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2007年3月の記事

2007.03.31

[女掏摸お富]と くノ一

_2_2[2-3 女掏摸(めんびき)お富〕は、『オール讀物』1968年(昭和43)10月号に発表された。
長谷川平蔵が46歳、従兄弟の三沢仙右衛門は53歳の寛政3年(1791)の初夏の事件。ヒロイン女掏摸・お富25,6。

池波さんは、[女掏摸お富]の3年前の1960年、 『週刊朝日別冊 秋風特別号』[市松小僧始末]という、実在していた掏摸を短篇に仕上げている。
100_30ネタの出所は、三田村鳶魚[五人小僧]( 『泥棒づくし』河出文庫 1988.3.4)の市松小僧であろう。
初代佐野川市松が着た黒白の石畳模様がゆえんの市松模様を身につけていたことからの〔二つ名(異称)〕であると。
それほど華奢で小粋なイケメンだったらしい。

池波さんの師匠筋の長谷川伸さんには、青年時代に市松小僧のような美貌の掏摸の友人がいた。
若い女のように美人だったから〔くノ一〕が渾名(あだな)だった。
師が1928年(昭和3)に書いた[舶来巾着切]は、この〔くノ一〕を主人公とした戯曲である。
ついでに記すと、戦後に流行った女忍者を「くノ一」と呼んだのは、美少年〔くノ一〕を主人公にすえた長谷川伸さんの一連の小説や戯曲に由来している。

〔二十六日会〕〔新鷹会〕の勉強会で、長谷川伸師はおしげもなく、自分の体験をすべて公開したとエッセイ『石瓦混肴』にある。

捨て子だったお富を拾い育ててくれた掏摸一家の元締(もとじめ)・〔霞〕の定五郎が課した修行---どんぶりに盛った砂の中へ2本の指を出入りさせて鍛える掏摸の基本技なども、長谷川伸師から聞きもしたろう。
また、師の初期の巾着切もの小説や[舶来巾着切][掏摸の家]などでも学んだであろう。

長谷川伸師の書きものを読むと、池波さんがこの師から得たものは、はかりしれないほどあることがわかってくる。
池波さんに会得する強い意志が備わっていたからであることは、いうまでもない。

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2007.03.30

小柳安五郎と『沓掛時次郎』

_8池波さんが、同心・小柳(こやなぎ)安五郎にはっきりした性格を与えたのは、[8-2 あきれた奴]であるから、ずいぶん遅い。
小柳安五郎の初登場は[1-3 血頭の丹兵衛]で、島田へ潜んでいるとみられる首領・〔血頭(ちがしら)〕丹兵衛の探索へ出向いた。
その後、[5-7 鈍牛(のろうし)]では、酒井、竹内、山田同心と並べて「腕きき」と評価されているが、どのように「腕きき」なのかは明かされていない。

[あきれた奴]で、小柳家の菩提寺が浅草・阿部川町の竜福寺と、ぼくたちに知らされる。
そこには、小柳安五郎の妻子が眠っている。亡妻の名は、みつ。初産が難産で、母子ともに助からなかった。
その死に、安五郎は立ちあえなかった。一昨年---寛政3年(1791)の寒い雪の朝であった。

小柳安五郎は、その七日ほど前から盗賊・日影(ひかげ)の長右衛門一味を捕らえるため、非番も当番もなく他の同僚と共に清水門外の役宅へつめきっており、妻子の死に目にあえなかった。
日影一味の捕物がすんで、長官(おかしら)の長谷川平蔵は、竜源寺の墓へ詣ってくれ、
「小柳。ゆるせよ」
と唯一言、うめくがごとくにいったものだ。

その後、犯人にも人情を配慮するようになった小柳安五郎を、精神的に立ち直ったと断じ、
(小柳安五郎も三十を越した。男をみがく年齢だ)
と、鬼平は期待をかける。

話題が変わる。

100_29長谷川伸師の代表戯曲の一つである『沓掛時次郎』は、1928年(昭和3)『騒人』誌7月号に発表された。
『騒人』は、小説家村松梢風の個人雑誌だったが、販売不振にあえいでおり、すでに人気時代小説作家となっていた長谷川伸師は、友情から、原稿料なしで幾篇かの戯曲を同誌に寄せていたのである。
『沓掛時次郎』はそれらの中の1篇だが、事情が事情だけに、上演の予定はまったくなかった。

名作に数えられている『沓掛時次郎』のあらすじをいまさら紹介するのも気がひけるが、若い読み手のためにやってみる。
19360
英泉 木曾街道・沓掛ノ駅 平塚原雨中之景

信州・沓掛(くつかけ)生まれの渡世人・時次郎は、下総(しもうさ)のさる親分のところで一宿一飯の恩義をうけたために、中川一家を一人でつづけている〔三ッ田〕の三蔵を斬ってしまう。

時次郎は賭博から足を洗い、長脇差(どす)も捨て、三蔵の妻子・おきぬと太郎吉を守って中山道・熊谷宿へ流れてきた。
09360
英泉 岐阻(きそ)街道 深谷之駅

おきぬが産気づく。生まれるのは三蔵の子である。
出産の費用をかせぐべく、時次郎は出入りの臨時助っ人にやとわれ、金を手に戻ってきてみると、おきぬは難産で帰らぬ人となっていた。

頼りにしている人の留守中に難産で逝ってしまうところが共通している。
もっとも、小柳の妻みちは初産、おきぬは二度目のお産だが。

池波さんが[あきれた奴]を構想したとき、[沓掛時次郎]がふっと頭をよぎったといっては、池波さんを冒涜したことになるだろうか。
いや、そんなことはない、と信じたい。

【つぶやき】 小柳家の菩提寺---阿部川町の竜源寺だが、町名は台東区元浅草3丁目と改まり、竜福寺と了源寺が隣りあっている。
池波さんが少年時代をすごした永住町はすぐそこである。
2寺の寺号から一字ずつとって小柳家の香華寺としても、なんの不思議もない。

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2007.03.29

〔新鷹会〕の勉強法

長谷川伸師の没後1年余、七保(なお)夫人が、活字になっていない草稿があるといって門下の村上元三さんたちへ示されたのが『石瓦混肴』と表題のついた紙塊である。私家版としてまとめられた。

〔新鷹会〕〔二十六日会〕の勉強法が、こんなふうに書きとめられている。

私どもの勉強のやり方の一つに、批評はいらない、必要とするものは”助成”の案の持ち寄りである、というのがある。
一番いいことは、立派な批評と、人それぞれの助成案とが、抱きあわせになって出ることだが、かなり大人でないとこれは出来ない芸なので、作品の助成に主力をそそぐ、というやり方を専らやってきた。

(かなり大人でないと---)というところで、胸にトゲがささったように痛みをおぼえた。
じつは、二十代前後に、ある同人誌のメンバーだった。
月1回だか隔月だかに合評会を持った。
痛烈、苛酷な批評が行き交った。いや、批評というのもおこがましい。50年の歳月をおいていま振り返ると、揚げ足取り同然の、幼稚な批判の山積みにすぎなかった。
その試練のなかから、よくもまあ、谷沢永一さんや開高健くん、向井敏くん、牧羊子さんが世にでたものだ。

もし、長谷川伸師のような方が、合評会をいましめ、指導してくださっていたら、もっと多くの作家や詩人や歌人が育っていたかもしれない。若気のいたり、痛恨の反省---いまさら追っつかないのだが。

120_10 〔新鷹会〕〔二十六日会〕が池波正太郎という作家の成長に、どれほど資したか、想像している。
いや、長谷川伸というふところのひろい師の恩恵がなによりの栄養であったろう。

( 『石瓦混肴』は、朝日新聞社刊『長谷川伸全集』第12巻(1972.5.15)に収録されている。図版は同巻の扉)。

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2007.03.28

池波さんと島田正吾さん

Photo_325島田正吾さんが、中村吉右衛門丈=鬼平のテレビ[血頭の丹兵衛]で、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助を演じている。
粂八(くめはち)は蟹江敬三さん。

原作と異なるのは、東海道・三島宿に潜む日下武史さんの〔血頭(ちがしら)〕を捕えるために、鬼平も出向いているところぐらいだろうか。

唐丸駕籠に乗せられて東海道を下っている〔血頭〕よりもひと足先の鬼平と粂八が、さつた峠の茶店で休んでいると、京へ上る〔蓑火〕が入ってくる。
〔蓑火〕は、粂八がいまも〔野槌(のづち)〕の弥平一味にいるとおもいこんでいるから、連れの鬼平をただの浪人と信じて、煙管の火を借り(大盗賊と火盗改メの長官が火の貸し借りをする、これが原作にはない脚本の一つの見せ場)、話しかける。

「江戸では、ご大層な名前の--ほら、鬼のなんとやらいう---」
「鬼の平蔵」
「それそれ---」
と、鬼平の鼻を明かしてやったよと、芝口2丁目の書籍商〔丸屋〕でのいたずら盗(づと)めを自慢する。

そして、こんどは台本では鬼平がいうことになっているセリフ---「犯さず、殺さず、貧しきからは盗まず」を、自分も粂八にいいたいと、高瀬昌弘監督へ強請した。
吉右衛門丈の快諾が出たおかげで、ぼくたちは、両名優の同じセリフまわしを堪能できた。

それはそれとして、島田正吾さんに、1974年6月に歌舞伎座の楽屋で書いた、[池波さんのこと]という巻末解説が『青春忘れもの』(中公文庫)に添えられている。名エッセイといえる。

池波正太郎という名前をぼくが初めて耳にしたのはいまから三十年ばかり前、長谷川伸先生の高輪のお宅で、先生のお口からである。(略)
「二十六日会--脚本勉強会--に、安房君の弟みたいな新入生がいるよ。下谷保険所の職員で池波正太郎君というんだが、ものになりそうだよ」

安房青年は、島田さんの家に居候しながら、二十六日会のメンバーとして脚本の勉強をしていたのだが、早逝した。その弟みたいといわれたので、島田さんは一見もしていない池波青年に手紙を書いている。

「長谷川先生があなたのことを賞めていましたよ。どうぞ頑張ってください」
それだけの簡単な文面だった。余白に、その上演していた芝居の、舞台姿を絵にしてかき添えたと憶えている。

受け取って、どんなに嬉しがり勇気づけられたかは、さすがに気はずかしいかして、池波さんは書いていないが、ぼくたちは想像できる。ご両人の縁の糸は、こうして結ばれた。
その後の親密な交わりの次第は、池波さんのエッセイにしばしば出てくる。

池波さんとぼくとは、これから先もひょっとしてまた、芝居のことで意地っ張りの喧嘩をするようなことがあるかも知れない。
お互い惚れ合っているくせに、ときどきふっと憎ったらしくなるなんて、まるで男同士の鶴八鶴次郎みたいな池波さんとぼくだなあ---と思うことしきりである。

ふと、思った。池波さんは、島田正吾さんを長谷川平蔵に見立てたことはなかったかと。すくなくとも、丹波哲郎さんより、ふさわしかったのでなかろうか。

Photo_3241905年生まれの島田さんは、18歳若い池波さんよりも長寿を保ち、2004年11月26日に98歳で逝った。

翌日の朝日新聞の切り抜きが文庫のあいだから出てきた。
ぼくは、ふつう、訃報記事は残さない。島田正吾さんは例外中の例外である。テレビ[血頭の丹兵衛]の名演が切りぬかせたのである。

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2007.03.27

〔新鷹会〕を退会

「いままで発表した作品のうち、小説では一回目と二回目に直木賞候補になった[恩田木工(もく)]と[信濃太名記]それに今度受賞した[錯乱]に愛着がある」(読売新聞・1960.7.30 文化欄)

未収録エッセイ集『おおげさがきらい』(講談社文庫 2007.03.10)に収められている小文である。

注記にあるように、この稿は1960年(昭和35)ものものだから、池波さん37歳、戯曲から小説へも手を染めるようになって5年目がすぎたあたりで、作品数だってわずかだった。

直木賞の候補となった作品が掲載された媒体を記してみる。

101001956年下期  [恩田木工]  『大衆文芸』
1957年上期  [眼(め)]    『大衆文芸』
      下期  [信濃大名記] 『大衆文芸』
1958年上期  [秘図]      『大衆文芸』     
1959年下期  [応仁の乱]   『大衆文芸』
1960年上期  [錯乱]     『オール讀物』

受賞作の[錯乱]の外は、すべて〔新鷹会〕が発行元の『大衆文芸』に発表されている。(写真は2006年10月号)

このことは、池波さんがいかに勤勉な書き手だったかを示すとともに、会員からは、『大衆文芸』を占有しすぎるといった陰の声がささやかれていただろうと、推測させる。

『大衆文芸』への掲載は、月1回の勉強会へ作品を持参、長谷川師ほか全員の前で朗読。先達のきびしい質問・批評・助言・講評を経て掲載決定---というきわめて公平におこなわれていたと聞く。

だから、掲載作品数が多い池波さんがねたまれる筋合いないはず。
しかし、功名心を秘めた若者たちのこと、それだけ羨望心も強かったのであろう。

130_8そこのところを察していたらしい長谷川伸師とのあいだに、こんな会話があったことを、未収録エッセイ第4集『新しいもの 古いもの』(講談社 2003.6.15)の[亡師]に書き残している。

あれは、(長谷川伸師が)亡くなる一年ほど前のことだったろうか---。
奥さんと三人で世間話をしているときに、これも突然、師が、
「君ね。もし、ぼくが死んだあとで、みんな(門下生)が研究会をつづけて行くようなら、君は七保(なお 奥さん)とだけのつきあいに給え」
と、いわれた。
このため、私は師が亡くなられると同時に、門下生たちがつくった財団法人(新鷹)からはなれた。
「旦那さまは、なぜ、あんなことをあなたにおっしゃったのかしら?」
「さあ---?」
と、その後も未亡人を訪ねるたびに、二人していろいろ考えたあげく、そのこたえを二つ三つ出してみたが、亡師の本当の意中は、いまもってわからない。(季刊『劇と新小説』第1号 1975.11 [長谷川伸先生追悼紙碑)。

七保未亡人も、〔新鷹会〕の会員で池波さんと仲がよく、作品のテレビ化に力をつくした市川久夫プロデューサーからも、また、勉強会のあと、池波、市川両氏とともに喫茶店で勉強会の二次会をやった新田次郎さんからも、推測を聞くことは、もう、できなくない。

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2007.03.26

観世音菩薩

朝日文庫『小説の散歩道』(1987.4.20)に収められている、[長谷川伸]とタイトルされたエッセイは、すでに引用した。
(1961年10月記)と注記されている。長谷川伸師が逝去する1年8カ月前だ。

私ははじめに戯曲をやって、自分の作品が三つ四つ上演されるようになってから、今度は小説の勉強を始めた。
そのころ、ひどいスランプになったことがある。あまりに自信を失い、ひょろひょろと先生のところへうかがったとき、先生は発熱して寝ておられたが、すぐに起き上がって茶の間へ出てこられた。
(ぼくは、何という無茶な、図々しいまねをしたものだろうか---)
先生は、ぼくがつくったウタだと言われて、左のようなウタを示された。

 観世音菩薩が一体ほしいとおもう五月雨ばかりの昨日今日

何日も机の前にすわりつづけ、書けなくて、ここに観音像の一つもあったらすがりつきたいほどだ、という作家としての苦悩をよんだものであった。
「ぼくだってだれだって、みんなそうなんだよ、元気を出したまえ」
私は、勇気を得た。

池波さんにとって、長谷川伸師は、単に脚本や小説を書くための先達・指導者以上の存在だったことが、これでわかる。
そう、父親がわり以上---人生の師であった。

Photo_322

観世音菩薩像だが、茶の間---新鷹会の会場でもあった八畳の間の、明かりとりの窓の前に、いま、安置されているのが、ウタが読まれたあとに、求められた観音像であろうか。

池波さんのスランプに関連し、朝日新聞社刊『長谷川伸全集』第12巻(1972.5.15)の「付録月報」の写真を思いだした。

Photo_323

1938年(昭和13)に撮影とキャプションが付されているから、池波さんが入門する10年以上も前の、長谷川夫妻と飼い犬が写されている。場所は二本榎の長谷川邸。
ワン公は柴犬。

何かの雑誌に掲載されていたこの写真を池波さんは、ある感慨をもって目にしたと推測しているのだが。
というのは、『鬼平犯科帳』[9-4 本門寺暮雪]、〔凄い奴〕との石段上での決闘で、長谷川平蔵は窮地に立たされる。
その切り抜け策に難渋していた池波さんは、柴犬に救われたと書いている。
長谷川伸師と遊んでいる柴犬のこの写真が、ひらめかなかったとはいえまい。

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2007.03.25

『一本刀土俵入り』

池波さんの未収録エッセイ集『おおげさがきらい』(講談社文庫 2007.3.10)に[先生の声]と題した短い文章がある。 新鷹会の『大衆文芸』1963年(昭和38)6月号に掲載されたものだ。
『大衆文芸』は、いうまでもなく、生前の長谷川伸師が刊行の赤字をほとんど補填していた、新人作家を育てるための月刊誌だった。

十何年も前のことになるが---。
先生が戦後初めての大患を切りぬけられた翌年の夏のことだったとおもう。

「十何年も前」というと、池波さんが三十歳寸前---劇作の勉強に身をいれていた時期であろう(いずれ、『長谷川伸全集』全16巻 朝日新聞社を借り出して、年次を確認してみよう)。
40歳年長の伸師は70歳前。

不忍池畔にあった文化会館で鶴蔵一座が興行していた[一本刀土俵入り]を、故・井原敏さんと池波さんを伴って観に出かけた。3枚の切符は、長谷川伸師が買った。

ご自分の芝居を見るためのキップを買われたのだ。

池波さんは、わざわざ、この一行を添えている。

100_27300本近くある長谷川伸師の脚本のうち、『瞼の母」『関の弥太っぺ』『沓掛時次郎』『一本刀土俵入り』 は、地方の劇場や旅回りの劇団で、とりわけ多く上演されていると、橋本正樹さんが長谷川伸師の脚本6本を収録のちくま文庫『沓掛時次郎・瞼の母』(1994.10.24)の巻末解説で明かす。

それらの一座や芝居小屋は、長谷川伸さんに脚本使用料をほとんどはらわないらしいとも。
それを、長谷川伸師は、「彼らの生活の糧となっているのなら、いいじゃないか」と黙許なのだと。

だから、この不忍池での鶴蔵一座へも、来意を告げれば、座長自身がすっ飛んできて案内したはず。それを、仰々しいし、かえって演じるたちを緊張させてしまうとおもんぱかり、客席のすみに席を求めたことを、池波さんは言っているのだ。

こうした気くばりを、若かった池波さんは、長谷川伸師から学んだ。

Photo_321すこしそれるが、2度にわたって紹介した、長谷川伸師のたくましい太ももと池波さんの体格のこと。
長谷川伸師の筋肉

『生きている小説』(中公文庫 1990.w3.10)iに、[一本刀土俵入り]という章がある。
長谷川伸さんは、若いころ、食べていく手段の一つのつもりで、幕内の稲川政右衛門へてし入りを懇望して追っ払われた経緯を告白し、この体験がのちに[一本刀土俵入り]を生んだと回想している。

そのころの長谷川伸二郎(本名)青年は、力仕事で鍛えた体格に、お相撲になるほどの自信があったのだ。
その筋肉が、初対面の池波さんをおどろかせた。

さらに、[先生の声]は、こう、つづけられている。

「ぼくが君ちたちにあげるものの中から、君たちの身につくものがあって、それを生かしてくれることは嬉しい。だがね、それは、あくまでも、君たち独自の個性の中で生かしてくれなくっちゃアいけないりだ。それでなくてはなんにもならない。このことをよくおぼえておいてくれたまえよ。人間としても、個性を失ったらダメだよ」

仕事の師は身近にいる。が、人生の良師たる人には求めなければ出会えない。。

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2007.03.24

長谷川伸師の筋肉 2

池波さんが、長谷川伸氏を師とした経緯を、エッセイ[長谷川伸] (『小説の散歩道』(朝日文庫  1987.4.20)から引いた([長谷川伸師の筋肉]
2007.3.19)。

100_26書庫の片隅から『青春忘れ物』(中公文庫 1970.8.10)が出てきた。
池波さん自身の[文庫版あとがき]によると、1967年(昭和42)から翌年秋にかけて『小説新潮』に12回連載され、1969年(昭和44)の早春に毎日新聞社から単行本ででている。

しかし、講談社版『完本池波正太郎大成 別巻』の年譜からは、『小説新潮』連載の記録がすぽっと抜けているようなので、[恩師]が掲載された月号を特定できない。いつか、『小説新潮』の編集部に確認を依頼したい。

[恩師]によると、長谷川伸師から戯曲の指導を受けようとおもいたった池波青年は、

それには先ず、何よりも新しい自分の脚本を持参して見ていただかねばならない。
半年ほどの間にニ篇の脚本を書き、手紙を差しあげておいてから、私は二本榎の長谷川邸へおもむいた。
むろん、先生にお目にかかるつもりはなく、ただ脚本を持参して、
「おひまの折にお読みくださいまして、いろいろとお教えいただけましたら---」
そのつもりであった。

この部分は、[長谷川伸]では省略されている。
さらに、玄関へ入り、奥さんの応対があった。

私は先生にお目にかかるつもりで来たのではない、と何度も遠慮したが、声をききつけたらしく、いきなり奥から長谷川氏があらわれた。(略)
「脚本は読んでおく。その上で、もう一度やって来給え」
と、氏はいわれた。
私は頭から水をかぶったような汗で、しどろもどろに何をいったのかおぼえていないけれども、そのとき長谷川氏は私の頭から足もとを凝と見まわし、
「君はよい体をしているねえ」

そのときの池波さんは、青年らしく痩せてはいたが、長谷川伸師から「均整がとれている」「ぼくの若いときと、体つきがよく似ているよ」と認められた。

エッセイ[恩師]は、長谷川伸師が下帯ひとつで応対したのは、それから数カ月後のこととしている。

眼前にある伸師のたくましい〔ふともも〕を見、
(60歳を越えた人の筋肉ではない)

池波青年がおどろいたところまで、2007年3月19日の記に書いた。
なんだか、おさらいをしたみたいになった。不手際、申しわけない。

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2007.03.23

『日本敵討ち異相』

100_25手元の中公文庫の長谷川伸『日本敵討ち異相』は、1974年(昭和49)5月10日に初版が出ている。
『中央公論』の連載は1961年(昭和36)12月号から翌年の12月号までの13篇。
企画・担当したのは、同誌の編集者だった綱淵謙錠さんと、文庫の解説でわかる。

単行本は、連載が終わった2年後の1963年(昭和38)だったらしいことを、池波さんが『図書新聞 (1963.4.13)へ寄せた書評で推察。書評はエッセイ集『おおげさがきらい』(講談社 2003.2.15)に収録されている。この年、池波さん40歳。

長谷川伸師は、この年の6月11日に、肺気腫による心臓衰弱で、聖路加病院で亡くなっている。享年79歳。
したがって、師は、病室で3年前に直木賞を受けた愛弟子の書評---というより讃辞の文を読んだとおもわれる。

この1冊におさめられた十三篇は、いずれも「敵討ち」を扱ったものだが、この小説が、中央公論に連載されているころ、私は毎月の発売日が待ち遠しかったものだ。
私どものように、時代小説を書いているものにとっては、著者のような大先達が、毎月々々、この短篇によってしめされた作家としての熱情と含蓄(がんちく)のふかさに、つくづくとおしえられることが多かったからである。

赤穂浪士による敵討ちが『忠臣蔵』という名で親しまれているように、日本人は仇討ちが好きである。
いや、復讐物語好きは、日本人にかぎらない、お隣の大陸にも欧米にもそのテの話は数知れないほどある。

ただ、江戸期の武士の敵討ちには、いくつかの決まりがあり、その決まりをめぐって当事者たちの人生の悲哀や蹉跌が生じた。そこに仇討ち小説がいまなお生まれる素地がある。

池波さんも、師の著作の書評の5年前(1958)に、日本3大仇討ちのヒーローの一人---[荒木又右衛門] (新潮文庫『武士の紋章』に収録)を発表している。

Photo_319直木賞を受賞した1960年(昭和35)には、歌舞伎『加賀見山旧錦絵(かがみやまこきょうのにしきえ)』に材をとった[実説鏡山-女仇討事件] (PHP文庫『霧に消えた影』に収録)と、[うんぷてんぷ](角川文庫『仇討ち』に収録)を執筆。
その後、独立短篇だけでも20篇近く、長編も『堀部安兵衛』(角川文庫)と『おれの足音』(文春文庫)があり、師の無形の先導による好篇も多い。

『日本敵討ち異相』にもどる。
1968年に出た新装版には、新鷹会の会長を永く勤めた故・村上元三さんが跋文を寄せ、「いつも筆の早い先生が、この中の一篇を書くために、およそ一週間かかっている。そのあいだ、いつもは柔和な先生の顔が、わたしたちにもこわいほど変っていた」と。

池波さんも、「これらの作品の資料となったものは、生半可(なまはんか)なものではない。二十余年間もあたためられ、機会あるごとに調査がつみかさねられ、徹底した追及のもとにあつめられたものだからだ」と、その労を偲ぶ。

長谷川伸師邸の書庫を覗く機会が幾度かあったが、集められた地誌の多さと史料にはいつも嘆息した。
(地誌の棚だけは写真に収めた)。

この膨大な地誌からも、題材がひろわれたのであろうか。

中央公論の誌上を飾ったのは13篇だが、戦時中、「空襲のサイレンを聞くと土中に埋め、解除のサイレンを聞くと掘り出した」と著者自身が打ち明ける”敵討ち”もの370件の中から、「異質のものばかり選」ばれた13篇である。「異質なものと言ったのは、人間と人間とがやった事を指しています。それは現在の人間と人間とがやっている事と、共通していたり相似であったりだと言うことです。そうして又、現代人が失った清冽なものだってあります」

Photo_320【つぶやき】[うんぷてんぷ]で、ヒロインの娼婦お君が、逃亡かたがた熱海へ湯治としゃれたとき、〔本陣今井半太夫〕の前を通って本町へ。
雁皮紙の製造元でもあるこの〔本陣今井半太夫〕は、その後、『鬼平犯科帳』ほかにもしばしば登場する。
池波さんがこの名を目にしたのは『江戸買物独案内』だとおもうが、文政7年(1824)刊のこの史料・全2,622枠を採録した『江戸町人の研究 第3巻』 (吉川弘文館)は、[うんぷてんぷ]の1960年よりも15年ほど後に刊行されている。
とすると池波さんは、どこで〔今井半太夫〕の名を見たのだろう。長谷川伸師の書庫に『江戸買物独案内』の現物があったのだろうか。

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2007.03.22

長谷川伸師邸の書庫

エッセイ[長谷川伸]は、最初、『新年の二つの別れ』(朝日新聞社 1977.6.10)の巻頭に置かれた。
5年後に出た、これもエッセイ集『一年の風景』(朝日新聞社 1982.9.30)とあわせて、朝日文庫『小説の散歩道』に収録。初出誌・紙は、いまのところ、わからない。

[長谷川伸]にこんな箇所がある。

先生の指導をうけるようになってから、私は、かなりあつかましかった。どんな社会にも、それぞれの順序、しきたりみたいなものがあるのだろうが、新米の私は、書庫の本をかってに見せてもらつたり、今から考えると冷や汗の出るような質問をくどくどやったり、ただもう、がむしゃらにぶつかっていったものだ。

書庫の本について、池波さんが、どこかに、こんなことを書いている。
貸し出し・返却ノートを自分で勝手につくり、そこに記載さえすれば、書庫から黙って持ち出していい---との許しを長谷川伸師から得たというのである。

ある時、長谷川伸師が、同じ新しい会員の市川久夫さんに、
「池波が長谷川平蔵に目をつけたらしい」
と漏らした。
市川さんは、大映の制作担当の責任者だった川口松太郎さんから「[26日会][新鷹会]に入れてもらい、勉強してこい」と派遣され、のちに『鬼平犯科帳』のプロデューサーとなった仁である。
市川さんは、この長谷川伸師の寸言によって、池波さんへ「長谷川平蔵のテレビ化は、オレがやる」と約束した。

長谷川伸師邸の書庫には、史料や日本中の地誌が、それこそ、ほとんどそろっていた。

で池波さんが、三田村鳶魚 『江戸の白浪』(早稲田大学出版会 1934)とか『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』を持ち出しているのを、借り出し簿から目ざとく見つけ、そう類推されたのであろうか。

いや、それらの史料を読んだあと、池波さんのほうから、
「長谷川平蔵について書かれたものは、もっと、ないのでしようか?」
と問うたのかもしれない。

長谷川伸師は、
「そういえば、『江戸会誌』のどこかに、書かれていたような---」

と推理したのは、明治23年6月号の[長谷川平蔵の逸事]と題された短い記事が、鬼平の性格を形づくる手がかりになっているからだ。

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『江戸会誌』明治23年6月号表紙

10年以上も前に、NHK文化センターでもっていた[鬼平]クラスの受講者だったN氏が、それを国会図書館で見つけて、コピーをくださった。

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[長谷川平蔵の逸事](左ページ下段。右上からは人足寄場の紹介)

[長谷川平蔵の逸事]
長谷川平蔵は其の名未考。禄は四百石。居宅は本所菊川町にあり。
先手弓頭より盗賊火付改へ出役し、天明八年十月より寛政七年五月、病で没するまでおよそ八ヶ年の間これを勤む。
もとより幹事の才ありしゆえ、松平樂翁の遇を得てその意を承りて人足寄場を創設せしこと、または盗賊探検などのことには幾多の逸事あり。

「幹事の才あり」は、リーダーの素質と熟練があったということ。つまり、鬼平をすぐれたリーダーとして造型すればいい、リーダーとは芝居の演出者だ---池波さんはそう考えたろう。

150_6これを確かめるために、平岩弓枝さんの許しをもらって長谷川伸師の書庫へ入り、3冊に合本・装丁された『江戸会誌』を見つけたときは、われしらず、快哉を叫んだ。

長谷川伸師の示唆にしたがい、池波さんは、[長谷川平蔵の逸事]を読んでいたのだ。

長谷川伸邸書庫
↑クリックで、覗くことができる。

【つぶやき】ゆうに万を越える貴重な蔵書は、長谷川伸師の歿後、専門の司書の手で分類され、図書カードがつくられた。
完成後、整理された書庫を見た池波さんは、「伸先生の体臭が薄れたようで、ちょっぴり寂しい」との感想をどこかに書いている。

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2007.03.21

長谷川伸師と新鷹会

池波さんに、長谷川伸師が、小説も書くようにとすすめたのは、いつごろであろう。

長谷川伸師がその費用の大半を提供していたと推察できる『大衆文芸』の1954年(昭和29)10月号に第1作『厨房(キッチン)にて』が掲載されているから、多分、この年(かその前年)に、小説の勉強会である〔新鷹会(しんようかい)に参加したのではあるまいか。
池波さん31歳。

 〔新鷹会〕のホームページは、当会は「新しい文学の創造を目指し」て、昭和14年(1939)に発足した〔15日会〕がそのはじまりである、としている。
『大衆文芸』が会誌のような形で一般にも発売され、戦後、復刊された。

ちなみに、池波さんの直木賞候補となった数篇および受賞作の[錯乱]も、同誌に発表されたものである。

すぐれた新人を育てるというこのほかは私心のない長谷川伸師の念願がわかっていたからこそ、戦後の会にも、山手樹一郎、山岡荘八、大林清、土師清二、鹿島孝二、戸川幸夫、村上元三などのベテラン陣が、例会に手弁当で出席したのであろう。

例会は、長谷川伸師邸の1階の8畳の客間と、それにつながる6畳をぶちぬいて開かれた。
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(その2間を見学する鬼平熱愛倶楽部のメンバー)。

床の間の真ん中に長谷川師。その左右にベテラン陣が並んでいたと語るのは、家屋の管理をまかされている佐藤さん。
池波さんや新田次郎さん、のちに鬼平テレビ化のプロデューサーをつとめた市川久夫さん、平岩弓枝さんらの新人は、廊下に近い席だったとも。

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『新・私の歳月』(講談社文庫 1992.10.15)に収録されている[絵筆と共に]から引用。

二十八歳(1956)のときの新橋演舞場における処女上演以来、よき師、よき先輩と友人にめぐまれ、新国劇を中心にした芝居の世界における仕事でも、おもい残すことはい。
その後、私は小説の勉強をはじめた。
これは亡師・長谷川伸の強いすすめがあったからだ。
私は生涯、芝居の世界で生きて行くつもりだったから、なかなかに足を踏み出せなかった。
「芝居だけでは食べて行けないよ」
いつになく、先生は執拗(しつよう)にすすめられた。
いまにしておもうと、ただ、食べて行けないという一事だけで、先生は小説を書けとすすめられたのではないような気がする。

エッセイは、いつ、どの媒体に掲載されたものか。文庫には初出リストがつけられていない。なんとしたこと!
先行した『私の歳月』(講談社文庫 1984.6.15)には巻末に初出リストが掲載されているというのに。

池波さんのエッセイは膨大な数ある。直木賞受賞から急に増えている。その人生行路の厚みに、読み手が熱い興味を寄せている証しといえようか。

例の『完本池波正太郎大成 別巻』の年譜をあたることにした。
『新・私に歳月』は、同題の単行本(講談社 1986.5.10)の文庫化である。
手間惜しみをして、1986年から遡行。
1分とかからなかった。1985年1月号の『波』(新潮社のPR誌)に発表されていた。

長谷川伸師は、池波さんの中に、物語作家としての才能が隠されていることを見抜かれたのであろう。

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2007.03.20

長谷川伸師の勉強会

Photo_318講談社『完本池波正太郎大成』別巻(2001.3.6)は、対談やインタヴュー、聞書、年譜などを収録していて、池波さんの研究には欠かせない1冊といえる。

その年譜。池波青年が長谷川伸師邸を志を抱いて訪問した1948年(昭和30年)25歳---の項は、こう書かれている。

長谷川伸を訪ね、劇作の指導を受けるようになる。
すなわち、昭和七年(1932)発足の脚本研究会、二十六日会に、また、小説の研究会である新鷹会(しんようかい)にも入会する。

これは正確ではないようにおもう。

池波青年は、長谷川伸師に戯曲を見てもらいたかった。だから、そのほうの研究会である〔二十六日会〕への入会は即答したと推察できる。

下帯ひとつで応対していた長谷川伸師は、
「どうだろう、脚本の勉強会〔二十六日〕会というのを、この部屋で、毎月の26日に夕刻から開いているのだが、参加してみないかね?」
「入会させていただけるのですか?」
「そう、入会して、もまれるといいと思います」
「ぜひ---」
「6時からなんだけど、勤め先のほうに支障はないかね?」
「はい」

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長谷川伸師が池波青年と面談した客間。

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壁にかかる、岡本一平(?)による夫妻の似顔絵あップ。

しかしこの時、長谷川伸師が、池波青年に小説のほうの〔新鷹会〕入会をもすすめたとはどうしてもおもえない。

これまで引用してきたエッセイ[長谷川伸]に、池波さん自身が、書いている。

私は、はじめに戯曲をやって、自分の作品が三つ四つ上演されるようになってから、今度は小説の勉強をはじめた。

また、[私の文学修行](未収録エッセイ集『おおげさがきらい』(講談社文庫)には、

夢が舞台の上に実現したのは昭和二十九年(1954)の七月----というと、いまこの原稿を書いている同じ月だから丸九年前ということになる。処女上演は新国劇所演の「鈍牛」という芝居で、劇場は、新橋演舞場であった。(『読売新聞 1960.7.30)

(ちゅうすけ注:『鬼平犯科帳』にも[鈍牛(のろうし)と題した篇があるが、まったく別物。脚本のほうは、売れない画家を主人公とした現代劇)。

同じ未収録エッセイ集『わが家の夕めし』(講談社 2003.4.15)に入っている[ショウ見物で小説のデッサン]に、

私が、芝居の脚本のほかに、小説を書くようになったのは、恩師長谷川伸の強いすすめによるものであった。
「絶対に、脚本だけでは食べて行けはしないし、作家としても、双方やって、双方のよいところほ吸収したほうがよい」
と、師はいわれた。
当時の私は、まだ、東京都につとめていて、一年に二本ほど、自分の脚本が新国劇で上演され、といった程度で、もちろん、役所をやめたら食べて行けなかったとおもう。
芝居をやっているだけでも、昼間つとめて、夜書くという生活は強(きつ)かったが、それに今度は小説をやろうというものだから、たまったものではない。(『問題小説』 1973.12月号)

睡眠時間が日に3,4時間ということになった。

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2007.03.19

長谷川伸師の筋肉

池波さんのエッセイ[長谷川伸]から、その門下に入った経緯を引用している。

100_22エッセイの収録文庫は『小説の散歩道』(朝日文庫  1987.4.20)だったが、10年後に編まれた[池波正太郎自選随筆集2『私の仕事』](朝日文芸文庫 1996.7.1)にも入ってい.る。

後者の巻末解題に、このエッセイ(池波さんは[随筆]というほうが好みかな)を収録した単行本と文庫が挙げられている。

『新年の二つの別れ』(朝日新聞社刊 1977.6.30)
『小説の散歩道』(朝日文芸文庫  1987.4.20)

2番目は[朝日文芸文庫]じゃなく、[朝日文庫]であることは、手元のがその日付で第1刷と奥付にあるから間違いない。

この解題でも、初出は、依然、不明のまま。まあ、書誌学めいたことをやっているわけではないから、これはこのまま不明でとおしておく。
池波さんの全蔵書の寄贈を受けた台東区の整理がすすめば、いずれ、明らかになることだ。

1977年(昭和52年)、54歳以前の池波さんが回想して書いた文としておく。

長谷川伸師の逝去は1963年6月11日。享年79歳。池波さんはその時40歳。親子ほどの年齢差。

15年遡る。1948年(昭和23年)。池波青年25歳。暑い日。長谷川伸さんは、入門志望の青年の前に下帯ひとつになって対していた。

眼前にある伸師のたくましい「ふともも」を見、
(60歳を越えた人の筋肉ではない)
とおどろいている池波青年に、

Photo_316「作家になろうという、この仕事はねえ、苦労の激しさが肉体をそこなうし、おまけに精神がか細くなってしまうおそれが大きいんだが---男のやる仕事としては、かなりやり甲斐のある仕事だよ。もし、この道へはいって、このことをうたがうものは、成功を条件としているからなんで、好きな仕事をして成功しないものならば男一代の仕事ではないということだったら、世の中にどんな仕事があるだろうか。こういうことなんだね。ま、いっしょに勉強しましょうよ」
(肖像写真は中公文庫『生きている小説』のカバー裏より)

これは、その日、興奮しながら帰宅(?)した池波さんが、師の言葉を思い出しつつ、ノートの書きつけたものであろう。何回にもわけて話されたことが、一つの文章になっている。

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2007.03.18

長谷川伸さんを師とした日

2007年3月15日、池波さんが長谷川伸師から訪問許可の書簡を受取ったところまでを引いた。

引用しているのは、『小説の散歩道』(朝日文庫  1987.4.20)の[長谷川伸]から。

その日は、じりじり照りつける暑い日で、私は二本榎のお宅の前までくると気おくれがして門の中へ入れず、何度も行ったりきたりして、しまいには小水がもれそうになってしまい、前の明治学院の便所へかけこみ、用を足し、水で顔を洗ってから、思いきって門へ入って行った。

1948年(昭和23年)。池波青年が25歳の時のことである。
豊子夫人と結婚して、新居を駒込のほうに構えたのはこの2年後だから、下谷保険所に住みこんでいたころだ。

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右の青○が下谷保険所のあった都電・稲荷町。
左の赤○が長谷川伸師邸のあった二本榎。
(『東京百年史』第六巻より)

都電で行くには乗り継ぎもあり、時間がかかりすぎた。高架の省線(山手線)で五反田駅まで行き、そこから桜田通りのゆるい坂を上る都電で停留所2つ目が二本榎(下図の赤○)。
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長谷川邸は、そこから(五反田を背にして)左へ桑原坂を下りかかったとっかかりの石段のある家。石段をのぼりきると、門扉がある(現在はつねに閉まっている)。

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奥さまが親切に応対してくださった。
先生は、どこかの会合から帰られたところだったが、コチコチになっている私を見ると、
「君、らくにしたまえ」
こう言われて、いきなり下帯ひとつになられた。それて、私もいくらか気がらくになり、いろいろと話しはじめた。

下帯ひとつ---これは、なかなかできることではない。
暑い日だったというが、池波青年をくつろがせるための演技の気配が濃厚。それにしても、卓越した歓迎法だ。
(こんご、この人を師として敬しよう)
池波さんでなくても、そう決める。

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2007.03.17

池波少年の小説

130_7 講談社のヴェテラン編集者・小島 香さんの手で掘りだされた未収録エッセイ集5冊---
軽装単行本で2003年2月15日から月1冊ずつ順次刊行された、
『おおげさがきらい』(文庫化は2007.3.10)
『わたくしの旅』
『わが家の夕めし』
『新しいもの古いもの』
『作家の四季』
---に255本のエッセイが収められていることは、すでに述べた。

刊行時にむさぼるように読んだはずなのに、また読み返すと、見逃していたことを新しく発見する。

この稿の主題[長谷川伸師から修行時代の池波さんが受けた影響]からはいささかずれるが、第3集『わが家の夕めし』(2003.4.15)の[私の処女作「厨房(キッチン)にて」]の書き出しもそう。

私は昭和十六年か十七年に、時代小説をはじめて書いたことがある。十九か二十のころであったろう。
当時、婦人画報社で朗読文学という名のもとに、原稿用紙で五枚の小品を募集してい、私は何度もそれに応募し、[兄の帰還]というコントで入賞をした。この[帰還]とは、戦地(中国大陸)から東京へ帰還する兄を迎える前夜の妹と父親のことを書いたものだ。そのころの日本が、アメリカを相手に戦争の火ぶたを切ったばかりだったことはいうまでもない。(スクラップブック 昭和46年)

従兄弟だかに、戦地で亡くなった人がいたことは、いま確かめる時間はないが、別のエッセイで読んだ記憶がある。
ただ、昭和十六年か十七年---といえば、父御さんとは離ればれで池波さんは暮らしていたし、妹はもちろんいたわけではないから、作品はまったくの想像の産物といえる。
そのころからこしらえものの物語をつむいでいたということだ。これは、池波さんの想像力の飛翔力を示してくれる。

[私の処女作「厨房(キッチン)にて」]からの引用をつづける。

その前に書いたのが[雪]という小品で、これは、桜田門外に井伊大老を襲撃する水戸浪士の中に、ただ一人参加した薩摩の有村次左衛門が、雪の濠端(ほりばた)に同志とともにたたずみながら、故郷の母のことを想う心理を、ま、およばずながら書いた。(同)

池波さんは、30年前の習作を顧みて、「むろん、そのころの私は、小説書きになるつもりは毛頭」なかったといっているが、それはいささか疑わしい。
「そうなれれば---」ぐらいにはチラっとおもったかもしれない。
そうでなければ、毎月応募するものか。

もちろん、現実的に小説に手を染めたのは、、

恩師長谷川伸の強いすすめによるものであった---と[ショウ見物で小説のデッサン]に書く。

「絶対に、脚本だけでは食べて行けないし、作家としても、双方をやって、双方のよいところを吸収したほうがよい」(『問題小説』 昭和48年12月号)

と、師にいわれたのが引き金になったと。

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2007.03.16

長谷川伸を師とした理由

25歳の池波青年が、長谷川伸さんを生涯の師として選び、訪問したことは、 [長谷川伸]の掲載紙・誌は?に、ちょっと記した。

なぜ、長谷川伸さんだったかは、応募脚本が佳作に選ばれた第2回読売演劇文化賞の審査員に長谷川伸師の名があったからとも、池波さんがエッセイ[長谷川伸]で打ち明けている。

しかし、それはきっかけで、真の理由は3つばかりありそうだ。

130_5 講談社の正編集者としては最後の大仕事として、『完本 池波正太郎大成』全30巻と別巻1冊をまとめられた小島 香さんは、『大成』のために池波作品を整理していて、あちこちに書かれたまま未収録になっているエッセイが数多くあることに気づいた。

それらの文章は、講談社から軽装の単行本として2003年2月15日に出た『おおげさがきらい』(文庫化は2007.3.10)から、順次月1冊ずつ、『わたくしの旅』『わが家の夕めし』新しいもの古いもの』『作家の四季』と5冊255本のエッセイがそろった。

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[六度目の正直ーー「錯乱」受賞までーー]に、こう記している。
戦争が終わって復員したとき、母が、
「しばらくは、あそんでおいでな」
といってくれたことをよいことに、ぶらぶらと廃墟の浅草の一角の小さな部屋で、母と弟と暮らしていたときは、これから何をして生きて行こうかと、ずいぶん考えたものだ。(『問題小説』昭和48年12月号 『わが家の夕めし』に収録)。

間もなく劇作を志し、前記の読売演劇文化賞へ応募するにいたった経緯は、[私の文学修行]に---、
私が劇作家をこころざすようになったそもそもの動機といえば、子供のころから波並はずれての芝居好きがこうじたものだ。(略)
並はずれて芝居好きの母が、まだ私が六つ七つのころから私を連れ、機会あるごとに東京中の芝居を見に出かけていたということが、その起因だということになろう。(略)
芝居好きな人間は大なり小なり意識的にも無意識的にも舞台の作者たらんとする夢をいだくものであると、私は思っている。(『読売新聞』昭和35年7月30日 『おおげさがきい』に収録)

つまり、劇作のこころざしは、芝居好きが嵩じた結果と。
しかし、こういう告白もある。『亡師』と題した一文---、
私が亡師・長谷川伸にはじめてお目にかかったのは、十四、五歳のころであった。
当時、旧制小学校を卒業して、株式店の小店員になつていた私は、叔父の使いで、日本榎の長谷川邸へ出向いたのだ。
叔父は、亡師の、もっとも古い門下の一人であった。
そりは小説や劇作ではなく、歌のほうの門下で、その歌というのは、天保年間に都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)が創始し、江戸から諸国へひろまって行った都々逸のことで---その二十六文字詩型について、そのころの長谷川師は相当に情熱をかたむけておられた。(略)
私の叔父も、はじめは、その投稿者の一人であったが、そのうちに長谷川邸へ出入りをするようになり、しまいには自分が主催する「街歌」という雑誌をだすようになったのである。(季刊『劇と新小説』1号 昭和50年11月 長谷川伸先生追悼紙碑 『新しいもの古いものに収録)

その雑誌のための原稿を受け取りに、池波少年は長谷川伸さんの家へ行ったのだという。
これが池波さんを長谷川伸さんを師として選んだ第二の理由とみる。

第三は、いうまでもなく、小学校だけで実社会に出、研鑽と才能の結果として新聞記者、劇作家、小説家として聳えていた長谷川伸さんに、池波青年が憧憬と親近感を抱いたこと。

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2007.03.15

[長谷川伸]の掲載紙・誌は?

100_20池波さんが、のちに師として敬した長谷川伸さんと初めて対面したときのことを告白したエッセイは、『小説の散歩道』(朝日文庫 1987.4.20)で読んだ。

終戦で、米子の海軍航空隊美保基地から復員してきた池波青年は、翌1946年(23歳)から、東京都の職員となり、下谷区役所の衛生課でDDTの散布を約5年間つづけた(下谷区は、のちに浅草区と合併、いまの台東区となった)。

下谷区内の上野駅ガード下とか上野公園には、家を焼かれて宿なし・職なしとなった人たちがたむろしており、その頭髪や衣類は、発疹チフスを媒介するシラミの巣窟だった。
GHQ(占領軍最高司令部)の命令で、かの人たちに頭からシラミ駆除剤DDTを散布するチームの長が池波青年だった。

脇道へそれるが、数年前、学習院大学生涯学習センターで講じていた夜の[鬼平]クラスに、埼玉県下の某市から受講に通ってきていた70歳がらみ方がいた。
ある夜、講義終了後に近寄ってきて、黄ばんだ1枚の白黒写真を示した。数人の若者が写っていた。
「中央のご仁が池波正太郎さんです。ぼくたちDDT散布班のボスでした」

いや、池波ファンにとっては貴重な1コマ---これまでどの池波特集号でも目にしたことのない写真だが、残念なことに、池波さんのかつての配下だったその人のお名前とお住まいが思いだせないため、写真をお借りしてお目にかけられない。〔ボケのはじまった老人め>自分〕。

昼間から夕刻へかけてのDDT散布が終わると、池波青年は泊り込み場所にしていた下谷区役所の事務室の机で、左手に固いパン、右手に鉛筆を握って戯曲の習作にいどんだ。

そして、多くの年譜に書かれているように、読売新聞主催、東宝が協賛していた第1回読売演劇文化賞脚本募集に応募、選外佳作5篇に入った。

翌1947年の第2回同賞に応募して、[南風の吹く窓]が佳作に選ばれた。池波青年、心の中で快哉を叫んだろう。賞は若者を勇気づけ、将来を夢想させる。

その次の年---池波青年25歳。池波さんのエッセイ[長谷川伸]の書き出しーーー、

はじめて、長谷川伸先生をたずねたのは、昭和二十三年の夏のさかりだったとおもう。
前年、私が、ある新聞社の戯曲懸賞に応募して入選した。そのときの審査員のひとりが、先生だった。

(注:どうでもいいことだが、池波さんは、訪問した年を年譜よりも2年早めている)。

それだけのことをたよりにして劇作の指導を受けたいと思い、紹介者もなく、手紙をさしあげたら、
----小生方のおたずねはいつでもよろしい。土曜でも日曜でも、そちらの仕事をさまたげぬことでありたい---という御手紙をいただいた。
当時、私は都庁につとめていたからである。 (『小説の散歩道』より)

10ページつづくエッセイの末尾に、
(昭和三十六年十月記)
と記されいる。
ところが、講談社版『完本 池波正太郎大成 別巻』の年譜の[昭和36年(1961)]のエッセイの項には、この文章のタイトルが収録されていない。
もしかしたら---と推定できそうなのは、
 インタビュー「池波正太郎氏にきく小説と芝居」(大阪新聞・夕刊 11月21日)
だが、インタビューではなく、引用のエッセイ、池波ファンならお分かりのように、まぎれもなく池波文体である。

このエッセイの初出紙・誌、ご存じの方はお教えいただければ、うれしい。

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2007.03.14

長谷川伸師の評価

近所の図書館へ行ったついでに、なにげなく眺めた日本歴史の棚に、鶴見俊輔さんと網野善彦さんの対談集『歴史の話』(朝日新聞 1994.5.25)があるのが目に入った。

130_3ご両所とも、ずっと気になっていた学者さんだが、著作を手にした記憶は薄い、で、さっそく借り出した。

前半は1992年の『朝日ジャーナル』誌に2号にわたって分載されたもの、後半部は翌年の『月刊Asahi』に掲載されたもの(両誌ともいまはない)。

いや、後半部が、とびきり面白い。

鶴見さんが、明治に、外国の学術書を、西周(にし・あまね)が一語一義に訳してしまったために、読解のスピードはあがったが、その語に包含しきれない余分な部分が切り捨てられてしまっていると告発。

これをうけて、網野さんが、史料も、東大をトップで卒業したような歴史学者は目もくれないはずの襖(ふすま)の下貼りになっている古文書の断片に、過去の人たちのほんとうの生活がみえると。

これに触発された。
『江戸名所図会』の長谷川雪旦の膨大な絵の中の人物たちの一人ひとりの(ポーズ)は、ぼくたちに、江戸からの貴重なメッセージを送ってくれているのだと。心して読みとらねば。

鶴見さんが、さらに弾劾口調で、歴史は文字だけでなく、内臓にぎゅっとくる感覚でも捉えないと、といい、
「それが消えていって、むしろ最後まで残った小学校出身の長谷川伸(しん 大正・昭和期の作家、劇作家)が、赤報隊(せきほうたい)の記録を書いたり、『日本捕虜志(ほりょき)』を書いた。長谷川伸が書いた歴史記録ものというのは面白いですよ。ああいうものを書き得たということ。これが講壇歴史家の裏側にある。大学卒でない歴史家はいなくなった1993年の現在の日本にとって、未来は暗いなあ(笑)」

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『日本捕虜志』は、中公文庫 上・下 (1979.11.10)で遅ればせに読んだ。
戦国時代から日露戦争までの捕虜に対する人道的な処し方を膨大な例を挙げ、支那事変・太平洋戦争における日本軍のその扱いの理不尽を、暗に非難していた。

池波さんは、長谷川伸師の愛(まな)弟子をもって任じている。
この師から学んだことは多いと、つねづねエッセイに書いている。
これからほんのしばらく、長谷川伸師の影響について触れてみたい。

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2007.03.13

源内焼

静岡県牧之原市の相良地区福岡62の長勝山浄心寺(日蓮宗)にあった寺尾俊平家の墓域で、湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石が発見された経緯は、当ブログ[相良の平賀源内墓碑]に記した。

事実は、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)の著書『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』(羽衣出版 1996.11.17  3,300円)に拠っている。

同書は、伝・平賀源内のその墓石の下から、副葬品の軟陶三彩焼の花瓶が2コ、出てきたこと、その花瓶は源内焼の特徴をそなえていると記す。

源内焼について、手許の加藤唐九郎編『原色陶器大事典』(淡交社 1972.10.25)の解説を書き写す。

讃岐国志度(香川県大川郡志度町)の陶器。舜民焼ともいう。
平賀源内が宝暦年間(1751~64)長崎から伝えた交趾(コーチ)焼の陶法によって始めたもので、作品は主に弟子の脇田(堺屋)源吾(舜民)や五番屋伊助(赤松松山)が源内の指導によってつくったものであるが、特に源吾の手になるものが多く「志度舜民」「舜民」「民」などの印銘がある。

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世界図・日本図の地図や、西洋風の斬新な意匠が特色であるが、これは源内の案に出たものと思われる。
陶土は主に付近の富田村(大川町)の土を用いた。

一方、『平賀源内と相良凧』の[軟陶三彩]についての記述は、すこし異なる。

郷里の志度では、以前から源内の指導で、いわゆる源内焼を造っていた。(略)
これとは別に本窯を築いた源内は、中国風の技法で源内焼を造らせていた。
軟陶三彩焼は線を中心とし、文様の輪郭をつよい彫線と、細い線状の泥土で区切り、紫や黄の色を美しく彩った
艶(あで)やかな焼物で、交趾(こうち)手と呼ばれ珍重された。
三彩というのは三色という意味ではなく、文様が浮きでる技法にその特徴があり、内外に異なる釉(うわぐすり)をぬる。

『現色陶器大事典』が「源内焼」として掲示している写真の鉢がいうところの「軟陶三彩」かも。Photo_314

出土した花瓶の写真は、川原崎翁の著書には掲げられてはいない。相良の資料館にでも蔵されているのであろうか。
花瓶の印銘についても、なぜか、言及がなされていない。

小伝馬牢を脱出し、湯沢宗兵衛となって相良に住みついた平賀源内は、その花瓶を持って陸奥国下村や秋田へ旅したのであろうか。
あるいは、世話になった相良の誰かに贈ったものか。

謎は謎を呼ぶ。

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2007.03.12

相良の平賀源内墓碑

2007年3月11日の本欄で、静岡のSBS学苑パルシェ[鬼平]クラス・メンバーの安池欣一さんが、いまは牧之原市の一部となっている旧・相良地区福岡62にある長勝山浄心寺(日蓮宗)を訪れたことを報告した。
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安池さんは、湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石の写真を撮り、住職・木内隆敬師から詳細をお聞きになった。
Photo_312
真ん中の墓石が源内のものと。

木内師の話は、地元の郷土史家・川原崎次郎翁(1923生)の著書『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』(羽衣出版 1996.11.17  3,300円)とほとんど同じだったということなので、同著から引用しよう。

湯沢宗兵衛こと平賀源内といわれている墓石の発見は、昭和34年(1959)の秋彼岸だったという。池波さんが[錯乱]で直木賞を受賞したのはその翌1960年、『鬼平犯科帳』の『オール讀物』での連載は、さらに8年置いた1998年新年号から始まった。

当時の川原崎翁の日記。
10月15日湯沢春太の墓碑が発見されたと言って(郷土史家の先達の)山本吾朗氏おおよろこび。(略)
東京の寺尾俊平家の墓域で、この人は相良の出身慶応大学の医学部長(医学博士)という。
その先代は、相良城下(源内屋敷)の名医、寺尾杏斉ということがわかった。

発見の経緯は、寺尾部長の家が、遺骨を東京の多磨霊園に改葬するべく、墓石の整理をしていてわかったと。

浄心寺の霊位簿には「宗兵衛・春太の父」としるされてい、墓碑の正面には、
 一実院宗見日明
 深浄院妙宗日法

左側面には、
 寛政十己未四月廿六日
 文化三丙寅正月廿六日
と刻まれているという。

戦前の平凡社『日本人名大事典』にしたがうと、源内の生年は享保11年(1726)だから、墓碑の寛政10年(1798)を没年とみなすと享年73歳という計算になる。
ただ、寛政10年は戌午で、己未は翌11年(1799)。

この件は、もうすこし探索してみたい。

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2007.03.11

平賀源内と相良凧

2007年3月9日、静岡のSBS学苑パルシェ[鬼平]クラスのメンバー・安池欣一さんから、以下のメールをいただいていた。

本日、相良に行って来ました。
・淨心寺で平賀源内の墓石の写真をとりました。住職の説明は河原崎次郎氏『平賀源内と相良凧』 (p163 八、湯沢宗兵衛こと平賀源内の墓発見)に記載されていることと同様でした。
・河原崎次郎氏『城下町相良区史』を河原崎次郎氏からいただきました。800頁の大部です。コピーする箇所が解らないので河原崎次郎氏『平賀源内と相良凧』・平賀源内の墓石の写真のCDと一緒に明日、郵送させていただきます。

それらの資料が、今朝、宅送便でとどいた。
川原崎次郎さん『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)は、じつは静岡県立中央図書館で必要な箇所をコピーさせてもらっている。

150_5川原崎次郎さん『凧あげの歴史 平賀源内と相良凧』(羽衣出版 1996.11.17)を早速に拾い読みした。

《喧嘩凧》とも呼ばれる「相良凧」は、長崎と江戸の凧の形状の折衷なので、「平賀凧」の別名もあるゆえん。
で、平賀源内が牢を抜けて、田沼意次の領地であった遠州・相良に隠棲したとの説が、郷土史家の目で考証されていて、おもしろかった。
源内が草庵をむすんでいたのは、相良から2キロ西の須々木原(当時・榛原郡須々木村)に茂っていた笠松の下であったらしい。
意次失脚後は、国替えになった田沼意明(おきあき)に従ってか、奥州国信夫郡下村(現・福島市佐倉下)へ移住、そののち出羽国久保田(現・秋田市)へ行き、そこで歿。従っていた僕女が分骨を相良へ持ち帰り、浄心寺へ葬ったとの説も挙げられている。

浄心寺の源内の墓については、日を改めて記すとして、興味を引いたのは、浜松藩、田中藩(江戸期以前に長谷川平蔵の祖先が城主だった)とともに、相良城の取り壊しを、松平内閣から命じられていた遠州・横須賀藩主の西尾隠岐守忠移(ただゆき)に関する記述。

この横須賀藩主・西尾忠移の内室が意次の三女だったことは、[意次の三女・千賀姫の墓]に紹介している。

藩が財政難のおりから、もっとも堅牢だった二の丸の望楼を割り当てられた横須賀藩が難儀していると、「知恵貸し翁」といわれていた老人が、魚網などを高櫓にかけ、轆轤(ろくろ)で引けと教えた。そのとおりにやってみたら、浜松藩、田中藩が30余日もかけていたのに、こちらは一気に片付いたと。

いかにも、源内をしのばせる、よくできたエピソードではある。

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2007.03.10

「もう、男はこりごり---」とおまさ

[4-4 血闘]は、密偵志望のおまさが、少女時代に憧れた長谷川平蔵と再会する物語。

長谷川平蔵が火盗改メの本役が発令された天明8年10月2日から、さほど日を置かずして、おまさが役宅へ現れて密偵を懇請する。

このおまさによって〔乙畑(おつばた)〕の源八一味が〔火盗改メ〕に捕らえられたことはもちろんだが、その後、平蔵は、おまさを密偵にするつもりはなかった。
しばらくは、自分のところへ引きとり、そのうちに適当な相手を、
「見つけてやろう」
と、平蔵はおまさにいったが、
「もう、男はこりごりでございます」
おまさは笑って、うけつけようともしない。 p1138 新装p144

ミク友(SNS組織---mixiの仲間)で文芸評論家のイケガミさんの日記「若い女性の無邪気な感想」を少々引用させていただく。
イケガミさんが、いまは女性の部下が多い職場の上司をしているかつてのクラスメートと酒席をともにしたときの会話だ。

上司さん「---けっこう悩みをきかされるんだよ。まあ平たくいうと、愛されていると思ってセックスしたのに、愛されていなかった、バカヤロウという話ね」
つづいて、「セクハラじゃないかと思って一瞬迷ったけれど、こっちも酔っていたし、いったけわけだ。“勃起したペニスには良心がない。とくに若い男のそれには”。だから気をつけなさい、と」
と、悩みを打ち明けた若い女性が「“刺激的な格言ですね”と」
上司さん「そればかりじゃない。もっと驚いたのは、そのあとでね。“いろんなことをいっぺんに思い出しちゃいますね”と」

おまさが平蔵に「もう、男はこりごりでございます」といったとき、どんなことを思い出したろう、と思った。
7歳になる娘は、亡父の里へ預けており、その子の父親は、5年前に死んでいる。
〔狐火(きつねび)〕一味にいたとき、一味を放逐されることになった掟やぶりをして、首領の息子・又太郎を男にしてやったことか。
18歳で〔乙畑〕一味にいたときに、〔夜鴉(よがらす)〕の仙次郎にレイプされたことか。

池波さんがあとになって後悔したのは、[血闘]で浪人たちにおまさを輪姦させたことだろうと憶測している。

おまさはその後、[9-2 鯉肝(こいぎも)のお里]で密偵仲間の〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵とむすばれる。
そして、未完[24 誘拐]で、レズの〔荒神(こうじん)〕のお夏に誘惑されるらしい。

いや、よくできた短篇を読むようなイケガミさんの日記の---“いろんなことをいっぺんに思い出しちゃいますね”に触発された。男性も女性も、どういうときに「いろんな、どんなことを、いっぺんに思い出しちゃう」のか。

それこそ、人生の1断片々々々が、ページをぱらぱらと落とすようによみがえるから、人生は悲しくもあり、嬉しくもあるか。
 

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2007.03.09

剣客盗賊・石坂太四郎

『鬼平犯科帳』文庫巻6に収載の[剣客]で、過去の遺恨から、病身の松尾喜兵衛を一刀のもとに殺害したのが、この石坂太四郎である。
老齢を理由に、3年前に道場を閉め、深川・清澄町の藍玉問屋〔大坂屋〕の持家である貸家に隠棲していた松尾喜兵衛の愛弟子が同心・沢田小平次だったから、長谷川平蔵も手をつくして石坂の所在をつきとめ、沢田に仇討ちをさせた。
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『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊) 池波さん座右の史料
松尾喜兵衛は、〔大坂屋〕の持ち家に隠棲していた。

年齢・容姿:40歳前後---とあるが、上総・佐貫(さぬき)藩・阿部駿河守への仕官をかけた試合時の、相手方・松尾喜兵衛の年齢を50歳前と仮定すると、15年以上は昔のはず。石坂は25歳前後か。
精悍な風貌。総髪。、小ざっぱりした身なりで、外出時には袴をつける。羽織さえまとうこともある。
生国:不明。上総国天羽郡の佐貫藩へ仕官を所望というから、同藩が転封前、三河国刈谷藩時代に縁があったと考えられないでもない。
というのは、仕官の道を絶たれて盗みの世界へ入ったのが〔野見(のみ)〕の勝平一味。首領・勝平の出身地が、尾張(おわり)国碧海郡(あおみこおり)野見(のみ)村(現・愛知県豊田市野見町)。
3年前に駿府から流れてき、小千住・山王権現社のかたわらで足袋づくりをしている留吉も〔野見〕の手の者。
〔野見〕一味の江戸での盗(つと)めのために先発してきて、深川・木場に近い入船町に住む。
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近江屋板(部分) 赤○=深川・入船町、青○=富岡八幡宮
左端のブルーは海、下端は木場。
(参照:〔野見〕の勝平の項)
(参照:〔滝尻〕の定七の項)

探索の発端:最初は、仙台堀にそった松平陸奥守の蔵屋敷の横から出てきた石坂太四郎の羽織の袖にの血痕を見た鬼平が、同心・木村忠吾に尾行させたが、富岡八幡の境内でまかれてしまう。
松尾喜兵衛の葬儀の手伝いに来ていた密偵・おまさが、大坂屋へつなぎにあらわれた〔滝尻(たきじり)〕の定七を見つけ、彦十に尾行を依頼、小千住の留吉に隠れていた石坂浪人が見つかる。

結末:石坂は沢田小平次のとっさの剣技に破れて殪される。〔野見〕一味は、留吉の隠れ家に次々に現れては、張り込んでいた長谷川組に、文字通り、順繰り逮捕された。

つぶやき:[5-5 兇賊]で初めて登場し、「真刀では、おれも危なかろう」と鬼平がいうほどの遣い手---沢田小平次だったが、この篇ですさまじいばかりの剣技を示した。
以後、鬼平が支援を頼みとするときは、岸井左馬之助か沢田小平次の登場となり、連載にさらにもう一つの幅ができた。
つまり読み手は、沢田小平次の登場を心待ちにするわけだ。

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2007.03.08

〔青坊主(ぬのや)〕の弥市

『鬼平犯科帳』文庫巻2の[密偵(いぬ)]は、寛政3年(1791)の事件である。
主人公、一膳飯屋〔ぬのや〕の亭主・弥市は、いまは長谷川組の筆頭与力・佐嶋忠介の下で働く密偵だが、佐嶋が前火盗改メ・堀帯刀組の与力を勤めていた天明6年(1786)に捕縛され、きびしい拷問に耐えかね、属していた〔荒金(あらがね)]の仙右衛門一味のことを吐く。
ために〔縄ぬけ〕の源七を除く全員が処刑されていた。

一方、当時〔青坊主(あおぼうず)〕の「通り名(呼び名〕)で呼ばれていた弥市は、佐嶋与力に見込まれて密偵となり、人通りの多い奥州・日光両街道の下谷・坂本町3丁目にめし屋〔ぬのや〕を与えられ、女房・おふく(25歳)、少女・おさいとともにしあわせな日々をおくっている。
Photo_306
近江屋板・坂本町3丁目あたり。横に延びている奥州・日光街道。
赤○〔ぬのや〕その左、切れ込んでいる道の先は英信寺。

そこへ、〔夜兎(ようさぎ)〕の角右衛門一味K〔乙坂(おとさか)〕の庄五郎があらわれ、生き残った〔縄ぬけ〕の源七の居所が知りたかったらと、合鍵づくりを強要。
(参照:〔荒金〕の仙右衛門の項)
(参照:〔縄ぬけ〕の源七の項)
(参照:〔夜兎〕の角右衛門の項)
(参照:〔乙坂〕の庄五郎の項)

年齢・容姿:むっくりと肥えた躰。女房・おふくより15歳上の40歳。盗人時代は青坊主だったがいまは髷を結っている。
生国:捨子(すてご)なので不明。拾って育ててくれたのは、町を流して歩くつけ木売りの老人---とあるから江戸育ちかも。7歳のときに老人は病死し、弥市は悪の道へ。

探索の発端:〔荒金〕一味だったときのことは書かれていない。
〔乙坂〕の庄五郎のことは、佐嶋与力に伝えてあり、合鍵づくりのために家をあける亭主を疑って尾行した女房おふくが佐嶋与力に疑われ、〔ぬのや〕が見張られる。

結末:〔乙坂〕の庄五郎へ連絡(つなぎ)をつけに行く弥市が長谷川平蔵と同心・山田市太郎が尾行され、住吉町・へっつい河岸の奈良茶漬屋〔巴〕で、〔乙坂〕と〔縄ぬけ〕の源七が捕縛された。
死罪であろう。

つぶやき:密偵は旧仲間からは〔いぬ〕と呼ばれ、いつ仕返しされても仕方のない身分である。
そのやるせない境遇にある弥市の人生が、突然に、明から暗へ転じるさまが、みごとに描かれていて、ともすればさっそうともみえる密偵の真の運命が浮き上がる。

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2007.03.07

〔ぬのや〕の弥市と剣客・石坂太四郎

このココログ、2006年3月31日までの15ヶ月間のタイトルは[盗賊探索日録]といい、池波小説に登場している盗人たちの生国を調べ、日報していた。

その名ごりは、当ブログの右サイドバーに登録された県名となって全記録が残っている。
あなたの出身県名をクリックで、たちどころに、あなたの出身県生まれの盗賊たちのリストが現れる。

発想のもとは、2002年10月から、静岡市にも〔鬼平クラス〕(SBS学苑パルシェ)が誕生し、ぼく自身が静岡県になじみができ、地名になじみができるとともに、その多くが盗賊の「通り名(呼び名)」となっていることに気づいたこと。

そのまえに、雑誌に載った池波さんの書斎の写真に写っていた本の背文字をルーペで調べていて、明治30年代に刊行がはじまった吉田東伍博士『大日本地名辞書』(冨山房)を見つけたときから、その地名辞書と盗賊たちの「通り名(呼び名)」との関連が胸中にしこっていはした。

[1-7 座頭と猿]の〔五十海(いかるみ)〕の権平
[3-2 盗法秘伝]〔伊砂(いすが)〕の善八
[4-2 五年目の客]の〔羽佐間(はざま)〕の文蔵
[6-4 狐火]の〔瀬戸川(せとがわ)〕の源七
[11-3 穴]の〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛
など、400余名の盗賊のうち、30人近くが静岡県出身と判明した。

いや、静岡県が盗賊の産地というわけではまったくない。
静岡県への池波さんのなじみ度が高いというにすぎない。

たぶん、若い頃の池波さんが忍者ものの取材で、徳川家康らを調べるために静岡県になんども足を運んでいるうちに親しんだ地名とおもわれる。

その証拠に、甲賀忍者が出た滋賀県、武田信玄の山梨県と長野県、上杉謙信の新潟県、お好きだった京都、ご自身の先祖の出身・富山県も上位にランクされている。

_2_1ところが、最近になって、

[2-5 密(いぬ)偵]の密偵〔ぬのや〕の弥市

[6-3 剣客]の剣客盗賊・石坂太四郎

のような準主役の探索洩れがあることがわかった。

漏らしたのではなく、出身国が特定できなかったために後回しにしたのだとおもう。
その後、カテゴリーに「不明」の項をつけざるを得なくなって設定したのに、2人を忘れていたらしい。

ほかにも、生国未特定で後回しにした準主役級がいるに違いない。
これから盗賊に総当りしてみないと。えらい仕事がふえてしまったが、ここまできたら、やるしかないだろう。

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2007.03.06

初代〔狐火(きつねび)〕の勇五郎

[6-4 狐火]は、寛政3年(1791)夏の事件である。

ついでだから、この年に起きた事件を列記しておく。
[6-1 礼金二百両]   1月
[6-2 猫じゃらしの女]  1月~2月
[6-3 剣客]       春
[2-3 女掏摸お富]   夏の陽ざし 
[6-4 狐火]        夏
[6-6 盗賊人相書]   盛夏
[2-2 谷中・いろは茶屋]晩夏
[6-5 大川の隠居]   初秋
[6-7 のっそり医者]   初秋
[2-4 妖盗葵小僧]   初秋から翌年
[7-1 雨乞い庄右衛門] 秋
[2-5 密(いぬ)偵]  初冬(12月)

_6 こうしてみると、文庫巻6には、連載延長のための歳月補足の創作篇を盛り込んだとはとうていおもえない秀作が多い---[大川の隠居]をはじめとして、[猫じゃらしの女]しかり、[狐火]しかり。[のっそり医者]もいい。

しかも、[狐火]は、密偵・おまさの女としての過去と、その情念を再燃させるおまけまでついている。

それはそれとして、あれこれ検証してみる。
まず、初代〔狐火(きつねび)〕の勇五郎は、4年前に死んだことになっている。65、6歳。

4年前といえば天明7年(1787)で、長谷川平蔵はこの年の秋、9月19日に冬場の火盗改メ・助役(すけやく)を命じられた。
本役は、堀帯刀秀隆である。
翌年春に、助役を解かれた。

その年---すなわち天明8年(1788)10月2日に火盗改メ本役を命じられる。
その2,3日後に、おまさが出頭してきて、いま働いている〔乙畑おつばた)〕の源八一味を訴人する。この時、おまさは30歳を越えた([4-4 血闘])---とあるから、31歳か。

狐火]で再会した又太郎(2代目〔狐火〕は32歳。
1歳上おまさ は33歳---勘定が1歳あわない。このとき33歳なら、天明8年は30歳であらねば。

又太郎の母親は、初代〔狐火〕の勇五郎の妾だったが、小田原に住んでいた時に本妻が死んだので、京都へ呼ばれて、又太郎と本妻の子・文吉を分け隔てなく育てたが、38歳で病死。

2代目〔〔狐火きつねび)〕を次ぎ、京都で仏具屋を隠れ蓑にしていた又太郎は、父親・勇五郎の体質よりも、母親・おのほうを受け継いでいたのだろう、流行やまいにかかり、32歳であっけなく逝ってしまう。

もちろん、2代目・勇五郎が病歿しないと、おまさ鬼平の許へ帰ってくる口実がつかない。幾人もの首領のしたで働いたおまさは、100人以上の盗人の顔をおぼえており、発見や逮捕のきっかけをつくるとともに、物語に深みと現実みをあたえているのだから。

彦十にいわせると、おまさ又太郎は、
「男と女の躰のぐあいなんてものはきまりきっているようでいて、そうでねえ。たがいの肌と躰が。ぴったりと、こころくまで合うんてことは百に一つさ。まあちゃん。お前と二代目は、その百に一つだったんだねえ」

いや、初代〔狐火〕の勇五郎を紹介するつもりではじめた。
この首領は、懐の深い仁で、銕三郎と、 家督前の名で呼ばれていた幕臣の長男とも親しくし、下ごころなしに小遣いを与えたりするだけの度量があった。

可愛がっていた妾のおが、銕三郎とできてしまった時も、
「お前さんは武家のお子だ。人のもちものを盗(と)っちゃあいけねえ」
と諭しただけですませた。
勇五郎は45,6歳の男ざかり、よくそれだけで済ませたものだ。

平蔵は、いまでも、その時のことを思い出すと冷や汗をかくという。
いくら、若い時の失敗は、恥のうちに入らない---といわれても、ね。

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2007.03.05

平賀源内の脱牢・隠棲説

2007年3月1日の当欄に、戦前の平凡社『日本人名大事典』からの記述を引き、平賀源内には、正史とは別に、小伝馬町の牢中で食を断って餓死といつわり、じつは田沼意次の手くばりで、遠州へ隠棲、80余歳歿との説があることを紹介した。

さらに翌々3日、[平賀源内の伝記メモ]には、福娘紅子さんのサイト 『鞠も落ちねば上がり申さず』に、堺界亭やまさんが、源内は、遠州・相良藩の田沼意次の居城、相良城に隠まわれ、遺骸は浄心寺と藤佳景『寝惚けて居り候』(文芸社 2004年3月)に記されている---とのコメントを転載しておいた。

翌4日(日)、静岡へ出かける要件があったので、時間を割き、東海道線で草薙(くさなぎ)まで引き返し、谷田(やだ)地区の県立図書館の郷土史棚で文献を探した。未見だった郷土史家・川原崎次郎氏『城下町相良区史』(相良町 昭和61年10月1日刊)で当該記述を探したが、見つけえなかった。

静岡新聞の人に、浄心寺が日蓮宗で、旧・相良の中心部の町並・福岡(牧之原市福岡62 相良町は近年、近隣と合併し市政を敷いた)、に現存し、平賀源内の墓と称するものも存在していることも確認できた。
ただし、相良城は2006年12月4日の当欄に記したように、天明7年(1787)10月2日に、幕府に収公・破却されている。 

前記『日本人名大辞典』の源内の出生年1726(享保11年)を採ると、天明7年の年齢は62歳。それから80余歳まではどこに隠棲していたろう。

浄心寺へ葬られているとしたら、意次の第4子・田沼意正の相良復帰が、文政6年(1823)7月であったことは、2006年12月23日[ふたたび、田沼玄蕃頭意正]に記している。
源内の相良での死は、その20年以上も前である。

源内は、意次の孫・田沼意明(おきあき)の転封にしたがって陸奥・下村陣屋へ移ったとはかんがえ難い。
いったい、誰が、どこに匿ったのか?

浄心寺の墓説は、謎をいよいよ深めるばかり。

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2007.03.04

兎忠の好みの女性

『鬼平犯科帳』の前半のコメディ・リリーフ---兎忠こと木村忠吾は、同心としては頼りなくても、なんとも憎めない性格の持ち主である。

この兎忠、出番が文庫では第10話、背景となる時代は寛政3年(1791)、すなわち、長谷川平蔵が先手弓の第2組の組頭に着任してからだと5年目、火盗改メの長官に発令されてからでも4年目と、なんともしまらない。

いや、シリーズでの登場は、役柄からいって決して早くはないが、さればとて遅くすぎもしない。
ありようは、当初、池波さんがこの連載を1,2年で終えるつもりだったから、歳月を急いだにすぎない。

連載をつづけると腰をすえてからは、それまで発表した各篇のあいだあいだに、つじつまあわせの篇を挿入していった。

以上のことは、木村忠吾のにすでに明かしておいたが、とにかく[2-2 いろは茶屋]での登場は24歳。18歳の時に跡目を継ぎ、登場時には母・あさもこの世にいなかった。
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〔いろは茶屋〕。遠景は五重塔(『歳点譜』を彩色 塗り絵師:ちゅうすけ)

「これが最後だとおもうと、もう何度でも、何度でも、何度でも---」
と、谷中の感応寺門前町の娼家・いろは茶屋〔菱屋〕のお松にいどむ。

このお松、ぽってりとした色白の忠吾とは対照的に、あさぐろい細(ほ)っそりと引きしまった躰つき。目もとはぱっちりとしているが、鼻は低く、唇もぽってり---初手は忠吾の好みではなかったのだが、男の躰を吸いこんでしまうような秘技に、いっぺんにはまってしまった。

つぎに忠吾が惚れたのは、1年後の寛政4年晩秋の物語である[2-6 お雪の乳房]のお雪。18歳の処女(もっとも、はやばやと忠吾を受け入れてしまったから、生娘で通したわけではない)。

このお雪---、

ぱっちりと大きく張った双眸(りょうめ)はさておき、化粧気もないあさぐろい肌、細身の小づくりの躰(からだ)、そのころのむすめとしては大きくふくらみすぎているくちびる---p241 新装p253

どこやら娼妓お松を彷彿とさせる描写だが、お雪は町内で「美しい」と評判を立てられたことはないらしい。

うーん、兎忠の女の好みは、お松が初めての女ではあるまいに、どうやら、彼女に刷りこまれてしまったか。
いや、池波さんがそうと決めたのかも。

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2007.03.03

平賀源内の伝記メモ

Photo_303 『風来山人集 日本古典文学大系55 岩波書店(1961.8,7)の扉
 校注者:中村幸彦

参考文献
 ・水谷不倒  明治29年刊
 ・暉峻康隆  昭和28年刊 近世文学の展望所収平賀源内研究など
 ・野田壽雄  昭和36年刊 近世小説史論考風来山人論など


130_2 今井誉次郎『平賀源内』 世界伝記文庫3 1973.8.25 国土社 (文京区目白台 1-17-6
tel.3943-3721)

参考文献
・『平賀源内全集』 平賀源内先生顕彰会 中文館書店 昭和10年刊
 ・『平賀源内集』  有朋堂文庫 
 ・『平賀源内』   水谷不倒 博文館 明治27年刊
 ・『探求者』     桜田常久 春秋社 昭和21年
 ・『平賀源内』   進藤義明 高山書院 昭和18年
 ・『平賀源内』   貴司山治 ポプラ社 昭和26年 

ちゅうすけリサーチ
参考文献
 ・『平賀源内』   城福 勇 吉川弘文館 人物叢書 1985年
 ・『平賀源内の研究』城福 勇 絶版
 ・『平賀源内研究』 森銑三 (『森銑三著作集』 中央公論社)
 ・『平賀源内』   芳賀 徹 朝日新聞社 1989年
このほか、
福娘紅子さんの研究書読後感
http://gennaihiraga.web.fc2.com/b-01.htm
が面白い。
 
つけたり。上記URLのトップページ
平賀源内業績紹介『毬も落ちねば上がり申さず』

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2007.03.02

平賀源内顕彰碑

台東区橋場2丁目22番の2にある平賀源内の墓域には、墓屋の右に、2.5mはあろうかというほどに巨大な顕彰碑が立っている。
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昭和5年4月18日、表側に、旧藩主の末---伯爵・松平頼壽侯の跋文を刻んで、有志によって建立された。

跋文の大意は以下のとおり。

平賀源内先生が逝かれたて150年。先生は幾多の発見・発明をされ、中には電気まであります。その業を讃えない人はありません。また先生は、多くの人に慕われてき、その墓は大正13年に史跡に指定されました。ところが、総泉寺とともに市外へ移るようになった時、有志の人たちの運動によって旧地に保存されることになったのは、大慶であります。そこで、表にその由来を記し、裏面には、杉田玄白の碑文を刻んで、この偉人を永く残します。

裏面の杉田玄白の碑文は、じつは、犯罪人を顕彰したということで破棄させられたもの。漢文なので、返り点など横書きに適さないとか、現在は使われていない漢字もあるので、大意を現代文に翻訳・記述してみる。

処士(浪人)平賀君。諱は国倫(くにとも)。号は鳩渓。風来山人とも称した。
信州の武将・平賀源心の末裔である(ちゅうすけ注:父親の白石姓を平賀と改めたのは、先祖に誇りを抱いていたからであろう)。
先祖は難を避けて讃州志度に流れて住みついたのであった(ちゅうすけ注:父親・茂左衛門は蔵番の小吏)。
君の人となりは磊落不羈、さらに才弁があり、気はなお豪放、書を読んでも章句にこだわらなかった。
高松侯は小吏としてお使いになったので、君は嘆じていわく、丈夫は世に処するにあたっては常に国家の益を考え、郷里に安んじているべきではないと。
四方に旅して産物を究め、自然の理を学び、技術に精通。
諸侯に対しては利国を説き、庶人に対してはすなわち利身を説く(ちゅうすけ注:その割に当人はいつも懐がピーピーで、『魚が棲む城』によると、田沼意次は来ると50両前後を渡させていたと)。
海内に賢愚なく、ものの名をことごとく知っていた。
諸侯の召しかかえようとの申し出をすべて辞していわく、人生を自由に生きるから貴いのだ、どうして五斗米のために腰を折らねばならないのだと。
妻帯をすすめる人も少なくなかったが、なに、いたるところが家みたいなものだ、なんでいまさら係累を作らねばならないといって、終生娶らなかった。
君、つねに客を好み、客が来ると引きとめて、夜となく昼となく酒盛りをして飽きない。もとより君に恒産があるわけではないから財布はすぐに空っぽ。しかしそんなことはまったく気にしていない---。
(このあと、著作を列記しているが略)。
まさに非常というべき人だから、非常のことを好み、やることも非常だった。その死も非常としかいいようがない。

付記すると、獄中の源内は食を断って死を期していた。逝く前日、田沼意次の内密の配慮で、玄白は面会するを得、辞世の句を受取ったという。

 乾坤(けんこん)の 手をちぢめたる 氷かな

乾坤とは、源内が究めた天地自然の理の意。 

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2007.03.01

平賀源内と田沼意次(つづき)

戦前に出た平凡社『日本人名大事典』(1938.3.5初版刊 1979.7.10復刻)に、平賀源内について人さわがせな数行があった。入牢した容疑について---、

Photo_307 発狂して人を斬りし説と、蝦夷において密貿易した機密書を見られたその人を斬った説とがあり、後説が近年信じられている。更に一説によれば、この事は田沼侯と関係あり、、牢中で病死と号し実はその手に救われ、遠州に隠棲して80余歳で歿したといふ。
(肖像:『偽作者考補異』所載 部分)

今井誉次郎さん『平賀源内』(国土社 世界伝記文庫3 1973.8.25)は、少年少女向きに書かれたやさしい文章だが、内容は、田沼意次についての捏造された風評を除くと、まあまあ、吟味されている。付された年表によると、源内が老中・田沼意次に「ひそかにあったのは明和6年(1769)、源内が41歳のこととなっている。
田沼意次は、秋山小兵衛と同じ享保3年(1719)の生まれだから、源内より10歳年長である。
明和6年といえば、2006年2月23日の当欄に引用した田沼意次の年表によれば、この年、意次は老中格に任じられている。

ただし、蝦夷開発のための探索計画が勘定奉行・松本秀持(ひでもち)によって提案されたのは、それから14年ほどのちの天明4年(1784)である。

今井さんの年表では、源内はその5年前の安永8年(1779)に蝦夷での密輸文書うんぬんの殺傷事件を起して入牢、1カ月後に獄内で病歿したことになっている。
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屋根がつけられた源内墓石

田沼意次がひそかに蝦夷へ派遣して、植物や鉱物を探索させたという話のほうが想像力をそそられはする。が、意次との接点でえば、同年表にある明和7年の2度目の長崎遊学の便宜をみてもらったと、世俗的に考えるほうがまっとうだろう。

平岩
さんは、『魚の棲む城』で、源内という多芸多才な仁を評して、意次の近親者の口を借り、
「ああ気が多くては、とても一つのことを成しとげられますまい」
とうがつ。

ま、戯文はともかく、田沼意次にひそかにあった翌年---すなわち明和7年(1770)に、江戸の外記(げき)座で上演された、新田左兵衛佐(さひょうえのすけ)義興(よしおき)の怨霊をうたいあげた『神霊(しんりょう)矢口渡』(風来山人集 日本古典文学大系55 岩波書店 1961.8.7)は、歴史知識はもとより口調もあざやかだとおもう。
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矢口古事(『江戸名所図会』部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

忘れるところであった。源内と佐竹藩のつながりだが、今井誉次郎さん作成「源内の足跡地図」に記載されている久保田領内の鉱山は、院内銀山(秋田県雄勝郡雄勝町)と阿仁鉱山(同北秋田郡阿仁町)である。

も一つ。
源内の墓の右後ろ、一段と小さい墓石は、久保田生まれの従僕・福助のもの。
福助は源助より8カ月早く墓に入っている。その縁で源内が総泉寺へ葬られたとの説もある。

さらに、も一つ。
浄瑠璃『神霊矢口渡』は、福内(ふくち)鬼外(きがい)という人をくった筆名で発表された。

もう一つ、おまけ。
都庁公園課へ墓域の開扉について問いあわせた。公園内の施設でないから管轄外だが、とあちこち聞いてくれ、けっきょく、担当部署不明。しかし、開扉日は毎月第一土・日と命日の18日のみと。
ぼくは2月25日に行って半開扉ですっと入れたけれど、あれはなんだったんだろう?
臨時開扉の申請先は、けっきょく、わからずじまいだった。

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