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2005.11.07

〔火前坊(かぜんぼう)〕権七

『鬼平犯科帳』文庫巻1に入っている、シリーズ初期の秀作の一つ[老盗の夢]で、あと一トばたらきと願う元大盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助へ、〔前砂(まいすな)〕の捨蔵が紹介した、〔野槌(のづち)〕の弥平の配下だった3人の30男の1人が、この〔火前坊(かぜんぼう)〕権七。
(参照: 〔蓑火〕の喜之助の項)
(参照: 〔前砂〕の捨蔵 の項)
(参照: 〔野槌〕の弥平の項 )
あとの2人も、すでに逮捕・処刑された〔野槌〕一味で生き残りの、〔印代(いしろ)〕の庄助と〔岩坂(いわさか)〕の茂太郎。
(参照: 〔印代〕の庄助の項)
(参照: 〔岩坂〕の茂太郎の項)

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年齢・容姿:屈強な30男。
生国:「火前坊」は、各種地名辞書に見当たらない。
が、池波さんがこれから造ったなという「我前坊(がぜんぼう)谷」は、江戸にあったし、「我前坊町」は明治2年(1869)から昭和6年(1931)まで港区にあった町名である。
江戸時代、我前坊谷に割り当てられていた先手組組屋敷は、筒(てっぽう)組の第7,8組の2組。うち、第8組は、長谷川平蔵が火盗改メの本役のとき、冬場の助役を2度つとめた松平左金吾定寅の組下だった。
我前坊の由来は、将軍・秀忠の夫人(崇源院殿)をここで火葬にし、建てた御堂「龕前堂(がんぜんどう)」がなまったものという。

探索の発端:(〔印代〕の庄助の項から転載)この盗人仲間同士の決闘物語には、火盗改メは直接にはからんでいない。
引退先の京都郊外の山端(やまはな)の飯屋の座敷で給仕をしている大女おとよの躰に、久しぶりに男性としてのきざしが蘇った〔蓑火〕の喜之助は、おとよとの生活資金をつくるぺく江戸へ下り、〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門の盗人宿の番人〔前砂(まいすな)〕の捨蔵に、臨時の助っ人の世話を頼んだ。
(参照: 〔夜兎〕の角右衛門の項)

結末:〔縄抜け〕の異名をもつ喜之助は、うまく縄から抜け出て、九段下の屋台にいた3人を襲い、まず〔印代(いしろ)〕の庄助と〔火前坊(かぜんぼう)〕権七が刺される。そのあと、喜之助は、〔岩坂〕の茂太郎と相打ちの形で斃れた。

つぶやき:池波さんが「我前坊坂」に気がついた経緯を推理してみる。
ここに組屋敷を賜っていた先手・筒の第8組の存在に気づいたというより、別の津の理由がありそうだ。
というのは、『大武鑑』の寛政3年の先手組頭の項で、長谷川組の組屋敷の所在の「目白台」を平蔵の拝領屋敷と早合点した池波さんである。
『大武鑑』の同じ項に、松平左金吾---「我前坊坂」とあったのを、平蔵と左金吾の確執とは関係なく、おもしろい地名と記憶したのであろう。
松平左金吾は、ことごとに長谷川平蔵に逆らった実在の仁で、久松松平の一族。

付記:
豊島のお幾さんから、〔火前坊〕は妖怪名から採られてはいまいか、とのご教示があった。
さっそくに鳥山石燕『画図百鬼夜行』(国書刊行会 1992.12.21)を確かめた。
『鬼平犯科帳』に登場している盗賊のうち、その「通り名(呼び名)」を妖怪から借用したとおもえるのが15名いた。
〔火前坊〕もその中の1人ともいえる(この仁にかぎって「我前坊」の影響も否定しがたい)。
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絵に添えられているのは---、
「鳥部山の煙たちのぼりて、竜門原上に骨をうづまんとする三昧の乳りあやしき形の出たれば、くはぜん坊とは名付けたるならん」
京都郊外の鳥部野には火葬場があった。

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コメント

ふと思ったのですが、火前坊も蓑火も今昔百鬼拾遺に出てくる妖怪の名前ですね。

火前坊
http://www8.plala.or.jp/feedingspot/kazennbou.html
蓑火
http://www8.plala.or.jp/feedingspot/minobi.html

投稿: 豊島のお幾 | 2005.11.08 11:17

びっくりしました。
昨夜、再度ビデオ「老盗の夢」を見て、再度文庫本を読んだばかりだったのです。

深いですねえ。名前ひとつにしてもおくが深い。
それを追求するひともまた。

投稿: おっぺこと那の津のお加代 | 2005.11.18 09:25

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