田沼意次の4重要政策(その2)
故・大石慎三郎先生『田沼意次の時代』(岩波現代文庫)が、田沼時代の重要政策としてあげた第2は、
2.通貨の一元化
同書は、こう断言する。
明和2年(1765)年9月に発行された「明和五匁銀」(左の写真)と、安永元年(1772)9月に発行された「南錂ニ朱判」とは、江戸通貨史のなかで、特異な位置を占める通貨である。
当時の国内は、中部地域以北は金本位制、関西以西は銀本位制によっていた。
幕府は、金1両に対し、銀60匁、銭4貫目(4000文)を公定交換率と定めていたが、ともすると守られなかった。
「明和五匁銀」が発行され、12枚でもって1両と交換することで、公定交換率が定着し、通貨の一元化が達成したといえないこともない。
しかし、幕府のおもわくどおりには、「明和五匁銀」は流通しなかったという。
そこで、少額貨幣として発行されたのが、「南錂ニ朱判」(左の写真)である。これ8枚で1両換算。
発案者は、明和2年2月に小普請の組頭から勘定吟味役へ取り立てられた川井次郎兵衛(のち越前守 530石)久敬(ひさたか)だったと、畏友・I君は推定する。
このとき久敬は41歳。6年後には勘定奉行へ栄進。
川井家は、今川義元の没後、長谷川家と同じように徳川へ仕えている。もしかしたら、幕臣のなかでは少数派の今川出身同士ということで、つながりがあったかも知れない。
田沼意次との関係でみると、勝手掛職も兼ていた松平右近将監武元(たけちか)が歿したのは、川井久敬が勘定奉行を辞して4年後だから、経済政策での縁はそれほど濃かったとはおもえない。
[田沼時代の経済政策](『幕藩体制Ⅱ』)で、「明和五匁銀」「南錂ニ朱判」の意義を認めた土肥鑑高さんと宮沢嘉夫さんは「田沼の政治は、物価高騰やその他多くの点で非難そされることは多いが、貨幣政策の根本は、寛政期(定信政権下)に入っても、何らの変更をも受け付けていないのであって、ニ朱判の通用などは、却ってこの寛政期に入って初期の目的を達成した」と。
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