鬼平の実父・宣雄に関して、述べたいことは三つある。
その1.宣雄が、銕三郎(のちの鬼平)を産ませた某女について。
某女とは、『寛政重修諸家譜』の平蔵宣以の母の項に記されている表現で、正式の妻女ではない、ということ。
『鬼平犯科帳』では、長谷川家に行儀見習いにあがっていた巣鴨村の大百姓・三沢家のむすめ、ということになっている。
滝川政次郎博士『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫 初刊は朝日選書)は、知行地であった上総国武射郡(寺崎)か山辺郡(片貝)から奉公にきていた名主のむすめではないか、と推定している。
鬼平が生母の実家へ頻繁に行ったり来たりするには『鬼平犯科帳』の巣鴨村のほうが理にかなっているとおもうだけで、平蔵宣以のその後の人となりにとっては、どっちであっても大差はなかったろう。
それはそれとして、未婚の某女が銕三郎を産んだとき、宣雄は28歳で、将来があまり見えない生活をしていた。
というのも、宣雄の父・藤八郎宣有(のぶあり)は、庶流・長谷川家の四代目・伊兵衛宣就(のぶなり)の三男だが、次兄・正重(まさしげ)が生母の実家・永倉家へ養子となっていたのに、宣有はまだ長兄・伊兵衛宣安(のぶやす)の厄介(部屋住み)になっているままだった。『諸家譜』に「自休」とあるのは、役立たずを自嘲した号とみる。
つまり、厄介者の子ということで、いっそうの厄介者的存在であった宣雄が、さらにもう一人、厄介者の銕三郎をつくってしまったことになる。厄介者の三重(つ)がさねだ。
庶流・長谷川家の五代目を継いでいた伊兵衛宣安は、宣雄にとっては伯父にあたる。
伊兵衛宣安の一人息子で六代目を継いだ権七郎宣尹(のぶただ)は、宣雄にとっては4歳上の従兄(いとこ)。
が、この宣尹は、妻帯も見送ってきているほどに虚弱で、出仕も欠きがちだった。
宣尹は、延享4(1747)年の暮れ、新春まで生命がもてば34歳になるというのにすでに瀕死の床にあり、従弟・宣雄に後事を託した(歿したのは延享5年……寛延元年と改称)正月10日として公(おおや)けには届けられている。
菩提寺・戒行寺(新宿区須賀町 9)の霊位簿もそうなっている。
実妹を自分(宣尹)の養女にして筋目をととのえ、これと妻(め)あうかたちで宣雄に七代目を継いでほしい、というのである。
宣雄の妻になったのは、『鬼平犯科帳』では波津(はつ)という名になっている女性である。今後は波津(はつ)と呼ぶことにしよう。
旗本の家では、養子でもかまわないから、家督する男子を届けて幕府の許可をもらわないと家が絶えてしまう。
宣雄もおもいなやんだであろう。自分には正月がくれば3歳になる銕三郎と、その母親である某女がついているのだから。
『鬼平犯科帳』でこの某女は園と名づけられている。
家名を絶やさないことのほうが優先していた社会である。宣雄もその常識にしたがうよりほかなかった。
じつは宣雄はもう一つの苦悩をかかえていた。実父・宣有の不治の病根である。
父を死に追いこんだ病魔がいつ自分を襲ってくるかも知れない、と宣雄は怖れていた。
その杞憂をのりこえるには、自分が長谷川家の当主となってのち、子・銕三郎にその家督をゆずる筋道をつけておくほうが、銕三郎のためにも、ひいては某女・園のためにもいい、と結論したのであろう。
いいたいのは、そのことではなく、長谷川家における某女の存在である。そう、園も含めた……。
長谷川家の先祖が徳川家康にしたがって遠州・三方ヶ原(みかたがはら)の戦いに参加したことは墨田区の由緒を記した銘板にも記されている。
始祖がそのときの武田勢との戦いで37歳で戦死したことが、功績としてのちのちまで評価されていもする。
始祖には3人の息子がいて、それぞれが長谷川家をたてることができた。
次男の宣次(のぶつぐ)がたてた庶流が、『鬼平犯科帳』の長谷川家(400石)である。
初代・伊兵衛宣次から、伊兵衛宣元(のぶもと)、伊兵衛宣重(のぶしげ)、そして先出の伊兵衛宣就とつづき、あと伊兵衛宣安、権七郎宣尹、平蔵宣雄、八代目の平蔵宣以(のぶため)、九代目が平蔵宣義(のぶのり)(小説では幼名・辰蔵)――と受けつがれた。
うち八代目の平蔵宣以までの当主で、某女から生まれたのは、なんと、6人。7割5分と高率。初代も、二代目も、三代目も、四代目・宣就も、六代目・宣尹も、生母は某女だった。
某女がよほど好きな家系なんだ、と笑わないで、よくもまあ真正直に書きあげて提出したものだ、と感心しよう。几帳面な気質なのだ。
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