平賀源内の脱牢・隠棲説
2007年3月1日の当欄に、戦前の平凡社『日本人名大事典』からの記述を引き、平賀源内には、正史とは別に、小伝馬町の牢中で食を断って餓死といつわり、じつは田沼意次の手くばりで、遠州へ隠棲、80余歳歿との説があることを紹介した。
さらに翌々3日、[平賀源内の伝記メモ]には、福娘紅子さんのサイト 『鞠も落ちねば上がり申さず』に、堺界亭やまさんが、源内は、遠州・相良藩の田沼意次の居城、相良城に隠まわれ、遺骸は浄心寺と藤佳景『寝惚けて居り候』(文芸社 2004年3月)に記されている---とのコメントを転載しておいた。
翌4日(日)、静岡へ出かける要件があったので、時間を割き、東海道線で草薙(くさなぎ)まで引き返し、谷田(やだ)地区の県立図書館の郷土史棚で文献を探した。未見だった郷土史家・川原崎次郎氏『城下町相良区史』(相良町 昭和61年10月1日刊)で当該記述を探したが、見つけえなかった。
静岡新聞の人に、浄心寺が日蓮宗で、旧・相良の中心部の町並・福岡(牧之原市福岡62 相良町は近年、近隣と合併し市政を敷いた)、に現存し、平賀源内の墓と称するものも存在していることも確認できた。
ただし、相良城は2006年12月4日の当欄に記したように、天明7年(1787)10月2日に、幕府に収公・破却されている。
前記『日本人名大辞典』の源内の出生年1726(享保11年)を採ると、天明7年の年齢は62歳。それから80余歳まではどこに隠棲していたろう。
浄心寺へ葬られているとしたら、意次の第4子・田沼意正の相良復帰が、文政6年(1823)7月であったことは、2006年12月23日[ふたたび、田沼玄蕃頭意正]に記している。
源内の相良での死は、その20年以上も前である。
源内は、意次の孫・田沼意明(おきあき)の転封にしたがって陸奥・下村陣屋へ移ったとはかんがえ難い。
いったい、誰が、どこに匿ったのか?
浄心寺の墓説は、謎をいよいよ深めるばかり。
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コメント
浄心寺の源内の墓石の写真が添えられるとよかったんだけど、静岡から相良へはバスしかなく、片道1時間半以上とのこと。
用件のついでの往復は、とても無理。1泊覚悟のスケジュールを立てないと。
投稿: ちゅうすけ | 2007.03.05 08:06