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2007.01.01

村上元三さん『田沼意次』(その4)

『徳川実紀 第10編天明6年(1786)8月20日

東叡山  有徳院殿(吉宗)霊廟に。田沼主殿頭(とのものかみ)意(おきつぐ)代参し、心観院霊牌所に。松平周防守康福代参す。

きょうは代参なので、意次は吉宗の霊廟の下にひろげられた敷物に坐り、長いあいだ両手を合せ、口の中でつぶやいた。
「もはや、それがしの心底、お耳に達する術(すべ)もござりのせぬ。さりながら、これにて三代の将軍さまに仕え、片時も忠節を忘れなんだ意次の志、おわかりくださると存じまする」
将軍吉宗には、意次も若いころ教えをうけたが、それはいまでも忘れていない。

合掌しているうちに、ふっと意次が思いついたのは、自分のいまの心境を上奏文の形にして書いておこう、ということであった。
もやもやしていたものが、拭っ切れた気がした。
(略)

『相良町史』(相良町 1993.9.28)から、現代語に直した「上奏文」を、2006年12月9日[田沼意次の上奏文]に引いておいた。
上奏文の日付は1年近いあとの天明7年5月15日となっている。

ということは、村上元三さんは、執筆以前に「上奏文」の存在を知っていたということだ。『町史』の刊行前に、田沼家の遺族を取材したのだろう。
『相良町史 資料編』が、「上奏文」の伝承者を遺族としていることからの推測である。

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