長谷川伸師と新鷹会
池波さんに、長谷川伸師が、小説も書くようにとすすめたのは、いつごろであろう。
長谷川伸師がその費用の大半を提供していたと推察できる『大衆文芸』の1954年(昭和29)10月号に第1作『厨房(キッチン)にて』が掲載されているから、多分、この年(かその前年)に、小説の勉強会である〔新鷹会(しんようかい)に参加したのではあるまいか。
池波さん31歳。
〔新鷹会〕のホームページは、当会は「新しい文学の創造を目指し」て、昭和14年(1939)に発足した〔15日会〕がそのはじまりである、としている。
『大衆文芸』が会誌のような形で一般にも発売され、戦後、復刊された。
ちなみに、池波さんの直木賞候補となった数篇および受賞作の[錯乱]も、同誌に発表されたものである。
すぐれた新人を育てるというこのほかは私心のない長谷川伸師の念願がわかっていたからこそ、戦後の会にも、山手樹一郎、山岡荘八、大林清、土師清二、鹿島孝二、戸川幸夫、村上元三などのベテラン陣が、例会に手弁当で出席したのであろう。
例会は、長谷川伸師邸の1階の8畳の客間と、それにつながる6畳をぶちぬいて開かれた。
(その2間を見学する鬼平熱愛倶楽部のメンバー)。
床の間の真ん中に長谷川師。その左右にベテラン陣が並んでいたと語るのは、家屋の管理をまかされている佐藤さん。
池波さんや新田次郎さん、のちに鬼平テレビ化のプロデューサーをつとめた市川久夫さん、平岩弓枝さんらの新人は、廊下に近い席だったとも。
『新・私の歳月』(講談社文庫 1992.10.15)に収録されている[絵筆と共に]から引用。
二十八歳(1956)のときの新橋演舞場における処女上演以来、よき師、よき先輩と友人にめぐまれ、新国劇を中心にした芝居の世界における仕事でも、おもい残すことはい。
その後、私は小説の勉強をはじめた。
これは亡師・長谷川伸の強いすすめがあったからだ。
私は生涯、芝居の世界で生きて行くつもりだったから、なかなかに足を踏み出せなかった。
「芝居だけでは食べて行けないよ」
いつになく、先生は執拗(しつよう)にすすめられた。
いまにしておもうと、ただ、食べて行けないという一事だけで、先生は小説を書けとすすめられたのではないような気がする。
エッセイは、いつ、どの媒体に掲載されたものか。文庫には初出リストがつけられていない。なんとしたこと!
先行した『私の歳月』(講談社文庫 1984.6.15)には巻末に初出リストが掲載されているというのに。
池波さんのエッセイは膨大な数ある。直木賞受賞から急に増えている。その人生行路の厚みに、読み手が熱い興味を寄せている証しといえようか。
例の『完本池波正太郎大成 別巻』の年譜をあたることにした。
『新・私に歳月』は、同題の単行本(講談社 1986.5.10)の文庫化である。
手間惜しみをして、1986年から遡行。
1分とかからなかった。1985年1月号の『波』(新潮社のPR誌)に発表されていた。
長谷川伸師は、池波さんの中に、物語作家としての才能が隠されていることを見抜かれたのであろう。
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コメント
池波さんでもお座敷には座れず廊下だったという長谷川伸師宅へ私たち「鬼平熱愛倶楽部」のメンバーは先生(ちゅうすけさん)の特別のご配慮で伺い、そのお座敷に座り,錚錚たる作家先生たちの様子を伺ったことを思い出しました。
この後たくさんの蔵書も拝見し大変貴重な体験をさせていただき、参加できない遠くの池波ファンから羨ましがられました。
投稿: みやこのお豊 | 2007.03.21 14:05
私も「鬼平熱愛倶楽部」で、時代小説家神聖の地とも言える、長谷川伸師宅にお邪魔しました。
ここが厳しい批評がなされた修練の場だと思うと、ピリッと張り詰めた緊張感を感じざるを得なかったことを覚えています。
投稿: 鬼平熱愛むらい | 2007.03.21 22:18
この写真を拝見すると、何故私がこの場所にいるのか不思
議です。
長谷川伸先生のお宅、書庫を拝見できた事は大変な、大変な
ことなのに。
実現できたことは、鬼平熱愛倶楽部の一員であった事と
先生のご配慮のお蔭と感謝の念でいっぱいです。
ありがとうございました。
投稿: 豊麻呂 | 2007.03.23 19:55
朝日新聞社刊『長谷川伸全集』巻11の[付録月報]に、新鷹会に、伸師の没後に入会した戸部新十郎さんが[アプレ・ゲールの弁]を寄せています。
その中で、発表者が自作を読んでいるとき、少し足をずらせたら、同席の山田克郎さんに、
「行儀が悪い」
と注意されたんだそうです。
「新鷹会の勉強会は、作品を読んでいるあいだ、だれも足をくずさない。ふすまを距てて病臥中の長谷川先生でさえ、作品を聞くためにわざほざ病の半身を起こされる」
投稿: ちゅうすけ | 2007.03.26 01:08
今でも忘れません。
長谷川伸師邸の玄関から、かって諸先生の勉強会に用いられた座敷までの眺めが昨日の事の様に思い出されます。とても寒い日でした。
残念ながら写真にわが姿見えず、あの手が私でしょうかと言ったところです。
投稿: 所沢のおつる | 2007.04.01 12:07
八畳の客間の床の間には長谷川伸の遺影と観世音菩薩像がございましたが、今池波さんのエッセイ「新年の二つの別れ」を見ますとこの観世音菩薩にかんして次のようなエピソードが語られてます。
池波さんがひどいスランプになり、自身を失い、先生のところへ伺った時に、先生が自作のウタといってしめされた。
「観世音菩薩が一体ほしいと思う五月雨ばかりの昨日今日」
何日も机の前にすわりつづけ、書けなくて、書けなくて、ここに観音像の一つもあったらすがりつきたいほどだ、という作家としての苦悩をよんだものであった。
「ぼくだってだれだって、みんなそうなんだよ、元気を出したまえ」
私は勇気を得た。
今後悔してます。
このエッセイをキチンとよんで覚えていればこの観世音菩薩像の祀られている意味がわかったのにと。
投稿: 靖酔 | 2007.04.18 15:05