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2006.12.18

奥州・下村から遠州・相良へ

12月17日、手元の『文政武鑑1 大名編』(柏書房 1982.12.24)で、田沼玄蕃頭(げんばのかみ)意正(おきまさ)が、文政元年(1818)から同4年(1821)までは、奥州(岩代国)信夫(しのぶごおり)郡下(しも)村に陣屋を置く、1万石の下村藩の大名であったことを確認した。

意次(おきつぐ)のころの相良へ戻ったのはいつか?

『文化武鑑』は[役職編][大名編]全8巻が書架にある。
長谷川平蔵がらみでは、『文政武鑑』までは---と判断して、巻1[大名編]、巻2[役職編]で購入をやめてしまっていた。

近くの図書館が所蔵していることがわかっていたので、リサーチに行った。
『文政武鑑3 大名編』の同5年(1822)、同6年とも、信夫郡下村に陣屋。

360_5

3_1文政7年(1824)の分に、

・一万石 在所遠州榛原郡(はいばらごおり)相良
と。
このとき、越後・頸城郡(くびきごおり)の約3000石に相当する村々(幕府領だった3つの谷にある32ヶ村。このことが判明した経緯は、改めて後日に)も上知後、元の幕府領へ戻された。

とにかく、そういうことだと、文政6年(1823)の『徳川実紀』に発令日が記載されているはずである。

さっそく、『索引 下』の田沼意正の項をたしかめた。 
120_5 『続実記 第2編』に、
 ・転封 91ページ
とあった。

 (文政六年)七月八日 田沼玄蕃頭意正遠江国相良へ邑(むら)がへあり。

なぜ、こういう幸運が舞い込んだか、疑念をもった。
で、再度、『索引 下』の意正の項に目をこらした。

 ・側用人 124ページ
 ・致仕   271ページ

これは、どういうことだ---と、本文をあたってみる。

 文政八年四月十八日 田沼玄蕃頭御側用人となり、

 天保七年(1836)四月廿一日 遠江国相良領主田沼玄蕃頭
 意正病により致仕す。

 その子備前守意留(おきとめ)に領知一万石を継がしむ。
 この意正は、主殿頭(とのものかみ)の四子にして玄蕃という。
 文化元年(1804)七月廿六日(46歳)
 主計頭(かずえのかみ)意定(おきさだ)が遺領を襲ぎ、
 十月朔日謝恩の日初見したてまつり、
 十二月叙爵し頭に任じ、
 同じき三年六月朔日大番の頭となり、
 文政ニ年八月八日西城の少老(若年寄)となり、
 おなじき五年七月廿八日本城へうつり(本丸の若年寄)、
 あくる六年七月八日旧領相良へうつり、
 おなじき八年四月十八日御側用人となり、若君に附属せられ、
 その十二月従四位下にのぼり、
 天保五年四月廿六日病免し、
 けふ、致仕してのち、
 ことし八月廿四日とし   (空白のまま)歳にて卒しぬ。
                     (注・76歳)

ははあ、そういうことだと、相良への転封は、本城の若年寄のころのこと。幸運が舞い込むのは当然といえる。納得。

それにしても、定信内閣からさんざいじめられたのに、よく、まあ、復帰したものである。
意正というご仁、父・意次にまさるとも劣らない心くばりのきく人であったのだろう。実母は某女としかわからない。

それより、『文化武鑑』『文政武鑑』をめくっていて、一万石の田沼家の記載序列は、全大名の中で末尾の寸前---いってみれば大名家のブービー(最後尾は武門とはいえない松前藩)。

田沼の家禄を1万石以下の旗本にするより、万石最低の大名にとどめて、毎年の『武鑑』で屈辱感をあじあわそうという、松平定信陰湿なイジメともおもってみたが、まさか、ね。

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