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2006年10月の記事

2006.10.31

大根河岸の兎汁〔万七〕

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京橋「大根河岸・青物市場」跡の碑

『鬼平犯科帳』の読み手なら、京橋「大根河岸」を見ただけで、兎の吸い物の〔万七〕というだろう。

〔万七〕は、夏場は店を閉めている、10月にならないと客を上げない。そういう凝った店だから、鬼平もひいきにしている---といったら、読み手の中の読み手から、「それは違う」と指摘される。

鬼平が最初に〔万七〕へ上ったのは、[8-1 用心棒]p30 新装p31 で、高木軍兵衛につれられてだったからである。

それからは、まるで亡父のときからのひいきみたいな感じで利用している。
といっても、[16-6 霜夜]p255 新装p264 と[19-3 おかね新五郎]p104 新装p108 の2回きりだが。

兎は、江戸人も食べていた。四ッ足だが、1羽2羽と数えるように、鳥あつかいなのだ。笑い話に、「うさぎ」を二つにきると、黒い鳥と白い鳥になって飛んでいくと。「う 鵜」と「さぎ 鷺」だ。
味が鶏に近いから出た笑い話らしい。

将軍も、元旦には兎の吸い物を召したと記録にある。

〔万七〕のそれのように、やはり、生姜とねぎをあしらって調理されているのだろうか。

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切絵図の京橋の川上の赤○が大根河岸。 その上手は薪河岸(緑○)。
京橋の下手が竹河岸(青○)。


広重の『名所江戸百景』に[京橋竹河岸]がある。
夕暮れ後の雰囲気のある絵だ。
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[霜夜]で、〔万七〕を出た池田又四郎は、河岸道を東へ向かう。
それだと、広重の絵はあわない。明治30年代の「竹河岸」の北側の道を描いた『風俗画報』の絵のほうがふさわしい。
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2006.10.27

壷屋2

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文庫巻7の[穴]で、〔帯川(おびかわ)〕の源助の胸ばらしの対象となった菓子舗〔壷屋〕が、松本道別『東京名物志』(公益社 1901.9.27)の記事コピーを、〔壷屋〕さんへとどけたと、きのう、報告した。

『東京名物志』は、ぼくの所蔵本ではなく、東京大学のものである。友人のご夫人が歴史科の図書室に勤めていたので、借り出して全ページ、コピーをとらせていただいた。

そのころは、江戸時代からつづいている老舗を、某誌に[日本の老舗]のタイトルで連載していた。その資料にしたのである。連載は5年つづいたから、60余店を取材した。

そのときの経験が、『鬼平犯科帳』で盗賊に襲われる商戸のあれこれを想像する手がかりになった。『江戸買物独案内』もそのときに求めた資料である。なにが幸いするか、わかったものではない。

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広告ページに、新橋支店と愛宕町支店の写真が載っていた。当時は相当に手広くやっていたことがわかる。文字通り、東京名舗だった。


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2006.10.26

〔壷屋〕

『鬼平犯科帳』文庫巻11に載っている[穴]は、男の情念を描いて、泣き笑いさせる。

主人公は、引退して京扇〔平野屋〕の主人におさまっている〔帯川(おびかわ)〕の源助と、番頭として勤めている〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛。
(参考:〔帯川(おびかわ)〕の源助の項)
(参考: 〔馬伏(まぶせ)〕の茂兵衛の項)


泣かせるといっても涙をさそうわけではない。男の業(ごう)みたいなものに共鳴してしまうということ。
源助は、盗みの世界を引退し、70歳もすぎているというのに、しみついた盗み心の火が消えないのだ。

それで、穴を掘って、隣の化粧品店〔壷屋〕へ潜入、盗んだ金をまた返しに侵入するというのだから、笑いもでようというもの。
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池波さんは西久保の〔壷屋〕を化粧品店としているが、これは例によって、早合点である。
『江戸買物独案内』(文政8年 1824刊)によると、〔壷屋〕は菓子舗である。
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どうして化粧品店としたかというと、化粧牡丹粉も併売していたからだ。こういう、脇で化粧品や売薬を売る店は、江戸では少なくなかった。

しかも池波さんは、『江戸買物独案内』の売薬のページから店名をひろってしまった。菓子の部を見なかった。
見たとしても、町名までは確認しなかったから、同じ店と気がつかなかったろう。

まあ、池波さんを責めるのは酷というもの。『江戸買物独案内』は町別ではなく、業種別に分類・掲載されているからだ。

そのことはおいて、〔壷屋〕の17代目と親しくなった。機縁は、ある鬼平講演会で、17代目が名乗ってきたからである。西久保から本郷3丁目へ移っていた。
そのとき入倉さんは、『江戸買物独案内』の現物を所有していると自慢げに告げた。

で、NHKデレビにも紹介したし、入倉さんにいって、木村忠吾がそっくりの〔うさぎ饅頭〕もすすめてつくることにしてもらった。
(参考:木村忠吾の項)

明治34年(1901)に出た、松本道別という仁が取材・執筆した『東京名物志』(公益社)に、〔壷屋〕が紹介されていたので、ページのコピーをとどけてあげようと、きょう、電話したら、17代目は4月亡くなっていた。77歳だったと。

商売は、18代目の息子さんがつづけている。
コピーをとどけがてら、先代が自慢していた『江戸買物独案内』を見せてもらった。3部冊の、菓子舗のほうの広告が載っている第1巻だけだった。
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表紙には、前の持ち主が書いたらしい筆太の文字が全面にあった。それを取り去ると、ほんとうの書名がかすかに見える。せっかくの貴重本に余計な書き込みをしたものだ。

松本道別『東京名物志』の〔壷屋〕の紹介文は後日、記す。

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2006.10.21

1両の換算率

[『鬼平犯科帳』の1両の換算率]に、池波さんは、シリーズの終わりごろには、1両を20万円と換算していた---と書いた。
その根拠については、まったく触れていない
たぶん、体感的というか、使いでがその根拠だったようにおもえる。

_130小川恭一さんに『お旗本の家計事情と暮らしの知恵』(つくばね舎 1999.7.15)がある。小川さんは、三田村鳶魚に師事した方だから、ぼくなんか足元にもよれないほどの史料をこなされている。
で、同著書で、1両を10万円と換算すれば、まず、間違いなかろうとしている。
池波さんの1/2。これは、あまりに違いすぎる。
長谷川家の家禄400石でみると違いがよくわかる。
1石を1両の実収とみなすのは常識だから、現在の収入になおすと、池波説では8000万円、小川説だと4000万円。

100_2佐藤雅美さんは、江戸期の経済小説の第一人者といっていい。初期(1980年代)の作品に『主殿の税 田沼意次』(講談社文庫 絶版)がある。
最近、学陽書房の[人物文庫]の1冊として復刻された。タイトルは文庫シリーズにふさわしく『田沼意次 主殿の税』(2003.5.20)と逆になっているが。
この小説で、佐藤さんは1両を20万円に換算している。

どちらがどうとは、ぼくにはいえない。
もし、ほかの人の換算率を目にされたら、教えていただきたい。

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『鬼平犯科帳』の1両の換算率

『鬼平犯科帳』が書きつづけられた足かけ22年間は、まさにわが国の高度成長期にあたっており、諸物価高騰による貨幣価値の下落がはげしかった。

池波さんも一両の換算率の変更に追われた。

[1-5 老盗の夢](1968)では1両を4,5五万円とみていた。
[19-1霧の朝](1987)では1両は10万円に。
『江戸切絵図散歩』(1987)では20万円に換算している。

1両20万円だと火盗改メの御頭の職務手当ては40人扶持(1日玄米2斗)。8万円という計算になるが、これでは組の経費をとうていまかないきれなかったようだ。

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2006.10.20

口合人リスト

「口合(くちあい)」という言葉は古くからある。保証して紹介するという意味の日本語である。
〔口合人〕は、池波さんの新造語でないかとおもう。
ニューヨークで耳にしたのは「パーソナル・エージェント」。

ふつうの「口入れ」ではなく、盗人を紹介するわけだから、よほど身許(?)がしっかりしていて、口が堅い人物という見極めがつかないといけない。
もちろん、盗人の側からの依頼もある。そのときも、希望をよく確かめて、そつのない頭領へつなぎをつけないとあとで問題がおきよう。

_14池波さんが〔口合人〕という裏世界の用語を使ったのは、シリーズの中ごろ--文庫巻14[尻毛の長右衛門]からである。〔鷹田〕の平十が〔布目〕の半太郎を〔尻毛〕の長右衛門に口合いした。それまでも紹介という行為はあった。〔前砂〕の捨蔵が〔蓑火〕の喜之助に3人を紹介して悲劇を生んだように。しかし、専門業種としてではなかった。

つぎの〔口合人〕リストで、池波さんの思いつきを辿ってみたい。

14-2 尻毛の長右衛門 鷹田の平十   p51 新p52
14-3 殿さま栄五郎   〃         p89  新p91
14-4 浮世の顔     音右衛門     p154 新p158
14-6 さむらい松五郎  赤尾の清兵衛  p252 新p260
                鷹田の平十   p286 新p294
16-4 火つけ船頭    塚原の元右衛門p189 新p203
21-7 寺尾の治兵衛   寺尾の治兵衛  p252 新p261
24-1 女密偵女賊     佐沼の久七   p10  新p10

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2006.10.16

名工・後藤兵左衛門作の煙管

鬼平の亡父・宣雄への敬愛ぶりは尊敬もの。

鬼平は、亡父の親友、たとえば芝・新銭座(現・港区浜松町 1丁目)に屋敷をもつ表御番医の井上立泉([1-6 暗剣白梅香])や、芝・二本榎(現・港区高輪 1, 2丁目)に住む600石の旗本・細井彦右衛門([9-4 本門寺暮雪])との交誼をたやしていない。

ふだん腰にしている亡父ゆずりの2尺2寸9分の(68.8cm)刀剣は、通称・左近国綱、鎌倉中期の重ねの厚いつくりの粟田口国綱であることが[4-4 血闘]ではじめて明かされた。
この太刀ではその後、34回斬りむすぶが、それほどに激しく使って、はたした刀身は大丈夫なものかどうか、刀研の方に訊いてみたいものだ。

いかにも江戸育ちの鬼平らしい、じんわりとした人情味をみせてくれる[6-5 大川の隠居]では、亡父が京都町奉行時代に、新竹屋町寺町西入ルに工房を構えていた名工・後藤兵左衛門に、家紋の一つである「釘抜」を彫刻させてつくらせた銀煙管と、漆に金でおなじく「釘抜」を描かせた三重づくりの印籠が重要な役割を演じる。

長谷川家の家紋は三つ――「左藤巴」「釘抜」「三角藤」――と『寛政重修諸家譜』にある。

122うち、裃(かみしも)や羽織、出役時の陣笠や胸当といった公式の衣装、それに幔幕(まんまく)や高張提灯には「左藤巴」をつかう。
藤は、長谷川家の先祖が、藤橘源平の「藤原」の系統であったことを示す。


Photo_223煙管や印籠、紙入れなどの私用の小物には「釘抜」。
形状は、鎌倉時代の釘抜に由来すると。長谷川家の家系の古さも表していよう。
「三角藤」については知らない。

後藤兵左衛門は実在していた煙管師である。
が、名工であったというデータはない。
京都の商賈(しょうてん)の広告をあつめた天保4(1833)年刊の『商人買物独案内(ショッピングガイド)』に、煙管師としてはただ1人、広告を載せているだけ。
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京都の商舗をあつめた『商人買物独案内』より

この広告集のほかの煙管関連の店はみな問屋なので、池波さんは後藤兵左衛門作にせざるをえなかった。

もちろん、江戸にも煙管師はいました。文政7(1824)年にでた『江戸買物独案内(ショッピングガイド)』には、数人の煙管師が名をつらねている。
が、ここは宣雄、宣以の美意識を暗示したくて、下(くだ)りもの――上方製で品格があって優雅なつくりの煙管でなければならなかった。

宣雄も、後藤兵左衛門作のその煙管でないと、「ほかのでは、煙草の味もないようにおもえる」といって、外出の折りはもちろん、屋敷にいるときも手ばなさなかったとある。

問題は、鬼平はともかく、几帳面で倹約家の宣雄が煙草を吸ったかどうか、である。
理財の才にたけていたこの人は、大小などもかざりには金銀をつかわず、水銀に砥(と)の粉を混ぜて銅や真鍮を銀色に見せる銀流しだったという。

そんな人が、江戸時代にはぜいたく品といわれ、道楽息子のもちものだった銀煙管を発注したであろうか。するはずはなかったとおもう。

いや、煙草を吸ったか。手にしなかった人だとおもう。

鬼平はぐれていたから早くからたしなんだろうか。
愛煙家の池波さんとしては、『商人買物独案内』を眺めていて、新竹屋町寺町西入ルに煙管師・後藤兵左衛門の広告を目にして、たまらず、宣雄に特注させてしまったとみる。

  「おれもな、お前のような年寄りの、むかしばなしをききて
  えものよ」
  「とんでもねえ」
  「どうして?」
  「あっしなんざあ、ろくなことをして来ちゃあおりませんので、
  へい」
  「そうか、な……」
   長谷川平蔵が、このときはじめて腰の煙草入れを取って、く
  だんの銀煙管を出し、悠然と煙草をつめはじめたものである。
   友五郎の手から、盃が、音をたてて落ちた。
            ([6-5 大川の隠居]p212 新装p222 )

あれが宣雄の遺品でなくなったとすると、好短編[6-5 大川の隠居]は別の物語になったか? ニュアンスはすこしちがったとしても筋書きも全体の印象もさほど変わらなかったろう。

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2006.10.15

プロデューサーの思惑

『鬼平犯科帳』は、ビデオもDVDもよく売れているらしい。
昨10月14日は鬼平熱愛倶楽部の教室日で、テキストは[4-4 血闘]だった。
テキストに入る前に、テレビ化にあたり、故・市川久夫プロデューサーはどういう思惑で最初の5本を決めたろうか、を考察してみた。
そこで、視聴者の判断がくだされるとおもったからである。


松本幸四郎=鬼平
1.血頭の丹兵衛
2.四度目の女房*
3.谷中いろは茶屋
4.蛇の眼
5.怪談さざ浪伝兵衛*
 (注:幸四郎丈のときには、原作が少なく、*短編からもとられた)

丹波哲郎=鬼平
1.用心棒
2.雨隠れの鶴吉
3.盗みの掟
4.だましあい
5.魔剣

萬屋錦之介=鬼平
1.本所・桜屋敷
2.血闘
3.血頭の丹兵衛
4.一本眉
5.谷中いろは茶屋

中村吉右衛門=鬼平
1.暗剣白梅香
2.兇賊
3.霧の朝
4.雨乞い庄右衛門
5.浅草御厩河岸

こうして見ると、吉右衛門のシリーズがもっとも充実したスタートを切っているように採点するのは、独断にすぎるだろうか。

まあ、放送順序は放映や撮影の季節も考慮に入れるべきかもだが、撮影時期のデータは手許にない。

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2006.10.13

長谷川家の当主の7割5分は某女生まれ

鬼平の実父・宣雄に関して、述べたいことは三つある。

その1.宣雄が、銕三郎(のちの鬼平)を産ませた某女について。
某女とは、『寛政重修諸家譜』の平蔵宣以の母の項に記されている表現で、正式の妻女ではない、ということ。

『鬼平犯科帳』では、長谷川家に行儀見習いにあがっていた巣鴨村の大百姓・三沢家のむすめ、ということになっている。
Photo_222滝川政次郎博士『長谷川平蔵 その生涯と人足寄場』(中公文庫 初刊は朝日選書)は、知行地であった上総国武射郡(寺崎)か山辺郡(片貝)から奉公にきていた名主のむすめではないか、と推定している。
鬼平が生母の実家へ頻繁に行ったり来たりするには『鬼平犯科帳』の巣鴨村のほうが理にかなっているとおもうだけで、平蔵宣以のその後の人となりにとっては、どっちであっても大差はなかったろう。

それはそれとして、未婚の某女が銕三郎を産んだとき、宣雄は28歳で、将来があまり見えない生活をしていた。

というのも、宣雄の父・藤八郎宣有(のぶあり)は、庶流・長谷川家の四代目・伊兵衛宣就(のぶなり)の三男だが、次兄・正重(まさしげ)が生母の実家・永倉家へ養子となっていたのに、宣有はまだ長兄・伊兵衛宣安(のぶやす)の厄介(部屋住み)になっているままだった。『諸家譜』に「自休」とあるのは、役立たずを自嘲した号とみる。

つまり、厄介者の子ということで、いっそうの厄介者的存在であった宣雄が、さらにもう一人、厄介者の銕三郎をつくってしまったことになる。厄介者の三重(つ)がさねだ。

庶流・長谷川家の五代目を継いでいた伊兵衛宣安は、宣雄にとっては伯父にあたる。

伊兵衛宣安の一人息子で六代目を継いだ権七郎宣尹(のぶただ)は、宣雄にとっては4歳上の従兄(いとこ)。

が、この宣尹は、妻帯も見送ってきているほどに虚弱で、出仕も欠きがちだった。

宣尹は、延享4(1747)年の暮れ、新春まで生命がもてば34歳になるというのにすでに瀕死の床にあり、従弟・宣雄に後事を託した(歿したのは延享5年……寛延元年と改称)正月10日として公(おおや)けには届けられている。
菩提寺・戒行寺(新宿区須賀町 9)の霊位簿もそうなっている。

実妹を自分(宣尹)の養女にして筋目をととのえ、これと妻(め)あうかたちで宣雄に七代目を継いでほしい、というのである。

宣雄の妻になったのは、『鬼平犯科帳』では波津(はつ)という名になっている女性である。今後は波津(はつ)と呼ぶことにしよう。

旗本の家では、養子でもかまわないから、家督する男子を届けて幕府の許可をもらわないと家が絶えてしまう。

宣雄もおもいなやんだであろう。自分には正月がくれば3歳になる銕三郎と、その母親である某女がついているのだから。

『鬼平犯科帳』でこの某女は園と名づけられている。

家名を絶やさないことのほうが優先していた社会である。宣雄もその常識にしたがうよりほかなかった。

じつは宣雄はもう一つの苦悩をかかえていた。実父・宣有の不治の病根である。
父を死に追いこんだ病魔がいつ自分を襲ってくるかも知れない、と宣雄は怖れていた。

その杞憂をのりこえるには、自分が長谷川家の当主となってのち、子・銕三郎にその家督をゆずる筋道をつけておくほうが、銕三郎のためにも、ひいては某女・園のためにもいい、と結論したのであろう。

いいたいのは、そのことではなく、長谷川家における某女の存在である。そう、園も含めた……。

長谷川家の先祖が徳川家康にしたがって遠州・三方ヶ原(みかたがはら)の戦いに参加したことは墨田区の由緒を記した銘板にも記されている。
始祖がそのときの武田勢との戦いで37歳で戦死したことが、功績としてのちのちまで評価されていもする。

始祖には3人の息子がいて、それぞれが長谷川家をたてることができた。
次男の宣次(のぶつぐ)がたてた庶流が、『鬼平犯科帳』の長谷川家(400石)である。
初代・伊兵衛宣次から、伊兵衛宣元(のぶもと)、伊兵衛宣重(のぶしげ)、そして先出の伊兵衛宣就とつづき、あと伊兵衛宣安、権七郎宣尹、平蔵宣雄、八代目の平蔵宣以(のぶため)、九代目が平蔵宣義(のぶのり)(小説では幼名・辰蔵)――と受けつがれた。
うち八代目の平蔵宣以までの当主で、某女から生まれたのは、なんと、6人。7割5分と高率。初代も、二代目も、三代目も、四代目・宣就も、六代目・宣尹も、生母は某女だった。
某女がよほど好きな家系なんだ、と笑わないで、よくもまあ真正直に書きあげて提出したものだ、と感心しよう。几帳面な気質なのだ。

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2006.10.12

松尾喜兵衛を葬った重願寺

『鬼平犯科帳』巻6に収録されている[剣客]は、弟子の澤田小平次が師・松尾喜兵衛の仇・石坂太四郎を討つ物語である。

剣客・石坂太四郎は、かつて松尾喜兵衛と立ち会って負け、仕官の道を絶たれた。
その怨みを果たすべく、すでに引退していた松尾喜兵衛を、深川・霊雲院裏の隠宅へ押し入って殺害した。

正規の試合ではないから、この場合は、殺人である。
しかし、澤田小平次も、敵討ちの届けも免許もえていないから、私闘である。

澤田を殺人の罪で捕縛しないところが、鬼平流といえる。つまり、超法規。

それはともかく、松尾喜兵衛は、小さな道場を猿江の幕府御材木蔵のそばに開いていた縁で、門人たちによって重願寺(江東区猿江 1丁目)に葬られた。
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深川の重願寺


以下、ファンにとってはどうでもいいような詮索である。座興として読み捨てていただきたい。

[剣客]は、寛政3年(1791)、平蔵46歳、澤田27歳のときの事件である。
重願寺が現在地へ移転してきたのは、寛政7年(1795)で---たまたま、平蔵が病没した年と重なった。

移転前は、新大橋と一ッ目の間にあった。寺地が御舟蔵のために公収された。
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緑○=御舟蔵 赤○=松尾喜兵衛の住まい

ついでにいうと、松尾喜兵衛が借りていた陋屋は、深川清住町の藍玉問屋〔大坂屋〕の持ち物だった。
重願寺の旧地から200メートルも離れていなかった。
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松尾道場が御材木蔵のそばでなかったら、葬地はむしろ、旧地にあった重願寺のほうが近かった。

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2006.10.11

粂八が預かった〔鶴や〕

『鬼平犯科帳』文庫巻1の[暗剣白梅香]で、仕掛人として鬼平の暗殺をねらう伊予の浪人・金子半四郎は、船宿〔鶴や〕の亭主のおさまっていた仇の森為之助に返り討ちにあう。

森為之助は、〔鶴や〕を鬼平に預けて上方へ姿を消す。
鬼平はその〔鶴や〕を〔小房〕の粂八にまかす。

〔鶴や〕の屋号が、江戸時代の劇作者・鶴屋南北にあやかっているらしいことは、鬼平熱愛倶楽部のおまささんが推察した。
http://homepage1.nifty.com/shimizumon/dig/index.html
この[岸井左馬之助と春慶寺]の項。

船宿〔鶴や〕は、大横川に面し、扇橋の東南へ行った石島町にある。そのあたりは、亥ノ堀とも呼ばれていた。

いまは亥堀橋が架かっている。最近、あたらしく架けなおされたので、出かけた。

橋名を彫った親柱もすっかりモダンになつている。横桁にはローマ字でInohoribashi BRIDGEとしゃれていた。
外国の人にも鬼平ファンが増えていると、国土交通省はおもっているらしい。
橋は車の往来こそまばらだが、〔鶴や〕のような船宿があった趣きはまるでない。
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いつものことだが、今昔の思いをつよくした。

金子半四郎が橋の西北詰の居酒屋で〔鶴や〕の二階で左馬之助と盃をかわしている鬼平を見ていたのは、このあたりかな---などと勝手のきめて、しばらく岸辺にたたずんてぶみた。

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2006.10.09

人足寄場

宇江佐真理さんの[髪結い伊三次捕物余話]シリーズは、中村橋之助さんの主役で、フジテレビ系でドラマ化された。
1999年ごろのことである。鬼平シリーズの時間帯だったように記憶する。プロデューサーも、鬼平の能村さんだった。
いまは、当サイトと相互リンクしあっているスカパーの時代劇アワーで見られる。

さて、宇江佐さんの伊三次シリーズは文春文庫ですでに5冊出ていて、売れ行きもなかなかのものらしい。
100_1その第3冊目『さらば深川』(2003.4.10)に収録されている[ただ遠い空]に、人足寄場が出てくる。
岡場所の私娼屋を経営していた中年男の身辺がやばくくなったのを憂慮した北町奉行所・隠密廻り同心が、人足寄場へ送り込んで危険を予防したのである。

人足寄場の説明を引用する。

 人足寄場は火付盗賊改役、長谷川平蔵が時の老中松平定信に献策策して寛政二年(1790)iに石川島と佃島の中洲に作業場と収容所を設置したのを嚆矢(こうし)とする。天明の飢饉の後、江戸には無宿者が徘徊して社会の混乱を招いたからだ。彼等は引き取り人もなければ定まった職もない者が多かった。収容所では様々な作業があり、送られた者の意向によって紙漉き、鍛冶、屋根葺き、大工、左官、元結、草履作り、縄細工、米搗き、百姓仕事などが与えられる。そうして三年ほど経て、改悛の情の著しい者が世間に戻されるのである。その時、寄場で賃金が支払われる。言わば社会復帰のための場所であった。

宇江佐さんは、『鬼平犯科帳』をよく読みこんでいる、というのが私見だ。
たとえば、同巻に入っている[因果堀]では、掏摸(すり)が自分たちのことを〔稼ぎ人}と呼んでんでいる、なんて新造語を披露している。
池波さんが、盗賊たちに〔お盗(つと)め〕といった造語を与えたように。

ただ、こういして引用してみて、いかにも漢字が多すぎる文章だなぁ、とおもう。
漢字は10字中3字以下におさえないと。
ぼくなら、引用文の漢字のあと3分の1は開くなあ。 

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2006.10.08

威得寺と浄覚寺

古い手紙を整理していたら、圓通寺(文京区本駒込2丁目)の住職・来山文泰師からいただいていた一通が出てきた。

圓通寺は『鬼平犯科帳』では、鬼平の実母である園の生家---巣鴨の三沢家の菩提寺ということになっている。
で、何か資料と、聖典に登場する寺院リストをお送りした礼文がしたためられている。

「『寺院リストは、たいへん詳しくお調べになったものと感服いたしました。
せっかくのご苦労の成果ですので、より完璧なものにしていただきたく、私が気付いた点をいくつか申し上げます(いずれも、このリストの主題とは関係のない枝葉の事項ですが)。

1.私ども臨済宗は、[臨済宗]だけでもかまわないのですが、昔からの習慣で、本山の名前をつけて[臨済宗何々派]と名乗ることが多く、このリストでも5ヶ寺がそのように表記されています。
ですから、その方式にすべて統一していただくならば、他の2ヶ寺も、
 圓通寺→[臨済宗妙心寺派]
 正慶寺→[臨済宗妙心寺派]
としていただくと、すっきり揃うと存じます。

2.海禅寺 単立 は数年前に変更になりました。現在は→[臨済宗妙心寺派]となっております。

3.海福寺 [黄檗派]は、[黄檗宗]が正確な表記です(江戸時代には[黄檗派]という書き方が多く見られます)」

[黄檗宗]については、密偵の伊三次の項で、木村忠吾の菩提寺が中目黒の威得寺(のち感徳寺)は、明治20年(1887)に廃寺となり、本尊そのほかは同じ黄檗宗の瑞聖寺(港区白金台 3丁目)へ合祀されたと書いた。

文庫巻14[さむらい松五郎]に、門前のお長の茶店とともに登場する目黒・権之助上覚寺も同様に、瑞聖寺へまとめられた。

この上覚寺という寺号は、尾張屋板の切絵図にある表記で、正しくは近江屋板の浄覚寺と、鬼平熱愛倶楽部の相州藤沢宿の秋山太兵衛さんが確認した。
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近江屋板(部分) 左の赤○=威得寺 右=浄覚寺
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尾張屋板(部分) 左の青○=威得寺 右=浄覚寺

ふつうは近江屋板を参照している池波さんが、目黒にかぎって尾張屋板をひらいたのは、前者の板が、品川・目黒にかぎってあまりにも貧弱だったからと断じているのだが。

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2006.10.07

脇役中の脇役

大岡 信さんの朝日新聞(東京では朝刊第1面)の超長期連載コラム[折々のうた]は、1978年1月25日から、もう、28年つづいている(もっとも、折々の休載はあったが---)。

けさ---2006.10.7は、横山悠子という人の句、

  片仮名は折れやすい文字草雲雀(くさひばり)
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解説の中で、「クサヒバリは、体長1センチに満たないような秋の虫で、チリリリリと透き通った声を、まっすぐに響かせる。それが折れやすい文字を連想させたのだろうか」と。

『鬼平犯科帳』文庫巻18に、[草雲雀]と題した一篇がある。
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もう一人のコメディー・リリーフである同心・細川峯太郎が、かつてなじんだ目黒・権之助坂の茶店の女主人お長の躰を忘れがたくて近寄ったことから事件がはじまる。

その未練がましさを、役宅で、鬼平に「いつまでも、子供では困るぞ。早う一人前の男になれ」と叱られる。
その役宅の奥庭で草雲雀が鳴いている。

 さびしげに愛らしく、透き通るような、その鳴き声を耳にしな
がら、細川峯太郎は、まだ両手をついたままだった。
                         p228 新装p237

文庫巻15の終章[秋天晴々]p349 新装p361でも、役宅の庭のどこかで鳴くが、このときは一件落着のあとだから、寂しさの演出役としてではなく、透き通った秋の空気の表現役である。

文庫巻20[寺尾の治兵衛]での役割は、これもコメディ・リリーフのお熊婆さんの茶店[笹や]の裏庭で、昼間の澄みきった秋空を代弁すること。p273 新装p282

別のブログで、『鬼平犯科帳』での草雲雀の名脇役ぶりを紹介したら、多くの方から、野鳥の一種かとおもってきていたとのレスがついた。
もちろん、雲雀のさえずりに似ているところからの命名だが、空から聞こえる鳴き声ほど鋭くはない。

秋の虫の鳴き声を集めたCDでも確かめたが、やはり、「折れやすい」の言葉がぴったりのか弱さといっておく。

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2006.10.06

済海寺---右か左か

『鬼平犯科帳』文庫巻9に収録されている[本門寺暮雪]は、シリーズ第60話---連載満5年目にあたる。
_9150満5年であることを証明するかのように、『オール讀物』1972年12月号に載った(細かいことをいえばも、[浅草・御厩河岸]はシリーズに先立って発表されたから外すべきだが、その分、1964年新年号が欠載になっているため、12月号で勘定はあう)。

すでに、読者もしっかりついていた。
松本幸四郎'(白鴎)丈によるテレビ化の準備がすすんでいることを聞いた『オール讀物』側は、第24話[密通]から最恵扱いともいえる巻末へ移している。
第25話[血闘]では、ヒロインおまさも登場してきた。

すべては順調に推移していた。

それで、池波さんもうっかりした。
編集部も見逃した。
読者も意識しなかった。
[本門寺暮雪]p132 新装p138---。

三田の通りから聖(ひじり)坂をのぼりきったところで、
 (や---めずしい男がいる)
 馬上から、その男をみとめた平蔵の口もとがゆるんだ。
 右手の、済海寺という寺院の門前に、こちらへ背を向けている乞食坊主の後姿を見ただけで、平蔵には、
 (あの男---)
と、わかったのだ。

そう、乞食坊主は、井関録之助である。
平蔵は、二本榎の細井彦右衛門(緑○)を見舞いに行くのだから、聖坂をのぼったあと、伊皿子坂をつっきるのは、とうぜんなのだが、あまりにも話がうますぎる。
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聖坂 右上=済海寺

かつてこの坂のあたりに聖(乞食僧)が大勢住んでいたことから、聖坂と呼ばれるようになった。
その故事を池波さんは知っていた。だから、乞食坊主の井関録之助を済海寺(赤○)の山門に置いた。

それはいい。
が、切絵図を見てほしい。
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聖坂は、右手が坂下。左が坂上。
平蔵は右からのぼっている。
済海寺は、左手にある。

ほころびは、30数年間、そのまま。
池波さんは、直さなかった。
文庫の編集部も見逃した。
地理を知る立場にある東京のファンも変とはおもわなかった。

こういうことも、あるんだねえ。

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2006.10.05

亀戸の〔玉屋〕

文庫巻18の[蛇苺〕で、長谷川平蔵は、
「今日は、久しぶりで亀戸の天満宮へ参拝するのも悪くない。そうじゃ、そうしよう。玉屋へ立ち寄って、鯉を食べるのもよい。玉屋のおきくも変りなくやっていような」
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亀戸天満宮

料亭〔玉屋〕を、池波さんは、『江戸買物独案内』から見つけた。
同書には、所在は「亀井戸」としか書かれておらず、天満宮の門前かどうかはわからない。
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が、池波さんはためらうことなく、こう、筆をすすめる。
---亀戸天神の門前にある玉屋は、古い料理屋で、平蔵は少年のころ、亡父の供をしてニ、三度あがったことがある。


(はて、銕三郎は、母親の園とともに大百姓の実家---三沢仙右衛門方へ帰り、17の歳まで巣鴨村で育ったはすだが)
などと余計な斟酌をしてはいけない。いまでも離婚した夫婦でも子どもとの面会日は与えられている。
ましてや、長谷川宣雄は400石の旗本である。巣鴨へ銕三郎を呼びにやって、亀戸で落ち合って食事をともにするなど、そんなにむつかしいことではない。

とはいえ、これは小説の設定に則しての解釈である。
史実は、銕三郎は生まれたときからずっと、実母とともに長谷川家で育った。小説で波津と呼ばれている継母は、銕三郎が5歳のときに病没している。

その経緯は別のときに述べるとして、ここでは、〔玉屋〕の鯉料理と店の位置にしぼる。

亀戸の鯉料理は、なにも〔玉屋〕にかぎらない。池波さんが座右からはなさなかった『江戸名所図会』は、亀戸天神の俯瞰画にそえて、「門前貨食店(りょうりや)多く、おのおの生洲(いけす)を構え、鯉魚を畜(か)う」と。

鬼平がよろこんだのは、酒の肴としてでてきた、細切りにした鯉の皮を素麺(そうめん)と合わせた酢のものと、肝の煮付け。夏場の鯉の皮は脂が多いが、酢がうまく薄めていると、池波さんは書く。

わが家では、ノールウェイ産のキング・サーモンの皮の細切りをオリーブ油でいためた熱々に、レモンをかけて客へ出し、大いにうけた。魚の皮には、さまざまな調理法がある。

歌川広重に、『江戸高名会亭尽(つくし)』という一枚絵のシリーズがあり、これに〔玉屋〕を選ばれている。雪の景で、亭前を芸者が二人と、鯉を入れた手提げ桶をとどける小むすめが寒そう。

絵をよく見ると、「亀戸 裏門」とある。〔玉屋〕は門前とはいい条、裏門に店を構えていたのだ。真裏は津軽越中守の下屋敷だから、生洲を考慮にいれると、横十間川に面した西門のあたりか。

『江戸名所図会』の西門あたりにも「茶や」とある。その中の1軒が〔玉屋〕だったのだろう。
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赤○=亀戸天神・西門と横十間川

〔玉屋〕のその後を知る人は、いまはない。

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2006.10.04

伊三次

宇江佐真理さんの[髪結い伊三次捕物余話]シリーズの5冊目『黒く塗れ』(文春文庫)が出た。

『鬼平犯科帳』とどう関係があるのだ---なんて、荒立てはいわない。
これまでの捕物帳とは一と味違って、人物造形がよくできているんだから。

いや、取り上げたのは、推薦の気分ももちろんあるが、宇江佐真理さんは、本シリーズを書く前に、『鬼平犯科帳』を読み込んだな---とおもえるから。

150_2シリーズの一冊目は、『幻の声』(文春文庫)。

このとき、伊三次は、茅場町に住んでいて、北町奉行所の定町廻り同心・不破友之進の手先をつとめている25歳の廻り髪結い。

この、廻り髪結いは、『鬼平犯科帳』の[ふたり五郎蔵]で、もう一人の五郎蔵の職業だった。

そういえば、伊三次は、鬼平から命じられたことをやる以外の時間は何をしていたろう?
[6-7 のっそり医者]では水売りの姿で宗順医師の家のまわりを警備していたことはあるが、これ以外に職らしい職についた風にも見えない。
おまさは小間物行商、粂八は船宿〔鶴や〕の主人が表の職業だったが。
〔舟形〕の宗平はタバコ屋だが、彦十は?

その伊三次は、伊勢の関宿で捨て子され、宿場女郎衆に育てられ、やがて盗みの世界に入り、〔四ッ屋〕の島五郎一味にいたときに長谷川組に捕縛されて密偵となった。

Ueza_bunko200髪結いの伊三次は、12のときにi父親が不審現場の高いところから落ちて死に、後を追うように母も病死。姉の嫁ぎ先の髪結い床の世話になつたが、20歳のときに飛び出し、不破同心の手配で廻り髪結いをつづけている。

恋人は深川芸者の文吉。男名を粋とする深川芸者に粂八を名乗るの、第1話[幻の声]に出てくる。密偵で船宿〔鶴や〕をまかされているのが〔小房〕の粂八である。

園という名の女性も登場する。
鬼平の亡母も園だし、亡父の隠し子もお園だ。

そういう些事をとりあげるよりも、宇江佐さんが池波さんを見習っているのは、「小説はおもしろくなければ存在価値がない」という信条だ。
こちらの伊三次の生き方もなかなかだよ。
読めば、納得だから

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2006.10.03

十合(そごう)九郎兵衛

きのう、『鬼平犯科帳』連載の2年前---1967年に、池波さんが『『週刊朝日』の4月28日号から6月16日号に、[上泉伊勢守]を連載したことを、報告した。

『鬼平犯科帳』との関連でいうと、十合高種の、剣聖・上泉伊勢守日秀綱(のち、武田信玄から一字もらって、信綱)への挑戦ぶりと結末を、長谷川平蔵を襲った数々の剣客たちに重ねることができようか。

こんど新潮文庫に収録された[上泉伊勢守]は、これまで朝日文庫『日本剣客伝 上』(1968.3.25)iとして刊行されたほかには、文庫となっていなかったらしい。
10月1日の朝日新聞の新潮文庫の広告のリード文に、そんな意味のことが書かれていた。

さて、新潮文庫の解説を書いた文芸評論家の末国善己さんは「池波は、上泉秀綱がお気に入りだったらしく、後にその人生を長篇小説『剣の天地』にまとめている。『剣の天地』には、[上泉伊勢守]と共通するエピソードも多いので、本作を読んで秀綱に興味を持たれた方は、一読をお勧めしたい」。

21150手元の文庫本から『剣の天地』を探したが、あったはずのものがない。しかたがないから『完本 池波正太郎 大成』巻21で再読した。

『剣の天地』は、山陽新聞をはじめとする14の地方紙に、1973年から317回にわたって連載された。大筋は中篇[上泉伊勢守]と大差ないが、隠し味のはずの十合九郎兵衛高種が冒頭から登場する---ということは、敵を倒した剣客は運命的なものを背負って生きなければならないという、長谷川平蔵、秋山小兵衛にも通じる宿命を、池波さんは『剣の天地』の上泉伊勢守に、より強く与えている。

[上泉伊勢守]、あるいは『剣の天地』でもいい、そこのところを再確認しながらお読みになると、鬼平にふりかかる危機が、理解できる。

もうひとつ。
池波さんは、[江戸怪盗記]という短篇を、4年後に、さらに倍以上の紙数にふくらませて[妖盗葵小僧]のタイトルで『鬼平犯科帳』の1篇としている。
池波さんの、アイデアのふくらませ方を知るにも、[上泉伊勢守]から『剣の天地』へと読みすすむと興がさらにひろがる。

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2006.10.02

三河(そうご)と十合(そごう)

『鬼平犯科帳』を連載する2年前の1967年、池波さんは『週刊朝日』の4月28日号から6月16日号に、[上泉伊勢守]を連載している。
10人の作家による[日本剣客伝]という企画ものの1篇であった。

100その[上泉伊勢守]の全文が、こんど新潮文庫『剣聖』(2006.10.1.)に収録されたので、早速、読み返した。
で、おもわぬ拾いものをしたとおもった。

というのは、このブログの当初のタイトルは[盗賊探索日録]で、『鬼平犯科帳』ほかの池波作品に登場している盗賊の身元調べであった。
中の一人に、〔そうご〕の定右衛門という頭領格の盗人がいた。文庫巻23、長篇『炎の色』で、〔荒神(こうじん)〕のお夏(25歳)を仕込んだ盗賊である。

[上泉伊勢守]に、伊勢守に決闘をしかける3人の剣客が登場する。
讃岐の牢人・稲津孫作
土井甚四郎
十合(そごう)九郎兵衛高種(四国出身とのみ記しているが、将軍・足利義輝を害した三好義継との縁から推察すると、讃岐か)
うち、前の2人はその場で討ち果てるが、十合高種だけは逃げのびてのち、再挑戦してくる。

いや、じつは、10月1日の新聞広告で、新潮文庫の『剣聖』の新刊を知り、その朝、東京駅の〔プック・ガーデン〕に平台積みしてあったのを求め、新幹線の車中で読み終えた。
当日は、静岡市のSBS学苑パルシェの、4年来つづいている〔鬼平〕クラス日だった。

十合(そごう)姓に記憶が刺激された。
クラスで、池波さんが、『週刊朝日』へ寄稿するために、同年、上州・前橋、上泉、前川を取材旅行したこと、その20年後にも〔そうご〕という盗人が書かれたこと---などを教室で余談として話した。

さて、当ブログ2005年6月17日の〔そうご〕の定右衛門の項をあらためて確認したら、〔そうご〕は〔そうご〕でも、定右衛門のは京都京都府加佐郡大江町三河からとられた〔三河(そうご)〕であった。

決闘を申しこんだほうの〔そごう〕は、上記のように十合。
たしか、倒産したそごうデパートも〔十合〕と書いたような。
もっともデパートのほうは、10の企業体が合併したための命名だったようにも記憶している。

とんだ勘違いを話してしまった。
つつしんで、お侘びと訂正をしておく。

とはいえ、池波さんは、、[上泉伊勢守]でつかった〔十合(そごう)〕という剣客の姓を、京都府の三合(そうご)をみたときに思いだしたにちがいないのだが。

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2006.10.01

小説と史実のはざま

---[むかしの男]の上演に寄せて---

『鬼平犯科帳 ―むかしの男―』長谷川平蔵増役(ましやく)について足かけ6年目、寛政5年(1793)初夏の物語である。

火盗改メは、先手組頭(くみがしら)が臨時に命じられる兼務の役なので、増役あるいは加役(かやく)と呼ばれた。

寛政5年(1793)は、史実上の平蔵にとっては特別に意味のある年であった。

平蔵48歳、7歳下とされる久栄41歳、夫婦となって23年経ち、嫡男・辰蔵をはじめとして2男2女(史実では2男3女)をもうけている、といった家庭内のこと以上に――

保守派政治家・松平越中守定信の依願退職をよそおった老中筆頭罷免がそれ。
理由は時の天皇の実父へ太上(だじょう)天皇の尊号おくることを拒絶し、公家たちとのあいだにあつれきを生じさせたとか、将軍・家斉の父・一橋公を大御所として迎えることに反対したから、ともいわれるが、要するに定信の潔癖すぎる原則政治が飽きられていたのだ。

平蔵流の慈悲心あふれる人あしらいを山師、姦物といって嫌悪していた定信の失脚で、平蔵の抜群の実績に陽があたってしかるべきであった。

「むかしの男」は、この定信退陣の2、3か月前、火盗改メを解任されたのを機に平蔵が、京都西町奉行在職中に歿した亡父の墓参を20年ぶりにはたすべく、京へのぼっていた留守中の事件――ということに、小説ではなっている。
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亡父・宣雄の京都西町奉行所はここから3丁ほど西に

亡父は千本出水の華光寺(けこうじ)に眠っていると小説にあるが、史実では、かの地で荼毘(だび)にふしたあと、遺骨を江戸へ持ちかえり、四谷の菩提寺の戒行寺へ葬った。
葬儀は華光寺でいとなんだが墓は建てはいない
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亡父・宣雄の葬儀がとり行われた華光寺本堂

平蔵の解任も史実にはない。なのに池波さんはなぜ平蔵を京都へ行かせたか?

池波さんはちょうど京都近辺が舞台の新聞連載『火の国の城』の取材でしげしげと訪れていた。
鬼平がこの京都へ旅するとしたらどんな物語になるか、と考えたのであろう。

結果は、池波さんって盗みの経験が? と疑いたくもなる[盗法秘伝]、青年時代の鬼平の艶聞をほうふつとさせる[艶婦の毒]、鬼平の愛刀が粟田口国綱、と銘がはじめてあかされる[兇剣]、友情の貴重さを描いた[駿州・宇津谷峠]、そしてこの[むかしの男]の佳作の誕生――となって結実した。

とりわけ久栄に、
「申しあげまする」
「何じゃ?」
「女は、男しだいにござります」
といわせて女性ファンの心をぎゅっとつかんでしまった心にくい描写には感心するほかない。

小説では、本所・入江町の時鐘堂の前の長谷川家の左どなりが久栄の実家の大橋家、さらにその隣家が久栄の処女(*おとめ)のあかしを奪って捨てた旗本・近藤勘四郎の住まい、という設定になっている。

史実での大橋家は本所から20丁も離れた下谷の和泉橋通りだつた、とばらしても、結婚初夜に平蔵が久栄のえりもとから手を差しこみ、ふくよかな乳房をふわりと押さえ、

「久栄」
「はい……」
「お前は、いい女だ」
「ま……」
「前から、そう思っていたのさ」
「あれ……ああ……」

このシーンの魅力は変わるはずもない。
(松竹が[むかしの男]を上演したときの小冊子の寄稿した文章に若干手をいれて)。

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