長谷川伸を師とした理由
25歳の池波青年が、長谷川伸さんを生涯の師として選び、訪問したことは、 [長谷川伸]の掲載紙・誌は?に、ちょっと記した。
なぜ、長谷川伸さんだったかは、応募脚本が佳作に選ばれた第2回読売演劇文化賞の審査員に長谷川伸師の名があったからとも、池波さんがエッセイ[長谷川伸]で打ち明けている。
しかし、それはきっかけで、真の理由は3つばかりありそうだ。
講談社の正編集者としては最後の大仕事として、『完本 池波正太郎大成』全30巻と別巻1冊をまとめられた小島 香さんは、『大成』のために池波作品を整理していて、あちこちに書かれたまま未収録になっているエッセイが数多くあることに気づいた。
それらの文章は、講談社から軽装の単行本として2003年2月15日に出た『おおげさがきらい』(文庫化は2007.3.10)から、順次月1冊ずつ、『わたくしの旅』『わが家の夕めし』新しいもの古いもの』『作家の四季』と5冊255本のエッセイがそろった。
[六度目の正直ーー「錯乱」受賞までーー]に、こう記している。
戦争が終わって復員したとき、母が、
「しばらくは、あそんでおいでな」
といってくれたことをよいことに、ぶらぶらと廃墟の浅草の一角の小さな部屋で、母と弟と暮らしていたときは、これから何をして生きて行こうかと、ずいぶん考えたものだ。(『問題小説』昭和48年12月号 『わが家の夕めし』に収録)。
間もなく劇作を志し、前記の読売演劇文化賞へ応募するにいたった経緯は、[私の文学修行]に---、
私が劇作家をこころざすようになったそもそもの動機といえば、子供のころから波並はずれての芝居好きがこうじたものだ。(略)
並はずれて芝居好きの母が、まだ私が六つ七つのころから私を連れ、機会あるごとに東京中の芝居を見に出かけていたということが、その起因だということになろう。(略)
芝居好きな人間は大なり小なり意識的にも無意識的にも舞台の作者たらんとする夢をいだくものであると、私は思っている。(『読売新聞』昭和35年7月30日 『おおげさがきい』に収録)
つまり、劇作のこころざしは、芝居好きが嵩じた結果と。
しかし、こういう告白もある。『亡師』と題した一文---、
私が亡師・長谷川伸にはじめてお目にかかったのは、十四、五歳のころであった。
当時、旧制小学校を卒業して、株式店の小店員になつていた私は、叔父の使いで、日本榎の長谷川邸へ出向いたのだ。
叔父は、亡師の、もっとも古い門下の一人であった。
そりは小説や劇作ではなく、歌のほうの門下で、その歌というのは、天保年間に都々逸坊扇歌(どどいつぼうせんか)が創始し、江戸から諸国へひろまって行った都々逸のことで---その二十六文字詩型について、そのころの長谷川師は相当に情熱をかたむけておられた。(略)
私の叔父も、はじめは、その投稿者の一人であったが、そのうちに長谷川邸へ出入りをするようになり、しまいには自分が主催する「街歌」という雑誌をだすようになったのである。(季刊『劇と新小説』1号 昭和50年11月 長谷川伸先生追悼紙碑 『新しいもの古いものに収録)
その雑誌のための原稿を受け取りに、池波少年は長谷川伸さんの家へ行ったのだという。
これが池波さんを長谷川伸さんを師として選んだ第二の理由とみる。
第三は、いうまでもなく、小学校だけで実社会に出、研鑽と才能の結果として新聞記者、劇作家、小説家として聳えていた長谷川伸さんに、池波青年が憧憬と親近感を抱いたこと。
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