村上元三さん『田沼意次』(その4)
『徳川実紀 第10編』天明6年(1786)8月20日
○東叡山 有徳院殿(吉宗)霊廟に。田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)代参し、心観院霊牌所に。松平周防守康福代参す。
きょうは代参なので、意次は吉宗の霊廟の下にひろげられた敷物に坐り、長いあいだ両手を合せ、口の中でつぶやいた。
「もはや、それがしの心底、お耳に達する術(すべ)もござりのせぬ。さりながら、これにて三代の将軍さまに仕え、片時も忠節を忘れなんだ意次の志、おわかりくださると存じまする」
将軍吉宗には、意次も若いころ教えをうけたが、それはいまでも忘れていない。
合掌しているうちに、ふっと意次が思いついたのは、自分のいまの心境を上奏文の形にして書いておこう、ということであった。
もやもやしていたものが、拭っ切れた気がした。
(略)
『相良町史』(相良町 1993.9.28)から、現代語に直した「上奏文」を、2006年12月9日[田沼意次の上奏文]に引いておいた。
上奏文の日付は1年近いあとの天明7年5月15日となっている。
ということは、村上元三さんは、執筆以前に「上奏文」の存在を知っていたということだ。『町史』の刊行前に、田沼家の遺族を取材したのだろう。
『相良町史 資料編』が、「上奏文」の伝承者を遺族としていることからの推測である。
| 固定リンク
「020田沼意次 」カテゴリの記事
- 田沼主殿頭意次への追罰(2012.05.30)
- 相良城の請け取り(2006.12.07)
- 田沼主殿頭意次への追罰(2)(2012.05.31)
- 江戸・打ちこわしの影響(5)(2012.05.17)
- 江戸・打ちこわしの影響(4)(2012.05.16)
コメント