平賀源内と田沼意次
平岩弓枝さん『魚の棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)を単行本で読んだとき、よく調べたとともに、ワイロ政治家・田沼意次の風説をひっくりかえした腕力に感動。
すぐに電話でお礼を述べた。というのは、単行本は平岩さんからいただいたから。
『魚の棲む城』に、田沼意次の木挽町の中屋敷を描写した、こんにな一節がある。
神田橋の屋敷がいわば公邸なら、ここは全くの私邸であった。
月に一度、ここに様々な人々が集まって来た。
職業はまちまちで蘭方の医者、蘭学者が多い時もあるし、江戸や上方の商人が来るときもある。画家や俳諧師(はいかいし)や狂歌の仲間がそろって顔をだしたりもする。かと思うと蘭学者、漢学者、詩文の愛好家が集まる日であったり、算勘に長じている者、鉱山に知識のある者など多士済々(せいせい)であった。p360
田沼意次という政治家の、いわゆる懐の深さであり、人脈の豊富さをよくあらわしている。
「鉱山に知識のある者」の中に、平賀源内もふくまれていたろう。
そして、多芸多才というか奇人というほうが妥当か、平賀源内を田沼意次に引きあわせたのが、幕医でもあった千賀道有ではないかと、思えてきた。
というのは、『台東区史』(1955.6.30)は、獄内で病死(54歳と57歳説がある)した源内の遺品を橋場の巨刹・総泉寺へ葬ることがかなったのは、親友だった千賀道有の口ききがあったからであろうとの仮説を記している。
遺体は罪人ゆえに下げ渡しにはならない。
千賀道有のことは、([2-1 蛇くちなわ)の眼]に、
ずらり武家屋敷が三ッ俣(みつまた)の河岸通一帯にかけてならんでいる。その中の、ちょうど平十郎の家からななめ右寄りの対岸に、敷地・二千坪にあまる宏大な屋敷がのぞまれるが、これを土地(ところ)の人びとは〔道有(どうゆう)屋敷〕と、よぶ。
先年まで将軍の侍医として世にきこえた、法眼(ほうげん)・千賀(ちが)道有の屋敷だからである。p17 新装同
〔道有屋敷〕が、ここではなく、紺屋町3丁目と大和町の間---藍染橋ぞいにあったことは、いまは問わない。
千賀道有という人物は、もとは伝馬(てんま)町の牢屋敷(ろうやしき)に所属し、囚人の病気治療に専念していた下級医であったが、そのころ、三百五十俵どりの旗本にすぎなかった田沼意次(おきつぐけ)家へ出入りをし、田沼を案内しては、よく諸方の岡場所などへ女を漁(あさ)りに出かけたりしたものだ。(略)
田沼の出世につれ、千賀道有も地位を高めていった。
若いころの〔遊び友達〕であったばかりでなく、田沼は道有の養女(もとは矢場の女)を愛妾にしていたし、何かにつけて、わけ知りの道有というのが、便利な存在となった。p18 新装同
池波さんの道有非難の根拠にもいま触れないでおく。
『風俗画報』(明治41年7月20日号 新撰東京名所図会 浅草区之部 巻之四)の巻末「区内有名の墳墓」リストにも、総泉寺に千賀道隆の名が記されている。道有の子か孫であろうか。
『魚の棲む城』はp443で平賀源内の名を出し、何にでも首を突込む面白い奴だが---、
「あいつは久保田(現・秋田市)へ行っていたのだよ」
と、田沼意次にいわせている。佐竹藩に招かれて、封内鉱山の調査をしていたらしい。
(『日本歴史地名体系 秋田県』(平凡社)で調べたが、封内町には鉱山はみつからなかった。この件は後述)。
佐竹藩との鉱山の所属をめぐって、幕府の田沼側と佐竹藩との間に、ある種のいきさつがあったこともなにかで読んだ。
佐竹藩の在府の香華寺は、総泉寺であった。その関係で源内が同寺へ葬られたかも知れないとも『区史』は記す。
板橋・小豆沢の総泉寺の若い寺僧は、その経緯については知らず、ただ、平賀源内の墓は、旧地の橋場に残っているとだけ告げてくれた。
【銘板の文】
平賀源内墓(国指定史跡)
台東区橋場2丁目22番2号
平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の3男で名は国倫(くにとも)、源内は通称である。寛延2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を開いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業畑では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会を主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元制作、火浣布(かかんぷ 石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山i人(ふうらいさんじん)・福内鬼外(ふくちきがい)などの号名をもち、『風流志道軒伝』の滑稽本や浄瑠璃『神雲矢口渡』などの作品を残した。
安永8年(1779)11月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で病死。遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永8巳亥年12月18日 智見雲雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和3年(1928)板橋区小豆沢へ移転とたが、源内墓は当地に保存された。昭和4年に東京府史跡に仮指定され、昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年に国指定史跡となった。
平成17年3月
台東区教育委員会
『風俗画報』は、大震災前は「総泉寺本道の左側、十三仏の裏にありて、高さおよそ六尺ばかり(1.8m)」と記している。
その後の推移を『区史』は、総泉寺の移転に伴って「現在は石浜町三丁目の加藤氏宅の一隅にあり」としているが、区の史跡指定、つづいて昭和18年に国史跡に指定されたので、加藤氏から都の管理へ移ったと推定できる。
訪ねると、橋場2丁目22-2にあった。
築地塀は、旧高松藩主・松平頼壽侯の寄贈によるものとか。
(この項、つづく)
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