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2007年2月の記事

2007.02.28

平賀源内と田沼意次

00_1 平岩弓枝さん『魚の棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)を単行本で読んだとき、よく調べたとともに、ワイロ政治家・田沼意次の風説をひっくりかえした腕力に感動。
すぐに電話でお礼を述べた。というのは、単行本は平岩さんからいただいたから。

魚の棲む城』に、田沼意次の木挽町の中屋敷を描写した、こんにな一節がある。

神田橋の屋敷がいわば公邸なら、ここは全くの私邸であった。
月に一度、ここに様々な人々が集まって来た。
職業はまちまちで蘭方の医者、蘭学者が多い時もあるし、江戸や上方の商人が来るときもある。画家や俳諧師(はいかいし)や狂歌の仲間がそろって顔をだしたりもする。かと思うと蘭学者、漢学者、詩文の愛好家が集まる日であったり、算勘に長じている者、鉱山に知識のある者など多士済々(せいせい)であった。p360

田沼意次という政治家の、いわゆる懐の深さであり、人脈の豊富さをよくあらわしている。
「鉱山に知識のある者」の中に、平賀源内もふくまれていたろう。

そして、多芸多才というか奇人というほうが妥当か、平賀源内を田沼意次に引きあわせたのが、幕医でもあった千賀道有ではないかと、思えてきた。

というのは、『台東区史』(1955.6.30)は、獄内で病死(54歳と57歳説がある)した源内の遺品を橋場の巨刹・総泉寺へ葬ることがかなったのは、親友だった千賀道有の口ききがあったからであろうとの仮説を記している。
遺体は罪人ゆえに下げ渡しにはならない。

千賀道有のことは、([2-1 くちなわの眼]に、

ずらり武家屋敷が三ッ俣(みつまた)の河岸通一帯にかけてならんでいる。その中の、ちょうど平十郎の家からななめ右寄りの対岸に、敷地・二千坪にあまる宏大な屋敷がのぞまれるが、これを土地(ところ)の人びとは〔道有(どうゆう)屋敷〕と、よぶ。
先年まで将軍の侍医として世にきこえた、法眼(ほうげん)・千賀(ちが)道有の屋敷だからである。p17 新装同

〔道有屋敷〕が、ここではなく、紺屋町3丁目と大和町の間---藍染橋ぞいにあったことは、いまは問わない。

千賀道有という人物は、もとは伝馬(てんま)町の牢屋敷(ろうやしき)に所属し、囚人の病気治療に専念していた下級医であったが、そのころ、三百五十俵どりの旗本にすぎなかった田沼意次(おきつぐけ)家へ出入りをし、田沼を案内しては、よく諸方の岡場所などへ女を漁(あさ)りに出かけたりしたものだ。(略)
田沼の出世につれ、千賀道有も地位を高めていった。
若いころの〔遊び友達〕であったばかりでなく、田沼は道有の養女(もとは矢場の女)を愛妾にしていたし、何かにつけて、わけ知りの道有というのが、便利な存在となった。p18 新装同

池波さんの道有非難の根拠にもいま触れないでおく。

風俗画報』(明治41年7月20日号 新撰東京名所図会 浅草区之部 巻之四)の巻末「区内有名の墳墓」リストにも、総泉寺に千賀道隆の名が記されている。道有の子か孫であろうか。

魚の棲む城』はp443で平賀源内の名を出し、何にでも首を突込む面白い奴だが---、
「あいつは久保田(現・秋田市)へ行っていたのだよ」
と、田沼意次にいわせている。佐竹藩に招かれて、封内鉱山の調査をしていたらしい。
(『日本歴史地名体系 秋田県』(平凡社)で調べたが、封内町には鉱山はみつからなかった。この件は後述)。

佐竹藩との鉱山の所属をめぐって、幕府の田沼側と佐竹藩との間に、ある種のいきさつがあったこともなにかで読んだ。

佐竹藩の在府の香華寺は、総泉寺であった。その関係で源内が同寺へ葬られたかも知れないとも『区史』は記す。
板橋・小豆沢の総泉寺の若い寺僧は、その経緯については知らず、ただ、平賀源内の墓は、旧地の橋場に残っているとだけ告げてくれた。
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【銘板の文】
平賀源内墓(国指定史跡)
                台東区橋場2丁目22番2号
平賀源内は享保13年(1728)、讃岐国志度浦(現香川県志度町)に生まれる(生年には諸説ある)。高松藩士白石良房の3男で名は国倫(くにとも)、源内は通称である。寛延2年(1749)に家督を継ぎ、祖先の姓である平賀姓を開いた。本草学・医学・儒学・絵画を学び、事業畑では成功しなかったが、物産開発に尽力した。物産会を主催、鉱山開発、陶器製造、毛織物製造などをおこない、エレキテル(摩擦起電機)を復元制作、火浣布(かかんぷ 石綿の耐火布)を発明した。一方で風来山i人(ふうらいさんじん)・福内鬼外(ふくちきがい)などの号名をもち、『風流志道軒伝』の滑稽本や浄瑠璃『神雲矢口渡』などの作品を残した。
安永8年(1779)11月に誤って殺傷事件を起こし、小伝馬町の牢内で病死。遺体は橋場の総泉寺(曹洞宗)に葬られた。墓は角塔状で笠付、上段角石に「安永8巳亥年12月18日 智見雲雄居士 平賀源内墓」と刻む。後方に従僕福助の墓がある。
総泉寺は昭和3年(1928)板橋区小豆沢へ移転とたが、源内墓は当地に保存された。昭和4年に東京府史跡に仮指定され、昭和6年には松平頼壽(旧高松藩当主)により築地塀が整備される。昭和18年に国指定史跡となった。
平成17年3月
                    台東区教育委員会

風俗画報』は、大震災前は「総泉寺本道の左側、十三仏の裏にありて、高さおよそ六尺ばかり(1.8m)」と記している。
その後の推移を『区史』は、総泉寺の移転に伴って「現在は石浜町三丁目の加藤氏宅の一隅にあり」としているが、区の史跡指定、つづいて昭和18年に国史跡に指定されたので、加藤氏から都の管理へ移ったと推定できる。

訪ねると、橋場2丁目22-2にあった。
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築地塀は、旧高松藩主・松平頼壽侯の寄贈によるものとか。
(この項、つづく)

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2007.02.27

妙亀塚と妙亀山総泉寺

[13-2 殺しの波紋]で、長谷川組与力・富田辰五郎が、盗賊の首領〔犬神(いぬがみ)〕の竹松に、
「---約束の金百両を三日後の明け六(む)つに、浅草橋場の浅茅(あさじ)ヶ原の妙亀堂まで持って来い---」
と強請状をつきつけられる。

富田与力は、強請(ゆす)られるだけの現場を竹松に押さえられていることは同篇を読み返していただくとして、浅茅ヶ原の妙亀堂は、『江戸名所図会』[巻之六 開陽之部]に描かれている。
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右手の社が妙亀堂。その左前が浅茅ヶ原(部分)

『名所図会』は、平安の末期、京で信夫藤太にさらわれた梅若丸が隅田川のほとりで打ち捨てられて没したと書く。
Photo_299
梅若丸と信夫藤太(部分)

探しに下ってたきた母は、妙亀尼(みょうきに)として菩提を弔っていたが、鏡ヶ池に投身して果てた。その霊を祀ったのが妙亀塚公園(現・台東区橋場1丁目28-3)。
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(現在は修復中)
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この妙亀尼の説話を取り込んだのが総泉寺の山号・妙亀山であろうか。
いや、同寺は平安期には開基していたというから、班女(妙亀尼の現世での名)のほうが剃髪して、総泉寺から法号をいただいたとも。

とにかく、〔犬神〕の竹松が、町々の木戸が開く「明け六つ」などという早朝を指定したのは、火盗改メの与力なら、木戸御免と知ってのことだったのだろう。

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小豆沢の総泉寺の山門の[山亀妙]の偏額

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総泉寺は、亀をシンボルとしていたるところに配置しているが、累代の住職の墓域の正面には、いずれ、デザイナーの手になるとおぼしい、モダンな感じの亀甲のシンボル・マークが掲示されている。
こういうモダンな感覚が、寺域の静寂さや荘厳さを薄めているのかもしれない。


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2007.02.26

総泉寺の入口の常夜灯

震災前まで浅草・橋場にあった名刹・総泉寺と、その門前に移動してきたお化け大地蔵に触れた『風俗画報』(明治41年7月20日号 [新撰東京名所図会 浅草区 其之四])は、つづいて、

当寺入口(現・台東区橋場2丁目5-3)に常夜灯あり。東畔に大地蔵を安置す。
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と記す。

常夜灯は、『風俗画報』のカラー絵にも描かれている。
しかし、絵の常夜灯と現存しているのとでは、笠のデザインが異なる。
絵のほうは笠に手のこんだ彫刻がほどこされている。

台東区教育委員会の銘板も、常夜灯がいつ制作され、だれが油を提供したかは記していない。
江戸期、菜種油はかなり高価で、ふつうの民家では油代の節約のためにさっさと消したという。

人通りのない道の暗さを、[1-6 暗剣白梅香]の描写を借りると、「歩いて行く自分のうしろから、闇がふくれあがり呼吸をして抱きすくめてきた」

総泉寺の入口あたりも、『江戸名所図会』の長谷川雪旦の絵で見ると、人家はなく、夜には人通りなどほとんどなかったとおもえる。
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なのに、常夜灯はだれのためだったのだろう?
寺僧たちの夜中の出入りのため? なぜ暗夜に? 修行?

現存する常夜灯をながめながら、やくたいもないことを考えていた。
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2007.02.25

総泉寺とお化け地蔵

[12-4 密偵たちの宴]に登場する浅草・橋場の巨刹・総泉寺のことは、2007年2月7日の当欄、に、ざっと紹介した。寺域2万8000坪と広大。

密偵らしからぬあるたくらみを胸に、〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵が、浅茅(あさぢ)が原を総泉寺の黒門の方へ行く盗賊〔草間(くさま)〕の貫蔵を見かける設定。
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橋場の総泉寺(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

もっとも、総泉寺との関係でいえば、『剣客商売』のほうがはるかに深い。

北側の田圃に、大治郎の家へ通ずる小道がついている。このあたりは近くの総泉寺(そうせんじ)の土地で、小兵衛が買い取り、息子のために改造してやった家には、以前、総泉寺の田畑にはたらく百姓たちが住んでいたものであった。([-2 剣の誓約]p91 新装p99)

つまり、秋山大治郎の住まい兼道場の因縁があり、あたりでの事件もいろいろと起きる。
[2-1 鬼熊酒屋]p11 新装同。 [5-4 暗殺]p171 新装p188 [11-2 勝負]p95 新装p104 [11-4 その日の三冬]p145 新装p163

『風俗画報』(明治41年7月20日号 [新撰東京名所図会 浅草区 其之四])に、

浅茅が原の松並木の道の傍に大なる石地蔵ありしを、維新の際並木の松を伐取。石地蔵は総泉寺の入口に移したり。

として、同号のカラー口絵にその石地蔵が載っている。
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頭上の笠が回転するためか、身の丈が3m余もあるためか、地元で「お化け地蔵」と呼ばれたこの石地蔵が、大震災後に板橋区小豆沢(あずさわ)へ移転した総泉寺に随伴した形跡が見えない。
鬼平熱愛倶楽部のウォーキング時(2007年2月24日)に総泉寺へ参詣、応対の寺僧に質した。
「旧地に残っている。地震で落ちた頭部を複旧するとともに、背後から添えた支柱で支えている」

かつての総泉寺の門前あたり---橋場2丁目5-3を訪ねた。
支院だった松吟庵が松吟寺(住職・前田泰明師)と改称、その敷地内に、地蔵像はあり、「お化け地蔵」と親しまれた経緯も台東区教育委員会の銘板に記されていた。
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お化け地蔵の1件は、これで落着。

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2007.02.24

京・瓜生山

『都名所図会』は、『江戸名所図会』を生む端緒となった地誌である。

京都がすきだった池波さんは、『江戸名所図会』同様に、『都名所図会』を丹念に読みこんでいる。

佳篇[1-5 老盗の夢]の前半は『都名所図会』から生まれた。

大女だった母親の乳房への思い出からだろう、名盗〔蓑火(みのひ)〕の喜之助は、亡友〔伊賀(いが)〕の音五郎の女房で、反胸(そりむね)の堂々とした体格のお千代となじんでしまう。
お千代は20年前に先逝、京の北東の瓜生山の谷あいの墓へ詣でるのが、67歳となった〔蓑火〕の、いまでは楽しみにさえなっている。

帰りの一乗寺村へ下る道すじで、お千代そっくり---とはいえ、年齢は20歳と若いおとよに出会った。
『都名所図会』で、瓜生山を探して、[白川・心性禅寺]の絵が目にとまった。
たぶん、この絵が池波さんのヒントになったのだろうと推測。
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おとよは、山端(やまはな)の茶屋〔杉野や〕の茶汲女---つまり「、客の求めにはいつでも躰をあたえながら、
「あ---こないなこと、わたし、はじめて---一度にやせてしもうた---」
が口ぐせ。

大女が好みで、何年ぶりかで男のきざしをよみがえらせた〔蓑火〕のほうは、そのことに、つゆ、気づかない。
所帯をもってみる気になるほどに分別を失い、資金かせぎに江戸へ下る始末。

ついでだか、山端の麦飯茶屋も、『都名所図会』に絵が添えられている。
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高野川に架かっている2本の橋の向こう、それぞれ北側に建っているのがそう。正面は比叡山。

〔蓑火〕は晩年、好みの女に行きあったばっかりに命まで落とすが、その間際に、真の盗人(つとめにん)の意地を貫くから、まあ、本望だったといえようか。

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2007.02.23

人足寄場の専用舟

[1-8 むかしの女]で、3日に一度は訪ねる人足寄場から、長谷川平蔵が帰ってくるのを、針売りの婆・おもんが船松町の火の見やぐらの陰で待っていた。

石川島と船松町の船着場の地図や、『江戸名所図会』の[佃島]の対岸にちょっぴり天頂をのぞかせている火の見やぐら は、左の色変わり文字をクリックして確かめていただきたい。

長谷川平蔵は寄場の役人二人につきそわれ、 小舟で船松町の渡し場へもどり着いた。p257 新装p272

これまで、この1行を見落としていた---というか、誤認していた。
というのは、船松町の渡し場は、対岸の佃島の船着場とを結んでいる。で、つい、平蔵もその渡し舟に便乗したように思いこんでいたのだ。

(寄場には、専用舟がある)

そう、これは確かだ。だから、

(平蔵が渡し舟なんかに乗るはずはない)

と、こうこころの中で反論していたのだ。

専用舟を所有していたことは、寄場の人足たちに心学の講義を聴かせるため、京から江戸へくだってきていた中沢道ニ(どうじ)を月に3度ずつ、神田薪河岸まで送迎に使っていたから、承知していた。

中沢道ニを平蔵に引きあわせたのは、本多弾正少弼(しょうひつ)忠籌(たたかず)だったという。30歳前後の少壮藩主たちをそろえた松平定信の幕閣の中で、唯一といえるほど50歳代の重鎮で、平蔵の力量を買っていたのもこの仁と。奥州・泉侯。

道ニの説話は大成功で、感涙にむせびながら聴く人足が多かったとも。

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2007.02.22

養女・お順

[1-1 唖の十蔵]の事件は、天明7年(1787)の春から初冬へかけての事件である。

長谷川平蔵は、この前年の6月に41歳という若さで先手弓の第2組の組頭に抜擢されたばかり。
翌7年の9月19日には、火盗改メの冬場の助役(すけやく)に任命された。
『鬼平犯科帳』が、前任の火盗改メ・堀帯刀に替わって---としているのは、池波さんに魂胆があっての誤記とみる。つまり、火盗改メというこれまでほとんどなじみのなかった役職を登場させた。これに本役(ほんやく)、助役(すけやく)があるなどと書いては、読み手が混乱するとの配慮であろう。

[唖の十蔵]の篇末で、平蔵は妻女・久栄と、こんな会話をかわす。

年があけた天明8年(1788)の正月五日。
役宅の一間で朝飯をしたためつつ、平蔵が妻女の久栄(ひさえ)に、
「あのな---」
「はい?」
「去年死んだ小野十蔵と、ほれ、かかわり合いになり、仙台堀へ浮かんだおふじという女な」
「はい」
「その女は、あの小間物屋の助次郎の子を生んだ」
「はい。そのようにうけたまわりました」
平蔵夫婦はニ男ニ女をもうけていた。p46 新装p49
Photo_294

明けて平蔵は43歳、長男の辰蔵は19歳だから、久栄18歳のときの出産とすると、夫より6歳下の37歳。長女は17歳か。
夫婦にニ男ニ女がいたという出典は『寛政重修諸家譜』である。次女は小説ではお清と名づけられている。
次男の正以(まさため)は同族の長谷川正満(まつみつ)の養子となっている。

「それで、な---」
「はい?」
「盗賊の子と知って、押上村の喜右衛門は、そのお順という子を持てあましはじめたそうだ」
「まあ---」
「おれたちがその子を引き取ってやろうとおもうが、どうだな」
「はい。おこころのままに」
「こころよく、引きうけてくれるか、そうか」
あたたかい、冬の朝の陽ざしが縁いっぱいにながれこんでいるのをながめつつ、長谷川平蔵は。つぶやくように、こういった。
「おれも妾腹(めかけばら)の上に、母親の顔も知らぬ男ゆえなあ---」

お順の存在を、池波さんは『寛政譜」の左に、ぽつんと記されている女子に見たのであろう。すべての子を久栄が生んだとは考えられないが、養女ならそれなりの手続きを記すのが至当である。

ついでにいうと、「おれも妾腹(めかけばら)」の子---というのは正確ではない。
亡父・宣雄は、先代の三弟の子として生まれた。ふつうなら、家督の目はなかった。それで家女に平蔵を生ませ、一つ家で暮らしていた。
ところが、従兄の当主が病死、家名を守るために、急遽、従姉妹の婿となって家督したが、家女もそのまま居座った---というより、病身の妻が家婦の務めができないので、彼女がすべてをとりしきったふしがある。これは妾という存在ではないとおもうが。

いや、お順のことであった。
寛政5年(1793)の梅雨明けのころ事件である[4-1 むかしの男]に登場したときは7歳。その後、杳(よう)として姿をあらわさないのはどうしたことか。
 

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2007.02.21

小間物屋のおふじ

おふじは盗賊ではない。ただ、殺人を犯した。殺したのは、盗賊の亭主・下総無宿の助次郎である。
「手前(てめえ)の腹の子なんぞ、ほしかあねえ」とほざき、身重なおふじを捨てて別の女とどこかへ行くという。それでかっとなったおふじは、酔いつぶれて寝ている亭主の首を絞めた。

ここまで書くと、ほとんどの鬼平ファンは、[1-1 唖の十蔵]の彼女だ---と察しがつく。
なにしろ、『鬼平犯科帳』文庫第1巻は150万部以上も刷られている。池波さんの生前にざっと50万冊、歿後に100万冊。
その冒頭に収録されているのが[唖の十蔵]である。読み手は強烈な印象を受ける。

おふじは、相州藤沢宿の荒物屋の常市のひとりむすめであったが、4歳で母を失い、17歳で父を亡くした。ある人の口ききで江戸へ出て、東両国の小間物屋〔日野屋〕へ下女奉公に上がり、縁あって助次郎に嫁いだ。
Photo_293
この〔日野屋〕は[2-4 妖盗葵小僧]に登場する店だが、第1話ではその予定はなく、東両国の問屋として屋号を使ったのだろう。

上記の経緯で亭主を殺したとき、火盗改メ・堀帯刀組の同心・小野十蔵が行きあわせた。

なよなよとか細いからだつきの---そして大きな双眸(りょうめ)が、大きければ大きいほどにもの哀(かな)しいという---こういう女にひしとすがられたら、
(おれはどうなっちまうだろう---)
と、どんな男でもおもうような---おふじはそういう女であった。p12 新装同。

婚期が遅れていたくせに、持参金を鼻にかけた、出来悪の冬瓜(とうがん)のような女房・お磯に対するおふじの設定とはいえ、これでは小野十蔵とおふじが出来てしまうのは、とうぜんといえる。

火盗改メの長官が堀帯刀から長谷川平蔵になった---というのは、池波さんの史料の読み間違いで、このとき平蔵が任命されたのは、冬場の助役(すけやく)だった。

しかし、そのことと小野十蔵とおふじの自滅せざるをえない運命は関係ない。

それより、 その後の『鬼平犯科帳』163篇を通して、おふじのような男心に訴えかける、か細い女性が登場しないのが不思議。

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2007.02.20

〔猿塚(さるづか)〕のお千代

女性経営者ばかりの団体で、近く、『鬼平犯科帳』についてスピーチすることになった。
米国やフランスに女性の大統領が誕生しかねない趨勢だから、女性大臣や女性社長は珍しくもなんともない時代といえる。

そう考えて、職能集団ともいえる盗賊グループにおける女性の首領をチェックしてみたら、[5-3 女賊]の〔猿塚(さるづか)〕のお千代と、[23 炎の色〕の〔荒神(こうじん)〕のお夏しか見当たらない。

2人とも2代目。独力で組織をつくりあげたわけではない。しかも、 〔猿塚〕のお千代は、セックスを道具にして組織を維持している。〔荒神〕のお夏のほうはレスビアン。

つまり、こんどの女性経営者の集まりに、女頭領の話題は不向きと断じざるをえない。

とはいえ、〔猿塚〕のお千代には、魅(ひ)かれるあやしさがある。40歳なのに、小さな白い手は生まれつきとしても、28,9歳の若い女にしか見えない躰つき---のためには、日常、どんな鍛え方をしているのだろう。
かすれ気味のハスキーな声は、ヘビー・スモーキングのせいかな。

ハスキー声がヒントになったのか、吉右衛門丈=鬼平のビデオでは、沢たまきさんが演じて適役と膝をうったが、湯舟の中で自裁しているシーンでは、さすがにデュート(紗)がかかっていた。沢さんの名誉のためにも当然の撮影技法。

配下の浪人たち、年に一度のあてがい扶持---ならぬセックスにつられて、一味を抜けないでいるというのも、なんだかうらさびしい。

そうそう、〔猿塚〕のお千代は、近江(おうみ)国犬上郡(いぬがみこうり)高宮(現・滋賀県彦根市高宮)の出身で、15年前から父親・徳右衛門とともに、牛天神下(赤○)に京菓子舗〔井筒屋〕を構えている。
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近江屋板の切絵図 上水道、牛天神と安藤坂あたり

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屋号の〔井筒屋〕は、上段の店から借用

物語は寛政元年(1789)の初夏の事件だから、15年前といえば、安永3年(1774)前後で、お千代は25歳---まるで嫁ぎたての若嫁に見えたろう。近所の人は、30歳も年の違う父親・徳右衛門を夫と思ったというから、徳右衛門もそこそこに若く見えたのかも。

牛天神といえば、現在は社号を北野神社とあらためているが、神職はたしか春日姓の女性で、誤解をおそれずにいうと、お千代のように若々しく見える魅力的な神主さんだ。
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牛天神の俗称は、絵の左端、寝牛の形の大石による。現在は拝殿左に鎮座(『江戸名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

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2007.02.19

池ノ端の出会茶屋

池ノ端の出会茶屋が、『鬼平犯科帳』にはしばしば登場する。
[5-1 深川・千鳥橋]で、浅草・奥山の酌婦・お元を連れだした〔間取(まど)り〕の万三が大量に喀血するのも、ここの出会茶屋〔ひしや〕での寝床だ。

[5-3 女賊]で、〔猿塚(さるづか)〕のお千代が、親子ほども年齢の違う手代の幸太郎をたらしこむのも、同じ〔ひしや〕。

〔18-3 蛇苺〕で、〔布目(ぬのめ)〕の太四郎と女賊あがりのおさわが乳繰りあうのは〔月むら〕。

で、池ノ端というけれど、どんな場所だったろうと資料を探して、『風俗画報』(明治41年1月25日号)に、それらしい風景を見つけた。Photo_290

道からそのまま入り口なので、あっけらかんとしすぎている気味があるが、「池ノ端」と書かれている。
[女賊]では、男女とも駕籠で帰るから、これはこれでいいのかもしれない。

〔大滝(おおたき)〕の五郎蔵の一番手柄になる[深川・千鳥橋]から、それてしまったが、万三の喀血に驚かないお元という女性の造形はみごとだ。

父親も血を吐いて死んでいるし、彼女自身も、父親から病いを伝染(うつ)されているらしい。
だから、万三が、「死水をとってくれるか」と聞くと、なんでもないような声で、
「とってあげてもよござんす」と答える。

物語は、紆余曲折があって、深川・千鳥橋のたもとで、鬼平が「死にぎわは、きれいにしろよ」2人を見送ってやり、五郎蔵が平蔵に心服する結末となる。

お元が万三に寄り添っていることで、この篇の余韻が深く、深くなっている。

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2007.02.18

あばたの新助と妻女お米の婚儀

[4-5 あばたの新助]は、寛政元年(1789)の春から初夏へかけての事件である。

寛政元年の春といえば、長谷川平蔵が火盗改メの本役を拝命したのが天明8年(1788)10月2日だから、その役目について半年経ったか経たないかという時期。

あばたの新助こと佐々木新助同心は、同篇で29歳、女房お米(よね)とのあいだには、3歳になるむすめ・お芳(よし)がいる。p165 新装p175

新助の家は、平蔵の亡父・長谷川宣雄(のぶお)の代から御先手組(おさきてぐみ)の長谷川組に属していて、そのころは新助の亡父・佐々木新右衛門が同心をつとめてい、だから平蔵も、新助が少年のころから見知っている。(同)

亡父・宣雄が御先手組頭を勤めたのは、『柳営補任(りうえいぶにん) 三』(東京大学史料編纂所 1964.3.25発行 1997.9.25復刻 )を信じると、明和2年(1765)4月11日から同9年(1772)10月15日まで、すなわち、[あばたの新助]事件の23年から16年前のこと。

ただし、宣雄が組頭を勤めた先手組は、弓の第8組で、いっぽう、鬼平こと平蔵宣以(のぶため)のほうは弓の第2組の頭だった。

Photo_289
市ヶ谷へん(近江屋板)

弓の第8組の組屋敷は市ヶ谷本村町(切絵図の赤○)で、長谷川家の居宅は南本所三ッ目の菊川だから、少年時代の新助を見知っていたというのは、いささか、あやしい。まあ、父の使いで市ヶ谷本村の組屋敷へ行ったときに見知ったという解釈もできなくはないが。

いや、辻褄があわないのは、弓の第8組の同心・佐々木新助が、平蔵宣以の弓の第2組に配属替えになっているらしい点である。平蔵の組の組屋敷は、『武鑑』によると目白台である。組屋敷ごと引っ越したのであろうか。

疑念は、もう一つある。

四年前に父母が相次いで病歿(びょうぼつ)してのち、新助は父の跡をつぎ、妻を迎えた。
この妻のお米は、同じ御先手組の与力・佐嶋忠介(さじまちゅうすけ)の姪(めい)にあたる。
この結婚には、長谷川平蔵が仲人(なこうど)をつとめてもいるのだ。(同)

むすめのお芳が3歳なら、挙式は4年前とみてさしつかえあるまい。天明6年(1786)である。この年の7月26日、41歳の平蔵宣以が先手組頭に抜擢された。火盗改メ助役に任じられたのはその翌年であった。

佐嶋忠介は、弓の第1組の堀帯刀の下で、火盗改メ・与力として腕を振るっていた。ただし、平蔵宣以との接点はまだできていない。
佐嶋与力の拝領屋敷は、牛込二十騎町。同心たちの組屋敷は牛込山伏町。

お米は佐嶋与力の姪ということだが、家筋は同心に嫁いだのだから、同役か御家人あたりか。つましく育ったろう。

佐嶋与力との接点がまだできていない長谷川平蔵に、仲人を頼むなんて、考えもおよばなかったと推測するのだが。

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2007.02.17

お八重という女

『鬼平犯科帳』に登場している脇役で、想像力をくすぐられ、ついつい気になる女性が何人かいる。
うちの一人が、[3-1 麻布ねずみ坂]で、指圧医師・中村宗仙(62歳)が下ってくるのを待ちこがれているお八重。

3年前、お八重は26,7歳の塾女。京の東寺の境内で〔丹後や〕という料理屋をとりしきっていた。
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東寺(『都名所図会』 塗り絵師:ちゅうすけ)

お八重の、細(ほ)っそりとした肩から胸乳(むなぢ)のあたりのなよやかさ。
にもかかわらず、「尻が背中(せな)にくっついている」。
いや、女に目の肥えている宗仙の、お八重の発達した下半身の見立てである。

『商人買物独案内』(天保5年 1834刊)には、東寺の境内に料亭がたしかに載っている。池波さんは、それを〔丹後や〕に見立てたのだろう。
Photo_287

宗仙は、お八重が急病で寝込んでいるところへおしかけ、下腹を指圧しているうちに、双方、その気になってしまった。
30歳もの年齢差にもかかわらず、宗仙の鍛えられた指先の秘技に、お八重は夢ごこち。

が、お八重が、大坂の香具師の元締〔白子(しらこ)〕の菊右衛門の妾だったからたまらない。
五百両で売ってやるといわれただけでも「よし」としなければいけない。

金策のために江戸へ下った宗仙は、必死に稼いだ金を浪人・石島精之進へ渡すが、持ち逃げされてしまう。
菊右衛門は、惜しげもなくお八重を始末。
間男した女に未練はないということか。
それとも、宗仙の指技を知ってしまったお八重は、菊右衛門では物足りない顔をしてしまったか。

事態を知った宗仙は、ねずみ坂の自宅(下の赤○)からほど近い光照寺(上の赤○)にお八重の墓をつくり、供養を欠かさない。
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近江屋板 麻布・ねずみ坂あたり

光照寺は、東京オリンピックの道路拡張にひっかかって、都下・八王子市絹ヶ岡3丁目へ移転した。墓をまもるために、宗仙も移住したかも。

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2007.02.16

猫じゃらしの女

[6-2 猫じゃらしの女]は、密偵・伊三次の腰に〔猫じゃらし〕をつけさせて、躰の動きとともに発する微妙な音に興奮度を高めていく娼婦およねが、事件の発端となる。

娼家〔みよしや〕があったのは、上野山下「下谷2丁目」---俗に「提灯店(ちょうちんだな)」と呼ばれていたいかがわしい界隈(切絵図の右手の赤○)。
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「提灯店(ちょうちんだな)」の名称のゆえんは、このあたりが生池院(しょうちいん)の持ち地所だったのがなまったと。
当初は、上野門前町として賑わっていたか。

生池院は、不忍池(しのばずのいけ)中の弁天堂の別当だった(切絵図の左手の赤○)。

『鬼平犯科帳』の執筆時、池波さんは掲出した近江屋板の切絵図をつねに座右に置き、江戸の町々を正確にたどっていた。
だから、鬼平の諸篇を、池波さんのネライどおりに読みこむなら、読み手側も近江屋板を手元に置きたい。

ついでだが、池波さんに猫じゃらしを贈ったのは、自分も猫を飼っている銀座のバアの女性だったと、エッセイにあかされている。

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2007.02.14

〔乙畑(おつばた)〕の源八

[19-6 引き込み女]は、密偵おまさが、〔乙畑(おつばた)〕の源八一味にいて〔引き込み〕を手伝っていたとき、同様に〔引き込み〕をしていたお元(もと 35,6歳)が物語の中心とたなっている篇である。おまさは、お元と仲がよかった。

この篇に、〔乙畑〕の源八は、こう書かれている。

おまさとお元の〔お頭〕だった乙畑の源八は、ずっと以前に病死してしまい、以来、一味の盗賊たちは四散してしまった。p267 新装p278

『鬼平犯科帳』シリーズへのおまさの登場は、[4-4 血闘]で、

おまさに、平蔵が二十年ぶりに再会したのは、去年(天明8年)の十月初旬の或日のことだ。
おまさのほうから、役宅へ名のり出て来たのである。p136 新装p143

このおまさによって〔乙畑の源八一味〕が〔火盗改メ〕に捕らえられたことはもちろんだが、その後、平蔵は、おまさを密偵にするつもりはなかった。p138 新装p144

[5-3 女賊]にも、こう、ある。

おまさの自白によって、乙畑の源八一味を長谷川平蔵が捕らえたのは、去年の十二月七日である。
そのとき、おまさは平蔵のために女密偵としてはたらく決意をかため、乙畑一味を裏切ったわけだ。
ために平蔵は乙畑一味十二名を一網打尽(いちもうだじん)にしたとき、これをあくまで隠密(おんみつ)にはからい、ひそかに島送りとしてしまった。p85 新装p90

さて、〔乙畑〕の源八は病死か獄死か。
一味は解散か島送りか。

常識的な推測だと、初めに書かれたほうが池波さんの心に近いといえようか。

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2007.02.13

〔福うさぎ〕まんじゅう

JR金沢駅構内で、〔福うさぎ〕饅頭を見つけた。160
8個箱入りで800円ほどだった。

帰宅して計測してみたら、さしわたし4cmほどの小ぶり。
1個100円前後という値段にも納得がいった。
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包装紙に印刷されている原材料名には、さつまいも、砂糖、小麦粉、水飴、トレハロース、乳等を主要原料とする食品、卵黄、白あん、マルトオリゴ糖、澱粉、植物油脂、コーンシロップ、寒天、卵白、山芋粉末、麦芽糖、膨張剤、乳化剤、増粘多糖類、着色料(コチニール)。

素人のぼくには、何がどう作用しているのかよくはわからないが、小豆餡ではなく芋餡だということは、一口食べて了解した。

そういえば、金沢市内を南北に縦断したバスの車窓から、「和生菓子舗」の看板をずいぶん見かけ、さすが百万石の城下町---お茶と茶請けの土地柄、とおもった。

もっとも〔福うさぎ〕の産地は、加賀市動橋町ム40番地の(株)福うさぎU。

そういえば、この〔福うさぎ〕、何番目の兎忠饅頭にあたるのだろう?

収集ずみの各地の兎饅頭は、↑色変わりの兎忠饅頭をクリック。

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2007.02.08

『江戸買物独案内』町ごと

『鬼平犯科帳』は、富裕な商店を襲う盗賊団、それを捕捉する火盗改メ・長谷川組の物語である。

これを、リアリティを持たせて描くには、商店側の史料が必要。

池波さんが座右においていたのが、『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)と京都の『商人買物独案内』であったことは、いまでは、『鬼平犯科帳』を人一倍楽しんでいる通のあいだでは、常識になっている。

ただ、困るのは、『江戸買物独案内』にしろ『商人買物独案内』にしても、業種別に編集されているところ。
というのは、大きいところでは1店で7業種も8業種も兼営している。

真綿問屋と思っていると、呉服問屋のページにも名前を出している。つまりこの問屋は、呉服が本業であって、真綿は副業である。
だから、真綿問屋を襲ったと書いては、間違いに近い。

こうしたミスを防ぐには、『江戸買物独案内』の2,622枠の名刺広告をすべて切断し、町ごとに並べ替え、同じ屋号、同じ屋標(商店のマーク)のものを隣りあわせにするしかない。

そう思いたち、10年ほど前から、暇をみては町ごと『買物独案内』をつくってきた。

もっとも大きな問屋がならんでいた本町1丁目から4丁目までを示す(このブログの制限で図版は小さくしか掲示できない。あらためて、もう一つのブロク---[大人の塗り絵]のほうへ、順次掲示する計画を立てているので、今日のところは、これでご容赦を。)
同じ色のドットが、同じ店の経営である。

Photo

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兼業がけっこう多いことをおわかりいただくだけで、今日のところはよしとしたい。

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2007.02.07

薬師の泉と総泉寺

[12-4 密偵たちの宴(うたげ)]は、鬼平配下のヴェテラン密偵たちが、このところの盗賊たちのあまりに没義道な犯行ぶりに、模範演技(?)を示してやろうじゃないかと、笑うに笑えない正義心を燃えあがらせる。

「よしなさい」と止めたのは女密偵おまさだが、テレビでは、ラストで、泥酔した梶芽衣子さんが伊三次や粂八に浴びせる罵詈雑言が見もの。

さて、この篇に登場する橋場の名刹・総泉寺は、関東大震災で壊滅的な被害を受け、板橋区小豆沢3丁目の大善寺と合併して現在地へ移転してきた。

大善寺といえば『江戸名所図会』でも、清水薬師像を守護する寺院として描かれている。
『図会』670余景の中にもわずかに10景しかない積雪シーン。

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「清水薬師・清水坂」(部分 塗り絵師:ちゅうすけ)

描かれている薬師の泉は、いまは区が管理・公開。

薬師像は、移転してきた総泉寺の境内に新築の、絢爛たるお堂に収まった。

見ものは、総泉寺の新装の本堂。まだ未完成らしく、正面には工事柵がめぐらされているが、なんとも、はや、その石段の異様なこと。
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中央に龍虎の彫刻をほどこした石材を置いているのだ。このような石段は、北京の故宮で見た記憶があるだけ。
仏を皇帝扱いしているとしかおもえない。

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いまごろ、お釈迦さまもくしゃみなさっているのでは---。

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2007.02.06

巣鴨の三沢仙右衛門宅とその近辺

池波さんが『鬼平犯科帳』の執筆時に机辺に置いて参照していた切絵図は、ほとんどの場合、近江屋板である。
したがって、池波小説と切絵図をうんぬんする場合は、近江屋板を、まず開くべきなのである。

たとえば、鬼平の実母・園の実家、三沢家のある巣鴨本村。
[4-1 霧(なご)の七郎]で、嫡男・辰蔵が剣客・上杉周太郎に負ぶさってもらうのが、熊野窪(くまのくぼ)あたり。

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上図は近江屋板の「駒込巣鴨辺之絵図」だが、左端の赤○が熊野窪。p18 新装p19
右へ東福寺をすぎた赤○が巣鴨本村---三沢家はここ。
その右の赤○が行人塚・箭弓稲荷社。

[2-3 女掏摸(めんびき)お富]p97 新装p102 に、

いま流行の白薩摩(しろざつま)に夏羽織、袴(はかまょをつけた長谷川平蔵は、行人塚(ぎょうにんづか)前の道をまっすぐに中仙道・追分へ出た。

小説にしたがって、行人塚前を右へまっすぐに行くと板橋道(旧・中山道。現・白山通り)を突っ切るかたちになる。

右端の赤○は、[8-3 白と黒]に登場する子育稲荷(現存)。その背面が枡形横丁。
子育稲荷前をまっすぐに右へ行くと、加賀藩の中屋敷の前へ出る。

鬼平や仙右衛門は、加賀藩中屋敷の脇をどんどん東へ抜け、いまの六義園(旧・柳沢・大和郡山藩下屋敷)の脇を通って日光御成街道に出、王子権現に参詣することは、すでに記した。

切絵図をかたわらに、小説をたどると、想像もひろがり、興趣がいちだんと深まる。

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2007.02.05

松尾喜兵衛の墓所・重願寺の山門

[6-3 剣客]同心・沢田小平次が、師・松尾喜兵衛の仇を討ち、かつて道場があった深川・猿江にゆかりの重願寺へ葬ったことは2006年10月12日に記した。

そして、以下、ファンにとってはどうでもいいような座興として、

<[剣客]は、寛政3年(1791)、平蔵46歳、澤田27歳のときの事件である。
重願寺が現在地(江東区猿江 1-11-15)へ移転してきたのは、寛政7年(1795)で---たまたま、平蔵が病没した年と重なった。

移転前は、新大橋と一ッ目の間にあった。寺地が御舟蔵のために公収された。>

いま浄土宗・重願寺を上記の地に訪ねると、平成12年(2000)に建立された、白木のみごとな四脚門型の山門が迎えてくれる。
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奈良薬師寺の講堂が解体された時、その用材(樹齢400年)を乞い、宮大工の牧野棟梁(足立区)により建立されたもの。

その風趣ゆたかな山門には、地下の松尾喜兵衛師も老剣士には「過ぎたるもの」と、微苦笑しておられよう。

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2007.02.04

主役をふられた同心たち

本来は脇役のはずなのに、ある篇で主役をふられた同心は14人。うち、自裁・殉職したのが2人。木村忠吾は3編、それだけ物語のネタになるということ。

同心が主人公になっている篇のリスト

[1-1 唖の十蔵]……………小野十蔵
[2-2 谷中・いろは茶屋]……木村忠吾
[2-6 お雪の乳房] …………木村忠吾
[3-1 麻布ねずみ坂]………山田市太郎
[3-3 艶婦の毒]……………木村忠吾
[4-5 あばたの新助]……… 佐々木新助
[5-4 おしゃべり源八]………久保田源八
[6-3 剣客]…………………沢田小平次
[8-2 あきれた奴]………… 小柳安五郎 
[10-6 消えた男]…………… 高松繁太郎
[11-4 泣き味噌屋]…………川村弥助
[12-1 いろおとこ]………… 寺田金三郎
[12-6 白蝮]…………………沢田小平次
[13-3 夜針の音松]…………松永弥四郎 お節
[18-1 俄か雨]………………細川峰太郎
[20-1 おしま金三郎]……… 松波金三郎

同心筆頭の酒井祐助が主役をはっていない理由の推測はすでに述べた。

池波さんは、『鬼平犯科帳』を書き始めるにあたり、泥棒と同心を順次、物語の中心に置いていけば篇がつながると思った。さらに、粂八、彦十、伊三次、おまさなどの密偵が加わる。

なぜ、それで書こうとおもったか---長谷川平蔵の史料があまりに少なすぎたからである。
これには、池波さんも、ほとほと、困ったろう。

ところが、『オール讀物』からは「長谷川平蔵が主役ではなかったのか」と催促される。そこで、『江戸会誌』にあった「平蔵は幹事の才あり」をヒントに、池波さんが理想とするリーダー像を平蔵に仮託したとみる。

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長谷川伸師の書庫で、池波さんが手にとった『江戸会誌』(明治23年6月号 これに「平蔵は幹事の才あり」の記事が掲載されていた)

推測は、大きくは間違ってはいまい。

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2007.02.03

池波さんの小説作法

池波さんは、自分の小説作法(さくほう)について、しばしば、結末なんか決めないで書きはじめ、そのつづきは散歩のときに考えるようにしている、と。
作者が、その先どうなるかがわかっていないんだから、読む方だって、筋書きの予測がつかないのはあたり前---ともいっている。

似たような小説作法をしている英国のベストセラー作家がジェフリー・アーチャーだ。

かつて某週刊誌に自分の小説作法を語っていたのによると、朝、ゴルフ場を2時間ばかりかけて散歩しながら、その日の筋書きを考えるんだと。

散歩コースが、荏原の庶民的な商店街の池波さんと異なり、ゴルフ場というところが貴族憧れ趣味の強いアーチャーらしい。

100_18このアーチャーの、その日ごとに考える主義について再確認させてくれたのが、新作『ゴッホは欺く 上、下』(新潮文庫 2007.2.1)に付された、訳者・永井 淳さんの巻末解説だった。

「大体この作家は、作品全体の設計図をきちんと完成させてから書きはじめるのではなく、あるアイデアが浮かぶとあとは筆の勢いにまかせて一気に書きはじめるタイプである。なにしろ作家自身にストーリーの展開が前もってわかっていたのでは、つぎになにが起きるかと、読者にハラハラしながらページをめくってもらうことができない。だから自分も読者同様、先が見えないままにスリルを楽しみながら書き進めるのだと」

ね、池波さんのエッセイから写したのかというほど、似ている。

しかし、池波さんと違うところは、その日分を書いたあと。
アーチャーは、委嘱しているオクスフォード大とケンブリッジ大の学生数人に、書いた細部のリサーチをしてもらう。

その日主義の小説作法だと、ほころびがでやすいからだ。ほころびとは、データの勘違いや矛盾である。映画のスクリプターの仕事と思えばよかろうか。スクリプターは、前のシーンで着ていた衣装の細部や挙措の按配などを記録しているという。

アーチャーの場合は、歴史的事実やローカル・カラーなどのリサーチであろう。『ゴッホは欺く』でいうと、その一つが旅客機の発着時刻。
そういえば、成田空港も出てくるが、学生リサーチャーを成田まで派遣したのかな。

池波さんは、ここのところを、自力と雑誌社の編集者・校正者に頼っていた気味がある。

両作家ともストーリー・テリングのベテランで、自信家だが、専属のリサーチャーをもっている分、アーチャーのほうにはほころびが少ないようだ。

そうそう、いい忘れるところだった。アーチャーで最も痛快なのは処女作『百万ドルをとり返せ!』(新潮文庫 1977.8.30)。いま読んでも面白さが新鮮。

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2007.02.02

掏摸(すり)の原典

100_17 三田村鳶魚『泥坊づくし』(河出文庫 1988.3.4 原典は青蛙房)から、池波さんがネタを得ていたらしいことは、すでに何度も言及している。

今回のは、『週刊朝日別冊』1961年秋風号に掲載された[市松小僧始末]から『鬼平犯科帳』[2-3 女掏摸(めんびき)お富]にまで発展する、池波小説のいわゆる掏摸ものに関連する[艶福家市松小僧]の紹介である。
ついでに記すと、池波さんの掏摸ものは、[市松小僧始末]が初出のはず。長谷川伸師に掏摸ものがあるかどうかは、まだ調べていない。

江戸中の評判になったことから言えば、稲葉小僧より市松小僧の方が四十年早いのです。

前者は天明期(1780年代)に大いに盗(つと)め、市松小僧は寛保期(1740年代)だったとするが、泥棒の優劣(?)は、活躍期の早い遅いで決まるわけのものではなく、手際の鮮やかさ、組織の統率力が語られるべきであろう。ところが、

同じ泥坊でありましても、市松小僧は掏摸であるだけに、盗みについての話も伝わりません。

では、どうして泥坊として名が高まったのか。

勿論無宿ですけれども、ただ麹町に住んでいたというだけで、その本名も知れないのです。

[市松小僧始末]では、池波さんは又吉という名を与えている。勝手につけられた名前であろう。

掏摸という以上、鈍重なやつはいない、いずれも敏捷なやつにきまって居りますが、身体にしても骨の細い、締まった肉づきの小男、小屋の軽い様子が想望されます。
初代佐野川市松が好んだ石畳模様、あれを市松染といいまして、寛保元年以後の流行でありました。
それが渾名になったので、流行の模様を渾名に呼ばせるだけでも、小綺麗に聞こえますが、よっぽど男ぶりがよかったとみ見えて、麹町四丁目の伊勢屋重右衛門の娘、当年十八歳になるのに惚れられました。

[市松小僧始末]で、市松小僧又吉に惚れるのは、大柄すぎて婚期を逸しているおまゆだが、こちらは22歳、身の丈6尺(180CM)、体重22貫(88kg)。
小柄な市松小僧は、おまゆに抱かれると、その豊満に体に母親に甘えているような気分になる。

これは[1-5 老盗の夢]で、〔蓑火(みのひ)〕の喜之助が大女に魅かれた原型でもあろうか。

[市松小僧始末]には、弥七という御用聞きも登場する。『剣客商売』の四谷の親分さんも弥七だ。

こういう読み方が邪道であることは重々、承知の上で、余興として記している。

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2007.02.01

[2-3 女掏摸(めんびき)お富]の寺社(2)

女掏摸(めんびき)お富が、外出の言い訳のために買った寺社のお守りやお札のうち、浅草寺と王子権現は、きのう、掲示した。

あと、お富が持ち帰り、笠屋の亭主・卯吉に見せてつじつまをあわせたのは、湯島天神である。

この寺社の選定が、どうもよくわからない。

もっとも合点がゆくのは浅草寺で、ここの人ごみは、掏摸には絶好だが、その分、奉行所の眼も光っていよう。
だから、言いわけ用のお守り程度にとどめておくのが無難。
王子権現は、滝野川村経由でいくと、巣鴨から近いことは近い。
ただ、三沢仙右衛門も鬼平もこのコースはとらず、駒込、大炊之坂(おおいのすけざか)の日光御成街道を行くのが好きらしい。

Photo_1根津権現については、池波さんはこう書いている。

お富は、巣鴨原町から小石川へでた。
先ず、本郷・根津神社の盛りで働くつもりであった。p106 新装p113

ここは、宝永三年に千駄木の元根津・権現山から祭神(素戔鳴尊すさのおのみこと)など三座を移してかおら門前町として繁盛し、岡場所も大きい。p108 新装p114

人で賑わっていることと、信心の片鱗としてのお守りとは、さほど関係がないようにおもう。
もっとも、池波さんは、ここの盛り場を取り仕切っている〔三の松(さんのまつ)〕平十とおなじみだが。

Photo_2市ヶ谷八幡は、お富にとっては、千慮の一失とでもいうべき愚行であった。
七五三造に強請られた百両は都合がついた。
その気のゆるみが、勝手に熟練の指をうごかした。

鬼平は見逃さなかった。
だが、ここでお守りを求めたかどうかはわからない。

『江戸名所図会』の長谷川雪旦の絵に、池波さんは境内茶屋を見つけ、〔万屋〕と名づけた。
ほかの作家は気づいていない。
ついつい、肩入れしてしまうのだろう。

Photo_3湯島天神は、池波さんの好きなロケーションである。
境内から東方に、いまは無粋なビルにさえぎられて見えないが、不忍池があり、池波さんの心眼には、長谷川雪旦の絵にあるとおりに見えるのであろう。

[22 炎の色]で、おまさが〔峰山(みねやま)〕の初蔵と出会うのも天神のこの境内。
[13-8 一本眉]で木村忠吾がおごられる居酒屋〔次郎八〕は、この裏門下である。
このほかにも、しばしば登場する。
ただ、お富が学問の神様・菅原道真に縁がふかいとは、とてもおもえないのだが。

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