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2006.10.01

小説と史実のはざま

---[むかしの男]の上演に寄せて---

『鬼平犯科帳 ―むかしの男―』長谷川平蔵増役(ましやく)について足かけ6年目、寛政5年(1793)初夏の物語である。

火盗改メは、先手組頭(くみがしら)が臨時に命じられる兼務の役なので、増役あるいは加役(かやく)と呼ばれた。

寛政5年(1793)は、史実上の平蔵にとっては特別に意味のある年であった。

平蔵48歳、7歳下とされる久栄41歳、夫婦となって23年経ち、嫡男・辰蔵をはじめとして2男2女(史実では2男3女)をもうけている、といった家庭内のこと以上に――

保守派政治家・松平越中守定信の依願退職をよそおった老中筆頭罷免がそれ。
理由は時の天皇の実父へ太上(だじょう)天皇の尊号おくることを拒絶し、公家たちとのあいだにあつれきを生じさせたとか、将軍・家斉の父・一橋公を大御所として迎えることに反対したから、ともいわれるが、要するに定信の潔癖すぎる原則政治が飽きられていたのだ。

平蔵流の慈悲心あふれる人あしらいを山師、姦物といって嫌悪していた定信の失脚で、平蔵の抜群の実績に陽があたってしかるべきであった。

「むかしの男」は、この定信退陣の2、3か月前、火盗改メを解任されたのを機に平蔵が、京都西町奉行在職中に歿した亡父の墓参を20年ぶりにはたすべく、京へのぼっていた留守中の事件――ということに、小説ではなっている。
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亡父・宣雄の京都西町奉行所はここから3丁ほど西に

亡父は千本出水の華光寺(けこうじ)に眠っていると小説にあるが、史実では、かの地で荼毘(だび)にふしたあと、遺骨を江戸へ持ちかえり、四谷の菩提寺の戒行寺へ葬った。
葬儀は華光寺でいとなんだが墓は建てはいない
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亡父・宣雄の葬儀がとり行われた華光寺本堂

平蔵の解任も史実にはない。なのに池波さんはなぜ平蔵を京都へ行かせたか?

池波さんはちょうど京都近辺が舞台の新聞連載『火の国の城』の取材でしげしげと訪れていた。
鬼平がこの京都へ旅するとしたらどんな物語になるか、と考えたのであろう。

結果は、池波さんって盗みの経験が? と疑いたくもなる[盗法秘伝]、青年時代の鬼平の艶聞をほうふつとさせる[艶婦の毒]、鬼平の愛刀が粟田口国綱、と銘がはじめてあかされる[兇剣]、友情の貴重さを描いた[駿州・宇津谷峠]、そしてこの[むかしの男]の佳作の誕生――となって結実した。

とりわけ久栄に、
「申しあげまする」
「何じゃ?」
「女は、男しだいにござります」
といわせて女性ファンの心をぎゅっとつかんでしまった心にくい描写には感心するほかない。

小説では、本所・入江町の時鐘堂の前の長谷川家の左どなりが久栄の実家の大橋家、さらにその隣家が久栄の処女(*おとめ)のあかしを奪って捨てた旗本・近藤勘四郎の住まい、という設定になっている。

史実での大橋家は本所から20丁も離れた下谷の和泉橋通りだつた、とばらしても、結婚初夜に平蔵が久栄のえりもとから手を差しこみ、ふくよかな乳房をふわりと押さえ、

「久栄」
「はい……」
「お前は、いい女だ」
「ま……」
「前から、そう思っていたのさ」
「あれ……ああ……」

このシーンの魅力は変わるはずもない。
(松竹が[むかしの男]を上演したときの小冊子の寄稿した文章に若干手をいれて)。

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