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2006年12月の記事

2006.12.31

村上元三さん『田沼意次』(その3)

村上元三さん『田沼意次』(『世界日報』 1982.9.1~1985.11.5)の続き。

第47章にあたる[落葉]天明6年(1786))8月15日

御側御用取次をやめさせられた稲葉越前守正明が、庭から雨をふくんだ風の吹きこむ座敷に、肩衣姿でひかえていた。
正明の妻は、亡き田沼意知の養女という縁で、房州館山一万石の大名に取り立てられたが、いまは菊の間縁側詰の閑職であった。

稲葉正明(まさあきら)の家は、斉藤道三から織田・豊臣・徳川と仕えた名門の流れをくむ一つ(家禄3000石)。正明は早くから家治に小姓として西城に勤め、のち小姓組番頭の格となり、諸事を執啓する。家治が将軍となると本城へ。しばしば加増があって一万石に。
田沼派とみられていたのであろう、『徳川実紀』も『寛政譜』も、田沼が老中職を解かれた天明6年8月27日に、御側御用取次の職をとりあげられ、5年前に加増された3000石も召し上げと記しているが、じっさいには、この月の中旬にはご三家によって家治の側から追放されていたと、村上元三さんは見ている。
この日、正明は64歳。意次は68歳。

「それがしのご奉公、力足りませず、面目もござりませぬ」
はじめから詫をのべる越前守正明へ、意次は、やわらかい語調で言った。
「ご三家と一橋卿の勢い、いよいよと殿中にひろがって参るようだな」
「それのみにてはなく、大奥より吹いて参る風、ますます強くなりましょう」
「年寄大崎が、ご三家や一橋家を訪ねてまわっているようだな」
「お知保(ちほ)の方様を、お忘れなされてでございますか」
「忘れてはおらぬ。いまだにお腹を痛められた家基(いえもと。家治の嫡男)様、ご他界なされたは田沼の手落ち、と恨んでおられるらような」
「身分の上下にかかわらず、女子の一念というのは、おそろしいものでござりまする」
(略)

大奥の年寄・大崎が幾つであったかは、未見である。
年寄とはいっても、老中とおなじで、実年齢ではない。30歳後半の、脂ぎり、さかしらげな女性を想像している。

110_1翌年、天明7年2月1日のこととして、藤田 覚さん『松平定信』(中公新書 1993.7.25)は、こう記す。

大奥の老女大崎(おおさき)が尾張徳川家の市ヶ谷の屋敷に来て、幕府の内情を語っている。
将軍家斉(いえなり)は、御三家の申し出であることに配慮して定信を登用したい意向であったが、老中水野忠友が反対したこと、また、大崎と同じ大奥老女の高岳(たかだけ)と滝川(たきがわ)が将軍から意見を求められ、九代将軍家重(いえしげ)の代に、将軍縁者を幕政に参与させてはならないという上意があり、その点で定信は、将軍家斉と同族であり、そのうえ定信の実妹種姫(たねひめ)が十代将軍家治の養女となっていて、家斉とは姉弟の関係にある「将軍の縁者」であるので、定信の老中登用は家重の上意に反することになると答えたことが伝えられた。

大奥の年寄・高岳や滝川へ、裏から手をまわした意次の工作であったろう。
しかし、その甲斐なく、ご三家や一橋治済(はるさだ)らは、白河藩主・松平定信を老中に送り込んだ。
意次の政策は、ことごとく葬り去られた。

ご三家、一橋治済、松平定信派による政権奪取のあと、年寄・高岳と滝川に待っていた処遇の記録も、未見である。

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2006.12.30

村上元三さん『田沼意次』(その2)

村上元三さん『田沼意次』(毎日新聞 1997.9.30)の続きに入る前に、きのう---12月29日---の(『世界日報』への掲載年月日は、ウィキペディアにも書き込みがないため、いま調べている)に対して、ミク友の「ぴーせん」さんから、
「近所の古書店で講談社文庫全3巻 1991年第3刷を今日入手したところ、下巻の終わりに、[本書は、一九八二年九月一日より、八四年十一月五日まで『世界日報』に連載され、一九八五年五月に毎日新聞社より、全三巻で刊行されたものです]、との書き込みがありました」とコメントをいただいた。

おなじくミク友LDさんからも「1982年9月1日より1984年11月5日までの連載」との報が入った。

ネット時代の知的連携の有効さとありがたさを、しみじみと感じた次第。

もっとも、田沼意次を陰の主人公とした『剣客商売』の連載開始は『小説新潮』1972年新年号からだから、池波さんの田沼観は村上元三さんのこの小説に先行していることがはっきりした。

天明6年(1786)の田沼意次をめぐる周囲の続きに入る前に、も一つ---。
『徳川実紀 第10編』7月26日の項に、

○西城徒頭長谷川平蔵宣以(のぶため)先手頭となる。(日記)

とあることを書き添えておきたい。
この人物、小説の「鬼平」である。
西丸の徒頭(かちのかしら)の辞令をもらったのは、1年半前の天明4年(1784)12月8日で、ふつうは10年は勤める役職なのに、1年半で先手組頭---しかも、弓の第2組への抜擢。
弓の第1組と第2組は別称[駿河組]ともいい、由緒があり格が高い組なのである。

ついでだから書き留めておくと、平蔵宣以の亡父・平蔵宣雄(備中守)と嫡男・平蔵宣義(のぶのり。小説では辰蔵。山城守)が就いたのは弓の第8組の頭だった。
平蔵宣以の抜擢の意味を別の言葉でいいかえると、先手組頭の役料は1500石格、徒頭のそれは1000石格---ーそれぞれ、家禄との差額の足高(たしだか)が給された。

長谷川平蔵のこの大抜擢に、田沼意次の示唆があったとの確たる史料はないが、推測しうる噂はある。いつか言及する。

六月に入ってから、関東地方一帯にかけて雨が降りはじめた。
はじめのうちは、長雨にはなるまい、見ていた司天台の観測は外れて、十日になっても降りやまず、各所の河川はあふれはじめ、印旛沼の工事現場からも勘定方の役人が早馬で江戸へ知らせて来た。
せっかく水路に建設した堰(せき)も次第に崩れているという。
(略)

110斉藤月岑(げっしん)『武江年表』(東洋文庫)から、江戸の水害について、長めに引く。

○早春より四月の半ば迄、雨なく、日々烈風にして、諸人火災の備へのみにて安きこヽろなし。
○五月の頃より、雨繁く隔日の様なりしが、七月十二日より別けて大雨降り続き、山水あふれて洪水とむ成れり。
(十三日、十四日より牛込、小日向出水。石切橋辺もっとも洪水にて、柳町、戸崎町家潰れ、江戸川水勢すさまじく、橋の流れたるもあり。
神田上水掛樋(かけどい)危ふく、大勢の人夫を以て防がしむ。後には樋の上一尺程水来たりしが、十七日、十八日頃より少しずつ減じたり。
目白下、山崩れ、上水樋つぶれ、水道一月の余途絶えたり。
昌平橋、筋違橋危ふく、和泉橋は仮橋故流れたり。
十五日より、大川千住出水。小塚原は水五尺もあるべし。千住大橋往来留り、掃部宿(かもんじゅく)軒迄水あり。
本所、深川は家屋を流す(本所三ッ目の長谷川平蔵邸も浸水したろう)。
平井受(請)地辺、水一丈三尺とい云ふ。
大川橋、両国橋危ふく、十六日往来留る。十七日昼、新大橋中の間四間流失。永代橋、二十間程流失。
隅田堤三間程弐ヶ所押し切れ、男女江戸へ向け、両国橋を渡り逃げ着たり、浅草辺は船にて往来せり。
吉原は床へ水上る。雑司谷、大水にて怪我人多し。
四谷、牛込辺は高き所なれども、一両日水たたへて、難儀せり(以下略)。

月番老中の水野出羽守は、すぐ大老や老中たちと相談をして、作事奉行、普請奉行、先手頭も動員し、大名火消しや定火消番の旗本たちにも充分の用心を命じた。
(略)

先手組屋敷と組頭の邸宅のほとんどは、高台にあったから警戒の任につけたろうが、長谷川平蔵邸だけは水災のもっともひどい深川に接した南本所にあったから、人ごとではなかったろうと想像する。

いっぽうの老中・田沼は、率先して対策の指揮をとった。しかし---、

印旛沼の干拓は完成し、てまは検見川(けみがわ)までの運河を切りひらいている最中だが、この雨で利根川の水が十倍にも増え、せっかく作った堰もすべて流れたという。沼も川も一面の水となり、水をかぶったおびただしい数にのぼるだろうし、溺死した者の数は、まだ調べるどころではあるまい。
意次が長い年月をかけた計画も、この雨ですべて流されたわけであった。
(略)
「庶民は、政事(まつりごと)がよろしくないゆえの天災、と風説を立てましょう」
うっかり言ったのであろう、牧野越中守が、いそいで老中たちの顔をみた。
「庶民は、おのれたちの立つる風説に、責めを負わずとも済みまする」
と松平周防守康福が、牧野越中守の失言を取りなすように、微笑を浮かべた。
「天災も政事がよろしくないために起る、と申しておればよいのでござるからの」
「われらは、責めを免がれるわけには参りませぬ」
と意次は、はっきり言った。
「いまの市中の出水は、あらかじめ防ぐ法なかりしや、と省みるを忘れてはなりますまいな。天災ゆえ是非もない、と申すのは、老職としての勤めを怠ることでござる」
御用部屋の人々は、黙りこんでいた。
(略)

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2006.12.29

村上元三さん『田沼意次』(その1)

Photo_264村上元三さん『田沼意次』は大著で、毎日新聞社[愛蔵版](1997.9.30)は本編が2段組で781ページにもおよんでいる。
もともとは、『世界日報』に770回連載された。1回分が原稿用紙3枚とすると、3,770枚! (『世界日報』への掲載年月日は、ウィキペディアにも書き込みがないため、いま調べている)。

史伝に近いものとしては、おそらく、村上元三の代表作といってさしつかえなかろう。
『田沼意次』の[あとがき]に、作家ご当人も書いている。
「これでもう意次を書くことはあるまい、と思うと、戦前戦後にかけて扱った人物だけに、やはり感慨が残った。
この作品で、いささか意次の雪冤をしたと思っているが、やはり資料を集めるのに苦労をした」

検分の箇所は、55章あるなかの第46章からの[将軍不豫][落葉]][日光山神符][その前日][上意][転落]の5章となろう。

[将軍不豫]は、天明6年の正月から始まる。

年が明けて天明六年の正月七日、若菜の祝儀の朝から、江戸市中は大雪に見舞われた。
曲輪(くるわ)うちの大名たちの登城の道は、すべての屋敷から小者が総出で雪を払ったが、休みなく雪が降り続き、午(ひる)ごろには、もう五寸(約15cm)ほども積った。

『徳川実紀 第10編』(吉川弘文館 1982.2.1)は、
○七日 若菜の佳儀規のごとし。(略)けさ大雪ふりければ、三家使もてもの奉り御景色伺はる。(日記)
○八日 けふ雪なをふりやまず。(日記)
○十日 東叡山  諸廟に御詣あり(略)四十三人ほ簿に列り---。(日記)

村上さんが降雪を採りいれたのは、意次失脚を年初に暗示したかったのかも。

八日も九日も雪はやまず、十日にはその雪の中を将軍家治(いえはる)は東叡山寛永寺の諸廟へ詣でた。
(略)
この日、田沼主殿頭意次は、江戸城御用部屋にとどまって留守の役であった。
「上様、雪の御礼拝にて、いかがであろうかな」
同じ留守の松平周防守康福(やすよし)へ向かって、意次は話しかけた。
(略)

松平(松井)康福(浜田藩主 6万4000石)は、12月11日[親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]で、意次の嫡男・意知(おきとも)が刺殺されるや、嫁していたむすめを引きあげた仁である。
そして、意次の心配どおり、風邪気味をおして参廟した家治は、帰城するなり臥所へついた。
12日、松平定信の生母の田安家・宝蓮院が66歳で逝去。
弔問に行った意次は、辞去する玄関先で、やってきた定信と鉢合わせした。

「なにかと宝蓮院、お気にさわることをいたしたようなれど、お許し下されたい」
と定信が言ったのが、意次に対する皮肉のように聞こえた。
それを意次は聞き流して式台から草履へ足をのばした。
乗物が神田御門外の屋敷へ向う途中、意次は、さっき眼にした宝蓮院の死顔を眼の前に思い浮かべた。
宝蓮院としては、松平定信が溜の間詰になり、老中になる足がかりをつかんだのだから、さぞ満足であったに違いない。
(略)

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2006.12.28

佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』

100_7佐藤雅美さんの『田沼意次 主殿(とのも)の税』(学陽書店 人物文庫 2003.5.20)は、1988年に講談社から『主殿の税 田沼意次の経済改革』の表題で単行本として刊行され、3年後に講談社文庫となって絶版されたものの復刻である。

もともとの作品が連載された誌名はまだ調べていない。連載と推察するのは、章が12立てられているから。

第10章にあたる[裏切り]から引用。

(天明6年(1786))。
八月になった。
将軍家治(いえはる)は身体の不調をうったえはじめた。足にむくみができているというのである。脚気をわずらったようなのだ。
(略)
家治の病状はおもわしくなかった。日に日に病はおもくなっていった。
田沼は毎日のように枕元にはべって家治を見舞った。
(略)
「医者だ。医者がわるい」
病状がおもくなると人はおおく医者のせいにする。田沼も医者のせいにした。

名医の評判が高い町医の日向陶庵と若林敬順を城内へ招いた顛末は、12月4日[田沼意知、刃傷後] に日記の形で記した。
この町医の招聘が裏目に出た。2人が調合した薬が家治の口にあわなかった。
温厚な家治が、謝罪する意次に口もきかなくなった。

「ほとぼりがさめるまで、しばらく病ということで休まれてはいかがでござる」
水野(出羽守忠友。老中。沼津藩主。3万石)のもののいいかたにはどことなくよそよそしさがあった。
(略)
「かたじけのうござる。御忠告にしたがうことにいたそう。御前によしなにおとりはからいくだされ」
その日田沼は早退した。
(略)

田沼の男子・意正をを養子にむかえていた水野だが、すでに田沼を裏切り、反田沼派に與(くみ)していたのだった。
家治の決断という形で、印旛沼の開拓事業の中止と、日本国中のすべての人に課税する新御用金令も廃止と令され、田沼の幕府財政の再建案はつぶされた。

田沼はうかつだった。家治の回復を祈るばかりで目配りを忘れていた。その虚を水野につかれた。
つぎになにがおこるか。田沼はつぎにおこりうる事態にそなえて、急ぎ情報収集の手配りをした。
翌日二十五日、明け番の奥坊主がやってきていった。
「明け方にわかに騒がしくなり、西丸から若君様があわただしく駆けつけてこられました。一橋邸、清水邸にも使いが出され、民部卿(一橋治済)様も宮内卿(清水重好)様も御登場なさいました。そのあと奥医師らも総登城いたしました」
ただごとではない。
「上様の御容体が急変されたのか?」
「そのようでございます」
(略)

けっきょく、家治の死は伏せられた。

翌々日の八月二十七日のことだった。
田沼のところへ上使がやってくるというしらせがあった。現職の老中のところへ上使がくるなどというのは碌な用件ではない。田沼はすぐに察しがついた。八月二十五日の早朝におこったこともほぼ確信できた。
八月は田沼が月番だった。九月に月番になる予定の牧野(越中守)貞長がやってきた。牧野は平伏してむかえた田沼に、老中を解任する旨の家治の意向をつたえた。
ただし不始末による解任ではない。病で老職をつとめさせるのは気の毒だからという解任である。

幕閣の田沼家に対する以降のムチについては、これまでに十分に記してきている。

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2006.12.27

家治臨終日の謎

田沼意次(おきつぐ)が老中として政治力を存分に発揮できたのは、第10代将軍・家治(いえはる)の信任があったからである。

徳川実記 第10編』の付録によると、家治は幼いときから聡明で、寛容の人であったらしい。

その家治が50歳で薧じた日付けは、公には天明6年(1786)9月8日ということになっているが、これにはいくつかの疑念がもたれている。

その1は、12月4日の[田沼意知、刃傷後]の年表には書かなかったが、信任あの篤かった意次が、8月25日に家治の病室へ見舞いに行こうとして拒否され、果たせなかったこと。

その2は、上記の項に書き記したように、2日後の8月27日に、意次に、老中を病免、雁間詰の辞令が発せられ(『実紀』) 、意次が「まことにお上(家治)の台命か」と訊き返し、ためらいつつ「しかり」と答えられたらしいこと。

つまり、いずれの場合も、家治生存の姿が確認されていない。

このあたりを、3人の作家---村上元三さん、平岩弓枝さん、佐藤雅美さんがどう描いているか、順々に引用してみたい。

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2006.12.26

因縁の領知替え

12月23日の[田沼意次の領知]に記した、SBS学苑パルシェの〔鬼平〕クラスでともに学んでいる安池さんから送られてきた資料『相良町史 通史編 上』(相良町 1993.9.29)のうち、「相良藩を理解するための20ページほど」というのは[一橋領の成立]と題された1節のことである。

[一橋領の成立]は、「一橋領というのは、(略)徳川御三卿の一つ一橋家の領地ということである」との文章で始められている。

田沼意次の失脚とともに、島田代官所が管理していた榛原・城東両郡の88ヶ村が、寛政6年(1794)11月19日から一橋家の領知となったという。

130_1 『徳川諸家系譜 第3巻』(続群書類従完成会 1979.3.2)の[一橋徳川家記]は、この領知替えをごくあっさりと、「同(寛政)六年甲寅九月廿四日命収甲斐国采地三万石余、更賜遠江国三万石余」と<2ヶ月ほど先行させて記載している。

つづいて『相良町史』は、
「これはそれまで甲斐国(山梨県)巨摩郡下五十七か村にあった一橋領を、遠江国に領地替えしたものであった。
この領地替えは、一橋家にとってどういう意味があったのであろうか。一般的には甲斐国巨摩郡にあった領地を遠江国榛原・城東両郡に移されたのであるから、単純に両者の優劣を決めるのは慎まなければならないが、一ツ橋家にとってこ見れば、かねてからぜ是非そうあって欲しい領地替えであつたかもしれない。
いっぽう、相良藩田沼の転封した後に一橋の領地が成立した事は、あくまでそれは将軍家ないし幕府の方針であったと見るのが常識的てあると言えよう。こうした中で若干の憶測を加えるならば、田沼意次は自ら掌握した権力の安定化を図るため、あらゆる勢力と密接な関係をむすんでいった。すなわち大奥と結託したり、また兎角口うるさい、御三家や御三卿。あるいは有力外様大名などとの関係強化をはかったていたといわれる」

意次の子・意正(おきまさ)は領知替えによつて、因縁の領知の一部をとり戻したともいえようか。

田沼家と一橋家の関係をいうと、一橋家の家老には、意次の二つ違いの弟・意識(おきのぶ)が送りこまれ、意識が死ぬとその子・意致(おきむね)が継いでいた。

しかし、一橋治済(はるさだ)は一方で、自分の長子・家斉(いえなり。幼名・豊千代)を将軍・家治の養子として送り込み、尾張・水戸・紀伊を動かして田沼失脚に暗躍、門閥派の松平定信内閣を組閣させてもいる。

一橋治済が意次失脚にどうかかわっていたかをのぞいてみたい。

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2006.12.25

後期田沼領の絵地図

12月20日の記事[相良の村々]に、「若年寄にのぼりつめた奥州信夫郡下村藩主・田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意正(おきまさ)は、亡父・意次(おきつぐ)の領知だった相良へ国替えする幸運を射止めた」として、明治21年の静岡県榛原郡の地図に、25ヶ村中の16ヶ村に赤ドットを付して所在を掲出した。

不明だった9ヶ村を明らかにするために、SBS学苑パルシェ〔鬼平〕クラスでリサーチに長けている杉山さんに、江戸期の絵地図の探索を依頼しておいた。

『静岡県史』35冊中、『資料編10』の付録に、東北大学附属図書館所蔵の「遠江国絵図」があったと、カラーコピーを送ってくださったので、田沼領の村々に赤○を付して掲出。

Photo_261

12月20日の記事で不明としていた、堀切、大磯、平田、坂井、園、東中村、西中村などの村々の位置が明らかになった。

こんなふうに、英知がつながって疑問がとけていくのが、ネットの最高の喜びだし、ありがたみである。

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2006.12.24

ふたたび、田沼玄蕃頭意正

12月17日の[田沼玄蕃頭意正]で書き漏らしていたことがいくつかあることに、『相良町史 資料編 近世(一)』(相良町 1991.3.30)を精読していて気づいた。

意正(おきまさ)は意次(おきつぐ)の第4子であることは、すでに記した(非業の死をとげた嫡男・意知(おきとも)の下に2人の男子が生まれたが夭折)。

田沼内閣で老中を勤めた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)の養子(16歳)に迎えられ、その女を室としたが、一件後、縁を解消されて田沼へ帰された(28歳)とも紹介。

帰家後に称した「田代姓」は母方のそれであったと(『相良町史』)。

意次の嫡孫・意明(ともあき)が24歳で卒(しゅっ)するや、養子となっていた舎弟・意壱(おきかず)が家督したが、彼も25歳の若さで逝った。

意壱の大叔父にあたる意正が遺領一万石を受け継いだのは享和3年(1803)7月、意正46歳のときであった。

「家譜」によると、相続の礼として、将軍・家斉(いえなり)へ、
・太刀1腰、紗綾2巻、馬代として20両
を献上。西丸の家慶(いえよし)へ、
・太刀1腰、馬代20両
台所へは、
・白銀3枚
を献じている。家督相続の費用もなかなかのもの。玄蕃頭の官位を授かったが、まさか献上品々の代償ではあるまい。官位の礼はふたたび太刀1腰、馬代として白銀1枚。家慶へも同様。

あわせて、木挽町の居室から駒込の下屋敷へ引き移った。

太刀1腰と馬代は、その後も、なにかあると、献上している。

意正は76歳で卒(しゅっ)するまで30年間、藩主でありつづけた。ために嫡子・意留(おきとめ)は、家督後わずか4年余で致仕、家督を子の意尊(おきたか)へ譲ったと、『相良町史』は、一言ありげに記している。

意正には、柳営(江戸城)内での遊泳術に、相当の自信があったのであろうか。

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2006.12.23

田沼意次の領知

このところ、『相良町史 通史編 上』(相良町 1993.9.29)を主な出典として田沼家にまつわる話をすすめている。

SBS学苑パルシェの〔鬼平〕クラスでともに学んでいる安池さんから、「引用している『相良町史』をみていると、どうも、後期田沼の部分をコピーしなかったのではないかと思えるので」と、その部分100ページ分ほどと、別に相良藩を理解するための20ページほどを送ってくださった。

まさに、1月の静岡行きで、県立中央図書館でコピーをとろうと予定していた箇所だったので、安池さんの推理力に舌をまいた。

送っていただいた中に、[宝暦8年(1758)と天明6年(1786)の田沼意次の相良領図]があった。
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宝暦8年といえば、将軍・家重によってさらに5000石を加増されて意次が大名格になった時期である。

天明6年は、失脚寸前の時期(長谷川平蔵が先手組頭に大抜擢された年でもある)。

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120_7『徳川将軍列伝』(北島正元編 秋田書店 1974.9.20)に、竹内 誠教授が意次の年表を掲出しておられるので、引用させていただく(ほんとうは、自分でつくるべきなのだが)。

領知図と年表は、意次の栄進の速さ---その能才ぶりと将軍の信頼の篤さ、そして周囲の嘆声と嫉妬、反発が聞こえてくるようである。

この領知の一部を復元した第4子・意正の手腕と得意はおもうべしだが、資料を手配くださった安池さんに、まずは感謝。

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2006.12.22

天領農民の苦悩

『相良町史 通史編 上』(相良町 1993.9.29)に、「へえ、知らなかった」と浅学を誅されるような史実が紹介されていた。

すなわち、田沼意次が領知を召し上げられると、相良藩だった村々は幕府領の代官支配地となった。
つまり、年貢米を幕府へ納めるという、村々にとっては初めての経験が発生したのである。。

村々の代表は、島田をはじめとするあちこちの幕領の有力者に問い合わせて、3分の1は金納にするほうがいいと教えられたので、その旨、代官所へ届けたという。
(ぼくとしては、年貢の金納も制度としてあったというのを、この記述で初めて知った。浅学)。

他の幕領の者たちから金納をすすめられた理由は、年貢の米納は、江戸や駿府の幕府の御米倉へ廻米してはじめて終了する。その船賃、代表が江戸へ出向いて行う諸手続きの費用一切は納入側持ちだからと。

120_6手元の鈴木直ニさん『徳川時代の米穀配給組織』(国書刊行会 1977.10.20)にも、年貢米(御城米 おしろまい)の廻送についての記述はあるが、その諸経費の負担には言及されていない。
相良港の廻船問屋・福岡町太郎兵衛方の例だと、江戸表までの運賃は100俵につき1両3分(『相良町史』)。

金納を選んだ村々は、相良近郊で米を売ろうとしたが、金納の価格ではとても売れないことがわかった。
それに江戸で行わなければならない幕府側への引渡し手続きに要する費用もばかにならない。
金納をやめ、全量を米納に変更したいと代官所へ願った。

が、聞き入れられなかった。
ついに、村々から選抜された代表4人が江戸へで、松平定信へ禁令の駕籠訴(かごそ)を強行した。

もちろん、禁令ゆえ、駕籠訴が取りあげられるはずはない。

ことの決着より、幕府直轄領は全国の400万石以上あった。それらがどのように納米したか、それに要した諸費用をどうしていたかの研究事例があったら、読んでみたい。ご教示いただきたい。

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2006.12.21

越後頸城(くびき)郡の3000石

12月16日のこの記事に、天明7年(1787)、田沼意明が下知された1万石のうち、「越後国頸城郡についての手がかりは、いまのところ、なし」と書いた。

近くの図書館で、目にとまった平凡社版『日本歴史地名大系 福島県』(1993.6.15)で、偶然のように、陸奥・岩代国下(しも)村以下の7ヶ村の7000余石の明細が判明したことは、19日[奥州信夫郡下村藩]で報告した。

ついでだからと、期待しないで、『地名大系 新潟県』を開き、あちこちめくっていて、[西頸城郡]の項で、

「田沼意次の孫意明が天明7年1万石に復し、陸奥国下村(現福島市)と上出(かみいで)村(現糸魚川市)に陣屋を設け、上出陣屋では35カ村2906石余を文政7年まで支配した。これらの村々は田沼氏支配以前は幕府領であり、上知後は幕府領に戻った。
以下に田沼氏領の村名を谷ごとに記す」

ひゃあ、小躍り。 

それにしても、35ヶ村で2906石余とは! ほんとうに谷間の痩せた土地だったんだろうなあ。
相良は、25ヶ村・1万石。福島は7ヶ村で7000余石。

コピーして、参謀本部陸地測量部が明治22年(1889)に製作した地図と照合。

01_1

該当の4つの谷は「高田」のページにはなく、西の「富山」のページにあった。つまり、越後国とはいえ、越中国との境界に近く、海岸は「知不親(おやしらず)」ぞいに東へ、背後には乗鞍岳、雨飾岳が聳えている。


35ヶ村中、32ヶ村に赤○ドットを貼ることができた。地図は、右(東)から左(西)へ(小数点4桁以下は4捨5入)。

早川谷(現・糸魚川市)
上出村         91.457
下出村         56.254
谷根(たんね)村   283.855
小坂村         20.706
西塚村        115.314
東塚村        148.293
五十原(いかはら)村 60.312
角間(かくま)村    58.261 
北山村        105.883
砂場村        143.987
北越村         47.727
西越村         38.500
土塩村         87.076
猿倉村         63.931
吹原(ふきはら)村 126.705
大平(おおだいら)村166.654
土倉村         49.545
中河原村       119.652

西海谷(現・糸魚川市)
釜沢村        (旧高旧領に記載なし) 
道平(どうたいら)村 150.828
川島村        115.434
真光寺村        46.153
市野々(いちのの)村 57.260

根知谷(現・糸魚川市)
御前山村        35.038
大神堂(だいじんどう)村
             53.117
山寺村         59.922
別所村         52.830
大久保村       23.024
上山村         11.971
杉之当(すぎのと)村 37.842
西山村         32.384
蒲池村         99.612

川西谷(現・糸魚川市)
岩木村          63.849
頭山(つむりやま)村 100.530
今村新田       153.799     

こんなリサーチになんの意味があるのか---自分の達成感だけかもしれないが、少なくとも、胸のつかえは氷解した。
まあ、意味があるとすれば、相良町(現・上之原市)教育委員会も、いくら田沼家のこととはいえ、他県分までは手をつくしていまいから、『相良町史』の追加資料としては役立つかも。

新潟県の糸魚川市とその近辺の鬼平ファンからの反応も期待できるかもしれない。
 
(注)『旧高旧領取調帳 中部編』の上記の村々の石高は、すべて「高田藩預分」となっていたから、幕府領を高田藩に管理代行させていたのかも。

糸魚川市

(注2)『地名大系 新潟県』では、今井新田は青海町に属してしきたが、青海町は平成17年4月に糸魚川市へ合併された。

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2006.12.20

相良の村々

12月18日のここの記事[奥州・下村から遠州・相良へ]で、若年寄にのぼりつめた奥州信夫郡下村藩主・田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意正(おきまさ)は、亡父・意次(おきつぐ)の領知だった相良へ国替えする幸運を射止めた。

もっとも、亡父・意次の領知は、遠江(とおとうみ)国榛原(はいばら)郡相良を基点に100ヶ村---5万7000石におよんでいたが、意正の場合は、陣屋を置いた相良をふくめて25ヶ村・1万石であった。

25ヶ村のうち、16ヶ村を明治20年製作の地図でたどりえたので、掲出する。
01
(相良川の河口、左の赤○が相良、右の赤○は福岡)

その他の赤○は、上から下へ---(小数点以下4桁は4捨5入)
和田村   90.868
大寄村  513.574
黒子村  117.690
女神村  154.924
西山寺   69.067
男神村  173.469
松本村  230.775
菅ヶ谷村 781.291
波津村  318.454
須々木村 423.444
鬼女新田  48.054
落居村  183.263
笠名村  274.715
新庄村  464.198

のこりの9ヶ村については、地図上に表記がないか、地図外かもしれない。地元の鬼平ファンの方のご教示時を俟ちたい(同)。
堀切村   83.647
大磯村  136.166
法京村   26.451
平田村  487.793
坂井村   65.919
徳村    195.632
園村    295.441
東中村  166.557
西中村  145.963

以上の村々は、福島の藩内だった村々と比べ、地味の点は比較するデータをもたないが、気候的にはずっと恵まれていたといえよう。

また、同じ1万石とはいえ、岩代国と越後国の2国に分かれている場合と、榛原郡内にまとまっているのとでは、管理の難易、そのための経費の多少、さらには、江戸表の上屋敷への連絡の遅速なども比較してみる必要があろう。

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2006.12.19

奥州信夫郡下村藩

12月16日のここの記事で、田沼家に与えられた1万石のうち、奥州岩代国信夫郡下村(現・福島市佐倉下)の分は、陣屋がおかれた下村ほか、7000余石と報告した。

Photo_259

「下村が1558.333石ということだと、7000石に5,400石ほど足りない」として、近在のいくつかの村々を候補にもあげた。

平凡社版『日本歴史地名体系 福島県』に、次の村々だったことを教えられた。

下村   1558.333
下渡鳥村 1078.941
上渡鳥村 1504.967
在庭坂村 1202.679
赤川村    671.263
内町村    177.004 
上野寺村 1178.400
(掲出の地図をよく見ると、下村の近辺にいくつかの村は見つけうる)。

同書は、「下村」について、こうも記述している。
「荒川右岸にあり、西はかつて本村であった上名倉(かみなぐら)村、南は上鳥渡(かみとりわた)村、東は仁井田(iにいだ)村、北は荒川を隔てて桜本(さくらもと)村」「寛保2年(1742)幕府直轄領となったが、(中略)天明7年(1787)下村藩領(田沼家)、文政6年(1823)幕府領となり、幕末に至る」

この記述で、田沼意明(おきあき)が代替として与えられた1万石のうちの信夫郡内7000余石は、幕府直轄領であったことがわかる。

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2006.12.18

奥州・下村から遠州・相良へ

12月17日、手元の『文政武鑑1 大名編』(柏書房 1982.12.24)で、田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意正(おきまさ)が、文政元年(1818)から同4年(1821)までは、奥州(岩代国)信夫(しのぶごおり)郡下(しも)村に陣屋を置く、1万石の下村藩の大名であったことを確認した。

意次(おきつぐ)のころの相良へ戻ったのはいつか?

『文化武鑑』は[役職編][大名編]全8巻が書架にある。
長谷川平蔵がらみでは、『文政武鑑』までは---と判断して、巻1[大名編]、巻2[役職編]で購入をやめてしまっていた。

近くの図書館が所蔵していることがわかっていたので、リサーチに行った。
『文政武鑑3 大名編』の同5年(1822)、同6年とも、信夫郡下村に陣屋。

360_5

3_1文政7年(1824)の分に、

・一万石 在所遠州榛原郡(はいばらごおり)相良
と。
このとき、越後・頸城郡(くびきごおり)の約3000石に相当する村々(幕府領だった3つの谷にある32ヶ村。このことが判明した経緯は、改めて後日に)も上知後、元の幕府領へ戻された。

とにかく、そういうことだと、文政6年(1823)の『徳川実紀』に発令日が記載されているはずである。

さっそく、『索引 下』の田沼意正の項をたしかめた。 
120_5 『続実記 第2編』に、
 ・転封 91ページ
とあった。

 (文政六年)七月八日 田沼玄蕃頭意正遠江国相良へ邑(むら)がへあり。

なぜ、こういう幸運が舞い込んだか、疑念をもった。
で、再度、『索引 下』の意正の項に目をこらした。

 ・側用人 124ページ
 ・致仕   271ページ

これは、どういうことだ---と、本文をあたってみる。

 文政八年四月十八日 田沼玄蕃頭御側用人となり、

 天保七年(1836)四月廿一日 遠江国相良領主田沼玄蕃頭
 意正病により致仕す。

 その子備前守意留(おきとめ)に領知一万石を継がしむ。
 この意正は、主殿頭(とのものかみ)の四子にして玄蕃という。
 文化元年(1804)七月廿六日(46歳)
 主計頭(かずえのかみ)意定(おきさだ)が遺領を襲ぎ、
 十月朔日謝恩の日初見したてまつり、
 十二月叙爵し頭に任じ、
 同じき三年六月朔日大番の頭となり、
 文政ニ年八月八日西城の少老(若年寄)となり、
 おなじき五年七月廿八日本城へうつり(本丸の若年寄)、
 あくる六年七月八日旧領相良へうつり、
 おなじき八年四月十八日御側用人となり、若君に附属せられ、
 その十二月従四位下にのぼり、
 天保五年四月廿六日病免し、
 けふ、致仕してのち、
 ことし八月廿四日とし   (空白のまま)歳にて卒しぬ。
                     (注・76歳)

ははあ、そういうことだと、相良への転封は、本城の若年寄のころのこと。幸運が舞い込むのは当然といえる。納得。

それにしても、定信内閣からさんざいじめられたのに、よく、まあ、復帰したものである。
意正というご仁、父・意次にまさるとも劣らない心くばりのきく人であったのだろう。実母は某女としかわからない。

それより、『文化武鑑』『文政武鑑』をめくっていて、一万石の田沼家の記載序列は、全大名の中で末尾の寸前---いってみれば大名家のブービー(最後尾は武門とはいえない松前藩)。

田沼の家禄を1万石以下の旗本にするより、万石最低の大名にとどめて、毎年の『武鑑』で屈辱感をあじあわそうという、松平定信陰湿なイジメともおもってみたが、まさか、ね。

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2006.12.17

田沼玄蕃頭意正

12月14日の、田沼家が相良へ戻ったという記事で、1万石の領知が田沼玄蕃頭意正の名になっていることを、何気なく、告げた。
これは、不注意であった。

150_3手元の『文化武鑑1 大名編』(柏書房 1981.9.25)の文化4年(1807)の項に、在所・信夫郡下村の領主として、突如、田沼玄蕃頭意正の名が記載されている。

文化元年(1804)7月家督

とある。
この意次の次男・意正のことは、12月11日の意次の上奏文を紹介した[親族縁座、義を絶ち縁を絶ち]で、田沼内閣で老中を勤めた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)の養子(16歳)に迎えられたが、一件後、縁を解消されて田沼へ帰された(28歳)と紹介。
『寛政重修諸家譜』はさらに、「父がもとにかえり、田代を称す」と付すが、田代姓では『寛政譜』にひろわれていない。
田代姓にしたのは、田沼の一員としての類縁を避けたためか。

文化4年(18007)の田沼玄蕃頭意正の記載は図版のとおり。

1_3

引いている『文化武鑑1 大名編』の文化元年の項に、田沼主計頭(かずえのかみ)意定(おきさだ)という大名が収録されてい、

享和3年(1803)7月家督

とある。

Photo_257

意次の嫡孫・意明は、寛政8年(1796)大坂副城代として赴任中、その年の9月22日に大坂で卒している。24歳であった。(長谷川平蔵の卒した翌年)

七歳下の舎弟(意知の次男)・意壱(かず)は、意明の養子となって享和3年に家督したのであろう。
この意壱は大名として半年しか生存しなかった。享年25歳(意知の30歳代での事件死、意明と意壱の若死を、何かの祟りのように世間の悪意はいわなかったろうか)。

120_4意壱の没後、田代姓を称していた大叔父・意正が復籍して後継したのであろう。

意知の実弟とはいえ、あいだに5人の姉、2人の兄(どちらも夭逝)がはさまっているから、意次にとっては孫のような年齢だったろうか。
(その後の調べで、意次41歳の時の子だから、孫はかわいそうか。意知とは10歳違い---ということは、意次は毎年のように子を産ませていたともいえる。側妾が複数いたのだろう)。

『文政武鑑』(柏書房 1982.12.24)は、文政元年(1818)の項に、嫡子・を併記している。
Photo_258

在所は、依然として信夫郡下村である。

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2006.12.16

奥州信夫郡下村

田沼家に与えられた1万石のうち、奥州(岩代国信夫郡下村(現・福島市佐倉下)は、ある史料から7000石とわかった。

『旧高旧領取調帳』は、下村は1558.333石で、幕府領分となっていることは、12月14日の『旧高旧領取調帳』の項で報告ずみ。

下村が1558.333石ということだと7000石に、5,400石ほど足りない。

『旧高旧領』には、下村の周辺に幕府領分の村々が、40ヶ村ほど列記されている。
この中のいくつか---たぶん、10ヶ村ほどが田沼意明に分与され、のち、田沼家が相良町に戻された---といっても領知は1万石に減知のままだが---ときにまた幕府の直轄地に復帰したにちがいない。

Photo_256
陸地測量部製 福嶋周辺 赤○=下村

下村に代表された7000石分の10ヶ村ほどを、明治21年に製作された地図と『旧高旧領』、『郵便番号簿』で推察してみようという、いってみれば、遊戯を試みた(いずれ、『福島県史』などで検証するまでのお遊び)。

入江野村  475.738
井野目村  469.200
大笹生村  824.131
大谷地村  753.293
下村   1558.333
赤川村    671.263
仁井田村 1229.734*
泉村    1119.311
南沢又村 1442.594
笹木野村 1298.486*
上大笹生村2218.507
庭坂村    979.486
下渡鳥村 1078.941*
在庭坂村 1202.679*
李平村     38.440
土船村    840.229*
桜木村  1278.916*
(*は地図で下村の近くに存在しており、可能性が高い)。

まあ、正確なところは、福島市在住の郷土史家の方か、市教育委員会の鬼平ファンの方からの教えを俟つしかない。

越後国頸城郡の3000石についての手がかりは、いまのところ、なし。

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2006.12.15

田沼意次の遺訓

田沼意次が70歳で、失意のまま、天明8年(1788)7月24日に卒(しゅっ)したことは、すでに記した。

彼の遺訓が子孫のもとに残っていて、『相良町史 資料編 近世(一)』(相良町 1991.3.30)に収録されてい、『同 通史編』に現代語訳が載っているので、そちらを引用する。

350_30
田沼意次 『相良町史』より転載

人が守るべき正道はよく知られているようであるが、人には善と悪の人がおり、用いるべき人と用いざるべき人がいるものである。

(悪の人と用いざるべき人の)両者は我侭より発する事である。

もっともこの教えを知らない者はないと考えるが、学問のある者でもこの教えを別のように考えて、人が守べき正道を学問と名付けて、学びはするが、自己の行いとは別のもののようにし、芸のようにもて遊んでいる者がいる。

卿の行いは我侭次第に通行していることが多いが、これは勿論教え方が悪いのではなく、学ぶ者が能く心得るべきことである。
これにより先ず人が守るべき道にはずれた無道のないように、左の七ヶ条を示すので、よく守るようにすべきである。

第一、まず主君に対する忠節のこと。、仮りにも忘却致すまじきこと。当家(田沼家)においては、九代将軍家重侯、十代将軍家治侯には比類のない御厚恩を受けているのであるから、両代の御厚恩を決して忘れてはならない。

第ニ、親への孝行、親族に対する親しみはおろそかにせず、朝夕このことを心がけるべきである。

第三、一類(同族)中には申すにおよばず、同席の衆、付合のある衆へは表裏なく、疎意ないように心がけるべきである。
どんなに低い身分の者でも人情をかけるべきはかけて差別なきようにすること。

第四、家中の者たちに憐憫を加え、賞罰は依怙贔屓なきように心がけるべきこと。且つ用人、雑用人にもできる限り心配りをし、油断なく召仕うこと。
但し、家来に対しても我侭、無道の扱いをせず、邪な申付けをせず、家臣として一身を任せ、主君の命令は異議なく行い、その所をよくわきまえて憐憫を遣すように。
勿論、咎めに当たるべきことは相応に罰し、無罰ということはないようにすること。

第五、武芸は懈怠なく心がけ、家中の者たちに油断なく申付け、若い者は特別精を出し、他所から見ても見苦しくない芸は折々に見分けさせ、自身が見物することもよい。
且つ、武芸に心がけた上で余力があれば遊芸を嗜しなむのも勝手次第である。
但し、不埒な芸はしてはならないことは勿論である。

第六、権門の衆中に疎意なく、失礼がないように堅く守り、すべて公儀にかかわる事はどんなに軽いことでも大切に思い、諸事念を入れることが肝要である。

第七、諸家の勝手向きが不如意のことは一般的で、勝手向きが宜しいのは稀なことである。不勝手が募ると公儀御用も心ならず勤めがたくなり、軍役に差しつかえにもなるもので、武道に励み、領知ょを頂戴していることをよく知るべきである。この事は油断なく旦暮心がけることが肝要である。

右の条々ょ厳重に守り、朝夕忘れることなく心がけるべきであね。
人並みとちがって、世俗からのそげ者(変人)と称される者も間々いるが、この者は慎むべきである。
わざわざ少なめに記したが、この外にも心を用い、心を用い、人情の正道を怠りなく守るべきである。

(第七条には、「この条はとりわけ難しいことなので追記する」として---)

大身小身ともにすべて勝手向のことは、一年の収納をこれくらいと思っても、時により損毛があり、思いの外の減収があるものである。

また、支出は一年間これ程と思っても思いがけない吉凶のものいり、やむを得ない支出があり、また特別に支出が増えることも絶えずおこるものである。

したがって、収納が増えることは決してなく、支出が増すひとは極めて多いのである。

このような収支をくり返している内に勝手向はゆきづまるものである。

借金がたとえば1000両できると、その利息はたいてい1割は支出することになるから、知行100両分が減ったことに相当する。

もし大借するようになれば、その割合で減る分ーは増えるので、たとえ領地が半分になっても、その理をわきまえなければえ大借になり、建て直す術も尽きてしまうのである。

このことをよくよく心得て、聊かも奢りなく、無益の支出を省き、倹約を怠らないことが大切である。
もし、よんどころなきことで少しでも収支が悪くなったならば深く心にかけてやりくりすべきたである。

このことは役人たちへも厳重に申し付け、建て直しができるように処させ、相応の余裕金があるように少しでも油断ないように心掛けるべきである。

もっとも、そうだからといって、領内に無体な年貢を申付け、これによって財政不足を補うことは筋の通らないことで゜ある。
すべて百姓町人に無慈悲なことをすれば、必ず御家の害になるものである。いくえにも正直を以て万事にあたるべきである。

【つぶやき】
読むかぎり、心づかいのこまやかな、生活ぶりも堅実で、賄賂などを要求することのない領主とおもえるのだが。
また、学問と人格は別といっているのは、学問を鼻にかけて平気で人の道をふみはずしている幕閣を、暗に軽蔑・非難しているのかもしれない。

牧之原市の田沼意次プロフィール

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2006.12.14

『旧高旧領取調帳』

田沼意次の嫡孫・意明(おきあき 15歳)が、陸奥国信夫郡、越後国頚城郡の両郡においての1万石に減知をされたことは、すでに報告した。

それが、額面どおりの1万石はおぼつかない痩せ地であったらしいことも想像した。

120_2具体的にどの村々であるかを確認してみようと、手元の『旧高旧領取調帳 東北編』(近藤書店 1979.8.25)を開いた。
『旧高旧領取調帳』は、幕末維新時の村名・村の石高、旧領主名・新支配が克明に記されている基本資料である。
岩代国信夫郡下村 1558.333石 幕府領分となっている。
その前後の、下大笹生村、太谷地村、赤川村、仁井田村なども幕府領分。
目を皿のようにして信夫郡全部を検分したが、田沼のタの字も見つからない。
伊達郡、安積郡も見た。ない。

120_3つづいて、『旧高旧領取調帳 中部編』(近藤書店 1977.4.20)の越後国頸城郡を検分。やはり、ない。
またも、松平定信派の陰謀で記録が抹消されたか---などと考えてみたが、定信内閣ははるかむかしに解体されている。この史料に影響力をおよぼしたとおもうほうがどうかしている。被害妄想にすぎる。

で、にんとなく、別の史料を眺めていたら、なんと!! いつの時期にか、田沼家は相良へ復帰しているではないか。
で、、『旧高旧領 中部編』の遠江国榛原郡の相良を捜す。あった!!安堵されていた。
田沼玄蕃頭領分(石)
 堀切村   83.6474
 大磯村  136.1657
 法京村   24.451
 坂井村   65.919
 平田村  187.793
 相良町   47.767
 福岡村   26.957
 波津村  318.454
 (以下16ヶ村分略)

城も家臣の屋敷も破壊されつくした田沼家が、どういう理由で、いつ、相良へ帰ってきたのか、1月にふたたび、静岡県立中央図書館へ足を運んで『相良町史』を読まねば。


【ついでながら】
『旧高旧領取調帳』は、歴博の手によって、なんとデータベース化されていて、検索したい村がわかっていると、じつに簡単に検索できる。すばらしい!

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2006.12.13

残った家臣の禄高

田沼意次の嫡孫・意明(おきあき 15歳)が、陸奥国信夫、越後国頚城の両郡においての1万石の減知されたことは、すでに触れた。

5万7000石から1万石---6分の1に近い減知である。
当然、家臣の員数は減らさざるをえない。
家臣の多くは、意次の急激な加恩につりあう形でふくらんだ371人だった。彼らは入れ札の形で整理された。

(天明7年 1787)12月23日、52名、明けて天明8年(1788)正月9日に69名、正月13日47名、同19日に55名が相次いで御暇を申し渡され、それぞれに手当てを受けて去っていった。(『相良町史 通史編 上』[相良町 1993.8.28])。

171名である。退職手当については、http://onihei.cocolog-nifty.com/edo/2006/12/post_746d.html

転封にしたがった員数を、禄高からいって100人以下と推量してみた

河原崎次郎さん編著『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)は、「板沢武雄氏の小稿[俄大名の家臣団](『日本歴史』第31号)に、意次が失脚して、孫の意明が一万石に減封されたことについて『雑記』という一史料を掲げ、

一、田沼家一万石二被仰付此度左之通ニ相成候由。
百石家老    倉地金太夫
          潮田由勝
七十石用人   井上直記
          内藤奥右衛門
          深谷一郎右衛門
五十石物頭   楠木半七郎
          磯部十郎兵衛
          本間儀左衛門
五十石留守居 川村長左衛門
   目付    三人
   給人    三人
   取次    三人
諸士分百六、七十人相残り申候由」

予想よりも多くの家臣が残ったのは、意次への報恩と敬意、意明への忠誠心はうたがわないが、禄高を5分の1以下で了承したからでもあろう。

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2006.12.12

さらに6万両の上納命令

12月10,11日の記事で、天明6年(1786)8月16日、クーデターにでもあったように突如、老中を解任蟄居を命じられた田沼意次は、つづいて2万石の召し上げを通告された。

翌7年10月2日には、さらに所領の地2万7000石を収公、相良藩を上知、特別のおぼしめしにより、意次の嫡孫・意明(おきあき このとき15歳)へ、陸奥国信夫、越後国頚城両郡において1万石を下されると。

この領地は、公称の1万石もの実収はない痩せ地だったらしい。

12月8日の記事では、相良城の請い取り・破却のとき、なんのためか1万3000両が公収された不審を指摘しておいた。

天明8年(1788)7月24日田沼意次卒(しゅっ)す。70歳。耆山良英隆興院。葬地・駒込の勝林寺。

『寛政重修諸家譜』の意明の項。
天明8年9月24日、川々普請御用途のため金6万両上納すべき旨台命かうぶる。

知行地1石の実収は換算すると1両といわれている。
所領は家臣たちの俸禄にもあてなければならないことだし、100両の余分の金もあるまいに、6万両!
意明をはじめ家臣とその家族一同に、死ね! と命じているに等しい。

弱小藩として、家老たちが、この結末をどうつけたかは、『寛政譜』には記録されていない。おそらく、その記録はどこにもあるまい。『相良町史』も、すでに他領の藩主となった意明については、当然、記していない。

100_6 平岩弓枝さんも、田沼意次を主人公にすえた秀作『魚の棲む城』(新潮文庫 2004.10.1)でも触れていない。

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2006.12.11

親族縁座、義を絶ち縁を絶ち

12月9日に掲げた田沼意次の上奏文の中に、

「しかるに親族縁座、あるいは義を絶ち縁を絶ち、かつてそのゆえを知ることなくして止みました」

という、ただならぬ文言がある。

憤りをぶつけられている一人は、意次とともに老中職をつとめていた松平(松井)周防守康福(やすよし 浜田藩主。6万石)とおもわれる。次女が意次の嫡男で若年寄のときに刺された意知(おきとも)の室として嫁いだが、意次逼塞後、実家へ戻った。

相良を上知され、代わりに陸奥国信夫、越後国頚城の両郡において1万石を下された意次の嫡孫・意明(おきあき このとき15歳)の実母ではない。

同じく田沼にひきたてられた水野出羽守忠友(沼津藩主。3万石)は、意次の次男・意正を養子に迎えておきながら、一件後、縁を解消、田沼へ帰らせている。なんと、水野の『寛政譜』からはその事実も抹消。

意次の継室の実家・黒沢家は事をいいたてられて追放になっている。

ほかにも、『寛政譜』にあらわれていない無道の処置もあると想像できる。

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2006.12.10

家中への教諭

日時がさかのぼるが、田沼意次が老中を罷免・蟄居を命じられ、知行からまず2万石を召し上げられた天明6年8月16日から旬日を経た9月9日に、相良の家中諸士へあてた教諭文が『相良町史 資料編 近世(一)』(相良町 1991.3.30)に収録されている。
漢文なので、『同 通史編』に概略が載っているので、そちらの大意を補足しながら引用する。

老中罷免以後、家中に親しく会うこともなかったが、皆、心痛してくれているのであろう。

先だってのことは、意次にとっても思いもよらないことだが、皆々は難儀であったろうに、神妙に勤めてくれていると聞いて、皆々の心中を推しはかりながらも安心している。

田沼家は、ほかの大名衆とはちがい、いたって小身より取り立てられ、追々と繁栄してきた。
もっぱら、お役目を第一として勤めた分、家政がおろそかにになっていたことも否めない(つけとどけなどを受取ってしまう者もいたかも。つまり、脇が甘かったことを反省)。

いま、反省してみると、驕りとでもいえようか、家政不取締りとでもいうべきか、後悔することもある。
厳しく倹約を履行すべきであったかともおもう。

今後の家中の暮らし方については、万事に質素を旨とし、入用も減らすが、上下心を一つにして難局に対処していきたてい。

皆々においても、何事にも精を出し、諸芸におこたりなく、他家からあなどられないよう、公義へのご奉公が肝要である。
家中諸士は、武芸はもちろんのこと、学問にもはげみ、ゆだんなきよう、心がけられたい。

これはもちろん、上奏文とはちがい直筆ではなく、祐筆の手になもののようで、文章も意のあるところはわかるが、真情を正直に吐露している名文とはいいがたいけれど、家士をおもっていることは十分に察しがつく。

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2006.12.09

田沼意次の上奏文

天明6年(1786)10月5日から蟄居中の田沼意次が、翌7年5月15日に上奏文を呈した。
『相良町史』(相良町 1993.9.28)に、意次の人間像をよく示したものとしてそれを読み下したものが掲出されているので、引用する(漢字は若干ひらいた)。

源意次、謹んで大元帥尊の宝前に白(もう)します。

意次の父意行は有徳院様(吉宗)が天下を御相続のときに紀州より供奉し、ことに御高恩を蒙って一家を興しました。

意次はいまだ若年の節、有徳院様に拝謁を奉り、以来、惇信院様(家重)浚明院様(家治)に仕え奉り、莫大の御高恩を蒙り、あまつさえ老中に補せられ、大禄を下賜され、将軍様の御慈恵は月々に厚く、年々に重くなるばかりです。

将軍家の御慈恵の高きこと嶽のごとく、深きこと海のごとくです。
しかればすなわち、昼夜心力を尽くして御高恩の万の一を報じ奉らんと欲するほかに他事はありません。

天下の御為を存じ奉り、いささかも身の為を致さざるところは、上天日月の照覧するところであり、神明仏陀同じく共に明知したまう也。

しかるに去る(天明6年)秋、御不予のときに一日にわかに(家治様の)御機嫌穏やかならざる趣を告げる人がありました。
しかるといえども意次はあえて御不審を蒙るべきことは身に覚えなく、昨日までも御機嫌うるわしくはいらせらるるところに、たちまち、御不興の御容躰は意次の傾運の致すところで、是非におよばざる次第にて、身の不肖を恨むほかなく、しかしながらたとえ一旦に、御不審を蒙り奉るといえども後日誤りなきをもってこれを言上せば、御明察の上、再び御機嫌うるわしき御時節も御座あるべきと存じ奉るところに、かたわら頻りに老中職を辞すべき旨勧める者がありました。

故によんどころなく病と称してと職を辞し奉りました。ときに、浚明院様(家治)にいささかの御別慮なく願いの通り職を免じしめられ、かつ慎みの儀には及ばざる旨 台命を蒙りました。

しかるに親族縁座、あるいは義を絶ち縁を絶ち、かつてそのゆえを知ることなくして止みました。
唯、浚明院様御在世久しく天道偽りなきの道理にもとづき、意次は私心をすてて忠精をはげみ、いかでか顕れざらん哉と(浚明院様の)御長久を祷り奉るところに、 終に 崩御され、意次は胸間割くがごとく、寝食共に廃すること数日、病を懐にし、その後 御当代(家斉)より俸禄を減じられたまうこと、意次の何んという不幸か、さらに覚悟せざるところであります。

しかるといえども在職のとき、粉骨砕身して天下の御為にならんと欲するといえども、凡慮のおよばざるところが間々在ったか。
かえって御為にならざると相響いたか薄運の致すところで、御為にならざるは嘆いてもなお余ることです。
かつまた小事といえども一存で取り計らったことはなく、必ず同席と相議して 上聞に達し、しかるに意次の一人の所為となるは如何なる災難でしょうか。

仰ぎ願わくは大元帥尊、ほかには悪を降伏して、忠勤怠りなく操を顕はし、内には慈悲を垂れて秋毫も欺がざる志を照らし、すみやかに 御廟に拝謁し、かつ 御当代の尊顔を拝し奉り、再び親族相和し予を誹り、予を悪(にく)む人、意次毫厘も虚妄せざる趣を明知し、世の雑説を捨て、怨親平等之思いを成さしめ賜えと、誠惶誠志 敬して白(もう)す。

天明七年未五月十五日       源意次稽首三拝


悲痛の感、ひしひしと迫る。

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2006.12.08

相良藩士への退職金

12月7日の記事---相良城の請け取り で、田沼意次の居城だった相良城召し上げのとき、幕府が金1万3000両を提出させたことに触れて、「相良藩士たちの多くは失職するのだから、1両でも多く手にして去りたかろう」に、と記した。

河原崎次郎さん編著『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)は、離散藩士たちが手にした退職一時金の額を以下のように記録している。

 金200両   物頭席
 金170両   西広間席
 金150両   給人席
 金130両   近習席
 金 80両   中小姓席
 金 70両   中小姓並席
 金 50両   徒士席
 金 30両   坊主・小役人・小頭共

江戸詰はこの2割減だったという。

この退職金で、何年暮らしていけるか、想像するだけで身がすくむ。
『鬼平犯科帳』はしばしば、江戸の裏長屋での親子5人の生活費は、1年間に10両前後と報じている。
身分の高い仁ほど、再就職はむずかしくなろう。

領地での家臣数は360人前後だったと記されている。
1万3000両を400人の家臣に等分に割ったとして、1人あたり32両余。それでも、ないよりあったほうがいいにきまっている。

1万3000両は、岡部美濃守の岸和田藩や、警備と城破却に動員された掛川藩、駿州田中城、遠州横須賀藩、三州吉田城などへの動員費であったのであろうか。

約90年前の赤穂城召し上げのときの退職金や幕府への供出金などと比較してみたいともおもわないでもない。

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2006.12.07

相良城の請け取り

川原崎次郎さん編著『城下町相良区史』(相良区 1986.10.1)によると、『相良町始之事』に、

「十一月廿二日岡部美濃守様御預り到着、御人数凡千四百六十人程、伊賀士五十騎」

とあると。
『寛政重修諸家譜』の「このときこふて近江国甲賀の士五十人を召具す」が、ますます、おかしくなってきた。
それはともかく、『城下町相良区史』は、岡部美濃守(27歳)が本陣と定めた平田寺(へいでんじ)が、前年、田沼意次の寄進で新築・落慶なったばかりで、それが「幕府方収城使の本陣になったのは皮肉なめぐり合わせ」と記している。いや、まさにその憾が深い。

岸和田藩というか、岡部美濃守長備(ながとも)の田沼意次に対する私憤からかもしれないが、収城方は、12月25日、「朝六ッ、鉄砲五十挺火縄に点火して構え、弓五十張、矢をつがえ」「騎馬隊に前後を守らせた岡部美濃守は、陣笠、陣羽織のいでたち」であったたという。
まるで、戦争気分だ。

しかも、掛川藩主・太田摂津守および駿州田中城主・本多伯耆守が率いる各五十人が周辺の東川崎を、峯田村は遠州横須賀藩主・西尾隠岐守の精鋭が、平川村は三州吉田城主・松平伊豆守の部隊が固めていたのに、である。

出迎えた相良城方は、城代・倉見金太夫、家老・各務久右衛門、中老・潮田由膳以下三百七十一人、麻裃の正装で控えていたという。

城方は、米1000俵、金1万3000両、塩30俵、味噌10樽もすんなりと渡している。

わからないのは、1万3000両である。相良藩士たちの多くは失職するのだから、1両でも多く手にして去りたかろう。
松平定信は、田沼憎しが先にたったのか、そこまで思慮が及んでいない。武士の情けというものが作用しなかったらしい。

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2006.12.05

田沼意知、刃傷後。その2

天明7年10月2日 田沼主殿頭意次へ仰せ下されたのは、
(1787)        勤役の中不正のことが追々と判明して
            きたので、どうしたことかと思しめしてい
            る。
            前の将軍が御病気のうちにお耳に達し、
            御沙汰なさっておられたこともある。
            所領の地2万7000石を収納し、引退
            を命ぜられ、下屋敷に蟄居し、きっと慎
            しあるべしと。

            また、嫡孫・竜助意明同じことによる。
            (この箇所、意味のとれない文章)。
            前々代お取立てのことにより、前代に
            も御容恕あれば家をつがしめられ、
            1万石を下されて、遠江国相良の城
            は収められ、御前をとどめられる。

            その家人どもへも同じことを令されて、
            意明はいまだ年少だから家士どもが
            よく後見して諸事つつしんみ、念を入
            れるように。         

    10月12日 上使の旗本。大久保忠兵衛・井上兵
            兵衛が取り締まりのために相良到着。

    11月14日 岸和田藩の先発の永井伊織、久留十
            右衛門が相良入り。
            勘定所役人3名、代官・前沢藤十郎以
            下手代6名も相良入り。

    11月22日 岡部美濃守長備(ながとも)の一行2,
            600人が金谷宿から相良いり。平田寺
            を本陣いとする。

    11月25日 相良城明け渡し。田沼家臣らは、裃姿で
            岡部勢を迎え、無事引き渡しを終えると、
            裏門から礼儀正しく退去。

天明8年1月16日 この日から2月5日まで、人夫1500人
(1788)        を動員して、城はもちろん家臣の邸宅ま
            で根こそぎ破却。
            監督に動員されたのは、浜松、田中、横
            須賀の3藩から各60士であったと。

(ちゅうすけ注) 城の引渡しはともかくとして、このような破却は一体なんのためであったのか。
田沼憎しとはいえ、松平定信の狂気の沙汰としかおもえない。
城や役宅は、次に所領する者へ残しておくのが経済的な見地であろう。        

   

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2006.12.04

田沼意知、刃傷後

田沼意次の居城---相良城の召し上げにいたるまでの、あれこれの事件を年順に並べてみる。

天明4年3月24日 いつもののごとくに仕事を終え、午(うま)
(1784)  の刻の終わり(午後2時前)ごろに、老中たちは退出。
       つづいて若年寄たちも提出しようとうち揃い、中の間か
       ら桔梗の間へさしかかったとき、新番組の士・佐野
       善左衛門政言
が直所から走り出てきて、刀を抜いて、
       田沼山城守意知に切りかかった。

       意知殿は殿中であることをはばかったのであろうか、
       差添をさやとともにぬき、しばしあしらっている。
       その場にいたほかの若年寄たちは、思いもよらない
       事態に、だれも佐野を取り押さえようともせず、あわ
       て騒ぐのみであった。

       そのとき、はるかへだたった場所から、大目付の
       松平対馬守忠郷がかけよってきて善左衛門
       を組み伏せたところを、目付・柳生主膳正久通
       打ち逢うて、ともに政言を捕らえて、獄舎に下した。

       (この件の『甲子夜話』の記述↓)
       『甲子夜話』巻1-7

       あちこち傷を負った意知を、やってきた番医・峯岸
       春庵と天野良順が治療をほどこし、轎i(たけで編
       んだこし)に乗せて主殿頭意次の邸へ送った。
       (『実紀』。日記 藩翰譜続編)


天明4年4月3日 若年寄・田沼山城守意知
(1784)  が癈(はい)を病んで死んだので、新番士・佐野善左
       衛門
に死を給う。
       善左衛門は、獄屋に下されたのち、有司が鞠問
       したが、けっきょく狂気のせいということにして、
       獄屋で切腹。
       よって、目付・山川下総守貞幹が属吏を率いて
       検視した。(『実紀』。 藩翰譜続編) 

 (天明4年12月8日 西城書院番・長谷川平蔵宣以は同
              徒頭となる(『実紀』))
 (天明4年12月16日 西城徒頭・長谷川平蔵宣以とほか
              19人が布衣の侍に加わる。
              (『実紀』))
天明5年12月1日 松平越中守定信、溜間詰となる。(『寛政譜』)
(1785)

 (天明6年7月26日 西城徒頭・長谷川平蔵先手頭となる。
              (『実紀』))

天明6年8月16日 (将軍家治の病気のため)拝謁をゆるされてい 
(1786)        た市井の医者・日向陶菴某と若林敬順某を、
             田沼主殿頭意次推戴し、にわかに内殿に
             召して御療治のことをあずからしめる。
             (『実紀』)

天明6年8月27日 老中・田沼主殿頭意次、老中を病免、
            雁間詰となる。(『実紀』)

     8月28日 奥医・日向陶菴某と若林敬順某は、さきに賜
            った廩俸を収められ、職を放免される。
            (『実紀』)
 
     9月3日  (将軍家治の)御病が重くなllり、溜詰、雁間
            詰、奏者番はじめ群臣が出仕。(『実紀』)
           *このとき、田沼意次は病体を押して枕頭へお
            もむこうとするが、さえきられたとの説がある。
            家治はすでにして、薨じていたかもと。
        
     9月8日  (将軍家治の)喪を発する

    閏10月5日 田沼主殿頭意次はさきに職を免じられてい
            たが、加恩の2万石を収公され、御前を
            とどめられる。
            大坂の蔵屋敷とこれまでの邸宅を取り上げ
            られ、きょうより3日のうちに立ち去るよう命
            ぜられる。
            また、勘定奉行・松本伊豆守秀持は、御
            旨に違うことがあったと職を奪われ、采地
            500石の半分を収め、小普請入りの逼塞
            をいいつかる。。(『実紀』)

天明7年絵5月20日  夜から騒擾---いわゆる暴徒による
(1787)        打ちこわしがはじまる。
       5月23日  長谷川平蔵宣以ほか先手9組の組頭
            へ暴徒鎮圧の命が下る。

       5月24日 御側申次・本郷大和守が奉行申次を免
              ぜられる。(『実紀』)    

       5月28日 御側申次・田沼能登守意致病免して、
              菊の間詰となる。
              一橋邸より召し連れられていたので、
              特旨により、これまでの足米はそのまま
              給う。(『実紀』)

       6月16日 松平定信老中となる。(『寛政譜』)

(ちゅうすけ注) 田沼罷免後も、松平定信老中就任がすすまなかったのは、ひとつには、側御用取次で田沼派の本郷大和守泰行横田筑後守準松(のりとし)らが大奥へ手をまわして、定信の就任を拒んでいたからという。

天明7年5月某日、老女・大崎が尾張家を訪れ、同職の高岳と滝川が、先代将軍の遺言に「将軍家の縁者は閣僚にはしない」というのを楯にとり、定信の妹・種姫が家治の養女となっていることを理由にしていると話したと、菊池謙二郎さんが『史学雑誌』(第26編 大正4年1月20日刊)[松平定信入閣事情]で報告している。

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『甲子夜話』巻33-1

『甲子夜話』巻33-1

田沼主殿頭(とのものかみ)意次(おきつぐ)、御咎(おとがめ)につき居城(遠州相良)を召し上げられる。
時は天明七年(1787)十月二日であった。

翌三日、岡部美濃守長備(ながとも 岸和田侯5万3000石)に城の受け取りを命ぜられた。

   殿中沙汰書
                   岡部美濃守
 右、遠州相良城請取在番を仰せつけられり。二万五千石の
 役高をもって用意いたすべきの旨、波の間において、老中
 列座で(牧野)備後守がこれをいいわたす。

同十五日濃州、城の受け取りと座番のためお暇。時服十羽織拝領。

この濃州はご譜代方ではあるが、年頃から懇意にしていたので、帰府後の翌年の春、相良城請取在番のための行列などを聞いたら、登城の日に携えてみえたので、それを記す。

Photo_250

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東洋文庫版『甲子夜話2』より


(ちゅうすけ注)行列の供揃えの配列は、このあと、14コマもつづいているのだが、省略。

[殿中沙汰書]に、「二万五千石の役高、うんぬん」とある。つまり、2,500人の陣立てをしつらえて受け取りに行けというわけだが、費用は岸和田藩もち。

もっとも、岡部美濃守長備(このとき27歳)は、田沼に異様な執念を燃やしていたという。
理由は、現職時代の田沼に加増された領分に、岸和田藩のものだった1万石が入っており、そこは藩にとってもっとも豊穣な地だったのだと。
岸和田藩は、藩を上げて復讐戦の心構えだったらしい。

そこのところを見込んだ上での、松平定信の計らいだったとする説がある。
田沼への怨念が、定信分と岡部分が二乗した城の受け取りと取り壊しだった。

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2006.12.03

『甲子夜話』巻30-35

『甲子夜話』巻30-35

かつて田沼氏が執政だったとき、その家老の井上伊織はことさらに時めいていた。

その一例をあげると、輪王寺の家司の阪 大学が、貨財の融通の件で伊織の宅へ行き、面会を乞うた。
取次ぎがいうには、主人は出勤を前にして灸治をしておりますので、今朝はお会いできませんと。
大学は「急を要するお願いなので、どのような接見であろうとかまいませぬ」と押しての目通りを請うた。

「そういうことであれば、お通りください」といわれて入ってみると、伊織は出勤前なので継上下を着けており、腰掛に腰をおろして三里(膝)に灸をすえていた。
灸をすえている人を見ると、船手頭向井将監(政香 まさか)であった。
また、羽箒で灸の灰を払っているのは勘定奉行松本伊豆守(秀持 ひでもち)ではないか。

大学も大いにおどろきながら、退出したという。
これはのちに大学からじかに聞いた話である。
あのころの世態、耳にするも愕然にたえないばかりである。

(ちゅうすけ注) 輪王寺の家司が向井将監政香の顔を知っていたとは思えない。井上伊織が紹介したのであろう。
将監はこのころ40代(2400石)。なにかの相談ごとがあってたまたま伊織を訪ね、出勤前に施灸の場にゆきあわせ、それなら心得があるといって火種をもったとも考えられる。そのあたりを省略しているのは悪意によるものであろう。

松本伊豆守秀持は、田沼に才幹を認められて勘定奉行に引き上げられ、500石を給され、また田安家の家老を兼帯して役料1000俵を得ていた。田沼の腹心中の腹心。このころ、50台なかば。
彼が打ち合わせのために井上伊織を訪ねているのは別に異とすることではない。これも、たまたま施灸の場に居合わせたから、羽箒をもっただけだろう。

まあ、井上伊織ほどの仁のそばに、そういう雑事をする召使いがいないほうを怪しむべきではなかろうか。

それより、輪王寺の家司・阪 大学の金銭話の結末はどうなったのだろう。うまくゆかなかったから、意趣返しに、30年もむかしの話を愚痴ったか。

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2006.12.02

『甲子夜話』巻26-16

_120_1 『甲子夜話』巻26-16

守宮(いもり)黒焼媚薬に用いることは、世に知られている。
かつて田沼氏が閣老(老中職)にあったとき、その臣に井上伊織〔家老〕、三浦荘司黒沢一郎右衛門〔用人〕などは世にときめいていた仁たちで、身分の高い人も低い者も、へつらって、雲望(猟官)の梯路(踏み台)としていたものだ。

この黒沢なる仁は、はじめ、主人に気に入られていなかった。
で、人も寄ってこなかったことを憂えていた。

ある日、例の黒焼を求め、ひそかに主人にふりかけたところ、その効き目か、これより気に入れられるようになり、
世の人も黒沢に媚びるようになったので、自分にも自然に徳がついて結構。左右と眤近(じっきん)にもなった。
そんなある日、ことの次第を主人に告げたところ、主人は咲(わら)ったと。

その時世といい、その事といい、よく似合っていることよ。

(ちゅうすけ注) 黒沢といえば、田沼意次の継室(後妻)が黒沢家の出。
黒沢の祖先を遠くたどると、安部貞任・宗任にもつながる。
出羽国置賜(おきたま)郡小松に住していたため、あるときは小松、また黒沢を称したと。
黒沢一郎右衛門がその一族の縁者とすれば、継室の関連だから、田沼氏がやや出世してからの召抱えかかえで、それだけ井上伊織や三浦荘司より存在の浸透度が薄かったのであろう。

これもどうでもいいほころびだが、大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波書店)のp43と同書の岩波現代文庫p44が『甲子夜話』巻24の26話としているが、巻24には11話までしかない。
この誤記のことは昨日、岩波書店へハガキで通じておいた。

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2006.12.01

『甲子夜話』巻15-10

『甲子夜話』巻15-10

先年(天明6年)、田沼氏にお咎めがあったのち、遠(駿)州・相良(さがら 現・静岡県牧之原市相良)の居城を召し上げられるにつき、岡部美濃守(長備 ながとも 河内・岸和田藩主。5万3000石。そのとき27歳)が受け取りに行き、破却した。

ちかごろ(文化4,5年 1807,8)、予が隠棲の荘(平戸藩下屋敷 本所・牛島 現・墨田区横網町1-12 旧安田庭園)に住む家臣が、遠(駿)州相良生まれの老婆を召し使った。
その婆がいったという話を伝え聞いた。

城が破却されたときはまだ若かったが、なんだか大勢の人が集まり、なにもかも微塵にうちくだいて、たちまち跡形もなくなったと。

また婆の話によると、田沼氏の臣下たちが離散のとき、三浦(荘司。用人?)といった家来が相良を立ち退いたが、こと穏便にと忍んでいたのを、離散していた足軽どもが聞きつけ、その宿所へ尋ねきて、没落のときに難儀したからといって、金子を50両、100両などねだった。
なだめすかした三浦は、2,3両ずつ与えてその場を逃れ、ひっそりと江戸の方へ去ったと。

田沼の勢権が烜赫(さかん)だったときに、名をよくしられていた荘司という仁がいたが、その者であろうか。
この三浦なる仁が忍んでいたのは、かの婆の家だったと。

(ちゅうすけ注) 静山がこの件を筆記したのは、48,9歳、いっていても50歳のころと推定できるが、書き手が「老婆」という言葉を使った場合の対象となる女性はいったい幾歳だったろう?
45,6歳? それは気の毒。50歳? jまあ、生活につかれていれば、老(ふ)けても見えようか。

相良城の受け取りの下命は、天明7年(1787)10月15日ごろだったという。
とすると、静山の筆が走った20年ほど前。くだんの女性の30歳前後のころのことか。
「城が破却されたときはまだ若かった」という表現は、ちょっとおかしいのでは?

ギョッとしたのは、『寛政重修(ちょうしゅう)諸家譜』の岡部美濃守長備の記述。

岡部家の祖・駿河権守清綱がはじめて岡辺を称し、嫡男・泰綱から岡部に改めたという。何代か後裔が今川義元に仕えていた--との先祖書から推測するに、旧・東海道筋、岡部川ぞいの岡部宿(現・静岡県志太郡岡部町)一帯の豪族だったのだろう。

岡部町といえば、[5-3 女賊]の〔瀬音(せのと)〕の小兵衛が引退後の身を寄せた小間物店〔川口屋〕がある宿場だ。
〔瀬音(せのと)〕の小兵衛

ま、それはいいとして、問題の『寛政重修諸家譜』の記述。

  (天明)七年田沼主殿頭意次が居城近江国相良(さがら)
  を公収せらるるにより、十月十五日仰をうけたまわり、彼地
  にいたりて勤番す。
  このときこふて近江国甲賀の士五十人を召具す。これ、先祖
  長盛がより公役の備にとて扶助しをけるところなり。

近江国相良城? 近江国甲賀の士五十人? なんで?
駿河国でしょうが---。

幸い、明後日、静岡へ行く用がある。
中央図書館へ寄って『相良町史』をのぞいてこよう。 

『寛政重修諸家譜』 は、門閥派政治家の老中首座・松平定信発案、大名家とお目見以上の幕臣に家譜の提出を命じた。
定信失脚後は、堀田摂津守正敦(近江国堅田藩1万石 藩主)が総裁となり、屋代弘賢林述斎など60余人の儒者たちが提出された「先祖書」を史料に照らして校訂・編纂した膨大な家譜集。校訂の段階で見落としがあったか、あるいは誤記したか。

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