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2006年11月の記事

2006.11.30

沢田小平次の「小平次」

「真剣(ほんみ)で斬りあったら、おれもかなうまい」と、鬼平がその刀技をみとめている同心・沢田小平次の名前について、おもいあたることがあった。

藤野 保さん『徳川幕閣---武功派と官僚派の抗争』(中公新書 1965.12.15)の冒頭の章[武功派の時代]に、「徳川四天王の活躍」との項があり、

  惣先手侍大将、忠次 四天王の一人、酒井忠次(ただつぐ)
  は、譜代の最上位を占める酒井忠親の次男として、大永七年
  (1527)三河に生まれた。
  酒井氏は、始祖広親に氏忠・家忠のニ子があり、氏忠の子孫
  が代々左衛門尉を称したのに対して、家忠の子孫は代々雅
  楽助(うたのすけ)(あるいは雅楽頭うたのかみ)を称した。
  忠次は、左衛門尉家に属し、はじめは小平次、ついで小五郎
  といった。

池波さんは、『鬼平犯科帳』シリーズ化に先立つ忍者ものに、徳川家康やその軍団を登場させている。
そのとき、酒井忠次のことも調べていて、武勇にすぐれたこの武将の幼名・小平次を記憶したか目にして、沢田小平次を登場させたとき、とっさにその名を小平次と書いたのではなかろうか。

いや、どうでもいいような---というより、記録にも値しないようなおもいつき的な発見なんだし、事実かどうかもわからないけれど、当人にとっては、1俵分のもみ粒の中から精米した1粒を見つけたように、「やったぁ!」的な大発見に思えるから始末が悪い。

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『甲子夜話』巻6-29

『甲子夜話』巻6-29

このとき(巻6-28の田沼意次の全盛期)は、勘定奉行松本伊豆守(秀持 ひでもち)・赤井越前守(忠晶 ただあきら)などいう輩も、互いの贈遺富盛を極めた。

京人形一箱の贈物などは、京より歌奴を買いとり、麗服を着せて箱に入れ、上書きを人形としたとかいうぞ。

また豆州は、夏月は蚊帳(かや)を、廊下通りから左右の幾つもの小室へじかに往き来できるようにつなげ、小室ごとに妾を臥せしめ、夜中、どの部屋へも蚊帳をでることなく行けるようにしていたと。

また子息の一人が癇症で雨の音を嫌ったので、幾部屋もの屋上に架を作って天幕を張り、雨の音を防いだとも。

その奢侈ぶりをもって想像するがよい。

(ちゅうすけ注) 松本伊豆守秀持は、たしかに天守番という低い地位から、田沼に才能を認められて勘定(廩米100俵5口)に引き抜かれている。
明和3年(1766)には組頭、6年後の吟味役をへ、安永8年(1779)50歳のときには勘定奉行へ栄進、500石を知行し、伊豆守に叙爵。

田沼の没落とともに天明6年閏10月5日に職を奪われて小普請に貶められた上に、逼塞を申しわたされた。
松平定信派の追求は厳しく、俸禄から100石を減じられてまたも逼塞。許されたのは定信体制がととのった天明8年5月。
寛政9年没(68歳)。

京人形の話は、どこかで見た記憶がうっすらとある。もちろん、松本秀持のことではない。噂の捏造にはタネがあることの見本であろう。
蚊帳の件にいたっては、人生50年ともいわれた当時、50歳をすぎた男が、一晩に幾人もの妾の相手をするものか、と笑うしかない。外野の男たちのあらまほしき妄想といいたい。  

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2006.11.29

『甲子夜話』巻6-28

『甲子夜話』巻6-28

田沼氏の権勢が盛んだったころは、諸家贈遺にさまざまに心をつくしたものであった。

中秋の月宴に、島台、軽台をはじめ趣向した中に、某家の進物は、小さな青竹篭に、生きのいい大鱚(きす)七八尾ばかり、彩りに些少の野のものをあしらい、青柚子(ゆず)1個。その柚子に家堀彫(いえぼり)萩薄の柄の小刀が刺してあった[家彫は後藤氏の彫ったもので、その値は数十金もした)。
別の某家のは、けっこう大きな竹篭にしびニ尾であった。

この二つは類がないと、田沼氏は興を示したと。

また、田沼氏が盛夏に臥したとき、候問の使价が、このごろは何を楽しまれているかと訊いた。菖盆を枕元へ置いて見ておられると用人が答えたところ、ニ三日のあいだに。諸家から各色の石菖を大小とりどりに持ち込み、大きな二つの座敷に隙間もないほどに並んで、とりあつかいに困ったほどと。
そのころの風儀はこんなであった。

(ちゅうすけ注) 「講釈師 見てきたような、ウソをいい」で、庶民の鬱憤ばらしの噂話は針小棒大どころか、ねたみから出たまったくの捏造であることが多い。
また、田沼意次の場合には、反田沼派が意識して流した、ためにする噂もあったろう。
静山は、そんな不確かな風評を、ウラもとらずに40年後に記録しているんだから。

石菖の話は、浜町の下屋敷の池に鯉があふれたというのと同工異曲。
らちもないこんな風評を写していると、反田沼陣営が政治的権力を独占したあとの情報のムチのしたたかさが見えてくる。
目に見えないこういう圧力に向き合った現職役人・長谷川平蔵の、ストレスの大きさもおもいやられる。

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2006.11.28

葵小僧の発見

120_1 河出文庫[鳶魚江戸ばなし]シリーズ・その1にあたる『泥坊づくし』(1988.3.4)を、鬼平熱愛倶楽部メンバーのおまささんのご尽力で手に入れることができた。
青蛙房の『三田村鳶魚・江戸ばなし』を底本とした、河出文庫のシリーズその2『江戸の女』(1988.8.4)、その3『女の世の中』(1988.11.4)、その4『徳川の家督争い』(1989.3.4)はすでに所有している。
なんでもかんでも揃える趣味はなく、その5『赤穂義士』は中公文庫でもっているから、あえて買わない。

『泥坊づくし』を捜したのは、中公文庫[鳶魚江戸文庫]その1『捕物の話』 (1996.9.16)、その6『江戸の白浪』(1997.2.18)に、『泥坊づくし』に収録されている「日本左衛門」「五人小僧」「鬼坊主清吉」が載っていなかったから。

『鬼平犯科帳』シリーズほかのネタが、それらにありそうにおもえたので。
案の定だった。
「五人小僧」に[槍を持たせた葵小僧]の項があった。

  寛政三年(1791)の四月十六日から二十ニ日まで、江戸市中は
  普通の警備では不足だとありまして、御先手の三十六組から火
  付盗賊改の本役加役のニ組は平素出て居りますが、この際は残
  り三十四組が総出になりまして、当番十四組が七箇所の番所を
  建て、非番二十組は臨時に市中を巡廻しました。

(ちゅうすけ注) 寛政2年秋から翌3年春へかけての、火盗改メの加役(火災の多い冬場の助役は佐野豊前守政親だったが、3月17日に任を解かれている)。
4月7日から翌年5月11日まで、松平左金吾定寅が異例の発令をされている。
助役というより増役というべき性格の発令である。
勘ぐると、自信家の定寅が松平定信に働きかけて、葵小僧用に増役を買ってでたとも考えられる。]
ついでながら---このときの先手組は、あわせて34組であった。

  それほどに市中が物騒でありまして、押込やら追剥やら、おびた
  だしい盗難でありました。
  武家屋敷でも夜分は家来を外出させない。町々では木戸を締切
  り、一切往来を止めました。
  その中を横行したのが葵小僧で、真に神出鬼没といいますか、一
  夜のうちに何軒ということもなく、押込んで劫奪するのです。

(ちゅうすけ注) ははーん、逢坂 剛さんが、葵小僧と大松は同一人物との説があるが---とメールをくださったのは、松平定信『宇下人言』に、一晩に何箇所も襲った大松という盗賊のことが記録されている。それで、その説が出たものと、いま、わかつた。

  その行装がまた素晴らしいので、自身は駕篭に乗り、若党を連れ
  た上に、槍を立て、鋏箱を持たせ、葵の紋ついた提灯を点じて押
  廻します。
  ちょっと見た目には高取りの旗本衆のようでしたが、こうして供方
  連れて大威張で歩く泥坊が、半月以上も捕えられないのですか
  ら、これだけでも八百八町の人心は落ちつかない筈であります。
  それでも漸く本役の長谷川平蔵の手で、この葵小僧を捕らえまし
  て、五月三日には獄門となりました。

  稀有の大賊でありますのに、葵小僧のことは何も伝わって居りま
  せん。
  処刑と共に一切を抹消してしまったのは、さすがに長谷川平蔵の
  取計らいだと思います。
  この葵小僧というやつは、泥坊に入った家毎に、女房でも娘でも
  居合わせ次第、きっと嬲りものにした。
  捕らえられて葵小僧は得意げに白状したので、引合いに呼び出さ
  れた女房は、長谷川の尋ねについて返答に困りきった。
  そこは機転のいい長谷川平蔵だけに、事件を大概に打切って、急
  いで処分してしまったのです。 

池波さんが短篇[江戸怪盗記]、さらにこれを書き増した[妖盗葵小僧]のヒントは、これだったようだ。

葵小僧のWho's Whoは、
〔葵(あおい)小僧〕芳之助

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『甲子夜話』巻2-40

『甲子夜話』巻2-40

田沼氏が老中職にあって権力が盛んだったころ---予も、二十歳(はたち)になったばかり(安永6年 1777)。
人なみに雲路(うんろ 仕官して栄達する)の志があって、しばしば氏の屋敷を訪れたものである。

予は、大勝手を申しこみ、主人に面接したのは、30余席もしつらえられるほどの部屋。
ほかの老中職の面接の座敷は、請願者がたいてい障子の前に一列に居並んでいるらいだが、田沼の桟敷は、両側に並びきれなくて、その間に幾列かつくり、それでもはみ出た仁は座敷の外に座る始末。
そこらあたりになると、当の主人が着座しても顔が見えない。

ほかの重職のところでは、主人は客からよほど離れて着座した上で挨拶を受けたが、大勢の客があふれかえっている田沼のところでは、客と主人の間はやっと2,3尺(60~90cm)ほどで、まさに顔と顔が接っせんばかれり。

(ちゅうすけ注) この挨拶の応答、面接、請願は、老中が登城するまでの朝の1時間たらずのあいだにおこなわれるのが常であった。もちろん、田沼意次邸にかぎらない行事であった。

大石慎三郎さん『田沼意次の時代』(岩波文庫)は、この文章に対し、一昨日(11月26日)に紹介した松浦静山の姻戚関係を引いて、ためにするものとし、さらに、清・静山が20歳のころといえば、『甲子夜話』巻1が書かれた35年以上も前のことで、記述が正確な記憶によるものとはいえまいと、史料性に疑問を呈している。

(ちゅうすけ注) 宝暦7年(1757)生まれの英三郎(静山の幼名)が、父・政(まさし)の病死により祖父・誠信の養子となったのは明和8年(1771)の15歳。将軍・家治へのお目見は18歳。藩主になったのが19歳。外様大名の身ではやばやと猟官運動に走り、「しぱしば」田沼邸を訪問するかしらん。
もし、走ったとすれば、静山の人品もいささかさがるといわざるをえまい。
平戸の記念館で見た静山の肖像画は、すでにそういうことから超越している感じを受けたが、『甲子夜話』の文にはまだ俗臭がちらつく。

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2006.11.27

『甲子夜話』巻1-7

『甲子夜話』巻1-7

予、若年のころ(静山25歳 天明4年1784  3月24日)、新番衆・佐野善左衛門政言(まさこと 500俵 年齢未詳30代?)なる仁が、殿中で、若年寄の田沼(意知 おきとも 36歳)に切りかかった。

佐野を組みとめたのは、大目付・松平対馬守忠郷(たださと 70歳 1000石)。

現場に居合わせた人の話によると、佐野が刀を振りあげて切るまでは、対州はその背後についていたが、佐野が切りおおすのを見とどけて背後から組みとめたと。

同人が評するに、100年前、浅野(内匠頭)氏が吉良氏を打ったときの梶川某の組みとめ方は、武道を心得ているとはいいがたい。この感慨はもっともだと、心ある者たちは感賞したとも。

予も、この対州をよく見知っていた。老体で頭髪薄く、常は勇気あるようにはおもえなかった。

また、叔父の同姓越前(守信桯 のぶきよ 事件のときは小普請奉行)がいうには、佐野の刃傷事件では、御番所の前を田沼が通りかかったとき、後ろから佐野が「申しあげます、申しあげます」と声をかけながら抜いた刀を八双に構えて追いかけ、田沼が振り返ったところを肩から袈裟がけに切り下げ、返す刀で下段を払ったのを目のあたりにしたと。

あるいはいう。この刀は脇差で2尺1寸(63cm)、粟田口一竿忠綱だったので、これ以後にわかに忠綱の刀の値があがったと。

またいう。このとき田沼氏の差料の脇差は貞宗だったが、鞘に切り込みの傷ずついたと。さだめし、佐野が下段の払いがあたったのであろう。

田沼家のいい分だと、佐野の切り込みを受け止めたときの傷と。どういうもんだかねえ。

(ちゅうすけ注)なんだか、静山は嬉しそうに書いている(笑い)。疑念が生じるのは、大目付の対馬守が、万事承知していて佐野善左衛門の後ろをつけたのではないかということ。
意次はそこまで考慮しなかったか、対馬守はこの功で200石の加増をうけている。もちろん、手くばりしたのは意次。

この事件、池波さんは『剣客商売』で、どう書いていたかなあ。

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2006.11.26

『甲子夜話』巻1-26

_120 『甲子夜話』は、松浦(まつら)静山(1760-1841 肥前・平戸6万1700石の藩主・清としては1775から1806)が隠居後に聞き書きした膨大な雑文集。

大石慎三郎さんは『田沼意次の時代』(岩波文庫)で、「田沼時代を知るには好適の史料とされ、田沼時代を語る場合には必ずといってよいほど引用されている史料である」が、「問題の多い史料」であって、とくに田沼関連の文章には要注意---とする。

その根拠として、「彼の叔母、戸籍上では妹は、本多弾正大弼忠籌(ただかず 陸奥・泉藩主 2万石)の室(妻)となっている」「この本多忠籌は、田沼意次の政敵である松平定信の最大の〔信友〕」であった。

「さらに、彼自身の室松平氏は伊豆守信礼が女となっている」が、その兄は松平伊豆守信明(のぶあきら 三河・吉田藩主 7万石)で、「忠籌と並んで松平定信を支えた二本柱」

そんなわけで、静山の筆が田沼意次におよぶときには、公正さを欠くと。いや、悪意に満ちた捏造があるといったほうが、より実体にちかいかもしれない。

で、『甲子夜話』(東洋文庫)から、各項を順次、文意を伝えてみたい。

『甲子夜話』巻1-26

先年、将軍(家斉)の不興をこうむって田沼氏が老中職を罷免され、常盤橋内の役宅を即日明けわたすことになったとき。
急のことではあったが、家器を車に乗せて蠣殻町(浜町)の下屋敷へ運んていた。その宰領をしていた一人が、
気を変えて、車ごと消えたという、
田沼氏が小身から栄進をはじめたときに召し抱え、才幹もあるので目をかけていた男だったが、零落した主人の先行きに不安ほおぼえたのであろうか。
こんな大騒ぎのときもときであったから、田沼氏も捜索すべき手はずみつかず、そのままにしたと。家器を不正に手に入れたものは、また、不正に失う---とは、このことであろう。

(ちゅうすけ注)これは、ためにする噂ばなしで、役宅の即日引き払いということはなかった。

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2006.11.25

勘定奉行・川井久敬(ひさたか)

昨日(11月24日)の[田沼意次の4重要政策(その2)]で、通貨の一元化を目指して「明和五匁銀」(明和2年(1765)年9月発行)と「南錂ニ朱判」(安永元年(1772)9月発行)を発案したのは、勘定奉行の川井次郎兵衛(のち越前守)久敬(ひさたか)---と、畏友・I君が推定しているとした。

彼は、勝手掛で首席老中の松平右近将監武元(たけちか)の下で、勘定奉行として逼迫した幕府の財政を立て直すために、向こう5年間の倹約令も草案したとおもえる。

100_5 辻 善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3.17)は、こんな落書「懸け・とき」を収録している。

 右近と懸(かけ)て 洗濯やととく 意ハ しぼりてほし上る
 
 田沼と懸て みそすりととく 意ハ ひとりかきまわす

 川井と懸て まま母ととく 意ハ めったにつめる

 牧野とかけて 気じょうな痔持ちととく 意ハ 下の痛みにかまわぬ
 (以下略)
 
右近は、老中首席の松平武元、田沼は老中兼御側用人の田沼意次、牧野は備後守貞長(常陸・笠間藩主)。

『田沼時代』は、1915年(大正4)に日本学術普及会から刊行されたのが最初である。
当時の学会の田沼認識を反映して、賄賂、腐敗政治を糾弾する色合いが強いが、引用した資料の信用性がきわめて薄いことは、これまでもこのブログで紹介したように大石慎三郎さん[田沼意次の時代]が仔細に衝いている。

もっとも、上に引用した「懸け・とき」などは、警鐘めかしておもしろおかしく皮肉る人種がいつの時代にも存在することをしめしているに過ぎないが。

わざわざ掲げたのは、川井久敬が3番目に槍玉にあげられるほど、当時、知名度が高い存在だったらしいことを示したかったから。

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2006.11.24

田沼意次の4重要政策(その2)

故・大石慎三郎先生『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)が、田沼時代の重要政策としてあげた第2は、

 2.通貨の一元化

同書は、こう断言する。

200 明和2年(1765)年9月に発行された「明和五匁銀」(左の写真)と、安永元年(1772)9月に発行された「南錂ニ朱判」とは、江戸通貨史のなかで、特異な位置を占める通貨である。

当時の国内は、中部地域以北は金本位制、関西以西は銀本位制によっていた。
幕府は、金1両に対し、銀60匁、銭4貫目(4000文)を公定交換率と定めていたが、ともすると守られなかった。

「明和五匁銀」が発行され、12枚でもって1両と交換することで、公定交換率が定着し、通貨の一元化が達成したといえないこともない。

95 しかし、幕府のおもわくどおりには、「明和五匁銀」は流通しなかったという。
そこで、少額貨幣として発行されたのが、「南錂ニ朱判」(左の写真)である。これ8枚で1両換算。

発案者は、明和2年2月に小普請の組頭から勘定吟味役へ取り立てられた川井次郎兵衛(のち越前守 530石)久敬(ひさたか)だったと、畏友・I君は推定する。
このとき久敬は41歳。6年後には勘定奉行へ栄進。

川井家は、今川義元の没後、長谷川家と同じように徳川へ仕えている。もしかしたら、幕臣のなかでは少数派の今川出身同士ということで、つながりがあったかも知れない。

田沼意次との関係でみると、勝手掛職も兼ていた松平右近将監武元(たけちか)が歿したのは、川井久敬が勘定奉行を辞して4年後だから、経済政策での縁はそれほど濃かったとはおもえない。

[田沼時代の経済政策](『幕藩体制Ⅱ』)で、「明和五匁銀」「南錂ニ朱判」の意義を認めた土肥鑑高さんと宮沢嘉夫さんは「田沼の政治は、物価高騰やその他多くの点で非難そされることは多いが、貨幣政策の根本は、寛政期(定信政権下)に入っても、何らの変更をも受け付けていないのであって、ニ朱判の通用などは、却ってこの寛政期に入って初期の目的を達成した」と。

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2006.11.23

白浪もの

阿部 猛さんは『泥棒の日本史』(同成社)の[あとがき]に、

「泥棒は歴史とともに古い職業のひとつといわれ、文学の題材としても多く採りあげられてきた。
それは洋の東西をとわないが、シラーの『群盗』、ブレヒトの『三文オペラ』、ダリアンの『泥棒』、ジュネの『泥棒日記』、レオーノフの『泥棒』などは著名である」

『三文オペラ』といえば、開高 健くんに『日本三文オペラ』がある。
詩人の故・木場康治くんの、大阪の造兵廠の焼け跡で、鉄屑を盗むようにして集めている人群があるとの示唆によって創作されたと、木場くんから聞かされたことがある。
開高くんも木場くんも、ともに同人誌「えんぴつ」での仲間だった。

「泥棒の話は深刻な話であるはずなのに、なぜか一種のおかしみをもって語られる。近代においては大衆文学の世界で採りあげられ、旧い呼称でいえば探偵小説、いま風にいえば推理小説の主体は探偵であるが、これも泥棒あっての探偵小説である」

Photo_249 ミステリーで記憶に残っているのはマイクル・クライトン『大列車強盗』(原作1975 ハヤカワ文庫 1981.7.21 乾信一郎訳)だ。ヴィクトリア朝の犯罪で、壮大で緻密な計画に舌をまいた。クライトンは、SF『アンドロメダ病原体』や近未来もの『ジュラシック・パーク』の作家でもある。
渋いファンの多いローレンス・ブロックには『泥棒は選べない』(ハヤカワ文庫 1992.2.29 田口俊樹訳)ではじまる愉快な連作もある。

池波正太郎さんの『鬼平犯科帳』は、日本代表としてあげるべきだろう。

そういえば、阿部さんは、チャイナの代表作もあげていない。

「江戸時代の泥棒については、三田村鳶魚の著述があって豊富な話題を提供し(「鳶魚江戸文庫」中公文庫)、それ以来大正期には小酒井不木の研究があった(『犯罪文学研究』国書刊行会。1991年刊)、泥棒に関心を寄せる人は多く、たとえば高知大学の泥棒研究会は『盗みの文化誌』(青弓社。1995年刊)という真面目な研究書を公にしている」

「ウーヴェ・ダンカー著『盗賊の社会史』(藤川芳朗訳 法政大学出版局、2005年刊)は本格的な論考で、すこぶる参考に値いする」
図書館で探してみようかな。

落語での盗人の話は、靖酔さん、永代橋際蕎麦屋のおつゆさん、豊島のお幾さんに、歌舞伎の白浪ものは、みやこのお豊さんの書き込みを待つ。

文楽にも、盗みものはありましたか、亀戸のおKさん、蕎麦屋のおつゆさん? 『鶊山姫捨松』の中将姫のあれは盗みでも、職業的ではないから。盗賊を仕事(おつとめ)にしているのにかぎって。

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日本左衛門

阿部 猛さん『盗賊の日本史』(同成社)からの引用。

池波さん『男の秘図』のヒーローは、切れ者の幕臣ながら、夜は男女がまぐわう姿態を描いている徳山(とくのやま)五兵衛だが、彼がかかわった盗賊が〔日本左衛門〕こと浜島庄兵衛。

「盗賊浜島庄兵衛は、尾張の足軽友右衛門の子で、幼名を友五郎といった。父友右衛門は尾張の七里(しちり)役所の人夫てであった」と。

〔浜島〕の友五郎? ははーん、池波さんが『鬼平犯科帳』文庫巻6[大川の隠居]で登場させた武蔵・浜崎生まれの船頭も友五郎---無意識のうちに名をかりたかな。

「七里とは、尾張・紀伊・福井・姫路・松枝などの大名が手紙の逓送(ていそう)のために置いたもので、尾張・紀伊のそれがとくに有名であった。東海道では、六郷川・保土ヶ谷・藤沢・大磯・小田原・箱根・三島・元吉原・由比(井)・小吉田・岡部・金谷・掛川・見附・篠原・ニ川・法蔵寺・池鯉附と十八ヶ所」
「四里から七里ごとに役所が設けられ、尾張藩では江戸--名古屋間を最速で五○時間ていどで運んだ」

それぞれの役所に2,3人いた御状送り人夫は、ど派手な衣装で、「腰に1刀、赤房の十手」までさしていたという。

さて、庄兵衛が勤めていたのは金谷の役所---とあり、あることに合点がいった。
大井川をはさんだ金谷は、いまは対岸の島田市に合併した。

島田市の『鬼平犯科帳』のロケーション調べで宿泊した夜、某氏と面識ができた。島田市の中心部で由緒ある質商をいとなんでいらっしゃるご仁で、「当家には、日本左衛門の鑓の穂先がある。左衛門が情人に預けておいたものが、当家へ質入され、そのまま流れたもの」とのこと。

翌朝、さっそく、拝見に訪れ、赤錆の穂先を拝見したが、鑓師の銘が刻印されており、それは、島田の刀工のものであった。

庄兵衛が金谷の七里役所にいたと知り、島田宿にも存在していた情婦、そして穂先の転変も納得がいった次第。

人相書の一部を写す。

 一、 せい五尺八(1メートル74センチ)程
       (当時の男としてはかなり大柄)
 一、 歳ニ拾九歳、見かけは三拾壱弐歳ニ相見え候
       (当時の人は2,3歳の違いが見分けられたのか)
 一、 色白ク歯並常之通
 一、 鼻筋通り
 一、 目中細
 一、 顔おも長なるほう(以下略)

要するに、日中街道を走っているにもかかわらず色白の「イケメン」の若者だった。
すすんで情婦となる金持ちの後家がいたとしてもあたりまえ。

手入れのときはうまく逃げきり、延享4年(1747---長谷川銕三郎が生まれた翌年)、京都の町奉行永井丹波守の玄関先へ、麻裃に大小をさして自主首。翌年江戸へ送られて死罪。
採決を下したのは、火盗改メの徳山五兵衛ではなく、町奉行能勢肥後守。

火盗改メも裁判権は持っていたが、大方は町奉行所へまかした。

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2006.11.22

『盗賊の日本史』

120 阿部 猛(たけし)さん(東京学芸大学名誉教授)『盗賊の日本史』(同成社 2006.5.10)の刊行は、近くの図書館で月刊誌『日本歴史』のバックナンバーの目次と出版広告をチェックしていて気づいた。

行きつけの図書館は購入していなかったが、区内の別の館にあったので、予約しておいた。
昨日、届く。

古代、中世は、いろんな物語から抽出(タイトルに『---日本史』とあるように、盗みという犯罪からみた社会史的な著述なのである)。

長谷川平蔵に関連するのは「近世社会」。
ざっと目を通したが、史料は『御仕置例類聚』、 『刑例抜粋』、『御触書』、『世事見聞録』、三田村鳶魚『泥棒の話 お医者様の話』、妻鹿淳子『犯科帳のなかの女たち』など。

長谷川平蔵とかかわった盗賊は、真刀(まと)徳次郎ただひとり。ただし、この盗賊は『鬼平犯科帳』には登場していない。

真刀徳次郎の記述を引き写す。

渡世人真刀(まと)徳次郎は、奥州や常陸・上総・上野・下野・武蔵などの関東筋、その他近国在々村々数百か所忍び込み、または強盗を働いた。
道中筋では、帯刀し、野袴を着て、従者または渡り盗賊を若党に仕立てて召しつれ、荷物には「御用」と書いた札をたて、また御用提灯を持たせ、寺・修験宅・百章家・質蔵・町屋の戸をこじあけ、押し開け、あるいは火縄で錠前を焼き切り、脇差を抜いて押し込み、家人をしばりあげ、声を立てる者は斬り殺し、金銭・衣類・反物・帯・脇差その他の品物を奪う。
これを、手下に命じて市場や古着屋で売らせ、または質入れし、金をみなに配分し、遊興に費やしたという。
寛政2年(1789)捕らえられた徳次郎は町中引廻しのうえ、武州大宮宿で獄門にかけられた(『刑例抜粋』)。

ほかに池波小説関連までひろげると、『男の秘図』の徳山五兵衛がかかわった〔日本左衛門〕こと浜島庄兵衛の顛末、短篇[鬼坊主の女]ヒーロー---鬼坊主清吉などに言及。

長谷川平蔵をまったく無視した観のある「近世は弱かった」と著者もあとがきで告白しているから、次作をまちたい。

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2006.11.21

田沼意次の4重要政策(その1)

中部圏の某女子大の英語関連の教授を定年した旧友I君が、〔愛知年金者大学〕で講じている江戸史の講座のテキストを送ってくれた。

[田沼時代の経済政策---石谷清昌の役割について---]と題されている。

100_4 じつをいうと、春にクラス会での会食前の雑談で、長谷川平蔵を引きたてた田沼老中の件から、話が故・大石慎三郎先生『田沼意次の時代』(岩波現代文庫 2001.6.15 1000円+税)におよんだ。
〔( )内は、つい最近、鬼平熱愛倶楽部の大島の章さんと亀戸のおKさんに教わった。ぼくが所有しているのは単行本のほうで、そちらは文庫化の10年前に刊行され、2,400円)。

I君のテキストの冒頭のほうに、、大石先生の前掲書が、田沼時代の重要政策として、
 1.年貢増徴ではなく流通課税による財政再建
 2.通貨の一元化
 3.蝦夷地の調査と開発
 4.印旛沼の干拓
をあげていると。

おととい(11月19日)、中井信彦さんの論述から、田沼期の経済政策として12事例があげられていると転記したが、ダブっている項目にしぼって、中井説を紹介したい。

 7.御用金の徴募
   幕府は宝暦11年(1761)に、初めて大坂町人205人から70万
   両の御用金を徴し、大坂3郷の町々へ貸し付けた。米価調節と
   金づまりの緩和のためであった。
 
 8.株仲間の結成
   冥加金の上納と引き換えに、数多くの株仲間が認可された。

株仲間の1例として、塗物問屋---塗物とは漆器のこと---が、十組のメンバーであることを明記した『江戸買物独案内』を掲示しておく。
Photo_247
文政7年(1824)刊

要するに、卸商行為の独占体制に対する営業税とおもえばいい。それまで農家の稲作を主たる税の対象にしていたのを、流通の隆盛にも目をむけ、収税の対象としたのである。
この着眼は、為政者側からすると、すばらしい。

運上金は以後、いろんな名目で株仲間へ割り当てられた。

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2006.11.20

田沼時代の賄賂

100_3 直木賞作家・佐藤雅美さんの初期の著作に『江戸の経済官僚』(徳間文庫 1994.4.15)がある。
小説『田沼意次 主殿の税』(講談社文庫 のち人物文庫)のもとになった論述である。

『江戸の経済官僚』は、最初は1989年に、太陽企画出版から単行本ででた。たしか、竹村健一さんが関係している出版社のはずだから、感度の鋭い竹村さんの示唆で本になったのかもしれない。

そのことはおいて、『江戸の経済官僚』は、田沼意次に先だつ時代に賄賂がはびこったのは、財政難の幕府が諸大名への天下普請を復活したからだと指摘している。
諸藩とすれば、自藩とはまったく関係のない河川の改修などに何10万両も使わせられるよりも、その50分の1の1000両を幕府高官たちへ贈って普請の下命をのがれたほうが経済的だと判断したのだと。

天下普請のもとはといえば、家康が全国支配を完了して幕府を開いたときに、全国からの徴税権を忘れたところにある---と。

佐藤さんは学者ではないから、すぱすぱと歯切れよくものをいいきる。
で、読み手は、「一理ある」と納得してしまう。

田沼への賄賂取りの風評も、つい信じてしまいそうだが、田沼個人のことは別として、天下普請のがれが賄賂の横行の原因の一つであったことはうなずける。

賄賂の目的はそれだけでなく、猟官もあろうし、利権あさりもあったろうが。

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2006.11.19

中井信彦さん[宝暦--天明期の歴史的位置]

中井信彦さん[宝暦--天明期の歴史的位置]を読みたいと念願していた。

近くの図書館で調べたら、『論集 日本歴史 8 幕藩体制Ⅱ』(有精堂出版)に収録されており、それが足立中央図書館にあることがわかり、取り寄せてもらった。

こまかいところはあとまわしにして、
田沼期の経済政策の12事例を転記しておく。

1.新田開発
2.国役普請
3.拝借金の廃止
4.空米切手の禁止と米手形の規制
5.貨幣改鋳
6.銭の増鋳
7.御用金の徴募
8.株仲間の結成
9.兵庫・西宮の収公
10.八丈島農産物専売
11.北海道開発計画
12.開国貿易計画

それぞれについての詳細は、順次、紹介していく。

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2006.11.18

松平武元(たけちか)と『続三王外記』

『日本人名大事典 6』(平凡社 1938.10.31)の、松平右近将監武元(たけちか)の記述。

 マツダイラタケモト 松平武元(1716-1779) 上野館林藩主。
 水戸の庶流松平播磨守頼明の三男、享保元年(1716)を以て生
 れ、幼名丹下、また源之進といひ、
 同13年(1727)上野館林城主松平肥前守武雅の養子となる。

 この年雁間詰となり、陸奥棚倉城(今の磐城棚倉町)に移る。
 同14年(1728)従五位下右近将監に叙任し、
 延享元年(1744)5月寺社奉行となる。
 
 2年(1745)9月将軍吉宗隠居して職を子家重に譲るに及び、特に
 命じて家重を補佐せしめ、
 3年(1746---注・長谷川銕三郎誕生)5月老中に擢でられ、
 4年(1747)9月再び館林城主となる。

 宝暦10年(1960)家重の将軍職を家治に譲るや、国務に就きて及
 ぶ限り補佐すべしとの命あり。

 武元、資性忠謙謹恪、老中の職にあること38年に及ぶも、禄を増
 すこと僅に7000石に過ぎず。
 田沼意次の如きもこれに憚りてその私を恣にすることを得なかった
 が、武元歿するにおよびて遂に政権を弄するに至ったといはれる。
 
 毎に曰く、「諺にいふ男子一たび閾(しきい)を踰ゆれば7人の敵あ
 りとは、蓋し我が身に具する7欲の謂であらう」とて、その機を慎む
 の意より、毎朝儒臣をして『論語』一章づつを進講せしめて登城した
 といふ。
 されば領民その徳に服すと称したといふ。

 安永8年(1779)7月25日歿す。年64。
 (美作鶴田松平家譜寛政重修諸家譜)

この項の担当者は、『続三王外記』を参照したに違いない。同書は、武元の祐筆だった石井蠡(れい)が述したものだから、武元寄りでまるごとは信じがたい---と批判したのが故・大石慎三郎さん[田沼意次に関する従来の資料の信憑性について](『日本歴史』第237号)。

大石先生の田沼擁護研究は、このころから始まっていたらしい。   

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2006.11.17

深井雅海さん[田沼政権の主体的勢力]

深井雅海さんの論文[田沼政権の主体的勢力]は、国史学会誌『国史学』(1978年10月)に発表された。

この論文の存在は、佐藤雅美さん『田沼意次 主殿の税』(学陽書房 人物文庫)の[参考文献]で知った。

論文が『国史学』誌に発表されていたことは、ミク友(ハンドル・ネーム)エムさんがW大学の蔵書を検索してつきとめ、読むことを熱望していると察し、コピーして送ってくださった。

深井さんは同論文で、吉宗が紀州から江戸城へは、紀州藩士200家余とその家族をともなっており、彼らを直参にしたとして、うち10数家の姓名を明記する。

その中に、田沼意次の父・意行(おきゆき)も選ばれていたことは、いうまでもない。
が、吉宗の選抜基準までは書かれていない。

200家余もの藩士を引きつれて入府した理由を2つばかりをあげると、
1.ずっと将軍を護衛し、政治を担当してきた幕臣たちを信用できなかった---というか、暗殺まで恐れたのではなかろうか。
2.吉宗が考える改革策を実現するためには、意思を忠実に汲み、実行していく紀州育ちの藩士のほうが信用できた。

吉宗は、御用取次と小納戸(将軍の身辺の雑用係)を紀州勢でかためたばかりか、西丸へ入った世子・長福のまわりにも紀州勢を手厚く配した。

さらに、三卿家を新設したことは、後継者問題もあったろうが、自分の没後、古くからの幕臣勢力によって元紀州勢が不当な扱いを受けないための予防策もあったかもしれない。

そういう視点からいうと、意次がやった紀州勢の抜擢は、とくに勘定奉行所にあらわれており、勘定奉行たちの家禄アップは目を見張るばかりである。

これから、徐々に、その記録をあげて考察をくわえていきたい。

なにはともあれ、エムさんのご好意に厚く感謝を。
コピーを一読、目の前に沃野がひらけたおもいがしている。

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田沼派閣僚への退陣要求

月刊『日本歴史』(吉川弘文館)2006年5月号の「歴史手帖」欄に、辻 達也さんが[松平定信の書簡の中から]と題して、田沼失脚後も老中に居座っていた、田沼派の松平周防守康福(岡崎 5万4000石)と水野出羽守忠友(沼津 3万石)を追い出すについて、水戸と尾張に話をもちかけ、一橋治済を引きこんで成功する一連の手紙のことを書いている。

定信としては、松平康福と水野忠友を追い出して、自分の盟友を閣僚に入れなければ、自分色が出せないから当然の運動だが、老中につづいて、側用人、勘定奉行や町奉行などにも手をつけねばならないから、定信としては、必死のおもいだつたろう。

Photo_248
松平武元歿後の田沼政権の閣僚たち

松平右近将監武元(たけちか)のことを書いたが、彼の五男は、美濃10万石の戸田家へ養子に入り、定信内閣の老中に抜擢されている。

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2006.11.16

松平右近将監武元(たけちか)

午前中5時間、松平右近将監武元捜しに費やしてしまった。
とにかく、「松平」とあると、ぞっとする。

この仁は、松平播磨守頼明のニ男で、清武が起こした松平家を、養子として継いだ二代目・清雅の、養子となる。
このことは『寛政重修諸家譜』に記録されている。

この仁を調べなければならないのは、田沼意次が老中を勤めていたときの筆頭老中であったし、家重の信任が篤かったから、田沼はそうそう、勝手なことはできなかったとみているわけ。

武元が没した安永8年(1779)から天明7年(1787)までの8年間が、田沼が腕を振るえた時期とみるのが正しかろう。
田沼に引き立てられたのは、長谷川平蔵もその一人。

それはともかく、『寛政譜』の第1巻は松平にあてられている。それで、 『寛政譜』第1巻のすみからすみまで、蟻の穴を捜すみたいに目を凝らし、googleで検索したおしても、武元の実家の松平がわからない。

やっと思いついて、戦前の平凡社『日本人名大事典』を開いて、水戸の徳川につながっている仁とわかった。
なんだぁ、父親の頼明で、もっと早くそのことに気づくべきだったのだ。

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サン・ルイの文鎮 アガメムノン

1981年 400個制作

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ツタンカーメンのときより、さらに多くの面カットがほどこされて、像の映じ方が複雑になっているのにご注目あれ。

Photo_244友人G・アンゴルド氏の著書より真上からの映像を借用。

「アテネ美術館所蔵の葬送用マスク(1876年にミケーネのアクロポリスでシュリーマンが発見したもの)を原型とする金彩象嵌」との説明が付されている。


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サン・ルイの文鎮 ツタンカーメン

1979年  オレンジ胎300個制作
       ターコイズ・ブルー胎300制作

1975_365

1979_365_1

英雄の肖像を文鎮の中にとじこめることは、かねてからおこなわれていた。
しかし、ツタンカーメン像のように、高温で溶けたクリスタル胎の中に黄金(24カラット純金)像を封じこめる技術は、そう古いものではなさそうだ。

そして、世界の愛好家たちは絶賛をもって受け入れた。

色違いの2個を見てしまうと、財布のことは忘れて両方に手がのびてしまった。

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2006.11.15

鎧の渡し

鎧の渡し

明治5年(1872)以来、鎧橋が架かってれいるが、鬼平のころは渡し舟が小網町と萱場町を往来していた。

名の由来は、源義家が下総国へ渡ろうと、鎧を沈めて暴風雨を鎮めたことによると。

雪旦は、舟に数名の男女客を乗せ、遅れた猿回しを桟橋にあしらい、渡舟が庶民の足であったことを物語る。
小網町側の河岸には倉庫が余地なくびっしのと並び、商売のはげしさ、にぎやかさを告げる。
(塗り絵師・豊島のお幾 鬼平熱愛倶楽部)
0402_

広重は、町むすめを舟中に立たせて、なにを語ろうとしたのだろう。倉庫の切れ目---親父橋、思案橋のむこうの艶っぽい地区を、タイトル[鎧の渡し小網町]にことよせて、暗示したかったか。
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日本橋川の規模、商売の殷賑さは、雪旦のほう巧みに表現しているとおもうが、どうだろろう。

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サン・ルイの文鎮 吊り鐘草の花

1986年 250個制作

1986_365

オレンジ色の吊り鐘草の花

この年は、9パターン制作されているが、個数はそれぞれ250個におとしているところから推量するに、全世界の収集家は1000名ほどか。

値付けは、それぞれの国で異なるだろうが、日本では和光や三越で、これまたパターンごとに違うが、1個18万円から27万円の値札がつけられていた。

この年、9パータンのうち、きのう掲出した「表面(コンパクト)ミレフィオリ」とあわせて2個入手できたのは、幸運というべきであろう。

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サン・ルイの文鎮 エスムラルダ

1993年 制作個数・未調査

1993_365

エスムラルダの意味も未調査

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サン・ルイの文鎮 立ち花

制作年も個数も未調査

立ち花

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サン・ルイの文鎮 梨、さくらんぼ、プラム

1979年 450個制作

1979_365

レース地に西洋梨、さくらんぼとプラム

1979_ 側面が6角にカットされているから多面的に映るが、真上から撮影すると、左のようにすっきり見える。
もちろん、上面も平らにカットされている。
真上からの写真は、G・アンゴルド著『クリスタルガラスのペーバーウェイト』より。

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サン・ルイの文鎮 いちご

1982年 400個制作

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レース地に4つのいちご

側面を5角にカットしているので、多様に見える。

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2006.11.14

[『徳川実紀』成書例]

近所の区中央図書館に2時間ほどこもって、雑誌『日本歴史』の3年分ほどにざっと目を通した。

2001年4月号、小宮木代良さん(東京大学史料編纂所助教授)[『徳川実紀』成書例]がおもしろかった。

明暦の大火前の史料を推測した考察で、『徳川実紀』を座右においているぼくとしては、「そういう読み方もあったか」というほど、興奮させられた。

メモをとったのは、収録論文ではなく、掲載広告。
『幕府奏者番の情報管理』(名著出版)とか、『徳川実紀事項索引』(吉川弘文館)、『甲斐武田氏と国人』(高志書院)など。館内のパソコンで区内図書館の在庫をあたったが、1冊もむヒットしなかったのには、参った。

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サン・ルイの文鎮 表面ミレフィオリ

1981年 500個制作

マセトゼニアン・タイプのミレフィオリ。
(北イタリア地方で発祥したミレフィオリを昇華)。1981_370

Photo_237
花にするためのクリスタルの細い色棒は、工房の庭を、
アシスタントが金テコで火玉をつかんで走る---走る。

友人・G.アンゴルド著『クリスタルガラスのぺいぱー・ウェイト』(美術出版社 市川慎一訳)より
アンゴルド氏には、パリ東駅から4時間乗ってサン・ルイ工房へ案内・解説していただいた。

Photo_243
ミレフィオリづくりの工程(上掲書)

Photo_245色棒を並べる(上掲書)

Photo_246
色棒を整える(上掲書)

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サン・ルイの文鎮 十文字の古典的なミレフィオリ

1981年 500個制作(輸入されたのは1個のみ)

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4分割それた古典的なミレフィオリ(千の花)

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サン・ルイの文鎮 黄色い蝶

1989年 制作個数未調査

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バラと黄色い蝶

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サン・ルイの文鎮 青い蝶

1982年 300個制作

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畝模様の白地に青い蝶

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サン・ルイ文鎮 緑のハーモニー

1988年 制作個数未調査

360_4

頂点の花芯に、クリスタルでつくられたサン・ルイのS・L
そして制作年号を示す1,9,8,8の数字が埋めこまれている。


1974 このタイプ(「蜂の巣状」とも表現されている)は、戦後、サン・ルイ社が文鎮の製作を再開してすぐの1974年に、「赤いミレフィオリ」と名づけられて400個つくられている。
それが好評だったので、1988年の「緑のハーモニー」として再登場した。
「赤いミレフィオリ」は輸入と同時に、愛好家の目を引いたらしく、ぼくの手にははいらなかった(図版はG・アンゴルド著『クリスタルガラスのペーパーウェイト』より)。
「緑のハーモニー」は幸運にも、ぼくのものとなった。

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サン・ルイの文鎮 フィオレッティ

1990年 制作個数不明

_1990_380

1974年の[赤いミレフィオリ」、1988年の「緑のハーモニー」(上掲)の変種は、「淡いブルーのフィオレッティ」となった。
「ミレフィオリ(千の花)」の呼称をつかわないで「フィオレッティ(花もどき)」としたところに、製作者の良心を感じる。

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サン・ルイの文鎮 赤い花

1980年 400個制作(日本へ輸入されてのはこれ1個)

_1980_360

青い胎と白いレースに赤い花。
胎の側面が6角にカットされているため、像が拡散して見える。

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サン・ルイの文鎮 昼顔

1983年 300個制作(招来はこれ1個のみ)

_1983_360

線条模様(フィリグリー)地にピンクの昼顔。

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サン・ルイの文鎮 黄色いバラ

1983年 400個制作(招来したのはこれ1個)

青地に黄色のレリーフのバラ

360_3

バラは欧米人がきわめて愛好する花。

欧米には、文鎮美術館があって収集している。
日本では、サントリー美術館が一度、ガラス展にそえただけ。

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2006.11.13

小説の鬼平、史実の長谷川平蔵

[小説の鬼平、史実の長谷川平蔵]のタイトルで
12月13日(水)の夕方、2時間、銀座で
鬼平について語ります。

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先着順・定員100名とのこと。

参加のお申し込みは、
fax.03-3566-3510
e-mai forum@bunshodo.co.jp

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サン・ルイの文鎮 5本の花束

[眼の愉悦]コーナーは、いってみれば、目休めの席の美的経験。

すでに、所沢のお鶴さんの協力を得て、
使用済みのメトロカード・BUNRAKU篇の一部をアップしている。

新しいシリーズは、フランス・サン・ルイ社のクリスタルの文鎮のコレクション。

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サン・ルイ社は、社名にも王の名をいただいているように、
フランス王家の御用達のクリスタル・メーカー。

フランス東端、ドイツと国境を接しているサンルイ村に工場がある。

ガラスの文鎮の流行は、19世紀中ごろ、
紳士から淑女へのプレゼントとして発祥。
というのも、そのころ、高貴な女性は掌が冷たいと信じられていたから、
握手の前に、文鎮をにぎって掌を冷やした。

ま、講釈はおいおいにするとして----。

写真は、1977年 450個制作(うち、1個だけが来日)。
透明なクリスタルの中に、5本の花

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初音の馬場

馬喰町・初音の馬場

馬喰横山駅(都営地下鉄・新宿線)のA1を出て、ちょっと北西に歩いたあたりにあった馬場。
馬喰横山駅ギャラリーは、鬼平熱愛倶楽部がしょっちゅう、『江戸名所図会』塗り絵展に利用させていただいているから、おなじみ。

雪旦は珍しく、真正面にでんと、火の見櫓をすえて、「わしだって構図・遠近法のイロハぐらい心得とるわい」と。
もっとも、馬場は近くの餓鬼どもの遊び場。
(塗り絵師・永田永司 鬼平熱愛倶楽部)
027_1

広重は、色合いで勝負---いささ逃げ気味。これでは、「初音の馬場」の規模も伝わらない。
ま、幕臣たちが馬術をおこたっていたので、染屋が「ちょっと拝借」していたことはわかるが。
320_21

佐藤雅美さんの直木賞受賞作『恵比寿屋喜兵衛手控え』(講談社文庫)は、広重の絵をなぞり、

---北風がさえぎるように吹いて馬場に干してある幾枚もの、色とりどりの反物をはためかせた。
 馬喰町は御入国(家康の江戸への入国)当初、馬と馬喰が集まった町で、ここ初音の馬場は御武家が馬を責めたところだが、戦などということの絶えて久しい当節は、火除地のようになっていてふだんは西へ数丁の、紺屋町の染物職人の染物の干場につかっている---

拡大画像は↓クリック
0027馬喰町馬場

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藍染川、神田紺屋町

藍染川、神田紺屋町

雪旦の『江戸名所図会』に刺激をうけた広重は、版元とともに江戸土産としての『江戸百景』を企画、119景を描いた。

うち、雪旦に対応したのは95景あまり。

もっとも、当代売れっ子の広重が、雪旦のように現場をいちいち踏んだか、内弟子にスケッチをさせたものを下絵にしたかは、わからない。

ただ、この[神田紺屋町]は、中心部のことではあるし、広重の心象風景とおもって相違あるまい。
320_20

近景で翻っている反物を、作家・佐藤雅美さんは、直木賞受賞作『恵比寿屋喜兵衛手控え』(講談社文庫)で、
 
 ---裁って手拭にするのだろう、目にそれとはっきり柄がわかるのは、吉原つなぎや芝翫縞など藍そめの木綿の反物だ---

と見ている。
遠景に富士を配す。売り絵の目玉は霊峰と桜花だ。
ただ、広重は、富士を置きすぎる。119景中14景。
雪旦は、約670景中わずかに10景。

同じ町内を、雪旦は[藍染川]に象徴させている。
染物を干す前に流れでさらすからだろうか、水が藍色に染まっているので、川名も藍染川。
(塗り絵師・常盤町の昌枝 朝日カルチャーセンター新宿 元[鬼平]クラス)
023

流れをのぞいている男のつぶやき。
「藍染川っていうから、鯉も藍色にそまっているかとおもったら、緋鯉は緋色、黒鯉は黒いままだぜ」

平岩弓枝さん『御宿かわせみ』のヒロイン・るいは、いう。
「紺屋が藍染をこの川で洗うからだっていいますよ。でも、逢い初めと書いて、逢初川だという人もあるんです」[9-4 藍染川]

拡大画像は↓クリック
0023藍染川

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2006.11.12

〔駒場(こまんば)〕か、〔駒場(こまば)〕か

吉右衛門丈=鬼平のテレビ化ビデオ[蛇(くちなわ)の眼]で、その配下の一人---〔駒場〕の宗六を、(こまば)と呼んでいたが、(こまんば)が正しかろう。

武田信玄が逝った地---長野県下伊那郡阿智町駒場は、池波さんの忍者ものにも登場するから、現地取材した地とおもう。
Photo_235
駒場=赤○ 飯田から南々西へ約10キロ
(明治22年 陸地測量部制作)

〔駒場(こまんば)〕の宗六 

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駒形堂 

駒形堂

浅草の駒形堂の拝殿がどっちを向いていたかは、時代によって異なったらしい。

雪旦は、西面させているとおもわれるが、南側の石段の意味を解しかねている。
(塗り絵師・西村千恵子 鬼平熱愛倶楽部)
56_1

池波さんは、『剣客商売』で長次とおもとの小料理屋〔元長〕を駒形堂の裏---としているから、西向きだと〔元長〕は大川の中になってしまう。困る。

広重は、そこを巧みに避け、赤い旗を高く掲げてすます。旗はじつは、化粧品店〔百助〕の目じるし。その上を鷹が舞う。
広重『江戸百景』中の、ぼくのベスト5の1景である。シンプルで、すがすがしい。
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〔百助〕は仲店通り裏へ越して営業中の、知る人ぞ知る老舗。

拡大画像は↓クリック
0516駒形堂 清水稲荷

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2006.11.11

羽田弁財天

羽田弁財天

羽田という地名のせいで、いまは国際空港となっているのではあるまいが、雪旦のころは弁財天詣での渡り客がいた。

雪旦の絵に付されているのは[羽田弁財天社]---本の中の画題だから、味もそっけもなくてもかまうことはない。
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画中の文は、

この地の眺望もっとも秀美なり。東は滄海漫々として、旭日の房総の山に掛くるあり。南は玉川混々として、清流の冨峰の雪に映ずるあり。西は海老取川を隔て、東海の駅路ありて往来洛繹たり。北は筑波山峨々として、飛雨行雲の気象万千なり。この島より相州三浦・浦賀へは午(うま)に当たりて海路およそ八、九里。南総木更津の湊へは巳(み)に当たりて海路八、九里、南北総の界は卯(う)に当たりて海路十三里ばかりを隔てたり。富峯は酉(とり)の方へ見ゆ。

絵そのものが商品の広重は、そうはいかない。
タイトルも[はねたのわたし弁財天の社]と、渡舟の便利を、クロース・アップした船頭でも訴えている。
まあ、船頭や弁天社とタイアップしていたとはおもわないが。
320_18

蛇足だが、空港にのみこまれてしまった社殿は内陸(羽田3丁目)へ遷座、空港地区への弁天橋に名を残しているのみ。

空港敷地にあった赤い鳥居は穴守稲荷社のもの。こちらも稲荷橋に名を遺して遷座。
拡大画像は、↓クリック

0137羽田弁才天社

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神田明神社

神田明神社

江戸期の神田明神の境内は、雪旦の俯瞰図からさっするに、明神坂に直接に面しているほど、ひろかったのではあるまいか。

門前で甘酒を商っている天野屋の天野弥一社長を取材したときに聞いておくんだった(といっても、神田台地の地下に、後楽園球場よりも長い麹倉をもっているとかいってたから、相当古くから境内を借りていたらしい。後楽園が広さのたとえにでたほど、昔の取材。楊枝の山本会長が社長だったころと同時期)。

まあ、雪旦の俯瞰図で、むかしの広大な境内を想像するしかないか。
(塗り絵師・むらい 鬼平熱愛倶楽部)
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広重は、境内の広さ比べを避けて、曙の神田台地の景。そんなに早朝参詣者が多かったのかしらん。
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0447神田明神社

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2006.11.10

メトロカード・文楽

[目の愉悦]のカテゴリーで、審美眼をやしなうためのグッズを展示します。

まず、最初は、文楽の使用済みのメトロカード。
10数年近く以前のものと、最近[日本の伝統芸能 BUNRAKU]シリーズで発行中のものがありますが、とりあえず、後者。
というのは、この展示に刺激されて、どうせ同じ乗車料金なら---と、収集兼用で購入する人がでてくるかもしれないし、欠番をお持ちの方が名乗りでてみえるかもしれないとおもいまして。

Bunraku_1

6.恋女房染分手綱◆三吉 (所沢のお鶴さん所有)

7.伽羅先代萩◆政岡(同上)

8.芦屋道満大内鑑◆安部保名(同上)

9.生写朝顔話◆深雪

10.仮名手本忠臣蔵◆大星由良助

1.~5.欠番 お手持ちの方、お名乗りを。また、東京メトロに勤務のお友たちのいらっしゃる方、連絡をおとりになってみてくださいませんか。

それぞれの外題の簡単な筋書きをご存知の方も、書き込んでくださると、助かります。

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駿河町

駿河町 越後屋呉服店

雪旦の絵には、
 元日のみるものにせん不二の山 宗鑑
が添えられている。
元日、商店は表戸をおろして、大晦日、遅くまで商いに精をだした慰労と売り上げの〆をおえて、朝寝をむさぼっていよう。
そんなときにこれだけの人出?---と疑えば、季節は春、富士がまとう雪も五合目あたりかもしれない。

しかし、宗鑑の句は、伊達には添えられていまい。

富士は白無垢の上衣を羽織っているとみたい。

雪旦は、通りをはさんで越後屋を左右に、真正面には霊峰を配した。日本一の景色を持つ町である。この景観は残してほしかった。
(塗り絵師・笛吹川の博介 朝日カルチャーセンター新宿 元[鬼平]クラス)
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広重は、縦位置に雪旦の間口をせばめただけみたい。土産絵にはそれで十分だったか。
 江戸の駿河にも日本一があり 古川柳
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蛇足だが、広重が『名所江戸百景』中で、霞をたなびかせた唯一の例。

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0006駿河町三井呉服店

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高輪うし町

高輪うし町

大寺院や江戸城の増築の資材運びに、大量の牛車が下向してきた。その数、千頭近かったという。

牛たちの住まいは、高輪大木戸の外へ置かれた。動物臭と騒音公害のためだったろう。俗称・牛町、正しくは車町。

とはいえ、絵で見てる分には臭ってはこない。
で、雪旦は、動物園の案内図のように、厩舎の配置図のようにあくまで精緻に描いて実を伝えようとする。
(塗り絵師・小金井の住人 朝日カルチャーセンター新宿 元[鬼平]クラス)
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広重は、画題は[高輪うしまち]ながら、いつもの伝で、クロースアップした天を衝くかじ棒で三角空間をつくり、虹をからませる。円を描く車輪の向こうには、牛に代えて2匹の犬。中景色して捨てられた片草履、西瓜の食べ滓、遠景に袖ヶ浦へ帆行する舟。
虹の色合いはともかく、大胆な構図で臭いや啼き声もみごとに見手の意識から消し去る。
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地誌の挿絵と土産絵の対蹠。

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0088高輪牛町

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中川の魚漁

中川の魚漁

趣味としての釣魚と、職業としての投網。
前者にはゆとりが感じられるが、後者はせきたてらる生活の匂いが濃い。まあ、魚にとってみれば、どっちも迷惑な話だが。

広重の[利根川ばらばらまつ]は、どこを描いたものか、しばらく考えこんだ。
ある人の書いたものに、旧中川は利根川の支流だったとあった。
それなら、雪旦の[中川釣鱚]と並べてもいいかな、とおもった。

広重は、例によって広がった投網を手前に大きく配する。網目の粗さからいって獲物は鯉か、鮒か。
(そういえば『鬼平犯科帳』で池波さん、「声(鯉)が高いッ!」「鮒が安い!」 このギャグを2度使ってたなあ)。
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雪旦は、竿。釣人の愉しげな表情を捉える。
(塗り絵師・新大橋の登美 朝日カルチャーセンター新宿 元[鬼平]クラス)
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0631釣鱚

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湯島天神

湯島天満宮

「別れろ切れろは、芸者の時に言われること」---悲痛なセリフと白梅の香り。
いまではお蔦の心意気よりも、受験に受かるかどうかの悲願のほうが有名だが、湯島天神というと、風景の色気について考えてしまう。

もっとも池波さんは、雪旦も広重も描き、戦前の境内からは望見できた不忍池の風情を懐かしんでいる。
夜鴉の鳴き声に不吉な予感をおぼえた密偵おまさが、〔峰山(みねやま)〕の初蔵お頭に声をかけられたのも、湯島天神の境内だった([21 炎の色])。
それがきっかけになって、おまさはレスビアンの女賊〔荒神(こうじん)〕のお夏に惚れられ、未完の[24 誘拐]へと連鎖していく。

雪旦は、樹木や通り人の姿態で風景に色気を添える。遠景の女性の場合、定型化されているようで、仔細にみるとそうではない。歩き方にも表情をのぞかせている。
(塗り絵師・永代橋際蕎麦屋のおつゆ)
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広重には、多色という武器がある。ただ、この絵では雪でその武器を覆い、赤色をきわだたせ、さらに、満面の湖水。恋うる女と待つ男。
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0452湯島天満宮

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両国の花火

両国・花火

両国橋の絵では、雪旦も広重も夜景を描く。
名物催事---川開きの花火だから当然夜景なのだが、ここで、白黒絵の雪旦と、多彩画の広重の夜景の数を見てみ.る。

雪旦が夜景を描いている情景は、両国・花火のほかには、 佃島 白魚網 、五月五日 六所宮祭礼之図 、落合蛍、蛍沢、道潅山聴虫、新吉原、新吉原仲之町八朔図、小名木川 五本松、梅若丸の10景、これらに夜明け前とおぼしい木挽町芝居戯場(しばい)、堺町葺屋町を加えて13景。

ほとんどの絵を府内にとどめた広重は、夜闇の色が使えるから、花火のほかは、永代橋佃しま、王子装束ゑの木大晦日の狐火、御厩河岸、浅草川首尾の松御厩河岸、真乳山山谷堀夜景の6景。

雪旦vs.広重 江戸+近郊vs.江戸、白黒絵vs.多色絵刷り、670余景vs119景---で、13景vs6景をどう読むかは人それそれ。

雪旦の両国橋は、1丁半---つまり3ページ、人出はたっぷり。花火が2本。
(塗り絵師・みやこのお豊 鬼平熱愛倶楽部)
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広重は、縦位置の1枚ものなので、花火は1本だが一面に飛び散る火玉。人出は橋上だけ。納涼船の数は、似たような密度。
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広重の夜色は、1景々々違っている。識別し、情感の異なりを感じ取らせる力量は、さすが。白黒絵の雪旦には、その楽しみが封じられている。塗り手が創りだすしかない。

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0030両国橋

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2006.11.09

内藤新宿

整理していたら、[大人の塗り絵]に、広重の『名所江戸百景』をつけ加えるプランを立てたときのメモがでてきた。
参考までに、転記しておく。

まず、手順を考えてみた。
1.広重の「百景」はB4。わが家のスキャナーはA4。
  B4→A4へカラーコピー
  (今朝、テストしてみたら、20景にかれこれ1時間。
   とすると、100景に5時間)

2.スキャニング。3景=20分 100景=11時間

3.トリミングとリサイズ 3景=30分 100景=17時間

4.ブログへの取り込みとキャプション付け、リンクづけ
   1景=10分 100景=17時間

5.計51時間として、1日2時間あてて26日

上記は自分用のメモ。

タイトルは『百景』だが、実際には119景あるから、この試算の2割増しとなった。

これをやり遂げておいたから、[雪旦の江戸・広重の江戸]が短時間---といっても、1場面45分かかるのだが---まあ、なんとかつづけられそう。

四ッ谷内藤新宿

雪旦の新宿は、すべての絵の中で、もっとも生なましい宿場を描いている。池波さんなんか、この絵から、『剣客商売』の下っ引き・傘徳の女房を創造したことだろう。
(塗り絵師・田無の弱法師 鬼平熱愛倶楽部)
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広重は、駅馬のお尻をクロースアップ。構図の奇抜さは認めるが、これで内藤新宿を猥雑さが十分に出ているとは、ちょっといえない。
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0290四谷内藤新宿

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深川洲崎

深川洲崎

「描写の後ろに寝てられない」といったのは、新感覚派の旗手だった横光利一だったような。
あの派の人たち、いまではほとんど忘れられ、一般に名がしられているのは川端康成ぐらいかも。

しかし、文体への影響はあきらかだ。
宇江佐真理さんも、支流のそのまた支流ぐらいのところで影響をうけた一人とみたい。深川の町の匂いを表現するときの様子にそれがのぞく。

彼女の[髪結い伊三次捕物余話]の文庫第2巻『紫紺のつばめ』(文春文庫 2002.1.10)の中村橋之助さんの解説がじつにすばらしい。

1999年4月から始まったこのシリーズのテレビ化で、主役をやった思い出を話しているのだが、もう、伊三次になりきりだったことがじんじん伝わってくる。

『紫紺のつばめ』に収録されている[鳥瞰図]で、「あ、函館住まいの宇江佐さんが、江戸を体感するために繰り返し眺めているのは、切絵図はとうぜんとして、広重『名所江戸百景』なんだ」と納得。

伊三次は芝神明前へ絵師の髪を結いに行き、少年の絵にはっと胸をつかれる。
それは、空中から鳥の眼で江戸の町を見下ろす構図になっていた---というから、いつかご紹介した[深川洲崎十万坪]の構図にそっくり。町と埋立地の違いだ。
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広重は、火の見同心の家に生まれた。彼自身もその任についたらしく、俯瞰図はお家芸。---とはいえ、埋め立て・造成の荒涼たる十万坪は、恵まれることの少ないこの世の象徴だったのだろうか。

雪旦は、広重の[深川洲崎十万坪]の高度はないが、つねにある一定の高みから広角で景色を捉えている。
もちろん、荒涼地は地誌にはふさわしくないから、描かない。で、洲崎弁財天社を対比として掲出。
(塗り絵師・森下の友之助 鬼平熱愛倶楽部)
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0574洲崎弁天社

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新大橋 三派(みつまた)

広重に、「霧と雨と雪の画家」とのキャッチフレーズをつけたのは、メリー・マックネイル夫人である。
欧米では、この視点からの声価が高い。

隅田川に架かる両国橋は、当初は大橋と呼ばれた。その川下に架けられたから新大橋。その本所側に幕府の木造戦艦・安宅(あたけ)丸が繋留されていた。広重の名作の一つ---[大はし あたけの夕立]のタイトルのゆえんである。別に夕立の名所ではない。対岸の傾いた水際が切迫感を醸成。
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雪旦は、深川側から新大橋をひろく見て、遠景に富士をとりこんだ。半井ト養の歌がそえられた。
  山もありまた船もあり川もあり数はひとふたみつまたの景
(塗り絵師・足立の山勝 鬼平熱愛倶楽部)
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三派(つみまた)をたくみに歌いこんでいる。
川下は永代橋。

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0035新大橋 三派

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浅草寺

雪の浅草寺とお札撒き

江戸開府で、いちはやくにぎわったのが浅草寺かいわい。寺側が催したさまざまのプロモーション策の功であろう。

節分会(え)のお札播きの功徳もその一つ(衆徒のあまりの熱狂・競いあいぶりに、その筋が明治17年に禁止令をだした)。
(塗り絵師・亀戸のおK 鬼平熱愛倶楽部)
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この初春、雪旦の節分会を塗り絵した鬼平熱愛倶楽部の有志は、寺側への奉納を果たしたが、当日は朝から雪が降りやまず、期せずして、広重「浅草金竜山」が眼前に出現した。
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奉納後に許されて見学した伝法院の庭園も千載一遇の雪景色。
(写真は、鬼平熱愛倶楽部の亀戸のおKさん)
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だからというわけではないが、広重『江戸百景』中、ぼくのベスト5の1が、これ。

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0505金竜山浅草寺

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御厩河岸の渡し

御厩河岸の渡し

幕府米蔵の北端(三好町)と、対岸(石原町)を往復していた渡舟が、「御厩(おうまや)河岸の渡し」。

『鬼平犯科帳』文庫第1巻に収録されている[浅草・御厩河岸]でも、密偵・豆岩の雑貨屋と飲み店のあった場所がそう。

雪旦:昼間の雨の渡し。対岸左端、四角く囲った地名は〔本所七不思議〕の一つ---「椎の木屋敷」(平戸・松浦藩の下屋敷だった)。右端は、駒留橋。
(塗り絵師・西坂 鬼平熱愛倶楽部)
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両スポットとも、
宮部みゆきさん
『本所深川ふしぎ草紙』
(新潮文庫)
に登場。

両者ともいまはない。
橋のたもとにあった駒留石は、
旧安田庭園に移転されている
から、いまでも見ることができる。


広重:乗舟の2女性は、本所・吉田町からご出勤のいわゆるミズ夜鷹。うしろは牛太郎。
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こういう夕暮れどきの乗客を描いたのは、広重が版元の営業主義に屈したか。あるいは、画家当人のサーヴィス精神?

雪旦のほうは、真面目な地誌『江戸名所図会』の中の挿絵だから、商業主義に媚びる必要はなかった。

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0520御厩河岸渡

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狐火

王子・装束畑衣装榎

大晦日の夜、関東全域の稲荷社から、名代(みょうだい)の命婦(みょうぶ)のキツネたちが集まったきて、榎の下で装束を改めたのちに参内して位階を授かるとのだと。
(塗り絵師・豊麻呂 鬼平熱愛倶楽部)
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雪旦の絵に、斉藤月岑はこんなキャプションを付している。

「毎歳十二月晦日の夜、諸方の狐夥しくここに集まり来(きた)ること恒例にして、いまにしかり。その灯(とも)せる火影(ほかげ)によりて、土民明くる年の豊凶を卜(うらな)ふとぞ。このこと宵にあり、また暁にありて、時刻定まることなし」

広重は、縦位置だから割りをくっているが、右から群れをなしてくるキツネがおどろおどろしい。 。
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0493装束畠衣装榎

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王子・不動の滝

王子・不動の滝

一人の画家が、いくつもの顔(スタイル)を持っていることはわかる。

しかし、[王子不動の滝]で突然みせた、広重のポップな画風には驚いた。
このときの広重の心情は、世間の求めるいい子ばかりしてられるかと、仮面をはいで、チラッと、芸風の極限を見せた感じ。
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雪旦は、やや引いた視線で石神井川(滝野川)の流れまで画面に取り入れている。そういえぱ、滝野川という呼称は、この滝からつけられたか。
(塗り絵師・おまさ 鬼平熱愛倶楽部)
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0496不動滝(正受院)

王子の滝は、渇れて、いまはない。なごりは正受院(北区滝野川 2-45- 5)。
当山の境内、本堂の左手の奥に痕跡らしきものが見える。

水子供養で有名な寺で、愛児を幼くして失ったカップルの悲痛な表情での供養詣でが絶えない。

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梅屋敷

梅屋敷

岡山 鳥『花暦』は、 百花に先駆けて春を告げる「梅屋敷」を、こう記している。

 亀戸天満宮より三丁ほど(300m)ひがしのかた、清香菴喜右衛門が庭中に臥竜梅と唱ふる名木あり。実に竜の臥(ふせ)たるが如く、枝はたれて地中にいりてまた地をはなれ、いづれを幹ともさだめがたし。

雪旦は、実をそのまま、仔細に描いてくれているので、いまでもその雄姿を江戸人のように偲ぶことができる。
(塗り絵師・ちゅうすけ 管理者)
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広重は、ごつごつとした古梅の枝ごしに、鑑賞者の姿をとらえる。近遠の構図はすばらしい---が、臥竜は影も形もない。どこの梅園にも通じる景色でしかない。
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梅屋敷

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御茶ノ水・水道橋

某サイトで[構図と描写]のタイトルで2日だけアップしたものを、[雪旦の江戸・広重の江戸]と改題してつづけて行きたい。

口上:

絵師・長谷川雪旦『江戸名所図会』に挿し絵を670余景提供した。
絵が細緻をきわめているため、江戸を書く時代小説作家はもちろん、江戸に興味をもつ人たちは手放せない。
雪旦の白黒の絵に「大人の塗り絵」と称し、彩色して現代によみがえらせる人たちもいる。

版元から『名所江戸百景』の企画を持ちかけられた広重は、さっそく、『江戸名所図会』の企画・著述をした草分(くさわけ)名主の斉藤月岑を訪ねて、雪旦の絵から想を借りることもあると、許しを乞うたといわれている。

地誌の挿し絵を描いた雪旦と、売りものの錦絵で描いた広重を比較してみる。


御茶ノ水・水道橋

四季おりおりのお茶の水辺の川ぞい風景を漢詩の世界になぞらえ、茗渓などと愛でた教養ある風流人たち。

雪旦の写実は、水道橋と懸樋を配し、その風韻を正直に伝える。
(塗り絵師・靖酔 鬼平熱愛倶楽部)
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画面いっぱいに鯉のぼりを泳がせた広重。 見る者を圧倒するのは、さすが広重だが---。
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さて、その構図は、水道橋でなければならないか?
神田川の風味を正しく掬みとっているか?

伝達と情味の違い、語りと歌の違いであろうか。

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0020御茶の水 水道橋 神田上水懸樋(かけとい)

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永倉家とのつながり

鬼平---史実では平蔵宣以---の祖父・宣有の項で、生母は、永倉家から嫁いできた女性か、脇腹か決めかねる、と書いた。

そこで、永倉珍阿弥真治の『寛政譜』を掲げる。
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真治とその末むすめの部分を拡大。
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長谷川家へ嫁いだむすめと、長谷川家から養子にきた正重の部分を拡大。
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鬼平とは直接にはつながらない史料だが、後学の方の手引きとして掲出。

なお、永倉家は麻布桜田町に屋敷を賜っていた。いまの六本木ヒルズの西、元麻布2丁目。
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赤○=永倉邸 緑○=平蔵の政敵・松平左金吾邸(現・中国大使館など)
青○=桜田稲荷(現・桜田神社)

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2006.11.08

宣雄の実父・実母

銕三郎(平蔵宣以の家督前の幼名。小説---鬼平)の亡父・宣雄が、長谷川家を家督した経緯は、すでに記した。
宣雄の実父・宣有(のぶあり)と、母を想像してみたい。

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宣有は、長谷川家の四代目当主・宣就(のぶなり)の三男として生まれた。
母は、宣就の妻・永倉珍阿弥真治の娘とも、おもえないことはない。

あやふやな言葉づかいをしたのは、五代目・宣安の生母は宣就の妻だが、弟(次男)・正重の生母は某女と、永倉家の『寛政譜』にあるからだ。

時期については憶測だが、宣有のすぐ上の兄の、その正重が、養子に入った永倉家を44歳で家督していることから、そのころまで縁がつながっていたかと見たり、某女とあるから脇腹とみたり。

宣有の生母の記述は、『寛政譜』にも、「先祖書」にもない。

永倉家もかつては今川家に仕えた武士で、徳川では茶坊主頭をしていた。徳川家臣団のなかでは長谷川とともに今川族だった。

宣義(のぶのり 小説---辰蔵)が幕府へ呈出した「先祖書」には、宣有は「病身につき厄介にて罷りあり」とある。
病気がちのために養子口もなく、赤坂・築地の家で歿した。

釣 洋一さんが戒行寺の霊位簿をあたったら、宝暦12年(1762)閏5月29日葬。
戒名は、常信院自休日行居士。
自休は『寛政譜』にも書かれており、俳号か雅号でもあったのだろうか。

『寛政譜』の宣雄の項に、「母は三原氏」とある。
「先祖書」には、「水谷(みずのや)出羽守、徒(家臣)三原七郎兵衛の女」と明記されている。

出羽守(のち、伊勢守)勝美(かつよし)、備中・高梁5万石、松山藩々主。

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備中・松山城の現在

高梁市教育委員会に問い合わせたところ、水谷家にはたしかに三原七郎兵衛という家臣がおり、家禄100石の馬廻役で、市内の家臣団の住居地区である柿の木町に屋敷をもっていたと。
5万石の100石は、大藩の1000石にも相当したろう。

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城下図 淡茶=武家屋敷 淡赤=町屋

水谷家は、勝美が歿した際の家督相続手続きの不手際から、領地を召し上げられ、養子・勝時が3000石の幕臣となった。

三原七郎兵衛は失業した。城下を去り、妻娘をともなって江戸へ出た。
娘は、年ごろになり、療養中の宣有の看護にやとわれた。
そして、宣雄を身ごもった。

宣雄の実母が、長谷川家の菩提寺・戒行寺へ葬られたという確証は、いまのところ、未確認である。


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