長谷川伸師邸の書庫
エッセイ[長谷川伸]は、最初、『新年の二つの別れ』(朝日新聞社 1977.6.10)の巻頭に置かれた。
5年後に出た、これもエッセイ集『一年の風景』(朝日新聞社 1982.9.30)とあわせて、朝日文庫『小説の散歩道』に収録。初出誌・紙は、いまのところ、わからない。
[長谷川伸]にこんな箇所がある。
先生の指導をうけるようになってから、私は、かなりあつかましかった。どんな社会にも、それぞれの順序、しきたりみたいなものがあるのだろうが、新米の私は、書庫の本をかってに見せてもらつたり、今から考えると冷や汗の出るような質問をくどくどやったり、ただもう、がむしゃらにぶつかっていったものだ。
書庫の本について、池波さんが、どこかに、こんなことを書いている。
貸し出し・返却ノートを自分で勝手につくり、そこに記載さえすれば、書庫から黙って持ち出していい---との許しを長谷川伸師から得たというのである。
ある時、長谷川伸師が、同じ新しい会員の市川久夫さんに、
「池波が長谷川平蔵に目をつけたらしい」
と漏らした。
市川さんは、大映の制作担当の責任者だった川口松太郎さんから「[26日会][新鷹会]に入れてもらい、勉強してこい」と派遣され、のちに『鬼平犯科帳』のプロデューサーとなった仁である。
市川さんは、この長谷川伸師の寸言によって、池波さんへ「長谷川平蔵のテレビ化は、オレがやる」と約束した。
長谷川伸師邸の書庫には、史料や日本中の地誌が、それこそ、ほとんどそろっていた。
で池波さんが、三田村鳶魚 『江戸の白浪』(早稲田大学出版会 1934)とか『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』を持ち出しているのを、借り出し簿から目ざとく見つけ、そう類推されたのであろうか。
いや、それらの史料を読んだあと、池波さんのほうから、
「長谷川平蔵について書かれたものは、もっと、ないのでしようか?」
と問うたのかもしれない。
長谷川伸師は、
「そういえば、『江戸会誌』のどこかに、書かれていたような---」
と推理したのは、明治23年6月号の[長谷川平蔵の逸事]と題された短い記事が、鬼平の性格を形づくる手がかりになっているからだ。
『江戸会誌』明治23年6月号表紙
10年以上も前に、NHK文化センターでもっていた[鬼平]クラスの受講者だったN氏が、それを国会図書館で見つけて、コピーをくださった。
[長谷川平蔵の逸事](左ページ下段。右上からは人足寄場の紹介)
[長谷川平蔵の逸事]
長谷川平蔵は其の名未考。禄は四百石。居宅は本所菊川町にあり。
先手弓頭より盗賊火付改へ出役し、天明八年十月より寛政七年五月、病で没するまでおよそ八ヶ年の間これを勤む。
もとより幹事の才ありしゆえ、松平樂翁の遇を得てその意を承りて人足寄場を創設せしこと、または盗賊探検などのことには幾多の逸事あり。
「幹事の才あり」は、リーダーの素質と熟練があったということ。つまり、鬼平をすぐれたリーダーとして造型すればいい、リーダーとは芝居の演出者だ---池波さんはそう考えたろう。
これを確かめるために、平岩弓枝さんの許しをもらって長谷川伸師の書庫へ入り、3冊に合本・装丁された『江戸会誌』を見つけたときは、われしらず、快哉を叫んだ。
長谷川伸師の示唆にしたがい、池波さんは、[長谷川平蔵の逸事]を読んでいたのだ。
長谷川伸邸書庫
↑クリックで、覗くことができる。
【つぶやき】ゆうに万を越える貴重な蔵書は、長谷川伸師の歿後、専門の司書の手で分類され、図書カードがつくられた。
完成後、整理された書庫を見た池波さんは、「伸先生の体臭が薄れたようで、ちょっぴり寂しい」との感想をどこかに書いている。
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