長谷川伸師の勉強会
講談社『完本池波正太郎大成』別巻(2001.3.6)は、対談やインタヴュー、聞書、年譜などを収録していて、池波さんの研究には欠かせない1冊といえる。
その年譜。池波青年が長谷川伸師邸を志を抱いて訪問した1948年(昭和30年)25歳---の項は、こう書かれている。
長谷川伸を訪ね、劇作の指導を受けるようになる。
すなわち、昭和七年(1932)発足の脚本研究会、二十六日会に、また、小説の研究会である新鷹会(しんようかい)にも入会する。
これは正確ではないようにおもう。
池波青年は、長谷川伸師に戯曲を見てもらいたかった。だから、そのほうの研究会である〔二十六日会〕への入会は即答したと推察できる。
下帯ひとつで応対していた長谷川伸師は、
「どうだろう、脚本の勉強会〔二十六日〕会というのを、この部屋で、毎月の26日に夕刻から開いているのだが、参加してみないかね?」
「入会させていただけるのですか?」
「そう、入会して、もまれるといいと思います」
「ぜひ---」
「6時からなんだけど、勤め先のほうに支障はないかね?」
「はい」
長谷川伸師が池波青年と面談した客間。
壁にかかる、岡本一平(?)による夫妻の似顔絵あップ。
しかしこの時、長谷川伸師が、池波青年に小説のほうの〔新鷹会〕入会をもすすめたとはどうしてもおもえない。
これまで引用してきたエッセイ[長谷川伸]に、池波さん自身が、書いている。
私は、はじめに戯曲をやって、自分の作品が三つ四つ上演されるようになってから、今度は小説の勉強をはじめた。
また、[私の文学修行](未収録エッセイ集『おおげさがきらい』(講談社文庫)には、
夢が舞台の上に実現したのは昭和二十九年(1954)の七月----というと、いまこの原稿を書いている同じ月だから丸九年前ということになる。処女上演は新国劇所演の「鈍牛」という芝居で、劇場は、新橋演舞場であった。(『読売新聞 1960.7.30)
(ちゅうすけ注:『鬼平犯科帳』にも[鈍牛(のろうし)と題した篇があるが、まったく別物。脚本のほうは、売れない画家を主人公とした現代劇)。
同じ未収録エッセイ集『わが家の夕めし』(講談社 2003.4.15)に入っている[ショウ見物で小説のデッサン]に、
私が、芝居の脚本のほかに、小説を書くようになったのは、恩師長谷川伸の強いすすめによるものであった。
「絶対に、脚本だけでは食べて行けはしないし、作家としても、双方やって、双方のよいところほ吸収したほうがよい」
と、師はいわれた。
当時の私は、まだ、東京都につとめていて、一年に二本ほど、自分の脚本が新国劇で上演され、といった程度で、もちろん、役所をやめたら食べて行けなかったとおもう。
芝居をやっているだけでも、昼間つとめて、夜書くという生活は強(きつ)かったが、それに今度は小説をやろうというものだから、たまったものではない。(『問題小説』 1973.12月号)
睡眠時間が日に3,4時間ということになった。
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