長谷川伸さんを師とした日
2007年3月15日、池波さんが長谷川伸師から訪問許可の書簡を受取ったところまでを引いた。
引用しているのは、『小説の散歩道』(朝日文庫 1987.4.20)の[長谷川伸]から。
その日は、じりじり照りつける暑い日で、私は二本榎のお宅の前までくると気おくれがして門の中へ入れず、何度も行ったりきたりして、しまいには小水がもれそうになってしまい、前の明治学院の便所へかけこみ、用を足し、水で顔を洗ってから、思いきって門へ入って行った。
1948年(昭和23年)。池波青年が25歳の時のことである。
豊子夫人と結婚して、新居を駒込のほうに構えたのはこの2年後だから、下谷保険所に住みこんでいたころだ。
右の青○が下谷保険所のあった都電・稲荷町。
左の赤○が長谷川伸師邸のあった二本榎。
(『東京百年史』第六巻より)
都電で行くには乗り継ぎもあり、時間がかかりすぎた。高架の省線(山手線)で五反田駅まで行き、そこから桜田通りのゆるい坂を上る都電で停留所2つ目が二本榎(下図の赤○)。
長谷川邸は、そこから(五反田を背にして)左へ桑原坂を下りかかったとっかかりの石段のある家。石段をのぼりきると、門扉がある(現在はつねに閉まっている)。
奥さまが親切に応対してくださった。
先生は、どこかの会合から帰られたところだったが、コチコチになっている私を見ると、
「君、らくにしたまえ」
こう言われて、いきなり下帯ひとつになられた。それて、私もいくらか気がらくになり、いろいろと話しはじめた。
下帯ひとつ---これは、なかなかできることではない。
暑い日だったというが、池波青年をくつろがせるための演技の気配が濃厚。それにしても、卓越した歓迎法だ。
(こんご、この人を師として敬しよう)
池波さんでなくても、そう決める。
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