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2007.02.06

巣鴨の三沢仙右衛門宅とその近辺

池波さんが『鬼平犯科帳』の執筆時に机辺に置いて参照していた切絵図は、ほとんどの場合、近江屋板である。
したがって、池波小説と切絵図をうんぬんする場合は、近江屋板を、まず開くべきなのである。

たとえば、鬼平の実母・園の実家、三沢家のある巣鴨本村。
[4-1 霧(なご)の七郎]で、嫡男・辰蔵が剣客・上杉周太郎に負ぶさってもらうのが、熊野窪(くまのくぼ)あたり。

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上図は近江屋板の「駒込巣鴨辺之絵図」だが、左端の赤○が熊野窪。p18 新装p19
右へ東福寺をすぎた赤○が巣鴨本村---三沢家はここ。
その右の赤○が行人塚・箭弓稲荷社。

[2-3 女掏摸(めんびき)お富]p97 新装p102 に、

いま流行の白薩摩(しろざつま)に夏羽織、袴(はかまょをつけた長谷川平蔵は、行人塚(ぎょうにんづか)前の道をまっすぐに中仙道・追分へ出た。

小説にしたがって、行人塚前を右へまっすぐに行くと板橋道(旧・中山道。現・白山通り)を突っ切るかたちになる。

右端の赤○は、[8-3 白と黒]に登場する子育稲荷(現存)。その背面が枡形横丁。
子育稲荷前をまっすぐに右へ行くと、加賀藩の中屋敷の前へ出る。

鬼平や仙右衛門は、加賀藩中屋敷の脇をどんどん東へ抜け、いまの六義園(旧・柳沢・大和郡山藩下屋敷)の脇を通って日光御成街道に出、王子権現に参詣することは、すでに記した。

切絵図をかたわらに、小説をたどると、想像もひろがり、興趣がいちだんと深まる。

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コメント

前々から、『仙』か『山』なのか疑問を持っていました。インターネットで調べてみました。

「駅肝録」に、正徳6年(1716)4月14日に「五街道文字のこと」として「ただ今までは仙の字書き候へども、向後山の字書くべく申す事」という達しが出たそうです。これを境に前を「中仙道」と書き、以後を「中山道」と書く。

東海道の「海」に対して「山」の中山道。

安藤広重の生きた時代は寛政9年(1797)~安政5年9月6日(1858年10月12日)であるから、『仙』ではなく『山』の中山道六十九次が正しいようです。

投稿: 大島の章 | 2007.02.07 18:51

そうすると、池波さんが[2-3 女掏摸(めんびき)お富]p97 新装p102 に、

いま流行の白薩摩(しろざつま)に夏羽織、袴(はかまょをつけた長谷川平蔵は、行人塚(ぎょうにんづか)前の道をまっすぐに中仙道・追分へ出た。

---と、「中仙道」と書いているのは、[女掏摸お富]は寛政3年(1791)初夏の事件だから、あきらかに勇み足ですね。

でも、作家とすると、夢のある、「中仙道」と、つい、書きたくなるでしょうね。

投稿: ちゅすけ | 2007.02.07 18:55

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