威得寺と浄覚寺
古い手紙を整理していたら、圓通寺(文京区本駒込2丁目)の住職・来山文泰師からいただいていた一通が出てきた。
圓通寺は『鬼平犯科帳』では、鬼平の実母である園の生家---巣鴨の三沢家の菩提寺ということになっている。
で、何か資料と、聖典に登場する寺院リストをお送りした礼文がしたためられている。
「『寺院リストは、たいへん詳しくお調べになったものと感服いたしました。
せっかくのご苦労の成果ですので、より完璧なものにしていただきたく、私が気付いた点をいくつか申し上げます(いずれも、このリストの主題とは関係のない枝葉の事項ですが)。
1.私ども臨済宗は、[臨済宗]だけでもかまわないのですが、昔からの習慣で、本山の名前をつけて[臨済宗何々派]と名乗ることが多く、このリストでも5ヶ寺がそのように表記されています。
ですから、その方式にすべて統一していただくならば、他の2ヶ寺も、
圓通寺→[臨済宗妙心寺派]
正慶寺→[臨済宗妙心寺派]
としていただくと、すっきり揃うと存じます。
2.海禅寺 単立 は数年前に変更になりました。現在は→[臨済宗妙心寺派]となっております。
3.海福寺 [黄檗派]は、[黄檗宗]が正確な表記です(江戸時代には[黄檗派]という書き方が多く見られます)」
[黄檗宗]については、密偵の伊三次の項で、木村忠吾の菩提寺が中目黒の威得寺(のち感徳寺)は、明治20年(1887)に廃寺となり、本尊そのほかは同じ黄檗宗の瑞聖寺(港区白金台 3丁目)へ合祀されたと書いた。
文庫巻14[さむらい松五郎]に、門前のお長の茶店とともに登場する目黒・権之助上覚寺も同様に、瑞聖寺へまとめられた。
この上覚寺という寺号は、尾張屋板の切絵図にある表記で、正しくは近江屋板の浄覚寺と、鬼平熱愛倶楽部の相州藤沢宿の秋山太兵衛さんが確認した。
近江屋板(部分) 左の赤○=威得寺 右=浄覚寺
尾張屋板(部分) 左の青○=威得寺 右=浄覚寺
ふつうは近江屋板を参照している池波さんが、目黒にかぎって尾張屋板をひらいたのは、前者の板が、品川・目黒にかぎってあまりにも貧弱だったからと断じているのだが。
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