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2007.05.13

細川越中守宗孝の刃傷事件(2)

2007年5月12日[細川越中守宗孝の刃傷事件]に関する『徳川実紀』の記述のつづきである。

前回は、知らせを受けた月番老中・本多伯耆守正珍(まさよし 駿州・田中藩主 4万石)と若年寄・本多伊予守忠統(ただむね 勢州・神戸藩主 1万5000石)が事件の知らせをうけて急ぎ登城、あと処置にとりかかったところまでを引いた。

【また、永井伊賀守直陳御使者奉りて、宗孝が家にまかり、御たづねの仰をつたえぬ。次の日掘田相模守正亮またその邸にまかり、さきに弟民部をかわりの養子に聞えあげ置たれば、かつて継嗣の事は心安かるべければ、しづかに手きず養べしと、いとねんごろなる特旨をつたふ。】

永井伊賀守直陳(なおのぶ 奏者番 武州・岩槻藩主 3万2000石)が将軍の代理として、大名小路にある細川越中守宗孝(むねたか 肥州・熊本藩主 54万石)の上屋敷へ、見舞いの使者に立った。
翌日には、老中の掘田相模守正亮(まさすけ 下総・佐倉藩主 10万石)が細川屋敷をおとない、継嗣のことは、さきに仮の養子として2歳違いの弟・重賢(しげかた)との届けがでいるから、安心して、心置きなく養生にはげまれたいと述べた。
(注:重傷の宗孝は32歳。室は紀伊大納言宗貞卿の息女だが、まだ子がなかったらしい。国持ち大名は、参勤交で帰国のさい、まさかのときの世継ぎの名を書いた奉書を幕府に差し出し、上府すると戻してもらうしきたりになっていたという。そのしきたりに準じての継嗣なのか、あるいは別段で届けていたのかは不明)。

【(世に伝ふる所は、板倉修理勝該、日ごろ狂癇の疾ありて、家をおさむべきものならねば、宗家の佐渡守勝のはからひにて、勝該を致仕せしめ、勝清の庶子もて家つがせんとをきてしを、勝該聞付て、はじめこの事はかりしをのが家人をころさんとせしかば、其家人はではしりぬ。よて勝清ひそかに勝該を家にこもらせおきしが、勝該はとかくいひこしらへてけふ出仕し、勝清を御所のうちにて、一太刀にきりすてんとおもひもうけしが、細川越中守宗孝が家の紋の似かよひたるにまどひて心みだれ、かつ、見たがひて殺害せしといふ。これしかしながら、修理狂気のいたす所にて、害せし後も、すずろ言のみいひさせぎしとぞ。)】

(いろいろ調べていくと、板倉修理勝該(かつかね 35歳? 6000石 寄合)は、日ごろから奇矯な言動があり、一家の主人としては不適当ということで、板倉一門の宗家で側用人・佐渡守勝清(かつきよ 上州・安中藩主 2万石)は、勝該を致仕・隠居させ、自分の5人の男子のうちから家督を継がせるべく相談に乗っていた。
そのことを知った勝該は、家人(妻は建部丹波守政民の女。ただし妻とはかぎらず、用人ということも考えられる)を斬ろうしたが、家人は姿をくらませた。
このことがあって、佐渡守勝清は、勝該を屋敷内に閉じこめておくように指示したが、なんのかのと理由をつけて登城し、江戸城内で勝清をねらっていたが、たまたま、紋が似ている細川越中守宗孝を見誤って斬りつけてしまった。
取りおさえられたあとにいうことも意味をなさず、これはもう、狂気の沙汰としかいいようがない)

付記:板倉修理勝該は、預けられていた水野大監物忠辰(ただとき 岡崎藩主 5万石)の屋敷で同月26日に切腹、家は改易となった。

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コメント

江戸城中での刃傷事件は検索しただけで7件ヒットしました、詳しく文献をあたればもっとあるかもしれません。
事件後の処置如何によって、一層の遺恨を残すので、
月番老中・本多伯耆守正珍の才覚がうかがい知れるようです。

投稿: みやこのお豊 | 2007.05.13 13:07

ほう、7件もありますか。
老中・堀田氏の件、
浅野の件
田沼意知の件と、
こんどの細川越中守の件
の4件はわかるけど、
あとの3件がわかりません。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.13 13:40

寛永5・豊島刑部少輔明重事件
享保10・水野忠恒の件
文政6・松平外記の件

投稿: みやこのお豊 | 2007.05.13 15:19

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