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2007.05.07

本多伯耆守正珍(まさよし)

2007年5月某日、朝、8時6分東京駅発〔ひかり〕で、静岡県立中央図書館へ史料を探しに行く。
この列車だと、静岡駅から草薙駅へ引き返し、バス。9時から開館している図書館へ、ちょうどいいのだ。

目的は、本多三弥左衛門正重(まさしげ)からははじまった本多家は、6代目・正矩(まさのり)のときに、駿州・益津の田中藩(現・藤枝市)に移封。

次の7代目藩主が、老中をつとめた伯耆守正珍(まさよし)である。
長谷川家の7代目を養子相続をした平蔵宣雄(のぶお)との初接触は、2007年5月1日[宣雄、異例の出世]の項に記した。

宣雄との接触度を類推するために、さらに、正珍の人柄の手がかりを知りたくなった。

正珍が礼式にくわしいことは『寛政譜』からも読みとれる。
郡上八幡の藩主・金森頼錦(よりかね)に対する一揆の処置をめぐって、老中を辞めさせられた経過は、大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波現代文庫 2001.6.15)にくわしい。 鷹揚すぎるところもあったようだ。
38年の長期間、田中藩主であった。そのあいだに、 『寛政譜』のような公式記録には記録されるべくもない、一人の人間として、いろん面を見せているはず。

正珍の人柄の記録を読むには、静岡県立中央図書館にしくはないと、断じたのである。

150_7館の係に希望を申し出たが、初めて受けた相談らしく、PCで検索---ったって、google みたいに史料の内容まで入力しているわけではないから、書名であたりをつけるだけ。
『藤枝市史』は手持ちしているから、不要と告げる。

非開架式の奥の部屋から取り出してきたのが、ガリ版刷を製本した『田中城 本多御系図御家譜大略 解字』
坂野徳治という市井の研究家のご苦労の作だが、「正珍公御条目御定書(おさだめがき)」の部分だけコピー。
多分、幕府が各藩へ示したものの写しだ。

130_16さらに奥から出されたのが池谷盈進さん『現代語訳 田中藩史譚』(1994刊)。
「子の正珍公が立つ。人に情け深く、親に孝行で人材を大切にした---うんぬん」
うーん、これって、誰にでもあてはめられる形容だなあ。

「従五位に叙され紀伊守に任ぜられる」
これも、宣雄との会話の一つにはなりそうな---長谷川平蔵家の祖・正長は、今川の田中城主時代、紀伊守(きのかみ)を称し、武田信玄軍勢の猛攻にあい、一族と徳川へ走っている。

「元文2年(1737)奏者番(そうじゃぱん)となり、4年寺社奉行を兼ね、延享2年(1745)天下の朱印状を審訂し、3年(1745)老中を拝命し---」老中就任は36歳---政治的なやり手でもあったのだ。
しかし、この記述は『寛政譜』を写しているだけとみる。

けっきょく、これ以上の史料は見つからなかった。
あとは、藤枝市資料館へ問い合わすしかなさそう。
家臣のエッセイがあるはずなんだが、幕末に安房国長尾へ移封されているから、資料もそっちにあるのかもしれない。

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コメント

連休最後の混雑の中の資料探しの旅、お疲れ様でした。
結局成果がなかったのですね、でも先生のことですから、わずかな資料の中から素晴らしい発想で推理され新しい史実が発掘できるかもしれません。期待してます。

投稿: みやこのお豊 | 2007.05.07 09:01

図書館での滞留---1時間半というスケジュールがネックだつたかもしれません。
事前に、手紙で「こういうことを調べたい。ついては、いついつ伺うから、資料を下見しておいていただきたい」といったことを頼んでおくべきでした。
思いたったのが、切羽つまってからでしたから。

投稿: ちゅうすけ | 2007.05.08 08:26

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