奥州信夫郡下村藩
12月16日のここの記事で、田沼家に与えられた1万石のうち、奥州岩代国信夫郡下村(現・福島市佐倉下)の分は、陣屋がおかれた下村ほか、7000余石と報告した。
「下村が1558.333石ということだと、7000石に5,400石ほど足りない」として、近在のいくつかの村々を候補にもあげた。
平凡社版『日本歴史地名体系 福島県』に、次の村々だったことを教えられた。
下村 1558.333
下渡鳥村 1078.941
上渡鳥村 1504.967
在庭坂村 1202.679
赤川村 671.263
内町村 177.004
上野寺村 1178.400
(掲出の地図をよく見ると、下村の近辺にいくつかの村は見つけうる)。
同書は、「下村」について、こうも記述している。
「荒川右岸にあり、西はかつて本村であった上名倉(かみなぐら)村、南は上鳥渡(かみとりわた)村、東は仁井田(iにいだ)村、北は荒川を隔てて桜本(さくらもと)村」「寛保2年(1742)幕府直轄領となったが、(中略)天明7年(1787)下村藩領(田沼家)、文政6年(1823)幕府領となり、幕末に至る」
この記述で、田沼意明(おきあき)が代替として与えられた1万石のうちの信夫郡内7000余石は、幕府直轄領であったことがわかる。
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コメント
いまはどういう風になっている地域なのかと思いまして、グーグルマップで検索してみました。
http://www.google.co.jp/maps?f=q&hl=ja&q=%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E5%B8%82%E4%BD%90%E5%80%89%E4%B8%8B&ie=UTF8&z=12&ll=37.755244,140.421066&spn=0.131649,0.351563&t=h&om=1
福島盆地の西の方、天保の頃は谷あいの農村だったのでしょうねえ。現在は工業団地と郊外の田園地帯が入り混じっているようです。
投稿: えむ | 2006.12.19 15:58
読売新聞の生活情報部のMさんが福島支局に3年ほどいらっしゅったので、あのあたりの記憶を書いてくださいとお願いしています。
ほんとうは、福島市内在住や出身の鬼平ファンの方が積極的に書いてくださいといいのですが、このブログ、超ジミですからね、目に触れにくいんでしょう。
ブログって、距離を飛び越えて、レスがつくなんておもうほうがおかしいんでしょうね。
投稿: ちゅうすけ | 2006.12.19 16:36
ごぶさたしております。
福島市に2002~04年の2年間おりました。
深い深いご洞察に感服しております。
仕事でふだん、市内を車で移動していた経験から、
ここに挙げられた地名は、記憶があります。
下渡鳥村
上渡鳥村
は、「鳥渡」ではないでしょうか。
「在庭坂」はあります。
「赤川」は?
「内町」も?
「上野寺」はあります。
いずれも、
畑の中に人家が点在・・・という風景だった
と記憶しております。
市の中心部からは、結構離れていて、
今なお、
新興住宅地として急速に開発が進んでいる
・・・という雰囲気の地域ではなかったと思います。
あやふやな記憶でお役にもたてず、申し訳ありません。
「荒川右岸にあり、西はかつて本村であった上名倉(かみなぐら)村、南は上鳥渡(かみとりわた)村、東は仁井田(にいだ)村、北は荒川を隔てて桜本(さくらもと)村」
こちらは、記憶にあります。
投稿: Q太郎28号 | 2006.12.29 01:41