勝該(かつかね 6000石 35歳?)が見つかった。目付たちがいろいろ尋問したが、越中守宗孝に斬りつけたことは認めたが、あとは失心でもしたかのようにしどろもどろなので、蘇鉄の間に引きこんで、網をかけた轎(竹かご)に押しこんで、水野大監物忠辰(ただとき 岡崎藩主 5万石)に預けられた。

【この事、宗孝が家士に告しめられんとて、中らひある織田山城守信旧に命じてかの邸へいたらしむ。さて、宗孝を、殿中まで轎かき入。家におくりかへさせ給ふ。このとき宿老いまだのぼらざるまへなれば、よろづの事、御側まの輩御旨をうけ給はりて事はからひしとぞ。本多伯耆守正珍、少老本多伊予守忠統は直月なれば、此事により速に出仕し、それよりの事どもはからひしなり。】

事件の成り行きを熊本藩に告げるべく、内室が細川家の姫という縁筋の織田山城守信旧(のぶひさ 柏原藩主 2万石)がさしつかわされた。轎を殿中まで運び入れて重傷の宗孝を乗せておくった。
このときまで月番老中・本多伯耆守正珍と若年寄・本多伊予守忠統(ただむね 伊勢神戸藩主 1万5000石)はただちに登城、あとのことにあたった。

付記:細川越中守宗孝は、手当ての甲斐もむなしく、翌16日に息を引き取った(『現代語訳 田中藩史譚』は17日としている)。
Photo_357犯人・板倉修理勝該は、自分を廃嫡にしようとした本流・板倉板倉周防守勝清(かつきよ 安中藩主 2万石)の板倉巴紋と細川宗孝の九曜紋を見間違えての刃傷だったというが、よほど目が悪かったか、殿中が薄暗かったか。

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コメント

事が治まってからの登城では、「現代語訳・田中藩史譚」とは大分話が違いますね。藩士の息子が著者ということで、偏りはあるとは思いましたが。反対側から書いたものなどあるのでしょうか。

投稿: SBS学苑鬼平クラス安池 | 2007.05.12 15:28

いえ、『徳川実紀』は、うんと後年に学者たちが史料を参照しながらつくったものですが、この件に関しては、参考にした資料を明期していせん。
それで、調べようがあれません。

投稿: 西尾忠久 | 2007.05.12 15:40

女子大の講義が一山越えてほっとしたので、神経を休めがてら図書館地下書庫で探索致しました。

霞会館出版の「国乃礎 : 華族列伝. 中編」(明治27年ごろに出版されたものの復刻のようです)に、従四位子爵本多正憲という人の履歴が載っています。

徳川宗家が静岡に移されたので安房長尾に移ったまではご存知のとおりで、このとき「当主正憲嘉永二年(1849)六月十一日を以て江戸に生まる」(以下手っ取り早く新かなで要約しますが、原文はご想像のとおり旧カナです)幼名は朝太郎、実は従五位の下遠江守本多正意の次男本多正貞の長男なり当時従四位子爵を以て同爵中の互選により貴族院議員たり(この「当時子爵だった」というのがいつの誰かよくわからないのですが)。

この後本多正憲氏は長尾藩知事、補大講義、三島神社宮司を経て、宮中祇侯となり、「明宮(はるのみや・後の大正天皇)祇侯」という役を仰せ付かります。このへん、どういう役目か全くわからないで移していますが、その後「昭宮祇侯」(夭折した明治天皇の第四皇子)を仰せ付かって五日で罷免(皇子夭折のため)、明治23年7月貴族院議員当選、25年7月に従四位に叙せらるる。

ということで多分、青山墓地には「従四位子爵本多正憲の墓」があると思います。(と思っていまウィキペディアで調べたら、簡単ですが載っていました。)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E5%A4%9A%E6%AD%A3%E6%86%B2

投稿: えむ | 2007.05.12 19:59

>えむ さん
わざわざお調べいただき、ありがとうございます。
そうか、藩主なんだから、華族事典というテもあったのですね。もっとも、わが家にもそんなものありませんが。
正憲の名を手がかりに、青山墓地を当たってみます。
正珍さんの性格が知りたいだけなんですが、墓域にただずめば、なのにひらめくかも知れません。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.13 12:36

熊本の公式ホームページによると、この事件以来細川家の九曜紋は現在のようなデザイン(アップされている九曜紋より間隔があいている)に変わったそうで、
羽織の紋も通常は5ヶ所が今は7ヶ所ですとか。

投稿: みやこのお豊 | 2007.05.13 12:59

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