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2007年1月の記事

2007.01.31

[2-3 女掏摸(めんびき)お富]の寺社

女掏摸(めんびき)お富が、亭主への外出の言いわけに使った願掛け参詣寺社の、手持ちのお守りをチェックしてみた。
[女掏摸お富]の項目明細は←の色変わりをクりツク)。
 
2月10日(土)の鬼平熱愛倶楽部の教室日のためである。
いや、別に、お富が集めた寺社のお札やお守りが必要というわけではないが、まあ、こちらも参詣したという自己満足。

ところが、よく参詣している王子権現と浅草寺のお守りだけがない。それで、きのう、急遽、参詣。

いや、その値段のバカ高さに、驚いた。
西陣風錦もどきの袋に入ったのは、どちらも1000円。

100_16
浅草寺なんて、参詣客の群れだから、1000円でもお布施する人がいるだろうけど、王子神社なんて、社務所にも常駐していなくて、この値段。

いや、求める人がすくないから高値にしているのかも。


しかし、ふつうの寺社ならなら500円のお守りに、1000円もお布施、寄進する気にはどうしてもならない>ケチ>自分。

100_15

もう一つのもっともな理由は、表に山号、社号がでていないと、ブログに写真を載せたとき、どの寺社のものかわからない。

まあ、ぼくみたいな理由で求める仁はほとんどいまい。
文句のいえた義理ではないな。

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2007.01.30

葵小僧、最後の押し入り順路(追記)

寛政4年(1792)9月4日(史実は寛政3年4月らしい)、江戸で最後のお盗めに出た葵小僧の順路については、
おととい---2007年1月28日のこの欄に図示した。
しかし、多くの読み手が、いつものように、
葵の紋のついた衣服を着、同じ紋をつけた溜塗駕籠で出動したと思いこんでいるみたい。

切絵図に示したとおりに、
池之端から辻駕籠に乗り、p186 新装p196
湯島裏坂を突っ切り、
雨支度の4,5人をしたがえ、
御成街道を横切り---
神田八軒町うんぬん
---とあり、この夜は、
葵の紋の溜塗駕籠には乗っていない。

池波さんも切絵図をしげしげと眺め、おびただしい辻番小屋の数に、
溜塗駕籠はとても無理、と判断したのであろうか。
生原稿を見てみたい。

読む側も、先入観がありすぎると細部を見過ごしがちになる。くれぐれも注意。

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2007.01.29

葵小僧ものの読後感

[江戸怪盗記]は、『鬼平犯科帳』シリーズが始まる4年前の、『週刊新潮』1964年1月6日号に載った。
2編を読み比べ、レイブを受けた夫婦の、その後の対応の微妙を、女性の立場から、鬼平熱愛倶楽部メンバー・一子さんが記す。

[江戸怪盗記]を読んで一番不思議に思ったのは、妻が自分の目の前でレイプされるという大変な事が起こったにもかかわらず、最後は夫婦の何気ない会話で終わっていることです。
その理由としては、
・日野屋久次郎は自害するとまでのぼせて、きぬと結婚
・2人の間には男の子が生まれている
・事件後、もう忘れようと夫婦は互いにいたわり合う
・長谷川平蔵の早い吟味、決着のおかけでレイプ事件は世間にもれなかった
と書かれています。

次に『妖盗葵小僧』を読むと、龍淵堂京屋善太郎、千代が登場しています。葵小僧にレイプされた妻を許すことが出来ずに善太郎は千代を薬殺し、自分も首を吊って自殺しています。
レイプされたときの様子は詳しく小説に書かれておりますが、あまりに生々しい描写は、女性の立場からはあざとく思え、最初は池波先生の読者へのサーピ゛スかとも思えたほどです。
その次に、また、日野屋夫婦が登場シテオリ、レイブ事件がおきます。
「おきぬは他の女のように我を忘れて、燃え上らなかった。葵小僧のゆびや舌の攻撃をじっと耐え、棒のように横たわっているのみであった」
たった2行のこの文章を読んだとき、日野屋夫婦への疑問が解けた思いでした。
心中してしまった龍淵堂、やり直すことができた日野屋、明暗を分けた夫婦を強調するにはやはり、あの描写は必要だったのかな? 
(でも、少しリアルすぎるかも)と、思いました。
何故、葵小僧がレイプという卑劣きわまりない行為を犯すようになったのか。
・生い立ちから転落の人生
・つけ鼻に強調される劣等感
・声を盗んで声色を使うというアイデア
などの手法を用いて物語をふくらませ、事件は解決しています。
鬼平の英断で数多くの女性達の秘密が守られていたという結末を読んで、最後に私自身も救われたように思いました。

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2007.01.28

葵小僧、最後の押し入り順路(実行篇)

きのう、1月27日(土)の鬼平熱愛倶楽部は、史跡実証ウォーキングで、[2-4 妖盗葵小僧]の最後の押し込みコース、池之端仲町の骨董店[尚古堂]から、新シ橋北詰・佐久間町3丁目の下り傘問屋] [花沢屋五郎兵衛]方までを実地にあるいてみた。

なぜ? 昨日の当ブログに掲示したように、このコースには、大名の上・中屋敷や旗本の邸宅が多く、その分、辻番小屋がいたるところに設けられている(↑昨日のコンテンツは1行上の色変わりをクリック)。
そのために葵小僧一味は、特別警戒指令のでている町中を縫って押し込み先へ到達しなければならない。

配下の安全を最優先で考えるのが、リーダーたる者に課せられている責任である。

このプロジェクトを成功させるにあたって、葵小僧は事前に、配下の2人---風采はあがらないが芝居のうまい者を選んで、下谷長者町2丁目の斜(はす)向い---旗本家30軒ばかりが共同で設けている辻番(切絵図、中ほどの赤х印あたり)の前で偽喧嘩をさせ、殴られていた方が翌日、止めに入ってくれた辻番の番人へ、酒かなにかをお礼に届ける。

その後、疑われない程度の頻度で、所要の帰りとかなんとかいいつくろいながら、酒を置いて行く。

襲撃当日も、犯行時刻にほろ酔い加減になっているように見計らって昼過ぎにいつもより多い目の角樽を届け、さらに、葵小僧を乗せた町駕籠が通りぬける前に、件の配下が立ち寄って話しこむ。

そうそう、[2-4 妖盗葵小僧]をクリックで、物語のほかの細部を検証なさるのも、一興。

Photo_280

配下たちのほとんどは夕方前から、辻番小屋圏外の神田八軒町あたりの盗人宿(切絵左下の緑○)へ三々五々に集まっている。

で、他の辻番小屋を避けて、佐久間町3丁目---佐竹屋敷と向いの能勢邸の間の横路地へ。めでたく集結しえたのだが---。

つぶやき
江戸の朱引き---町奉行所の管轄管内は、大ざっぱにいって、70%が江戸城と諸大名・武家地、5%が道路・河川、5%が寺社地。残りの20%に、人口の半分にあたる町人が住んでいたといわれている。
したがって、今回のウォーキングのように、武家地の辻番小屋を避けての盗(つとめ)ばたらきには、周到な計画と準備が必要だった。

葵小僧は、逃路として、神田川に架かる新シ橋北詰の近くに、ひそかに、小舟を待たしていたろう。

なお、下り傘問屋〔花澤屋〕は『江戸買物独案内』(文政7年 1824刊)に3軒登録されている。

Photo_281

池波さんは〔花澤屋六右衛門〕と〔六兵衛〕から、〔五郎兵衛〕を創作、町をうっかり、「佐久間町3丁目」としたために、コースをむずかしくしてしまった。
「堀江町」なら、商業地区だから、木戸ぐらいですんだのに。

こうして、小説のロケーションを実地検分することで、江戸がより身近に感じられる---といっても、単なる懐古趣味ではない。
ことの計画と実施の学習のつもりである。

[要盗葵小僧]の項目明細は←の色変わりをクりック)。

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2007.01.27

葵小僧、最後の押し入り順路

2007年1月15日から4回にわたって、当ブログで、[葵小僧の展開]を掲示した。
13日の土曜日が鬼平熱愛倶楽部の教室日にあたってい、教材は[2-4 妖盗葵小僧]。
三田村鳶魚による葵小僧のちょっとした記述を、池波さんがどうふくらませたかを、5コンビが発表したリポートだった。

教室では、もう一つ、問題をだした。
池之端仲町の骨董商〔尚古堂・鶴屋]から、葵小僧は、最後の追い込み先、佐久間町3丁目の傘問屋〔花沢屋〕まで、どのコースを通ったか、がそれ。

メンバーには、池波さんが愛用している近江屋板の切絵図をわたした。
大名・旗本屋敷には辻番小屋が設けられている。午後8時以後の詮索はきわめて厳重。

Photo_279
左上の赤○が〔尚古堂〕。右下の赤○が〔花沢屋〕。青○は辻番小屋。

どのコースをたどっても、かならず辻番の前か横を通らなけれはならない。とすると、葵小僧はどんなテを使ったろう?

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2007.01.26

岸井良衛さん『五街道細見』

Photo岸井良衛さんの労作『五街道細見』(青蛙房 初版・1959.2.10刊)は、順当に版を重ねて、時代小説作家はもちろん、その愛好者の必携の書となっている。

『鬼平犯科帳』でも、鬼平が東海道・藤沢へ出張ったとあると、本陣・蒔田家を確かめ、先日は[22 迷路]で中山道・深谷へ向かっているので、深谷宿と国済寺の距離をはかるために開いた。
たまたま手持ちの第2版は普済寺と誤植されてい、最新版では訂正されていることは、2007年1月10日の当日記で報告した。

朝日カルチャーセンター(新宿)の〔鬼平〕クラスでともに学んだ、上尾宿のくまごろうさんからメールが届いた。
「江戸東京博物館を覗き、『五街道細見』を検索してみました。『新修 五街道細見』(第9版 1983.9.10)は「国済寺」とあり、1965.1.10刊の第6版は「普済寺」でした」

手持ちの第2版の奥付には、500部とあるから、第6版までの総部数を4500部とみ、その間、だれもミスプリに気づかなかったらしいと推量。

『鬼平犯科帳}』[22 迷路]に国済寺が登場するのは [11 引鶴]で、この篇がミスプリ訂正のきっかけかと、掲載号を確かめたら、『オール讀物』1984年3月号だった。
つまり、国済寺への訂正は、その1年前になされていたわけだ。

いったい、だれが、なぜ、ミスプリに気づいたか、どうでもいいことを、また、知りたくなった。

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2007.01.25

鬼平の夜鷹へのヒューマニティ

[5-5 兇賊]で鬼平が、柳原堤の神田・豊島町1丁目の〔芋酒・加賀屋〕で、亭主の九平と話していると、老夜鷹のおもんが入ったきて、隣に座る。

「おさむらいさん、ごめんなさいよ」
頬(ほほ)かむりの手ぬぐいをとった顔は、しわかくしの白粉にぬりたくられ、灯の下では、とてもとても見られたものではない。 p166 新装p175

このおもんに、鬼平は酒をおごる。
で、おもんが年齢相応のしんみりした口調で、いう。

「旦那。うれしゅうござんすよ」
「なぜね?」
「人なみにあつかっておくんなさるからさ」
「人なみって、人ではねえか。お前もおれも、このおやじも---」

共産党の不破哲三さくんも「ヒューマニズムにあふれた、しびれるセリフ」と、どこかに書いていた。
舞台だと、大向こうから声が飛ぶところだ。

舞台といえば、池波さんが心酔していた長谷川伸師の代表作『瞼の母』で、江州阪田の番場生まれの渡世人〔番場(ばんば)〕の忠太郎が、柳橋・水熊横丁の料亭〔水熊〕の女将をせびりにきた50歳過ぎの夜鷹おとらに銭を恵む。と、おとらが、いう。

「兄さんちょっと待っておくれ。お前さんは嬉しい人だ。夜鷹婆だ何だ彼だと、立番の野郎までが嗤(わら)うあたしに、よく今みたいな事を聞いておくれだった。何年ぶりかで人間扱いをして貰った気がするんだ---」

池波さんは、この戯曲を幾度も観て、どこでどういう観客がうなずくか、涙するか、学んでいたにちがいない。

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2007.01.24

〔通り名(呼び名)〕の原型

『鬼平犯科帳』に登場している盗賊たちの〔通り名(呼び名)〕の拠ってきたる所については、400人以上について、すでにリサーチをつくして、左欄(以前は右欄)には50音順に検索できるようにしている。

100_13その中で、地名を冠したものは、池波さんが忍者ものを書いたときにすでに使っている---としたが、じつは、その前から心がけていたことを、きょう、長谷川伸師の[関の弥太っぺ]を再読して気がついた。

[関の弥太っぺ]は、[瞼の母][沓掛の時次郎][一本刀土俵入り]などとともに長谷川伸師の渡世人戯曲の代表作である。

その中でも、〔関(せき)〕の弥太郎は、いってよければ、日本版ハードボイルド的なヒーロー。
少女を母親の実家へ名前も告げずに連れて行くが、10年後、義兄弟の誓いをした〔箱田(はこだ)〕の森介が弥太郎になりすまし、美しく育った娘の婿になろうとしている場面に現れ、娘の危急を救う。

{関〕の〔通り名〕が、弥太郎の生まれが常陸国結城在の関本村であることによるのは、かつて調べてしっていた。
〔箱田〕の森介の「はこだ」は、現在は熊谷市に入っている箱田と、今回、地図で確かめた。JR高崎線の熊谷駅から1kmもない、市役所に隣接した町だった。

長谷川伸師の作品を、なめるように読んだ池波さんのこと、「もしかしたら、箱田へも実地調査に訪れたかもしれないな」と思った。

池波さんの、そうしたリサーチと思い込みが、『鬼平犯科帳』の盗賊たちの〔通り名(呼び名)〕に反映しているとおもうと、[関の弥太っぺ]のおもしろさが倍加した。

写真の文庫は、上記4戯曲のほかに、[雪の渡り鳥][暗闇の丑松]も収録している((ちくま文庫 1994.10.24)。

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2007.01.23

同心筆頭・酒井祐助

_16酒井祐助といえば『鬼平犯科帳』の中では「同心筆頭」と思われているが、じつは彼が「同心筆頭」の肩書きを冠されたのは、シリーズも後半に入った[16-4 火つけ船頭]p182 新装p187 tow@ある。

もちろん、辞令が下付されたわけではない。突然、肩書きがついた。

酒井祐助については、2006年4月14日の[酒井祐助の同心筆頭は]で、主役を張った篇が1篇もない理由を考察した。

そもそも---などと改まるほどのことではないが、『鬼平犯科帳』における長谷川組の同心の総数は[6-1 礼金二百両]では約40名p11 新装p11、[11-4 泣き味噌屋]では45名p130 新装p135 と明記されている。

史実の先手・弓の第2組、長谷川組の定員は30名だが、それは平(ひら)の先手組としての人数であって、火盗改メを拝命すると、若干の臨時の補充がされたらしい。

酒井祐助の「同心筆頭」の発令を、池波さんが文庫第16巻まで遅らせたわけを、ぼくは、池波さんの頭の中に、小柳案がずっとくすぶっていたからではないかと推察している。

だが、小柳安五郎は出動中に妻子を死なせ、その痛手から容易に回復しない。それでは組織としてうまくない。
で、しびれをきらせて酒井祐助にふったのだろうと思っているが、いかがなものであろう。

小柳には、「同心筆頭」の肩書きの代わりに、お園という妹を与えた。

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2007.01.22

中山道・小田井←→江戸

朝日カルチャー・センター(新宿)鬼平クラスで、ともに学んだ上尾宿のくまごろうさんは、中山道を完歩した方である。その記録の一部は、ブログ[大人の塗り絵『江戸名所図会』]の[中山道(木曾街道)六十九次 広重&英泉]に引用させていただいている。

その〔くまごろうさん〕から、 [8-3 明神の次郎吉]の冒頭の部分にミスプリがあるとのご指摘があった。

江戸から四十四里十四丁をはなれた信州・小田井の宿場(中山道へ入って来た商人ふうの旅の男が、すでに灯(ひ)のともった宿場町を通りすぎ、江戸の方へ去っていった。 文庫p90 新装p95

031360_1

小田井宿から追分宿は約6m。追分から軽井沢は約9km。
(明治20年ごろ 陸地測量部製)

Photo_278池波さんが机側に置いていたはずの岸井良衛『五街道細見』(青蛙房)の「小田井」も図版のとおりである。
「江戸へ四十里十四丁」としている。

池波さんがしばしば引用なさる秋里籬島『木曽路名所図会』も追分までを1里10丁としている。
『五街道細見』は、これの宿々の合計を出して40里14丁と積算し、里程標も確認したに違いない。

ぼくは、池波さんの年齢を8歳ほども越えた。『五街道細見』をちらっと見たとき、「里」が「四里」に見えた。
深夜執筆がくせだった池波さんにも、そう見えたのだろう。

しかし、単行本やら文庫やら、何人もの専門家の眼を経て印刷されているはず。
もっと早めに、誰かが気づいてもよかったのでは。

ついでだから、広重の小田井宿はずれの絵と、英泉の追分を掲出しておく。
21360_1
『木曾海道六拾九次之内 小田井』広重

20360
『木曾街道 追分宿 浅間山遠望』英泉

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2007.01.21

意次の三女・千賀姫の墓

遠州・横須賀藩(3万5000石)の西尾家7代目の藩主である隱岐守忠移(ただゆき)の内室---田沼意次の三女の墓が四谷・須賀町8番地の法輪山勝興寺にあるというので、行ってきた。

あらかじめ、葉書で案内を乞うておいたので、ご住職・吉川(きっかわ)弘眼(こうげん)師(72歳)が準備してまっていてくださった。

Photo_272
正面門柱。ただ真正面は別の家。左カーブした参道奥に本堂。

本堂は、屋根の修理中なので、足場と幕に覆われていて、見えない。

当寺には、西尾家の累代藩主の内室と愛妾、家督前に逝去した子息たちの墓がある。

隱岐守忠移の内室は、千賀姫。安永3年(1775)11月23日歿(20歳)。
法名:真光院殿珠繋円明大姉

Photo_275

生前に、男子・千次郎を産んでいるが、この子も3歳で歿。

於千賀が逝ったとき、忠移は28歳。
田沼意次が老中として政治をとっていた時期だから、離縁もなにもなかった。意次の失脚は、於千賀の没12年あとであった。

ついでながら、青年医師・千賀道有が若かった意次と親しかったことは[2-1 蛇(くちなわ)の眼]に書かれている。この千賀と於千賀の命名にはなんらかの関係があるのだろうか。

吉川師のご指摘で初めて知ったのだが、於千賀の墓石の正面左右の枠には、田沼家の家紋・七曜が刻まれていた。Photo_276

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2007.01.20

西尾隱岐守忠移の内室

遠江国横須賀藩主・西尾隠岐守忠移(ただゆき)の内室は、田沼意次(おきつぐ)の三女である。名の於千賀(千賀姫)。母は意次の正妻ではない。

2006.12.9の当ブログに、意次の失脚後の「上奏文」を掲げた。時宜を得て将軍・家斉(いえなり)の披見を期待したもののようだ。
その文言に、「親族縁座、あるいは義を絶ち縁を絶ち、かつてそのゆえを知ることなくして止みました」といった血涙を流すような一節もある。

それで、意次の三女を正妻としていた西尾隠岐守も、意次の失脚後には離縁したろうかと、疑念が生じた。

1月7日の静岡の[鬼平]クラス(SBS学苑パルシェ)で、受講者の一人---安池欣一さんに、地元なんだから、調べていただけないか、と依頼しておいた。

安池さんは、『大須賀町史』の隠岐守忠移の項を閲覧し、「相良城取り壊しの参加の記述はあるが、田沼の三女の去就についての言及はない」ことを確認。西尾家の菩提寺が龍眠寺であること知り、その伝手で郷土史家・桑原氏と面談。離縁されてないと。

以下の経緯と感想は、安池さんのコメントをそのまま掲出する。


課題について、自分としては結構動いたという高揚感がありますので、自慢話を誰かに聞いてもらいたいような気持で書きます。

1.いつか機会があれば勝興寺を訪問して墓碑を確認できたらとも思いますが、実現しますかどうか。

2.龍眠寺の住職が古文書の研究家桑原氏を教えてくれたのは全くの幸運でした。
桑原氏に会えなければ頓挫していたと思います。

3.桑原武氏について。最近、喜寿の祝いを頂いたそうです。
(大須賀町の)目抜通りに印刷会社を構えて経営されています。
自宅は横須賀城跡の近くで倉庫を改造されたという広い2階に蔵書と資料がありました。
市の関連する古文書の勉強会で指導されているそうです。
西尾家関連の資料は、千葉県の鴨川や東京の戸越(国立の古文書の資料館があるとか)まで行かれて集められたとか。
由緒書や分限帳などの写を見せてもらいました。
歴史勉強の心得なども教えて下さいました。
執筆された文章もあるそうなので県立図書館で捜してみるつもりです。
いきなり電話したり、訪問したのは、厚かましかったのですが親切に応対していただいて、後で考えるとラッキーでした。

4.インターネットによる検索はかなりのことができるものですね。
試しに「西尾家の菩提寺」で検索したら、勝興寺をヒットしました。
但し、適切なキーワードが思いつくかどうか。今後はもっと旨く利用しようと思いました。

5.西尾隠岐守忠移の父は京極若狭守の二男とあります。
京極備前守高久と関わりがあるのか、と調べてしまいました。
また、西尾隠岐守忠移の二代前は老中を勤めるなど名門なんですね。
田沼家との縁談はどんな経緯があったのでしょうか。
それから小梅の西尾隠岐守の下屋敷は先生にいただいた地図をみると鬼平にも何度も出てきますね。
(注:日本たばこ東京工場が[4-7 敵(かたき)]に、南八丁堀四丁目の下屋敷は[9-2 鯉肝(こいぎも)のお里]に。ただし、池波さんは近江屋板の切絵図のミス・プリのまま五丁目としている)

6.今回初めて図書館で寛政重修諸家譜をみたり、由緒書や分限帳をみせてもらったり、これで町誌をふたつ読んだりと、それらしいことをしました。
また桑原氏にも会えました。
名指しで課題を頂かなければ動かなかったことと思います。
有難うございました。今後ともよろしくご指導ねがいます。

                SBS学苑 鬼平クラス受講生 安池

【ちゅうすけ後記】明21日、意次の三女で忠移の内室が葬られている四谷・須賀町8の勝興寺へ詣でてきます。

安池さん。郷土史家・桑原さんの知遇を得られたのですから、桑原さんの郷土史家ネットワークで、掛川藩や沼津藩へも広げられますね。

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2007.01.19

葵小僧の展開(5) 声色

みやこのお豊さんと所沢のおつるさんコンビの研究発表---

【1】から【3】への発想の膨らませ方。

【1】 三田村鳶魚の槍を持たせた葵小僧
【2】 池波正太郎の江戸怪盗伝
【3】 池波正太郎の妖怪葵小僧(鬼平犯科帳)巻2-4


三つの骨子は---、
葵の紋のいでたちで押し入った先の妻や娘を必ずなぶり者にし,中々捕まらず,江戸の町で怖れられていた稀有の大盗・葵小僧。
ようやく火盗改めの長谷川平蔵が捕え、被害者保護のため早々に平蔵の独断で処刑し、供述を記録に残さなかった。

どのように膨らませたか。
1、ストーリーの長さ
 【1】 原稿用紙 2枚
 【2】       31枚
 【3】       135枚

2、期間
 【1】寛政3年4月16日~5月3日 
 【2】寛政3年夏~年末
 【3】寛政3年7月15日~寛政4年9月
                   
3、襲われた店
 【1】おびただしい
 【2】日野屋、玉川屋、戎屋、他10余軒、神出鬼没
 【3】9軒,10軒目は未遂,他多数.神出鬼没

4、被害の状況
 【1】女房,娘を犯す.葵の紋入り駕籠、提灯を持つ
 【2】日野屋(小間物塗り物問屋)女房おきぬを2度にわた
    りなぶりものにする。
    猿轡,手足を結わかれた身動きできない主人の前でお
    かす。
    奉公人は気絶させられ,猿轡手足を結わえる。

    玉川屋(醤油問屋) 逃げる途中町方に発見され同心、
    捕り手に死者

    戎屋(傘問屋)娘を犯す

    何れも金品はあるものだけを持ち去る。

    葵の紋付き服装、若党を従え、旗本の品のよいいでたち

【3】押し入り方に変化
    10軒中4軒は声色を使
             
    竜淵堂(文具店)戸田家用人の声色
    女房お千代を犯す、お千代の態度
    世間体を気にして被害届け出さず。
         
    小田原屋(乾物問屋)親戚伊豆屋専衛門のまね
    14歳の娘おみな 主人新助斬り殺される.届ける

    高砂屋(料亭)女房の実家玉屋の料理人のまね
    女房おきさ。

    花沢屋(傘問屋)番頭卯三郎の真似
    未遂

    他の6軒は声色なく何時の間にか押し込まれ、猿轡、
    手足を拘束される。女房、娘を必ず犯す。

    そのうち日野屋(高級玩具屋」は葵小僧の(尚古堂)
    の隣りの家女房おきぬ2度犯される。

    被害にあった女性たちの苦悩、それを見ていた主人や
    親達の苦悩は金品には変えがたい被害である。
    この中で竜淵堂の夫婦は心中をする。

5、平蔵の探索方 
 【1】は記述はない、火盗改め本役長谷川平蔵が逮捕
 【2】葵小僧は配下を与力宅に住み込ませ情報を得ていた。
 平蔵が巡回中に偶然に逃走中の葵小僧達を見つけ、
 棍棒を投げて自慢の鼻を落とし虚脱状態の葵小僧を
 捕縛
 【3】始めから密偵を使う
 与力、同心、を使う
 加役として桑原主膳が加えられた
 目撃者からの証言で人相書きを作成し、
 そこから探索の幅を広げ、綿密な計画のもと
 犯人を発見、密偵達の働きにより現場を抑え
 小刀で背中を差し、自慢の鼻を蹴上げて、捕縛。

6、葵小僧
 【1】では記述なし、
 【2】、【3】とも役者の子
 鼻が低い為に役者として成功せず。
 付け鼻で変装して、鼻の低さを笑い、蔑すみ冷た
 扱った茶汲み女に対する恨み憎しみが
 女への不信感になり、押し込み先の女房、娘を弄んだ。

7、処刑
 【1】【2】【3】とも葵小僧がしゃべる事によって
 被害者の被る恥辱を思い、平蔵の一存で、早々と
 首をはねる。

最後に
【1】から始まって短編の【2】になり【3】の短編小説3冊分にもなる
ほどにふくらみました。

池波さんは「葵小僧」という妖盗をテーマにして、
火盗改めの長官、長谷川平蔵について、
書きたかったのではないかと思います。

それはこれまでの作品と違ってストーリーの最初から平蔵がが関わっています。
平蔵の火盗改めとしての信念は「無宿無頼の輩を相手に面倒な手続きなしで刑事にはたらく荒々しきお役目、軍事の名残をとどめおるが特徴でござる」という。
上司の圧力、世間の風評などびくともしないのです。

与力、同心、密偵、友人(岸井左馬之助)、知人(井上立泉)この先の作品に登場する多くの人たちの協力をえて綿密な計画の下に推し進める探索方法。
そして彼らに対するねぎらいと気くばり。

被害者の心情に対する配慮、それによって町民との信頼関係。

長谷川平蔵の姿を描いて、この先のシリーズをおもわせるようです。

(付言)
Photo_271 葵小僧の特徴の1つは、「声色」。

声色は、池波さんが芝居作家であった事からの発想かと思うのですが。

平蔵が声色に気づくきっかけは玉川屋で貸し本屋亀吉が、当時の人気役者の5世市川団十郎と女形の瀬川菊乃丞の声色をしたことから発覚していきました。

当時の役者の肉声は無理ですので、似顔絵でもと探してみました。
春章「5世団十郎の助六」(集英社 浮世絵大系)

三田村鳶魚『泥坊づくし』(河出文庫)

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2007.01.18

葵小僧の展開(4) 解決に必然性

相州藤沢宿の秋山太兵衛さんとおまささんコンビの研究発表---

太兵衛さんのシートから。

『泥坊づくし』(青蛙房) 1952   河出文庫約2p

[江戸怪盗記]週刊新潮1964.01 角川文庫約25p.p

[妖盗葵小僧]オール讀物1968.11 文春文庫77p.p


心理描写が多く、読者の琴線に触れ、感情移入をそそる

容貌コンプレックスが異常な行為につながる。
性的犯行を具体的に、穀類に数回描写する。
人に話せない事(レイプ)がその人を蝕む。
レイプは殺しよりむごく、作品にと取り上げるのは難しかったと思う。
それを救うために、有無を言わせずに、時速に処刑する。

「人相書」「声色」、鶴やの仕掛けなど小道具を盛り込む。
解決への道筋が偶然でなく、必然性を前面に描く。

こそこそすると目立つ(堂々としていると信じてしまう)。
二度あることは三度ある。
人の弱みにつけ入るものがいる。

町奉行所との葛藤に平蔵のピンチをいれ、緊張感をもたらす。

平蔵の「処分処置」に、平蔵を「信頼できる人物」になっている。
(火盗改)過当被害小、(盗賊)惨殺多。
勧善懲悪色を強め、読後に爽快感と安定感ら残す。


おまささんの追加。

大名を装っているのだから、駕籠も立派な溜塗り駕籠だったろう。
そんな駕籠、普段はどこに隠していたんだろう。

Photo_269
大名などの溜塗り駕籠(喜多川守貞『近世風俗志』 岩波文庫)

町屋においておくと、目立つはず。
役者だったから、そのつど、専門の小道具屋からかりたのかな。

三田村鳶魚『泥坊づくし』(河出文庫)

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2007.01.17

葵小僧の展開(3) 50人登場

むらいさんと永代橋際蕎麦屋のおつゆさんコンビの研究発表---

まず、むらいさん分。

三田村鳶魚では、怪盗葵小僧のコンセプトの内、

・仰々しい行装、
・女性をなぶりものにすること、
・取調べで犯行を得意げに自白すること、
・鬼平の迅速な処刑、

が既に出ています。

100_11これに、[江戸怪盗記](角川文庫『にっぽん怪盗伝』に所載)では、

・付け鼻
・葵小僧が犯行に到った背景

が加えられ、

『鬼平犯科帳』[2-4 妖盗葵小僧]では、

・声色

が更に加わって話が膨らんでいます。
また、『鬼平犯科帳』では、粂八が登場して、話の輪は大きくなっています。
ちなみに、ざっとですが、[江戸怪盗記]での登場人物は16人、
[妖盗葵小僧]では50人登場しています。

クラスでは言い忘れ、先生が指摘なさった、
[江戸怪盗記]では佐島同心が殉職、
[妖盗葵小僧]では佐島同心の代わりに今井助次郎という同心が亡くなっているのは、犯科帳の登場人物を考える上では大事なことだと思います。


おつゆさん言葉。

最初に発表なさった、森下の友の助さん・亀戸のおKさんコンビの発表で殆どいい尽されているので、
村井さんの発表を聞いて、発表の意図とからちょっと離れてみた。

鬼平犯科帳の中でこの小説が私にはとても嫌悪感をもつ内容なので
まともに読みきることがなかったが、宿題できっちり読む事になる。
・・・がどうしても女の立場で読んでしまう。

葵小僧の過去の女性への屈辱、憎悪が転落、世間を騒がす稀有な泥棒に突き進んでいく。
主人公に池波さんが「江戸の大店の美しい女性」の存在する店を次々に登場させ、
襲わせ、30件以上にも及ぶ事件として江戸中を歩かせる。

『鬼平犯科帳』には女性の読者も多いのに、何故この内容を取り上げたのか?

当初、池波さんは『鬼平犯科帳』を2年くらいで辞めようと思っていたそうなので、
そのぎりぎりのところで
不本意ながら読者サービスで書いたのではと思った。
・・が男性読者はどう感じて読まれたのか?

年末から年始にかけてこの宿題に振り回されて、あれこれメモをとっているうち
(皆さんが取り上げた事が殆ど同じ)
自分のなかにたっぷりしみこんで発表の際には全て過去形なりながら、
最初にわたしが感じた
「何故、女性をそこまで異常に弄ぶのか」
に戻ってしまうので皆さんに逆に聞きたくての発表になりました。

先生の総評や葵小僧の歩いた経路を辿るお話しから、
ア~「面白さがここにあること」を知らされ
先生の導き方、男女の読み解く視点の違いをくっきり見る事が出来ました。

「こうゆう研究発表、面白いね~」と先生が感想を述べられましたが私もしみじみ同感してます。
深く読む事、他の方々の調査したことが聞けることは、想像力の広がりをいただけ有難いと思って今もその思いを引きずっています。

三田村鳶魚『泥坊づくし』(河出文庫)

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2007.01.16

葵小僧の展開(2) つけ鼻

森下の友の助さんと亀戸のおKさんコンビの研究発表---

おKさんがどうやって見つけたのか、江戸にもあった隆鼻術の話を探し出してきた。
Photo_268[2-4 妖盗葵小僧]では、尾張の小野川一座の子役でならした桐野谷芳之助が、長ずるにしたがってその低い鼻のせいで人気がすたる。
つけ鼻をして舞台にあがると観客に嘲笑される。
想っていた女はライヴァル役のほうへ走る。
そんなこんなで、失意のはてに盗みの世界へはまった。

要するに、つけ鼻がコンプレックスを癒してくれる妙薬だった。
つけ鼻をしていると、自信が湧いてきて、押し込んだ先で女性を誑かすことができた。

42枚だった短篇[江戸怪盗記]を、ほぼ3倍の136枚の中篇[妖盗葵小僧]へふくらましえた。
押し込み先は4件から10件にふえた。その分、犯した対象も、女房から娘までにひろがった。

書きこむことでふくらませたいるわだが、友の助さんはそれを、
1.時間軸を長くとった。葵小僧の盗業期間を、[江戸怪盗記]の寛政3年(1801)の夏ごろから年末までの半年間を、[妖盗葵小僧]では3年7月15日から翌4年9月末までの1年2ヶ月とした。

2.事件数を多くした。(上記)

3.火盗改メの活躍ぶりや段取りの妙を書きこむ。事件の発端を密偵〔〔小房(こぶさ)〕の粂八がつかむ。粂八はこの篇の前にすでに登場しているところは、連載なればこそ。

4.葵小僧の生い立ちや転落の人生を描いて、レイプというおぞましい振る舞いの背景にあるものを描き出す。
---などなどの手法を組み合わせている、と分析した。

なお、おKさんが見つけてきた[高い鼻の物争い]の出典は、軽口恵方の若水『絵本仕立噺本』(安永末?)で、「入歯入鼻仕り候」の看板に引かれて注文した低鼻の主が、代金3両2分ときいて驚き、入鼻をもぎとり「鼻はそっちのもの、顔はおれかずもの」と逃げ帰る話。

三田村鳶魚『泥坊づくし』(河出文庫)

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2007.01.15

葵小僧の展開(1)

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[2-4 妖盗葵小僧]のネタ元が、三田村鳶魚 『泥坊づくし』(河出文庫[鳶魚江戸ばなし]シリーズ・その1 1988.3.4にあたる )[五人小僧 槍を持たせた葵小僧]らしいことは、2006年11月28日の[葵小僧の発見]に紹介した。

ぜひ、ご再読いただきたい。

池波さんが『泥坊づくし』を読んだのは、1952年の刊行された青蛙房版ではなかろうかと推測するのは、鬼平熱愛倶楽部の相州・藤沢宿の秋山太兵衛さん。たぶん、長谷川伸師邸の書庫にあったものであろう。

それをもとに、『週刊新潮』(1964.1.6)]に42枚ほどの作品[江戸怪盗記]に仕上げて発表。

池波さんは、長谷川門下生ではあったが、吉川英治さんにも私淑していた。とりわけ、直木賞受賞作[錯乱]の吉川さんの審査評が肝に銘じていたとおもわれる。
せっかくのネタを、才走って小器用にまとめないで、じっくり熟成させよ---との趣旨の言葉であった。

『鬼平犯科帳』が読者にも『オール讀物』の編集部にも好評に迎えられたとき、池波さんは[江戸怪盗記]をもう一度、熟成させたいとおもったにちがいない。
[江戸怪盗記]のときには、長谷川平蔵という人物も熟成していなかった。

それで、森下文化センターの鬼平熱愛倶楽部の教室で、池波さんの物語のふくらませ方を、何チームかに発表してもらった。

数日にわたってその発表記録を紹介する。

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2007.01.14

深谷宿 国済寺

JR高崎線・上野駅発09:15で、中山道の9番目宿場だった深谷へ行ってきた。

Photo_266

4日前の1月10日にも、上野駅14:29で1駅手前の籠原まで行ったのだが、快晴にもかかわらず、陽が落ちそうだったので、あきらめて引き返したのだった。事前リサーチ不足で、上野から1時間以上も電車に乗るのは想定外だった。

英泉は、[岐阻(きそ)街道 深谷ノ駅]では、左褄をとって職場入りする飯盛女を主題としている。

09360_1

その跡を見に行くつもりはなかったが、ことのついでに、関係箇所を見てしまった。熊谷宿から国済寺村落へ中山道をたどっていて、「見返りの松」の石碑と、2代目という、ひょろりと樹高2メートルにも満たない松樹をカメラに。銘板には、初代は「平成18年2月に枯死したので」とあった。

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一夜の名残りを惜しむ旅人を、飯盛り女たちが見送りに出たのがここという。昨夜の思い出をかみしめながら、旅人は見返り見返り、熊谷宿へ向かったと。

「深谷へ行く」というと、たいていの人は「深谷葱(ねぎ)で有名な?」と聞き返す。
で、「深谷葱畑」を探して撮った。

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池波さんは、「深谷は瓦焼きで知られている。利根川が氾濫したときの粘土を利用するのであろう」と書く。

そう、[22 迷路]でだ。

この長編の終章近く、鬼平は〔猫間(ねこま)〕の重兵衛の逮捕に、熊谷へ向かう。先発の沢田小平次たちとの落合い場所は、国済寺。

で、国済寺の写真を撮りに行ったのだ。

駅前の交番で道を確かめた。中年のお巡さんは、国済寺を知らなかったが、地図で確かめて、国道17号を行けと。「何? 徒歩? 2,30分かかるよ」「歩くのは苦になりませんから」

旧・中山道を行くつもりなので、指示には従わなかった。池波さんも「半里」としているので、2キロメートルは覚悟の上。
寂れた旧・中山道を歩いた。いつもの時速6キロメートルの速足で15分---先述の「見返り松」に出た。そこから17号沿いに150メートルほど。

「国済禅寺」と刻まれた石柱が出迎えてくれた。その奥に、深谷市文化財に指定されている「黒門」と「三門」。

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Photo_267

下は、三門。色布は新年の化粧用?
深谷市の文化財一覧

広い境内の正面に、これまた広大な本堂。さすがに由緒うある寺院だ。上杉憲英(のりふさ)による康応2年(1390)の建立とか。

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沢田小平次もいいところへ目をつけた。

帰路は、灌漑用の用水路だったらしい「遊歩道」をまっすぐに歩いたら、JR深谷駅に出た。お巡さん、どうしてこれを教えてくれなかったか。まあ、初手から旧・中山道を歩くつもりだったから---。

【つぶやき】
大島の章さんの書き込みに、JR東京駅のレンガが深谷製と教えられた。それて深谷駅もレンガ造り。
Jr

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2007.01.10

武蔵国 幡羅郡 国済寺村

[22  迷路]p324 新装版p307に、次のような文章がある。

いずれにせよ、明日は、すべての人びとが深谷の手前にある国済寺(こくさいじ)へあつまる手筈になっていた。
国済寺は深谷の東方半里のところにある。
彦十とともにお松を深谷まで尾行してきた同心・沢田小平次が、
「彦十。此処は江戸とはちがう。一時も早く、盗賊改方の根城(ねじろ)を設(もう)けておかぬとだめだ」
こういって、国済寺へ行き、身分をあかしてたのんだところ、
「どのようにも、おつかいくだされ」
と、いってくれたそうな。

手持ちの岸井良衛さん『五街道細見』(青蛙房 1959.3.15再販)は、以下のように「普済寺村」になっているので、その後、「国済寺村」に正され、池波さんは訂正版を所有していたに違いないと推量し、青蛙房に確かめてみた。推量どおりだった。

Photo_3

いつの版からか、「国済寺村」になおっていた。

ちなみに、「普済寺村」は、深谷宿の先の「岡部村」にあり、分村して「普済寺村」となった。

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2007.01.09

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その7)

【終章】つづき・2

(天明6年 1786)九月八日、将軍家治の死去が正式に発表され、十月四日には上野寛永寺に埋葬されたが、意次はその葬列に加わることはなかった。
十月五日、意次は「諸事不届のあるによって」という、曖昧(あいまい)な理由で、五万七千石の中、二万石を召しあげられ、神田橋の上屋敷と大坂の蔵屋敷を没収の上、江戸城への出仕を禁じられた。
(略)

この間、訊問や申しひらきの機会は与えられていない。
政敵を倒すときには、そのような斟酌は無用ともいえないこともないが、正当とはいいがたい。
翌天明7年(1787)6月、老中首座についた松平定信は、まだいじめ足りないとおもつたかのように、10月、意次の蟄居と所領の2万7000石を没収し、孫・意明に陸奥と越後に捨て扶持のように1万石の領知を与えた。
その1万石も、定信の性格からしては、必要ないとおもったであろうが、周囲にいさめられての、しぶしぶの結果であろう。

意次が死んだのは、その翌年の七月二十四日、七十歳であった。

相良湊(さがらみなと)は小春日和の中にあった。
岸壁に続く砂浜に、品のよい老夫婦とも見える男女が腰を下ろし、海原を眺めている。
男は板倉屋龍介、女はお北であった。

板倉屋龍介は、物語の中の狂言まわし役の、意次の幼馴染。美禄の幕臣の次男で、蔵前の札差の家へ養子へ入っていた。
お北も幼馴染で、のちに意次がもっとも心を許した個人秘書のような形で、諸事をとりしきった。

「全く、十年一昔とはよくいったものだな。殿様がお歿(なくな)りになって五年、殿様のお供をして俺が相良城を見物させて頂いたのが、その八年前のことだった」
大海へ向って白く輝やく美しい城は、跡形もなくなっている。
白河なんて奴(やつ)は何を考えていたんだか。御倹約を御政道の旗じるしにしたくせに、うちの殿様が気に食わない。坊主(ぼうず)憎けりゃ袈裟(けさ)までと、折角、出来たお城を叩(たたき)きこわして元も子もなくしちまった。どれほどの無駄か。とっておけば後から入って来るお大名の役にも立とうに、ものを粗末にするにも程があるよ」
龍介がふりむいたあたりには、なにもなかった。かつて、小さいながらも優雅なたたずまいをみせていた相良城は消えて、ただ荒涼とした風景が広がっている。
(略)

城の破壊を命じた定信は、その取り壊し費用を考えたろうか。
それよりも、取り壊しにかり出されたり、取り壊しをながめていた領民のこころに気持ちがおよんだろうか。
築城のために、意次といえども、領民の税を使っている。
領民は、無力感を味わったろう。

「いいたかないけど、あのお方はうちの殿様がおやりになったことは片っぱしから御破算にしちまいたい、いいものはきちんと受け継いで、後の世の役に立てたいなんて度量は芥子粒(けしつぶ)ほども持ち合わさない、そんな小人だからこそ、たった六年足らずで、ばっさり首を切られちまったんじゃありませんか」
お北はいささか溜飲(りゅういん)を下げたという顔をし、龍介も笑った。
(略)

松平定信が寛政五年(1793)三月、外国船が房総沖に姿をみせたとの報告によって、自ら伊豆、相模(さがみ)、房総の海岸巡視に出た留守に、将軍家斉が決断して定信を老中から解任したことは、江戸中の評判になっている。
(略)

「まあ、一番、腹黒いのは一橋様だと、これもみんながいっている。自分の子が将軍様になって、白河と通じてうちの殿様をおとし入れたあげくに、白河の実家の田安家にも自分の五男を相続させた。もともと、白河の奴は田安家相続を餌(えさ)に、一橋を篭絡(ろうらく)したんだが、どっこい、むこうのほうが役者は一枚上だった。取るものは取って、要らなくなると、はい、さようならと来たけさ。義理も恩義も知らねえ犬畜生のすることだ」
(略)

二人がわざわざ相良城址まできたのは、相良湊に、世界の国々から船と人材が、魚が群れるように集まってくることを願って築城した、意次の気持ちを反芻するためであった。
「魚の棲む城」と命名されたゆえんである。

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2007.01.08

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その6)

【終章】つづき

印旛沼、手賀沼の工事は、印旛沼が全体の三分の二以上、手賀沼が九分通り完成して、今一息と関係者は勇み立っていた。
五月になって関東では長雨が続いていた。六月に入って雨の範囲はいよいよ広がり、大豪雨が利根川一帯に襲いかかった。七月、草加、越谷、粕壁(かすかべ)、栗橋(くりはし)など浸水がはじまり、家は流され、多数の死者が報告された。印旛沼、手賀沼の干拓工事はこのため、壊滅状態になってしまった。
(略)

歴史に「もし」はないといわれる。しかし、もし、この長雨がなく、印旛沼、手賀沼の干拓が成功をおさめていたら、御三家、一橋治済(はるさだ)、松平定信らの、田沼引き落としはなかっただろうか。
いや、そんなことで計画をやめるような、お人よしではなかった。
意次は暗殺されていたかも知れない。

印旛沼の北岸---佐倉・臼井は、鬼平の剣師・高杉銀平、剣友・岸井左馬之助、そしておまさの父親・〔鶴(たずがね)〕の忠助の故郷である。

家治危篤(きとく)の知らせが入ったのは(天明六年八月)二十五日、実はその死は二十日の深夜のことで、二十四日、印旛沼の工事中止の命が、溜之間詰から発令されているりを、意次は全く知らなかった。
(略)

意次の政治家としての、徳川幕府の将来を見据えた遠大な計画は、こうして四つとも葬りさられたのである。
彼の、何十年後を予想した政治能力について、いま、再評価の波がうねっている。
しかし、松平定信派によって巧妙に捏造された意次への汚名は、容易なことでは正されない。
平岩弓枝さんは「100年経っても無理ね」と苦笑気味におっしゃった。作家の鋭い直観力が、こればかりは外れてほしいものだ。

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2007.01.07

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その5)

【終章】

松平定信を溜之間詰(たまりのまづめ)に任命する件について、将軍家治(いえはる)が田沼意次に相談したのは、(天明5年 1785)十一月の終りであった。
「御三家、並びに一橋より強く推して参ったが、何如(いかが)したものか」
自分は気が進まぬと力なくいい切った将軍に対して、意次は、
「御三家、一橋様のご推挙にては止(や)むを得ますまい」
と答えた。
「主殿(とのも)は、それでよいのか」
家治は不安をむき出しにして異次をみつめた。松平定信が田沼意次に敵意を持ち、意知(おきとも)暗殺の黒幕だったらしいというのは、将軍の耳にも聞えている筈(はず)であった。そうした人間を溜之間詰にしたら、意次の立場が悪くなると憂(うれ)えている。それを承知で、意次は反対しなかった。松平定信が一橋治済(はるさだ)と手を組んだと知った時から、覚悟は出来ていた。

googleで「溜之間詰」を検索してみると、藤陽文庫殿席に「5日か7日に一度江戸城へ登城。 白書院で将軍家のご機嫌を伺い、溜之間に控える老中に挨拶して退出するのが常」とあった。
それだけ、将軍に親しく接触でき、政治向きの意見を述べることもできる地位ということで、老中職の一歩手前という見方もある。
もっとも、いきなり溜之間詰という幕臣はほとんどなく、京都所司代などの顕職を経てから許される。そんな経歴を持たない定信の例は、異例中の異例、最初にして最後の人事といえる。

この時、意次がおそれたのは、将軍家治の立場であった。
一橋治済はすでに我が子、豊千代を将軍の世子にしていた。すみやかに我が子が将軍職につき、自らが後見人として実権を握ることこそ望ましい。いってみければ、現在の将軍派邪魔な存在であった。権力欲のかたまりのような人物と、狂騒の気味のある松平定信が結べば、家治に対して何をしでかすかわからない。
(略)

『徳川実紀』の天明5年12月朔日の記述。
○松平越中守定信きこれより後出仕の時は溜間に候し、月次は白木書院。五節には黒木書院にいでて拝賀すべしと命じらる。これ宝蓮院尼(田安宗武未亡人)申請さるるによれり。さればその家の例とはなすまじと仰下されぬ。

家治の立場を安泰にするには、松平定信の願いをきき入れ、溜之間詰にし、老中同様の権力の座につかせるのが良策と意次゛は判断している。その上で、印旛(いんば)沼、手賀沼の工事と蝦夷(えぞ)地開発のニ件を、我が子忠徳(ただのり)が養子に入っている勝手掛老中格の水野忠友に托して自分ば隠居し、政事から退く決心を固めていた。
(略)

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2007.01.06

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その4)

2006年11月21日に[田沼意次の4重要政策(その1) 年貢増徴でなく流通課税による財政再建]を、同月24日に(その2)として[通貨の一元化]を紹介したまま、3.蝦夷地の調査と開発、 4.印旛沼の干拓に入る前に、別の情報へ移ってしまった。

(承前)
「わしは少しあせりすぎたのかも知れない。印旛(いんば)沼、手賀沼の干拓といい、利根川の掘割工事といい、また、蝦夷(えぞ)調査にしたところで、わし一代では到底、やり遂げられぬ大事業だ。わしの志を意知に継がせ、完成させれば、幕府のためにまたとなき財産を後世に残すことが出来ると信じたが故(ゆえ)に、我が子が若年寄に任じられるのを、心から喜んだ。今となっては、それが間違いであったとよくわかる」
(略)

意知の若年寄への起用は、将軍・家治の発案であったといわれている。幕政につくのが名門の出で、しかも、いったん就任すると、病気にでもならないかぎり高齢まで居座りがちだから、必然、幕政の老齢化がすすむ。
その傾向は、老中や若年寄とは格式に大きな差があるが、長谷川平蔵宣以が就任した先手組頭にも及んでいた。

家治が、田沼意知を若年寄に、といったのも、若年寄の若返りを図ったともおもえないではない。
老齢者はとかく旧例にこだわりすぎる弊がある。

「親馬鹿を承知でいうなら、意知にはわしにはない先見の明があった。とりわけ、蝦夷地にはわし以上に関心が深く、よく勉強して居った。蝦夷地のみならず樺太(からふと)・千島などの地についても、本来ならば日本固有の地にて松前藩の施政あったことは、元禄の頃、松前藩より提出された地図並びに松前島郷帳(しまごうちょう)にても明らかであると申し、それが今日、赤蝦夷、即ちおろしやの者共がしきりに南下しつつあるのは、松前藩が北鎮の使命をないがしろにしていた故だと談じて居った---」
(略)

意次が生前の意知の提言を容れて、北海道検分隊を派遣。松前藩は、交易の利益を独占しつづけるために、幕府には不毛の地との報告し、じつは、アイヌ人に農作を禁じていたことも報告された。
調査隊は、内輪にみつもっても、面積の一割は耕作可能で、その数字は、国内の幕領の400万石を上回る600万石---と試算。
意次は、これの開発こそ、徳川家にたいする最大の贈り物と考えていた。
しかし、北海道探検は、ご三家、一橋治済(はるさだ)、松平定信らの反田沼・門閥派により、家治の意向と偽って中止・撤収・処罰された。

なおざりにしていた[3.蝦夷地の調査と開発]を、平岩さんの作品に代弁していただいた。

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2007.01.05

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その3)

(承前)
水野出羽守が改めていうまでもなく、すでに、佐野善左衛門を使嗾(しそう)して田沼意知を殺害させたのは、白川藩主松平定信だと噂(うわさ)は江戸城内はもとより、下々でも根深くささやかれている。
だが、意次は更にその裏の裏を察していた。松平定信の背後にいるのは、まぎれもなく御三家であった。

佐野善左衛門は、菩提寺である浅草・東本願寺の塔中・徳本寺(現・台東区西浅草1-3-11)に葬られた。
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米価の高騰などによる生活苦で不満をくすぶらせていた江戸庶民は、「世直し大明神」と書かれた幟を奉じた者たちに先導されて、徳本寺の佐野家の墓へ参ることで鬱憤をはらした。
幟を奉じた者が何者かも確かめないで。
180寺社奉行は、公には、徳本寺への白昼の墓参を禁じた。
殿中で刃傷におよんだ犯罪者として処罰された佐野善左衛門であるから、当然の処置である。

佐野の家はその後に絶えたかして、いま、徳本寺の善左衛門の墓石ぼろぼろに欠けて、塔婆も香華のあとも見られない。


生まれながらに徳川家の一族の誇りを持つ人々にとって一介の成り上がり者が幕府を動かす権力の座についていることが面白くない。
ただ、それだけの理由で田沼父子に憎悪の牙(きば)をむく。
その証拠に、田沼意次が刃傷の翌日、将軍家治にお目通りを願い、倅(せがれ)意知の御暇願いをしたことに対して、水戸家の当主、徳川治保(はるもり)が、産褥(さんじゅく)でさえ七日の遠慮があるに、嫡子(ちゃくし)深疵(ふかきず)にて血なまぐさき身をもって登城するとは以(もっ)ての外だ、とののしったなぞというのも、意次の耳に入っている。
親ならば誰しも瀕死(ひんし)の我が子の枕辺(まくらべ)から一刻なりとも離れ難いに違いない。あえて、意次が登城したのは、けじめのためであった。
その心さえ思いやらず、悪態をつく人々は最初から、この刃傷に加担していたというべきであった。

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2007.01.04

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その2)

天明4年(1784)4月2日、事件から9日後に、田沼意知(おきとも)は三十六歳でその生涯を終えた。
その翌日、加害者である佐野善左衛門は乱心として切腹を命ぜられた。
(略)

『徳川実紀』4月3日の記述。
○少老田沼山城守意知瘢(はん)を病て死せりにより。新番佐野善左衛門政言(まさこと)に死を給ふ。こは獄屋に下されしのち。有司鞫問(きくもん)せしが。つゐに狂気のいたすところと断案し。獄屋にて腹きらせらる。よて目付山川下総守貞幹属吏を率て検視す。(日記、藩翰譜続編)。

殿中で鯉口を切ったんだから、切腹の断は狂気が理由ではないはず。いったい、誰がなんのために狂気と記録したのだろう?

田沼家の人々が唖然(あぜん)としたのは、取調べにに当たっての佐野善左衛門の口上であった。
まず、刃傷に及んだ理由の第一にあげていたのは、佐野家の系図を意知に貸したところ返さなかったというものであり、第ニには上州の佐野家の領地に佐野大明神という社があったのを、田沼家の家来が、勝手に田沼大明神と改め、横領した。第三は役付にしてもらいたいと、意知に六百ニ十両をさし出したが願いをきいてくれなかった。第四は昨年十二月の鷹狩(たかがり)の時、自分の射止めた鳥を意知は他の者が射たといい、自分の手柄を上様に言上しなかった。
(略)

四つの理由のうちの第ニがおかしいことは、ぼくだって反論できる。
すなわち、佐野政言は、佐野一門の末流であり、『寛政譜』によると、家禄は知行地ではなく廩米500俵の蔵前取り---つまり、「領地に佐野大明神---うんぬん」はありえない。

100_8辻 善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3.17)は、佐野家の領地につき、「一体善左衛門の領分は上州甘楽郡(かんらぐん)西岡村と高井村の両村で、四百石の高を持っておって、実はニ千石計(ばかり)納る所である。そこに佐野大明神という社があり---」としている。
『旧高旧料取調帳 関東編』(近藤出版社 1969.9.1)を確かめたが、甘楽郡には「西岡村」も「高井村」も存在していなかった。念のためにgoogleで「旧高旧領」へも検索を入れてみたが、データは存在していない、と出た。
辻さんは、確認しなかったのかしらん。ほかの研究者も---。

意次は直ちに家来達を調べたが、第二、第三、第四に関しては全くの事実無根とわかった。
強いていえば、第一の理由だが、たしかに佐野がみてもらいたいといっておいて行った系図はあるにはあったが、どうみても最近、作られたもので、それ自体に値打ちがあるとは思えず、田沼家にとってはそんなのを持っていても何の役にも立たない代物(しろもの)で、意次からその系図を受け取った大目付があきれて口もきけない有様であった。
「佐野と申す奴は知恵足らずと申すか、日頃から風狂の気味があったそうな。左様な者を使って凶刃をふるわせた御方が誰か、我らにもおよそ推量は出来申す。この上とも、かまえて、御要心のほどを---」
意次の子、忠徳を養子に迎えている間柄の水野出羽守忠友がささやいたが、意次は黙って頭を下げただけだった。
(略)

水野出羽守忠友については、 [親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]を参照。

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2007.01.03

平岩弓枝さん『魚の棲む城』(その1)

100_9平岩弓枝さん『魚の棲む城』(新潮文庫2004.10.1)

天明4年(1784)3月24日。

田沼山城守意知(おきとも)は、今日、未(ひつじ)の下刻(午後三時頃)若年寄御用部屋を退出、先輩の若年寄、酒井石見守(いわみのかみ)、太田備後守(びんごのかみ)、米倉丹後守に続いて中之間から桔梗(ききょう)之間へ進んだ。
その時、すぐ下の新御番所控えの中から一人の侍が出て来て、いきなり意知に斬りつけた。初太刀は意知の肩先三寸、深さ七分ほどの深傷(ふかで)を与えた。ニ太刀目は柱に切りつけ、その間に意知を除く三人の若年寄は羽目之間へ逃げ込み、意知もそれに続いが、下手人は追いすがって遮二(しゃに)無二(むに)、刀を突き出し、意知は脇差(わきざし)を鞘(さや)ごと抜いて相手の攻撃を防いだが、むこうはニ尺一寸もある太刀のことで、かわし切れず両股(りょうもも)にニ太刀刺された。
そこへ大目付の松平対馬守(つしまのかみ)忠郷がかけつけて下手人を背後から羽交締めにし、続いて目付の柳生主膳正(しゅぜんのかみ)久通が下手人の手から太刀を叩き落すようにして取り上げ、その後、漸(ようや)く御徒目付(おかちめつけ)どもが呼ばれて佐野善左衛門を押さえた。
(略)

酒井石見守忠休(ただよし) 71歳。出羽国松山藩主。2万5000石。
米倉丹後守昌晴(まさはる) 58歳。武蔵国金沢藩主。1万2000石。
太田備後守資愛(すけよし) 46歳。遠江国掛川藩主。5万石。
偶然に年齢順になったが、そうではなく、若年寄への任官順である。
したがって、御用部屋から退出するとき、前年に就任した田沼意知がもっともあとに従うのは当然といえる。

松平対馬守忠郷(たださと) 70歳。大目付。1000石。この件で200石加増。
柳生主膳正久通(ひさみち) 41歳。目付。600石。

佐野善左衛門政言(まさこと) 28歳。新番。廩米500俵。

「その、御一緒だった若年寄の方々は、意知様をお助けもせず、逃げたと---」
知らせに来た者は返事をしなかった。ただ、うつむいて唇を噛みしめるばかりである。
「どれほど、お口惜しくございましたでしょう。殿中とて、意知様は脇差をお抜きなさることもせず---」
江戸城では刀の鯉口(こいぐち)を切っただけで切腹というきまりであった。
(略)

田沼意次は刃傷の翌日、登城して将軍に対し、我が子意知の若年寄辞任並びにお暇頂戴(いとまちょうだい)を申し出た。
「若年寄の重職たる身で、凶刃(きょうじん)を受け、心ならずも上様の御傍をさわがせましたる段、不届(ふとどき)至極、また武門の恥辱にございますれば、何卒、山城守に御暇たまわりますよう---」
苦悩を面に見せず言上した意次に対し、家治は即座にこう答えた。
「その斟酌(しんしゃく)無用。役はそのまま、ゆるゆる養生し、元通り奉公するように---」
(略)

『徳川実紀』は、3月29日の項に、
○少老田沼山城守意知病あつきをもて、職ゆるされんことをこふといへども。なを心永く療養すべしと、近縁西尾隠岐守忠移(ただゆき)を召して伝へらる。(日記)

西尾忠移は、駿河・遠江に3万5000石を領する横須賀藩主で、十年数年前に、意知の3番目の妹を内室としていた。ことき39歳。

なお、この事件に対する松浦静山『甲子夜話』の記述。

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2007.01.02

村上元三さん『田沼意次』(その5)

天明6年(1786)8月26日
城内において、将軍・家治の病間への見舞いを阻止された意次は、家治が逝去していることを確信、早々と下城し、仏間へ入った。

ご三家をはじめ、一橋治済(はるさだ)、清水重好、そして御用部屋の人々は、すべて意次に背をむけている。そして意次を失脚させようと急先鋒に立ったのは、松平定信であった。
Photo_265「さりながら、老中職を召しあげられようとも、それがしは遠州相良の城主、五万七千石の大名であることには変りござりませぬ」
仏壇を仰ぎながら、意次は言葉をつづけた。
「西丸様、将軍職につかれたる暁は、これまでと同様の忠勤をはげむ所存を据えておりまする。この後のご奉公、ごらん下さいませ」
長いあいだ仏間に平伏したあと、意次は仏間を出た。
(略)

翌8月27日、幕命によって意次が老中を解任され、その後には所領の大部分を召し上げられたことは、村上元三さんは百もご存じ。
それでこのシーンを挿入したのは、読み手の気分を意次に共感させたいためであったろう。

田沼意次へのいわれのない悪意とデマゴーグが、定信派に流布されてから200年の歳月という塵埃が厚く積まれている。
この塵埃、一朝一夕には除けない。
村上元三さんは、それでも意次の冤罪を晴らしたかった。

意次と同時代にいて、田沼の引き立てを受けた長谷川平蔵宣以も、ひそかに、同じ思いだったにちがいないと想像する。

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2007.01.01

村上元三さん『田沼意次』(その4)

『徳川実紀 第10編天明6年(1786)8月20日

東叡山  有徳院殿(吉宗)霊廟に。田沼主殿頭(とのものかみ)意(おきつぐ)代参し、心観院霊牌所に。松平周防守康福代参す。

きょうは代参なので、意次は吉宗の霊廟の下にひろげられた敷物に坐り、長いあいだ両手を合せ、口の中でつぶやいた。
「もはや、それがしの心底、お耳に達する術(すべ)もござりのせぬ。さりながら、これにて三代の将軍さまに仕え、片時も忠節を忘れなんだ意次の志、おわかりくださると存じまする」
将軍吉宗には、意次も若いころ教えをうけたが、それはいまでも忘れていない。

合掌しているうちに、ふっと意次が思いついたのは、自分のいまの心境を上奏文の形にして書いておこう、ということであった。
もやもやしていたものが、拭っ切れた気がした。
(略)

『相良町史』(相良町 1993.9.28)から、現代語に直した「上奏文」を、2006年12月9日[田沼意次の上奏文]に引いておいた。
上奏文の日付は1年近いあとの天明7年5月15日となっている。

ということは、村上元三さんは、執筆以前に「上奏文」の存在を知っていたということだ。『町史』の刊行前に、田沼家の遺族を取材したのだろう。
『相良町史 資料編』が、「上奏文」の伝承者を遺族としていることからの推測である。

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