勘定奉行・川井久敬(ひさたか)
昨日(11月24日)の[田沼意次の4重要政策(その2)]で、通貨の一元化を目指して「明和五匁銀」(明和2年(1765)年9月発行)と「南錂ニ朱判」(安永元年(1772)9月発行)を発案したのは、勘定奉行の川井次郎兵衛(のち越前守)久敬(ひさたか)---と、畏友・I君が推定しているとした。
彼は、勝手掛で首席老中の松平右近将監武元(たけちか)の下で、勘定奉行として逼迫した幕府の財政を立て直すために、向こう5年間の倹約令も草案したとおもえる。
辻 善之助さん『田沼時代』(岩波文庫 1980.3.17)は、こんな落書「懸け・とき」を収録している。
右近と懸(かけ)て 洗濯やととく 意ハ しぼりてほし上る
田沼と懸て みそすりととく 意ハ ひとりかきまわす
川井と懸て まま母ととく 意ハ めったにつめる
牧野とかけて 気じょうな痔持ちととく 意ハ 下の痛みにかまわぬ
(以下略)
右近は、老中首席の松平武元、田沼は老中兼御側用人の田沼意次、牧野は備後守貞長(常陸・笠間藩主)。
『田沼時代』は、1915年(大正4)に日本学術普及会から刊行されたのが最初である。
当時の学会の田沼認識を反映して、賄賂、腐敗政治を糾弾する色合いが強いが、引用した資料の信用性がきわめて薄いことは、これまでもこのブログで紹介したように大石慎三郎さん[田沼意次の時代]が仔細に衝いている。
もっとも、上に引用した「懸け・とき」などは、警鐘めかしておもしろおかしく皮肉る人種がいつの時代にも存在することをしめしているに過ぎないが。
わざわざ掲げたのは、川井久敬が3番目に槍玉にあげられるほど、当時、知名度が高い存在だったらしいことを示したかったから。
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