沢田小平次の「小平次」
「真剣(ほんみ)で斬りあったら、おれもかなうまい」と、鬼平がその刀技をみとめている同心・沢田小平次の名前について、おもいあたることがあった。
藤野 保さん『徳川幕閣---武功派と官僚派の抗争』(中公新書 1965.12.15)の冒頭の章[武功派の時代]に、「徳川四天王の活躍」との項があり、
惣先手侍大将、忠次 四天王の一人、酒井忠次(ただつぐ)
は、譜代の最上位を占める酒井忠親の次男として、大永七年
(1527)三河に生まれた。
酒井氏は、始祖広親に氏忠・家忠のニ子があり、氏忠の子孫
が代々左衛門尉を称したのに対して、家忠の子孫は代々雅
楽助(うたのすけ)(あるいは雅楽頭うたのかみ)を称した。
忠次は、左衛門尉家に属し、はじめは小平次、ついで小五郎
といった。
池波さんは、『鬼平犯科帳』シリーズ化に先立つ忍者ものに、徳川家康やその軍団を登場させている。
そのとき、酒井忠次のことも調べていて、武勇にすぐれたこの武将の幼名・小平次を記憶したか目にして、沢田小平次を登場させたとき、とっさにその名を小平次と書いたのではなかろうか。
いや、どうでもいいような---というより、記録にも値しないようなおもいつき的な発見なんだし、事実かどうかもわからないけれど、当人にとっては、1俵分のもみ粒の中から精米した1粒を見つけたように、「やったぁ!」的な大発見に思えるから始末が悪い。
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