あばたの新助と妻女お米の婚儀
[4-5 あばたの新助]は、寛政元年(1789)の春から初夏へかけての事件である。
寛政元年の春といえば、長谷川平蔵が火盗改メの本役を拝命したのが天明8年(1788)10月2日だから、その役目について半年経ったか経たないかという時期。
あばたの新助こと佐々木新助同心は、同篇で29歳、女房お米(よね)とのあいだには、3歳になるむすめ・お芳(よし)がいる。p165 新装p175
新助の家は、平蔵の亡父・長谷川宣雄(のぶお)の代から御先手組(おさきてぐみ)の長谷川組に属していて、そのころは新助の亡父・佐々木新右衛門が同心をつとめてい、だから平蔵も、新助が少年のころから見知っている。(同)
亡父・宣雄が御先手組頭を勤めたのは、『柳営補任(りうえいぶにん) 三』(東京大学史料編纂所 1964.3.25発行 1997.9.25復刻 )を信じると、明和2年(1765)4月11日から同9年(1772)10月15日まで、すなわち、[あばたの新助]事件の23年から16年前のこと。
ただし、宣雄が組頭を勤めた先手組は、弓の第8組で、いっぽう、鬼平こと平蔵宣以(のぶため)のほうは弓の第2組の頭だった。
市ヶ谷へん(近江屋板)
弓の第8組の組屋敷は市ヶ谷本村町(切絵図の赤○)で、長谷川家の居宅は南本所三ッ目の菊川だから、少年時代の新助を見知っていたというのは、いささか、あやしい。まあ、父の使いで市ヶ谷本村の組屋敷へ行ったときに見知ったという解釈もできなくはないが。
いや、辻褄があわないのは、弓の第8組の同心・佐々木新助が、平蔵宣以の弓の第2組に配属替えになっているらしい点である。平蔵の組の組屋敷は、『武鑑』によると目白台である。組屋敷ごと引っ越したのであろうか。
疑念は、もう一つある。
四年前に父母が相次いで病歿(びょうぼつ)してのち、新助は父の跡をつぎ、妻を迎えた。
この妻のお米は、同じ御先手組の与力・佐嶋忠介(さじまちゅうすけ)の姪(めい)にあたる。
この結婚には、長谷川平蔵が仲人(なこうど)をつとめてもいるのだ。(同)
むすめのお芳が3歳なら、挙式は4年前とみてさしつかえあるまい。天明6年(1786)である。この年の7月26日、41歳の平蔵宣以が先手組頭に抜擢された。火盗改メ助役に任じられたのはその翌年であった。
佐嶋忠介は、弓の第1組の堀帯刀の下で、火盗改メ・与力として腕を振るっていた。ただし、平蔵宣以との接点はまだできていない。
佐嶋与力の拝領屋敷は、牛込二十騎町。同心たちの組屋敷は牛込山伏町。
お米は佐嶋与力の姪ということだが、家筋は同心に嫁いだのだから、同役か御家人あたりか。つましく育ったろう。
佐嶋与力との接点がまだできていない長谷川平蔵に、仲人を頼むなんて、考えもおよばなかったと推測するのだが。
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